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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第四章――「秋谷の屋敷、動き出す布陣」

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第7話――「春の鍵束、秋谷の本宅」

秋谷の旧海運商別邸は、直さなければ住めない家ではなかった。電気も水も火も生きており、人が暮らしてきた気配もまだ残っている。尚人はその屋敷を7,200万円で受け取り、その日から本宅として使い始めることを決めた。まず必要なのは、大げさな改装ではない。寝具と着替えと、日々の手まわり品である。広い屋敷に、暮らしの音が入る最初の半日が始まる。

 (1986年4月15日火曜日午前9時、横須賀・秋谷の旧海運商別邸)


 朝の谷戸には、まだ夜の冷えが少し残っていた。黒松の枝先には湿り気があり、池の水面は風のないぶんだけ静かで、白んだ空を薄く映している。門の外で車が1台止まり、砂利を踏む音が近づいてきた。来たのは司法書士の小沼だけだった。紺の背広の裾に朝露をわずかに吸わせながら門をくぐり、黒い鞄を片手に、静かな顔で玄関へ向かってくる。


 尚人はすでに玄関先に立っていた。昨夜ここを出た時より、家は少しだけ朝の顔をしている。白い漆喰のくすみは変わらないが、瓦の線は光を受けて落ち着いて見え、長い廊下の奥へ入る風も夜ほど湿っていない。庭の奥では梅の枝がわずかに揺れ、土の匂いに、古い木と池水の匂いが重なっていた。


 玄関脇では、昨夜の長男も尚人たちを待っていた。目の下には寝不足の影があったが、顔つきはもう静かだった。手放す腹が決まり、あとは紙と金を動かせば終わると分かっている顔である。


 長男の榎本修一(えのもと しゅういち)は49歳で、いまは東京都世田谷区成城6丁目に住んでいた。榎本家は、祖父の代に海運と倉庫で財を作り、父の達郎(たつろう)の代には商売そのものを大きく広げるより、都内と横浜に残した土地や貸家を守る方へ重心を移した家である。母の綾子(あやこ)は夫の死後、秋谷の屋敷を離れて修一の成城の家へ移った。修一の妻啓子(けいこ)は44歳で、子どもは大学生の長男と私立高校に通う長女がいる。成城の暮らしが一家の中心になった今、秋谷の屋敷は思い出こそあっても、自分で住む気はなく、毎年の維持費だけが肩に重かった。


 「朝早くから、ありがとうございます」


 小沼が軽く頭を下げると、修一も同じ角度で返した。


 「こちらこそ。もう話は決まっていますから」


 応接間へ入ると、空気はまだ少し冷えていた。古いソファの布は日に焼け、ガラス棚の中の洋皿は薄い埃をかぶっている。だが、机の上だけは今日のために片づけられ、白い書類と朱肉、印鑑の箱、湯呑みがきちんと並んでいた。障子越しの朝の光が机の端へ差し、紙の白さだけを妙に明るく見せている。


 小沼は鞄を開き、権利証、印鑑証明、評価証明、住民票、委任状を順に並べた。紙を置くたびに乾いた音が小さく鳴る。尚人は手提げから銀行振出小切手を出した。白い厚紙に打たれた「7,200万円」の数字は静かな顔をしていたが、机の空気だけはその額にふさわしく少し重くなった。


 修一は小切手を受け取り、窓の光へかざした。地紋が淡く浮き、紙の繊維が白く返る。現金の束のような生々しさはないが、逃げようのない金の顔だった。


 「確かに」


 それだけ言って、修一は小切手を机へ置いた。指先の動きに、昨夜より迷いがなかった。


 小沼が申請書へ視線を落とした。


 「では、こちらからいきます。売買を原因とする所有権移転。買主は早乙女尚人さん。売主は榎本修一さん」


 言葉は淡々としていたが、ペン先は速かった。尚人も修一も、問われるままに必要なところへ答え、印を置いた。朱肉の匂いがそのたびにふっと立ち、まだ朝の冷たい部屋の中へ薄く広がる。紙の上に残る赤い印影は湿っていて、少しだけ光っていた。外では、風が松の枝を鳴らし、池の水面が時おり細かく揺れる。その静かな動きが、応接間の商売の時間と不思議に釣り合っていた。


