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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第四章――「秋谷の屋敷、動き出す布陣」

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第8話――「春の鍵束、秋谷の夜」

秋谷の旧海運商別邸は、紙の上で尚人のものになっただけでは終わらなかった。榎本家から鍵を受け取り、家の癖を聞き、佑馬が寝具や身の回りの品を運び込んだことで、広い屋敷にはじめて尚人の暮らしが入り始める。だが、本宅になるというのは、荷物を入れただけでは足りない。人を送り、食い物を買い、風呂を沸かし、自分の体をその家へ沈めてこそ、本当に住み始めたことになる。秋谷の夜は、そういう静かな現実の手つきで更けていく。

 (1986年4月15日火曜日午後9時、横須賀・秋谷の旧海運商別邸)


 荷台が空になると、尚人はワゴン車の後ろ扉を押し上げた。鉄の留め金がかちりと鳴る。陽はもうだいぶ傾いており、黒松の枝の影が庭の土の上へ長く落ちていた。池の水面には、昼の白さではなく、夕方へ向かう鈍い銀色が浮いている。さっきまで寝具や衣装箱を運び込んでいた家の中は、まだ少しばかり散らかっていたが、それでももう空き家の顔ではなかった。布団袋と洗面道具と煙草の缶だけで、広い屋敷の空気があれほど変わるのかと、尚人は内心で思った。


 「ワゴン車は俺が使う。お前は、倉田開発㈱で社用車を買い、それに乗れ。今から俺が横須賀中央まで送ってやる」


 尚人がそう言うと、佑馬は少しだけ眉を上げた。


 「いいんですか。叔父さん、今日からここで落ち着くんでしょう」


 「まだ時間はある」


 尚人は鍵束を上着のポケットへ入れ、玄関を振り返って戸締まりを確かめた。広い屋敷に最初の留守を作るのが、なぜか少し気になったのである。だが、門を閉め、玄関へ鍵を回すと、その音は妙にはっきりしていた。もうこの家の出入りは、自分の手で決めるのだと、金属の重みが掌へ告げていた。


 ワゴン車へ乗り込むと、車内には布団や衣類を運んだあとの木綿と紙の匂いがまだ残っていた。助手席へ腰を下ろした尚人は、窓の外の谷戸を一度だけ見た。春の夕方の光が、門柱と黒松の幹を横からなでている。まだ馴染んではいないが、もうよその景色ではなかった。


 車を出すと、秋谷の細い道には、夕方の冷え始めた風が流れていた。葉山寄りからの車が一台すれ違い、道端の草がその風で小さく揺れる。海そのものは見えないが、曲がりくねった道の向こうから、潮の湿り気だけがときどき鼻へ届いた。谷戸を出て幹線へ乗るころには、店の灯がぽつぽつとつき始めている。道沿いの看板が橙に光り、ガラス戸の向こうで夕飯の支度をする人影が動いていた。


 秋谷の本宅から横須賀中央までは、車で30分ほどだった。道が空いているせいもあり、ワゴン車は思ったより軽く進んだ。窓の外には、海沿いの薄い青さと、道端の家の灯りが交互に流れていく。途中で通り過ぎる商店の前には、もう夜の買い物客が立ち、揚げ物の油の匂いが一瞬だけ車内へ入った。少し走れば、今度はバスの排気と、夕方の湿ったアスファルトの匂いが混じる。三浦半島の夜は、場所ごとに匂いが変わる。


 横須賀中央のアパートへ着くころには、空はすっかり濃くなっていた。ワゴン車のヘッドライトが、古い建物の壁を白く照らす。佑馬は車を降り、尚人の方へ半身だけ向けて言った。


 「品川の荷物は、明日から少しずつこっちへ寄せます。会社へ出るにも、この方が早いですから」


 「そうしろ」


 「じゃあ、お先に」


 「明日は寝坊するなよ」


 「しませんよ」


 佑馬はそう言ってアパートの階段を上がっていった。コンクリートの階段に革靴の音が乾いて響き、途中でドアの開く音がした。灯りがひとつつき、それがすぐに窓のカーテン越しの薄い色になる。あそこも、今日から佑馬の拠点になるのだろう。


