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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第四章――「秋谷の屋敷、動き出す布陣」

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第9話――「成城の午後、返された形見」

秋谷の屋敷には、榎本家が積み重ねてきた時間がまだ残っていた。尚人は管理人夫婦と母屋を整える中で、それが売買の代金とは別の重みを持つ品だと知る。だからこそ、その日のうちに成城へ向かった。形見を返すために出た道は、思いがけず、別の縁の入口にもなっていく。

 (1986年4月16日水曜日午前11時、横須賀・秋谷の旧海運商別邸)


 給金の話がまとまると、尚人は湯呑みを置いた。庭の外では、風が黒松の梢を鳴らし、池の水面へ細い波を立てている。春の陽は白く、広い屋敷の廊下へまっすぐ差し込んでいた。


 「では、まず母屋の中を整えましょう」


 尚人がそう言うと、新三と澄江はすぐに立ち上がった。離れへ荷を入れるのは後回しでよかった。先に主の住む母屋の空気を通し、物の置き方を決めた方が早い。澄江は腕まくりをし、新三は納戸の戸を開けた。閉め切っていた木の匂いと、樟脳の乾いた匂いがふっと流れ出る。


 最初に手をつけたのは、座敷脇の納戸だった。古い桐箱、座布団袋、来客用の膳、使わなくなった火鉢。どれも几帳面に納めてある。澄江はひとつひとつ布で埃を払いながら、要る物としまっておく物を静かに分けていく。新三は高い棚へ手を伸ばし、重い箱を下ろした。畳の上へ置くたび、乾いた木の音がした。


 洋間の隅には、背の低い紫檀の文机があった。引き出しの取っ手は真鍮で、手垢で鈍く光っている。尚人が一番下の抽斗を引くと、少しだけ引っかかった。無理に引かず、指先で内側を探ると、奥に薄い板が一枚はまっている。外してみると、そこに黒い革張りの小箱が眠っていた。


 箱の蓋を開けると、内側の赤い布の上に銀の懐中時計がひとつ収まっていた。鎖は細く、重さは思ったよりある。蓋の内側には、小さく「T. Enomoto」の打刻があり、その下に昭和10年の日付が彫られていた。長く触れていなかったせいか、銀は少し黒ずんでいたが、指で撫でると鈍い光が出た。時計の下には、白黒の小さな写真が一枚入っている。若い男が、秋谷の玄関先で洋装の女と並んでいる。女の髪には白い花が挿してあり、男の背筋は硬い。榎本修一の父母の若いころだと、見れば分かった。


 「これは、ご両親のお品でしょうね」


 澄江が声を落として言った。


 尚人は黙って頷いた。売買の金とは別の重みが、その小箱にはあった。


 次に見つかったのは、奥の押入れの天袋だった。新三が脚立へ上がり、細長い桐箱を二つ下ろす。ひとつを開けると、黄ばんだ絹紙に包まれていたのは、鼈甲のかんざしと真珠の帯留だった。もうひとつの箱には、白い縮緬の袱紗へくるまれた数珠と、小さな女物の手鏡が入っている。手鏡の裏は螺鈿で、角度を変えると青と緑が薄く光った。手に持つと、女の手の油を長く吸ってきたような滑らかさがある。


 「奥様のお支度道具ですね」


 澄江はそう言って、手を止めた。顔つきが少しだけやわらかくなっていた。


 尚人はその箱も、懐中時計の横へ静かに置いた。これは捨てる物ではない。修一に戻すべき品だった。


 だが、いちばん珍しかったのは、納戸の隅で見つかった古い革筒だった。新三が「これは重いです」と言って持ってきたので、尚人が蓋をひねると、中から巻いた海図が出てきた。紙は厚く、縁が少し裂けている。広げると、東京湾口から相模湾にかけての古い海図で、ところどころに鉛筆で小さな書き込みがある。潮の流れ、岩礁、灯台、入りやすい泊地。紙の端には、榎本海運の丸印まで押されていた。


 筒の底には、さらに真鍮の小さな六分儀が収まっていた。磨けば光りそうな金属だが、今は海の塩気を含んだような鈍い色をしている。尚人が手に取ると、冷たく、思ったより精密だった。これは祖父の代の品か、あるいは父の若いころの記念品かもしれない。金になるとかならないとか、そういう話ではなく、榎本家の始まりに近い物だった。