 申請書の最後に尚人が実印を置いた時、小沼は短く頷いた。


 「これで移転申請の形は整いました。法務局へはこのあとすぐ回します」


 修一はそこでようやく背もたれへ少し体を預けた。肩の力が、目に見えてほどける。


 「終わったんですね」


 「書類の上では、もう終わりました」


 小沼がそう言うと、修一は苦く笑った。


 「長かったようで、あっという間ですね」


 尚人は小切手の控えを受け取りながら言った。


 「持て余している家は、握っている間の方が長く感じるものです」


 修一はその言葉に、返事の代わりに小さく息を吐いた。悔しさはまだ残っているのだろう。だが、それ以上に、ようやく肩から降りたという安堵が濃かった。


 書類がひと通り終わると、修一は上着の内ポケットから小さな鍵束を出した。黒く鈍い門の鍵、玄関の鍵、蔵の鍵、裏手の物置らしい小さな鍵。長年持ち歩いていたせいか、金属の縁は指に馴染んだように丸くなっている。


 「これが門と玄関です。こっちは蔵。離れは、いまはこっちの鍵で開きます」


 尚人は受け取り、掌の中で重さを確かめた。鍵束は思ったより重かった。金の重さではなく、人の暮らしの重さだった。


 修一は、そこで初めて家の使い方を話し始めた。


 「電気は生きています。分電盤は廊下の突き当たりです。台所のガスも水道もそのまま使えますし、井戸も現役です」


 尚人は黙って聞いた。こういう説明には、紙に出ない生活の癖が混じる。


 修一の言い方は、売ったあとの人間のそれになっていた。大げさに悪くも言わないし、惜しんで隠しもしない。いままでここで暮らしていた者だけが知っている、家の癖を静かに手渡している声だった。


 「台所、見ていきますか」


 修一がそう言うので、尚人は頷いた。


 母屋の奥へ入ると、朝の光が廊下に長く落ちていた。板は年を取っているが、磨かれたところはまだ艶があり、歩くと足の裏へしっかりした感触が返る。台所へ入ると、金物と木の匂いがした。流しは広く、窓の位置がよく、朝の光が斜めに差している。蛇口をひねると、水はすぐに出た。修一がガスの元栓を見せ、つまみを回す。火は青く立ち、その上でやかんの底がすぐに温まり始めた。


 「今日からでも十分使えるな」


 尚人が言うと、修一は少しだけ笑った。


 「今からでも快適に暮らせますよ」


 風呂場も見た。床は清潔に保たれており、湯の出も良い。追い焚きも申し分なく使える。便所も綺麗だ。寝室に向きそうな部屋は、南側に陽がよく入り、押入れの襖もきちんと動いた。修一が昨夜使っていたのか、廊下の端には畳んだ布団がまだ残っている。そこに、人がつい昨日までいた気配がそのまま置かれていた。


 尚人は、家の中をあらためて歩いた。長い廊下、3間続きの座敷、暖炉の残る洋間、離れへ向かう渡り廊下、白壁の蔵。昨夜は買うための目で見たが、今朝は住むための目で見ている。同じ家でも、見えるものが少し違った。ここは直さなければ住めない家ではない。もう十分、人の暮らしを受け止められる家だった。


 応接間へ戻ると、小沼が鞄を閉じて立ち上がった。金具の留めが、かちりと鳴る。


 「では、私は法務局へ回ります」


 「お願いします」


 小沼は一礼し、玄関へ向かった。背広の裾が廊下の光の上を静かに滑っていく。門が開き、車のドアが閉まる音が遠ざかると、屋敷の中は急に広く静かになった。


 修一も、もう自分の役目は終わったと分かったらしく、応接間で最後に湯呑みを口へ運んだ。茶は少し冷めていたが、湯気の名残の匂いだけはまだ薄く残っている。


 「早乙女さんは、今日からここへ入るんですか」


 「ええ」


 尚人は答えた。


 「しばらくは、このまま住みます。暮らしてみて、不都合なところだけ手を入れればいい」


 修一は、納得したように頷いた。


 「それがいいかもしれません。見て分かることより、住んで分かることの方が多いと思います」


 「でしょうね」


 尚人は笑わずに言った。だが、考えていることは同じだった。台所はこのままでも使える。風呂も寝室も困らない。離れを客間にしたくなったら大工を呼び、蔵を書庫にしたくなったら、その時に左官と建具屋を呼べばいい。全部を一度に決める必要はない。暮らしながら、この屋敷に何が要るかを見極めればよかった。


 修一は立ち上がり、玄関で靴を履いた。そこで一度、振り返って母屋を見た。長い廊下の奥へ朝の光が差し、板の間の木目だけが淡く浮いている。


 「父も、たぶん喜ぶと思います」


 急にそんなことを言ったので、尚人は少しだけ目を上げた。


 「この家は、広すぎて重いばかりだと思っていました。でも、人が住んでくれるなら、その方がいい」


 尚人は軽く頷いた。


 「空き家にしておく気はありません」


 修一は、それで十分だったらしい。深く頭を下げ、門の外へ出ていった。車のエンジン音が谷戸の奥へ遠ざかり、やがて静かになった。


 あとに残ったのは、尚人ひとりと、広い屋敷だけだった。


 玄関へ戻ると、尚人は掌の中の鍵束をもう一度見た。黒松の枝が風でわずかに鳴り、池の水面が白く返っている。長い廊下の奥は少し暗いが、住めない暗さではない。むしろ、その暗さもこの家の一部だった。