 尚人はワゴン車をUターンさせた。横須賀中央の灯りを背にして走り出すと、街の匂いがまた前からぶつかってくる。焼鳥、ラーメン、古い酒場の煙草、パチンコ屋の甘いような熱いような空気。それらを抜けると、今度は道が少しずつ暗くなる。街の明かりが減るぶん、夜の輪郭ははっきりした。


 帰り道、尚人は芦名のスーパーへ寄った。白い蛍光灯の明るさが駐車場へまでこぼれ、入口の自動ドアが開くたび、野菜と魚と洗剤の匂いが入り混じった空気が流れ出る。店内には仕事帰りの女たちや、子どもを連れた男がまだ何人も残っていた。買い物かごのぶつかる音、ラップに包まれた総菜の匂い、値札を貼る店員の短い声。屋敷へ入ったばかりの夜に、そういう生きた生活の匂いは妙によかった。


 尚人は籠を取り、あまり考えずに必要な物を入れていった。米、卵、味噌、豆腐、葱、茶、海苔、醤油、石鹸、歯磨き粉、トイレットペーパー。今夜すぐ要るわけではないが、明日の朝に無いと困る物ばかりである。肉売場の前では、薄い豚肉の赤みが白い灯りの下でよく見えた。魚売場からは氷の冷たい匂いが立つ。総菜の棚にはコロッケと鯵のフライが並び、揚げ油の甘い匂いが残っていた。尚人はそれを横目で見たが、今夜はもう飯を作る気がなかった。


 会計を済ませ、紙袋を二つ提げて外へ出ると、夜気は店内よりずっと冷たかった。ワゴン車の中へ袋を置くと、ビニールと紙の擦れる音が狭い荷室へ残る。灯りのついたスーパーの建物を背にすると、向かいの道はもう暗く、ヘッドライトの先だけが白く浮かんでいた。


 そのまま秋谷へ戻る途中、尚人は道沿いの洋食店へ入った。古くからある店らしく、ガラス戸の向こうには赤いビニール張りの椅子と、木目の濃いテーブルが並んでいる。扉を開けると、バターを吸った鉄板の匂いと、デミグラスソースの深い甘さがふわりと押し寄せた。奥の厨房ではフライパンが当たる硬い音がし、油のはぜる音が続いている。カウンターの隅には、仕事帰りらしい男がひとりでビールを飲んでいた。


 尚人は窓際の席へ座り、ハンバーグとライスを頼んだ。しばらくして運ばれてきた皿からは、湯気がまっすぐ立った。焦げ目のついた肉の匂い、ソースの甘さ、付け合わせの人参といんげんの青い匂い。ナイフを入れると、表面の焼けた層の下から熱い肉汁が少しだけ皿へ流れた。昼からずっと気を張っていたせいか、腹は思っていたより空いていた。ライスの湯気もよく、口へ運ぶたび、ようやく一日が自分の体へ戻ってくる感じがした。


 食い終えて店を出ると、時間はもうだいぶ進んでいた。空は完全に夜になり、道沿いの家々の窓だけがぽつぽつと光っている。ワゴン車を秋谷へ向けて走らせると、街の灯りがまた少しずつ薄くなり、谷戸の匂いが戻ってきた。湿った土、草、遠い海の塩気、どこかの家の風呂の煙。そういう夜の匂いが、窓の隙間から細く入り込む。


 屋敷へ着いたのは、夜の九時ころだった。門を開けて車を入れると、前庭は昼とは別の顔をしていた。黒松の枝は闇の中でより黒く沈み、池の水面だけが、わずかな月の光を鈍く返している。玄関の鍵を開ける金属音が、広い屋敷の奥へ小さく響いた。


 中へ入ると、昼に運び込んだ荷物の匂いがまだ残っていた。布団袋の木綿、洗面道具の石鹸、紙袋の紙の乾いた匂い。その下に、古い家特有の畳と木の匂いがある。尚人はまず台所へ行き、買ってきた食料品を流しの脇へ置いた。卵のパック、味噌の袋、米の重み。日々の物を一つ置くたび、屋敷の中へ暮らしがもう一層深く入る。