 「これは珍しいですね」


 新三が低く言った。


 「こういう物は、よその人間が持っていてはいけません」


 「そうだな」


 尚人は海図を巻き直し、革筒へ戻した。


 昼に近くなるころには、母屋の一角だけでも空気が変わっていた。埃を払った棚は木目がよく出て、廊下の先まで光が通る。だが、座敷の隅の小机の上には、別にしておいた品が三つ並んでいた。銀の懐中時計の箱、母親のかんざしと帯留の桐箱、そして海図と六分儀の革筒である。


 尚人はそれを見て言った。


 「これは後で榎本さんのところへ持っていく」


 澄江が頷いた。


 「喜ばれると思います」


 新三は座敷の外へ目をやった。


 「家を売っても、家の始まりまで手放したわけではないですからね」


 尚人は返事をしなかった。だが、そういうことだろうと思った。屋敷はもう自分のものになった。けれど、その家で積み重なった親子の時間まで買ったわけではない。そこを取り違えないことが、こういう家を持つ時には大事だった。


 窓の外では、池の水面が白く返り、黒松の影が少しずつ短くなっていた。広い屋敷の整理はまだ始まったばかりだったが、その日のうちに、尚人はこの家に残す物と、前の持ち主へ返す物とを、はっきり分けることができたのである。


 ◇ ◇ ◇


 昼食を済ませると、尚人は秋谷の屋敷で小机の上に並べておいた品を、風呂敷でひとつずつ丁寧に包んだ。銀の懐中時計の箱、母親のかんざしと帯留の桐箱、海図と六分儀の革筒。どれも重さは知れているのに、手に持つと妙に重かった。金の重みではない。人の家に積もっていた時間の重みだった。


 バイクにまたがり、秋谷を出た。昼過ぎの道は陽が高く、海の方から来る光が白い。谷戸を抜けると潮の匂いが少し強くなり、幹線へ出れば今度は排気と熱を含んだ風が顔へ当たる。横須賀から都内へ向かうにつれて、空気の匂いは土と海から、油とコンクリートへ変わっていった。


 成城6丁目へ入ると、道の音まで変わった。車は通るが、横須賀中央のような雑な響きではない。生垣の手入れの行き届いた家が続き、門扉の金具も、塀の白さも、どれも静かに金が掛かっていた。榎本家の門前にバイクを止めると、庭木の影が午後の石畳へ細く落ちている。呼び鈴を押すと、澄んだ音が家の奥へ吸い込まれた。


 出てきたのは家政婦らしい女だった。50歳前後で、髪をきちんとまとめ、薄い色の割烹着の胸元まで乱れがない。尚人が名乗り、榎本修一宛てに秋谷の屋敷から来たと告げると、女は一瞬だけ目を見開き、それから深く頭を下げた。


 「ご主人もお子様方も、まだ戻っておりません。奥様をお呼びいたします」


 玄関の中は、外より少しひんやりしていた。磨かれた床のワックスの匂いと、どこかで焚いたらしい薄い香の匂いが混じっている。尚人が靴を揃えて待っていると、廊下の奥から柔らかい衣擦れの音が近づいてきた。


 次の瞬間、尚人は本当に棒立ちになった。


 現れた榎本啓子(えのもと けいこ)は、白に近い淡い色のブラウスに、細い紺のスカートを合わせていた。派手ではない。だが、その静かな服がかえって、肩の線や首筋の白さを際立たせていた。髪は艶があり、顔立ちはきりりとしているのに、目元だけがやわらかい。中身が62歳の尚人から見ても、思わず目を瞠るほどの美貌だった。成城の奥様という言葉が、そのまま形になって立っているようだった。