 次に風呂場へ行き、湯を張った。蛇口から落ちる湯の音が、夜の静かな屋敷では思いのほか大きい。湯気が白く立ち、タイルの匂いに湿り気が混じる。追い焚きの音が低く続き、風呂場の鏡はすぐに曇った。尚人はそのあいだに寝間着を出し、寝室へ卓上時計を置き、押入れの襖を少しだけ開けた。樟脳の匂いがまだ残っている。


 風呂へ入ると、熱が肩と背中へじわりと広がった。一日の終わりにはちょうどいい温度だった。買った家の最初の夜、広い屋敷の最初の湯が、自分ひとりのものとして満ちている。湯の表面を手で払うと、小さく波が立ち、壁の白さが揺れた。尚人は目を閉じ、昼の書類、佑馬の運び込んだ荷、芦名のスーパーの蛍光灯、洋食屋のソースの匂いを、順に頭の中で遠ざけた。


 風呂を上がると、廊下の板が裸足に少し冷たかった。夜の屋敷は静かで、遠くの部屋の暗さまで音を吸い込んでいるようだった。だが、不気味ではない。ただ広いだけである。その広さの中で、寝室に敷いた布団だけが、今夜の居場所としてくっきりしていた。


 尚人は灯りを落とし、布団へ潜り込んだ。綿の匂いが鼻の近くにあり、障子の向こうではかすかに風が松を鳴らしている。遠くで車が一台だけ通り、また静かになった。


 秋谷の本宅で迎える最初の夜は、そうしてあっけないほど静かに閉じた。尚人は、目を閉じるとすぐに深く沈んだ。今日一日で、家はもうただの買い物ではなく、自分の寝息を受ける場所になっていた。


 翌朝、尚人は朝6時すぎに目を覚ました。障子の向こうはもう白く、谷戸の空気は昨夜よりも乾いていた。布団を出ると、畳の冷たさが足の裏へすっと上がってくる。広い屋敷は、夜よりも朝の方が静かだった。黒松の梢を渡る風の音と、遠くで鳥が一声鳴くのが聞こえるだけで、人の気配はまるでない。


 尚人は寝間着のまま台所へ下り、昨夜芦名のスーパーで買ってきた紙袋を流しの脇へ置いた。冷蔵庫の扉を開けると、白い冷気と一緒に、魚の生っぽい匂いと金物の匂いがふっと漏れた。鮪の赤、鯛の白、甘海老の薄い桃色が、朝の光の中で妙に鮮やかに見える。米を量り、釜へ水を張る。指先で米を研ぐと、白く濁った水がさらさらと流れ、手の甲へ冷たさが残った。何度も水を替え、最後に澄んだ水の中へ米が落ち着くと、尚人は釜を火にかけた。


 やがて、炊ける音がし始めた。最初は小さく、次にふつふつと丸くなる。蓋の縁から、米の甘い湯気が細く上がった。その匂いを嗅いだ瞬間、尚人は少しだけ目を細めた。釜で炊く飯の匂いだった。炊飯器の飯とは違う。米の芯から立つ熱と甘みが、広い台所いっぱいに広がっていく。数十年ぶりと言ってよかった。昔、まだ台所に朝の湯気が満ちていたころの匂いが、急にこの屋敷の中へ戻ってきたのである。


 飯が炊き上がると、尚人は酢を打って手早く切り、海苔を散らし、鮪と鯛と甘海老を並べた。刻んだ葱を落とし、山葵をほんの少し添え、最後に醤油を一筋だけ垂らす。海鮮丼は見た目だけで腹に響いた。鮪の脂の匂い、酢飯の立つ匂い、海苔の乾いた香りが重なり、朝の静かな台所に一人分だけ濃い色ができる。味噌汁も作り、縁側に近い小机へ丼と一緒に運んだ。障子を少し開けると、春の光が畳の上を四角く照らし、池の水が白く返った。


 ひと口目を運る。酢飯はまだ熱を残し、魚は冷たく締まっている。その温度差が舌の上でほどけ、山葵の辛みが鼻へ抜けた。尚人はそこでようやく息を吐いた。旨い、と思った。味噌汁の湯気もよく、豆腐の柔らかさが胃へ落ちるたび、身体の中へ静かな満足が広がっていく。