 22歳の身体の方は、そういう時に正直だった。喉が詰まり、言葉が半拍遅れる。尚人は風呂敷包みを持ったまま、しどろもどろに頭を下げた。


 「は、はじめまして。早乙女尚人(さおとめ なおと)と申します。秋谷の屋敷を、お譲りいただいた者です」


 啓子は驚いたように目を見開き、それからすぐに上品に微笑んだ。その微笑みだけで、玄関の空気が少し明るくなった。


 「まあ。主人からうかがっております。秋谷の家を買ってくださった方ですね」


 尚人はようやく息を継ぎ、用件を口にした。


 「屋敷の整理をしていましたら、榎本家の品と思われるものが出てきました。売買とは別のものですので、お返ししようと思いまして」


 風呂敷をほどき、小机の上へ順に置く。黒い箱、桐箱、革筒。啓子は最初の懐中時計の箱を見たところで、顔色を変えた。細い指でそっと蓋を開け、銀の時計を見つめる。次に桐箱のかんざしと帯留を見て、息を呑んだ。最後に革筒から海図と六分儀が出ると、もう驚きは隠しきれなかった。


 「わざわざ、お持ちくださったのですね」


 声が少し震えていた。


 「これは義母や義父の形見です。主人も子どもたちも、見たらきっと大喜びします」


 「義父母の形見は、たしかにお返しいただきました。ほかにも秋谷のお家から古い品が見つかりましても、それ以外の物は、もうあのお家に置いてくださいませ。あの家に残ってこそ落ち着く物もありますもの」


 尚人は頭を下げた。


 「用件はそれだけです。ご主人によろしくお伝えください」


 そう言って靴を履きかけた時だった。背後で、あっと小さな声がした。啓子が廊下を急いで来る気配があり、尚人は振り返った。啓子は少し息を弾ませながら、なお笑みを崩していない。


 「お待ちください。コーヒーを入れましたのよ。飲みながら少しお話しましょう」


 その微笑みに勝てる若い男が居るだろうか。尚人は言われるがままに応接間へ通された。


 部屋には薄い珈琲の香りが満ちていた。磨かれたテーブル、深く沈むソファ、壁の絵、ガラス棚の中の洋食器。どれも上品に整っていて、だが見せつけがましくはない。啓子が向かいへ腰を下ろすと、家政婦が静かにコーヒーを置いて下がった。カップから立つ湯気に、焙煎の苦みと少し甘い香りが混じっている。


 啓子は品を崩さないまま、けれど興味は隠さずに尚人を見た。


 「秋谷のお家に、もうお入りになったのですか」


 「はい。昨日から住んでいます」


 「まあ、ずいぶん早いのですね」


 「住んでみないと、家のことは分かりませんから」


 啓子はくすりと笑った。その笑い方は軽くない。相手の言葉を面白がりながら、ちゃんと受け止める笑い方だった。


 「お若いのに、落ち着いたことをおっしゃるんですね」


 そう言われると、尚人の中身と見た目の食い違いが、妙に可笑しくなる。だが、それは口に出さない。問われるままに、自分のことを少しずつ話した。つい最近まで京浜土地建物㈱の新入社員だったこと。祖父の遺産が入り、会社を立ち上げたこと。今では5社を動かしていること。個人の賃貸物件からは月額2000万円の賃料が出ていること。今までは横須賀中央の持ちビルの空き室に住んでいたが、秋谷に本宅を定められて嬉しいこと。


 話しているあいだ、啓子は一度も話の腰を折らなかった。白い指でカップの取っ手を持ち、時々小さく頷きながら、目だけはまっすぐ尚人へ向けている。特に月額2000万円の賃料のところで、その目がはっきり変わった。驚きと計算と興味が、静かに一度に灯ったのである。