 だが、旨い飯を食いながらも、尚人の目は家の広さを忘れなかった。食い終えて湯呑みを置き、廊下へ立てば、部屋はいくらでも続いている。座敷3間、洋間、離れ、蔵、裏庭、門、池。今朝はまだ新鮮さが勝っている。だが、掃除、換気、庭の見回り、戸締まり、台所、風呂、来客の茶出しまでを一人でやるとなれば、話は別だった。住めることと、回せることとは違う。その当たり前のことが、朝の飯が旨かったぶんだけ、かえってはっきりした。


 台所の電話は昨夜のまま、流しの脇の小棚の上に置いてあった。尚人は受話器を取り、電話帳を引いた。家政婦、派出婦紹介と並ぶ細かな字を追い、一つ番号を見つけてダイヤルを回す。円盤の戻る音が、広い台所には乾いて響いた。


 数度の呼び出しのあとで、年配の女の声が出た。


 「はい、横須賀家政婦派出婦紹介所でございます」


 尚人は用件だけを簡潔に言った。


 「住み込みで働ける人を探しています。家は秋谷です。広い屋敷なので、一人では足りない」


 向こうの声が少しだけ改まった。


 「奥様付きでしょうか。ご家族付きでしょうか」


 「当面は私一人です。だが、家の中だけでなく、外も見られる者がいい。庭、戸締まり、簡単な留守番まで含めて回せる人間が要る」


 紹介所の女は、そこで少し考えたらしかった。


 「それなりのお給金を出していただけるのでしたら、夫婦者を紹介できますよ。旦那さんが外まわりと雑用、奥さんが掃除、洗濯、炊事、来客応対を受け持つ形です」


 尚人は即座に答えた。


 「それでいい。今日会えますか」


 「ちょうど空いている夫婦がおります。別荘管理と住み込み仕事の経験があります。朝9時でよろしければ、そちらへ向かわせます」


 「来てもらいましょう」


 話はそれだけで済んだ。尚人は受話器を置き、台所の窓から庭を見た。黒松の枝先が朝の風を受けて少し揺れている。まずは人を置く。それが、この家を本当に家として回すための最初の一手だった。


 9時少し前になると、門の外で軽いエンジン音が止まった。玄関へ出ると、春の陽はもうだいぶ高くなっていた。砂利を踏んで入ってきたのは、地味な色の背広を着た男と、紺の着物に灰色の羽織を重ねた女だった。2人とも姿勢がよく、初めて来る大きな屋敷を前にしても、きょろきょろと見回したりはしない。まず門のところで一礼し、それから玄関の前であらためて頭を下げた。


 男は56歳、女は52歳だとすぐに分かった。年を取ってはいるが、動きは鈍くない。男は背が高く、日に焼けた頬に細かな皺があり、指が節くれている。庭師でも大工でもないが、道具を持つ手をしていた。女の方は丸顔で、目元がやわらかい。だが、ただ愛想がいいだけではなく、玄関の上がり框の艶、掃き込みの行き届き具合、置かれた靴の数まで、入った一瞬で見ている目だった。


 「本日うかがいました、三浦新三(みうら しんぞう)でございます」


 男がそう言い、すぐに続けた。


 「家内の澄江(すみえ)です」


 女も深く頭を下げた。


 「よろしくお願いいたします」


 尚人は2人を応接間へ通した。朝の光は障子越しに柔らかく入り、畳の縁だけを少し明るくしている。湯を沸かし、茶を出すと、澄江はまず礼を言い、その手つきひとつで、この女が人の家で長く働いてきたことが分かった。茶碗の持ち方が静かで、音を立てない。


 「前の勤め先は」


 尚人が訊くと、新三が答えた。


 「葉山の長者ヶ崎寄りで、別荘の管理を10年ほどやっておりました。その前は横浜の山手にあった洋館の住み込みです。庭、門、戸締まり、簡単な修理、買い出し、客の出入りの段取りまでは一通りやっております」


 声は低いが、変にへりくだらない。働いてきた年数に裏打ちされた落ち着きがあった。


 澄江も続けた。


 「私はもともと鎌倉の旅館で仲居をしておりまして、そのあと別荘付きの家政婦に入りました。掃除、洗濯、食事、来客のお茶出し、布団の上げ下ろし、だいたいのことはできます。魚を捌くのも、和食も洋食も、ひと通りは」


 尚人はそこで少しだけ身を乗り出した。


 「住み込みは苦ではないですか」


 澄江はすぐに首を横へ振った。


 「むしろ、その方が楽でございます。通いですと、家の癖が分かる前に帰ることになりますから」


 新三も静かに頷いた。


 「こういう家は、毎日見ていないと傷みが分かりません」


 それがよかった。余計なことを言わず、屋敷を屋敷として扱う言葉だった。


 尚人は2人を連れて、家の中をひと通り歩いた。長い廊下、3間続きの座敷、暖炉の残る洋間、台所、風呂場、離れ、蔵。新三は歩きながら、板の反りや建具の癖を目だけで追っていた。だが、勝手に触りまわりはしない。澄江は台所の流しを見て、戸棚の位置と窓の向きだけを静かに確かめた。風呂場へ入ると、湿り気の抜け方を少しだけ見た。2人とも口数は多くない。だが、見るところが外れていなかった。


 庭へ出ると、新三は黒松を仰ぎ、池の縁を見た。湿った土の匂いが立ち、風に乗って海の塩気が薄く来る。


 「庭は広いですが、今の時点ならまだ回せます」


 新三はそう言った。


 「池も死んではいません。枝も今年はまだ暴れていない。毎日目を入れていけば、荒れ方は止められます」


 澄江は玄関の方を振り返った。


 「お客様を通す家ですね」


 その一言が、尚人にはいちばんよく響いた。ただ掃除をする人間ではない。この家がどういう顔で使われるかまで見ている。


 離れの戸を開けると、8畳と6畳の2間は母屋ほどの華やかさはないが、障子を開ければ庭の黒松が見え、朝夕の風もよく通る。小さな流しと物入れもついていた。夫婦で住み込ませるなら、ここがいちばん収まりがよかった。母屋は尚人の本宅として使い、離れには管理人夫婦を入れる。そうすれば互いの気配を保ちながら、門、庭、蔵、台所まわりまで目が届く。


 「お二人には、ここへ入ってもらうつもりです」


 尚人がそう言うと、新三は離れの柱と建具をひと目見て、小さく頷いた。


 「十分です」


 澄江も、畳の具合と窓の位置を見てから言った。


 「これなら、気持ちよく暮らせます」


 応接間へ戻り、尚人は給金の話をした。2人は一度だけ目を見合わせたが、欲の深い顔はしなかった。無理を吹っかける者ではないらしい。澄江は膝の上へ手を揃えたまま、静かに言った。


 「ここまで広いお家なら、夫婦で入る方がよろしいと思います」


 新三も丁寧に添えた。


 「旦那様がお仕事で外へ出られるなら、なおさらです」


 尚人は頷いた。話はもうほとんど決まっていた。


 「給金は夫婦で30万円だ。離れはそのまま使え。光熱はこっちで持つ。食費は台所預かりで月10万円渡す。足りなければ言え」


二人は口を揃えていった。


「有難うございます。十分すぎるくらいの待遇でございます。誠実に勤めさせていただきます」


 飯が旨く、家が広く、そして人の手が要る。今朝から見えていたものが、2人の言葉で形になった。


 庭の外では、風が黒松の梢を鳴らし、池の水面へ細い波を立てていた。春の陽は白く、広い屋敷の廊下へまっすぐ差し込んでいる。尚人は湯呑みを置き、三浦夫妻を見た。ようやく、この家へ本当に人が住み始める形が見えたのである。


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収支計算

必要経費も含めた普通預金は、11億716万0500円だったが、10億円は土地売買費用として別枠とした。別枠については町田小山田を5億円、相模原を4億2千万円で買い、8千万円を必要経費としておいてある。残務処理は甥の倉田佑馬に任せた。残る1億716万0500円のうち、秋谷の土地・建物の購入費用が7200万円、管理人夫婦への初月給金と台所預かりが40万円の出費となり、3476万0500円が残った。

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秋谷の屋敷は、売買が済んだだけでは尚人の本宅にならなかった。鍵を受け取り、夜を過ごし、朝の台所で飯を炊き、さらに三浦夫妻を迎えることで、ようやく人の住む家として動き始めた。広い屋敷は住めるだけでは足りず、手が入り、目が届いてこそ生きるのだということが、ここでは静かに形になっている。

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