 「2000万円も、毎月ですか」


 「はい。個人持ちの賃貸だけで、です」


 啓子はカップをソーサーへ戻した。陶器の触れ合う小さな音がした。


 「実は、私も少しだけビルを持っておりますの。でも、棟の数の割には、あまり入ってこない気がしていて」


 尚人はそこで背筋を少し伸ばした。色気のある話から、数字の話へ空気が切り替わる。だが不思議なことに、その切り替わりは冷たくならなかった。


 「場所はどちらですか」


 「世田谷と自由が丘寄りです。あと、古いものが少し。主人は昔からあまり細かい管理に興味がなくて、ついそのままになっていて」


 「賃料表はありますか」


 啓子は家政婦を呼び、すぐに帳面と一覧表を持ってこさせた。古いインクの匂いが少し立つ。尚人はそれを見て、いくつか確認したあと、電話を借りられますかと聞いた。


 啓子はすぐに頷いた。


 「もちろんです」


 尚人は応接間の電話機を引き寄せ、早乙女不動産㈱の専務、杉浦真弓(すぎうら まゆみ)へ電話をかけた。呼び出し音が数回鳴り、すぐに杉浦が出る。尚人は住所、築年数、戸数、現在の賃料、管理の状態を手短に伝えた。受話器の向こうで杉浦の声は落ち着いていたが、紙を繰る音は速かった。


 「すぐ見ます。30分ください」


 電話を切ると、啓子は面白いものを見るような目で尚人を見た。


 「動きが早いんですね」


 「遅いと、賃料は逃げます」


 啓子は、その言い方にまた小さく笑った。窓の外では、午後の光が庭木の葉の縁だけを白くしている。コーヒーは少し冷め、香りが落ち着いてきた。それでも部屋の空気は、最初よりずっと濃かった。


 30分もしないうちに電話が鳴った。尚人が受話器を取り、二言三言で啓子へ差し出す。啓子は少し戸惑いながらも受け取り、耳に当てた。


 「はい……ええ……はい……そんなに……。まあ」


 話しているうちに、啓子の顔はみるみる明るくなった。頬に血が差し、目の奥まで光が入る。最後には声まで弾んでいた。


 「よろしくお願いいたします。ええ、ぜひ」


 受話器を置いた時、啓子は喜色満面だった。尚人がその顔を見ていると、啓子は隠しきれない笑みのまま言った。


 「杉浦さんがおっしゃるには、その物件なら賃貸料は現在の2倍は取れるはずだそうです。私が管理いたしますのでお任せください、と」


 尚人は頷いた。


 「杉浦はそういう見立てを外しません」


 啓子は帳面の上へ手を置いた。白い指先が少し震えている。驚きと嬉しさと、これから金の流れが変わる予感と、その全部が一緒に来ている顔だった。


 「では、お願いしようかしら」


 その言葉は、半分は尚人に、半分はもう見えない杉浦に向けたものだった。


 応接間の空気は、来た時とはすっかり変わっていた。形見を届けに来た若い男と、家で留守を預かる奥様。そこにコーヒーの香りと、資産運用の話と、互いの目を見て話す時間が重なった。まだ何も起きてはいない。だが、何かが始まりそうな気配だけは、もう二人の間に静かに生まれていた。


 啓子は帳面を閉じたあと、少しだけ尚人を見つめた。


 「秋谷のお家、もうそんなに整っているのですね」


 「まだ何もしていません。住みながら、少しずつ手を入れていくつもりです」


 「そういう家の持ち方、少し羨ましいわ」


 その言い方が、尚人の胸に残った。


 尚人は立ち上がった。今度こそ本当に帰るつもりだった。だが、玄関へ向かう廊下で、啓子の視線が一度、背中へやわらかく触れたのが分かった。尚人もまた、靴を履きながら振り返り、ほんの一瞬だけ啓子を見た。


 それまでに会った女たちとも、これから会うかもしれない女たちとも、どこか違うものが、そこにはあった。若さや勢いだけでは片づかない。もっと静かで、もっと深いところへ沈んでいくような気配だった。


 尚人は、そこでようやく口を開いた。


 「秋谷の家のことも、まだ話したいことがあります。近いうちに、もう一度お目にかかれませんか」


 啓子は驚いたように目を見開いたが、その顔はすぐにやわらいだ。


 「明後日の金曜日の午前なら大丈夫ですわ」


 そして、少し笑って続けた。


 「午前10時に、秋谷のお家へうかがいます」

秋谷で見つかった品は、金に換える物ではなく、家の始まりを手に触れられる形で残した物だった。それを返しに行ったことで、尚人は榎本家と売買だけでは終わらない関係を結ぶことになる。さらに、成城の応接間では、形見の話がそのまま資産の話へつながり、尚人の商売の顔も自然に前へ出た。返しに行ったはずの午後が、新しい縁と次の気配を連れて戻ってきた。

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