 尚人は、まず玄関脇の窓を開けた。少し湿った春の空気が流れ込み、閉じていた家の匂いをゆっくり動かす。次に台所へ行き、やかんに水を入れて火にかけた。青い火が静かに立ち、やがて金属の底が小さく鳴る。広い台所に、その音だけが妙によく通った。


 湯が沸くまでのあいだ、尚人は母屋を歩いた。どの部屋を寝室にするかを見て回り、南向きの明るい8畳に決めた。押入れの襖を開けると、中にはまだ樟脳の匂いが残っていた。座敷3間も見た。ここは客を迎える場所になるだろう。洋間は、暖炉の前に椅子を置けばそのまま応接になる。離れはまだ急がない。蔵も、今は閉めたままでいい。必要になった時に、必要な職人を呼べばよかった。


 台所へ戻ると、やかんが細く鳴いていた。尚人は急須を探し、棚の奥から白地の湯呑みを二つ見つけた。ひとつしか使わないのに、ふたつ出したのは、家がそういう大きさだったからかもしれない。茶を淹れると、湯気と一緒にほうじ茶の匂いが立った。ひと口飲む。湯は熱く、少し渋かった。


 そのころ、門の外からまた別のエンジン音が聞こえてきた。今度は乗用車より低く重く、荷を積んだ車の音だった。砂利を噛む音が門の外で止まり、すぐにクラクションが一度だけ短く鳴る。


 尚人が縁側から表へ回ると、白いワゴン車が門の前に停まっていた。運転席から降りたのは佑馬だった。春の埃をかぶった背広の袖を払いながら、荷台の扉を開ける。中には布団袋、衣装箱、スーツを入れたガーメントケース、洗面道具を詰めた紙袋、下着と靴下を入れた風呂敷包み、小さなラジオ、煙草と灰皿、帳面の束まで、尚人の横須賀の部屋にあった身の回りのものが詰め込まれていた。朝のうちに慌ててまとめたのだろう、荷の間からは洗った木綿の匂いと、古い箪笥にしまっていた衣類の乾いた匂いが立った。


 「本当に引っ越すんですね」


 佑馬は荷台へ半身を入れたまま言った。


 「叔父さんの言う通り、布団と着替えと日用品を一通り積んできました。部屋の鍵はちゃんとかけてきましたよ」


 「ご苦労」


 尚人はそれだけ言って、布団袋の片方を持った。中の綿がずしりと腕へ乗る。佑馬は衣装箱を抱え、二人で玄関を上がった。広い廊下へ荷を運び込むと、急に家の空気が変わる。さっきまで他人の屋敷だったところへ、自分の匂いのする荷が入るだけで、建物の表情がひとつ手前へ寄ってくる。


 寝室に決めた南向きの8畳へ布団を運び込む。障子を開けると陽が畳へ四角く落ち、まだ新しい布団袋の白い布が明るく見えた。尚人が押入れの下段へ替えの着物や下着を入れ、佑馬が衣装箱を隅へ寄せる。衣擦れの音、襖の滑る音、畳の上に膝をつく音が、がらんとしていた部屋へ次々に入っていく。


 「広すぎませんか」


 佑馬が言った。


 「ひとりで住む家じゃないでしょう、これ」


 尚人は布団を押入れから半分出したまま答えた。


 「ひとりで住むからいいんだ。客が来ても困らん」


 佑馬は苦笑した。


 「客って、誰です」


 「そのうち増える」


 尚人の言い方は素っ気なかったが、佑馬はそれ以上訊かなかった。荷台から洗面道具を持ってきて、今度は風呂場の棚へ並べる。歯ブラシ、髭剃り、石鹸、タオル。そんな細かなものが置かれていくたび、家は急に人の住む顔をし始めた。


 台所には、米びつ代わりの小さな缶、湯呑み、急須、醤油差し、茶筒、煙草の缶まで運び込まれた。佑馬は流しの脇へ紙袋を置きながら、少し呆れたように言った。


 「これだけ広い家へ来ても、結局持ってくるのはいつもの物ばかりなんですね」


 尚人は湯呑みをすすぎながら言った。


 「最初はそれでいい。足りないものは、住んでから分かる」


 それを聞くと、佑馬は昨日、尚人が電話で言っていたことを思い出したように頷いた。まず住む。使ってみる。それから要るものだけを入れる。その順番は、土地でも家でも同じなのだろうと、ようやく腹へ落ちたらしい。


 荷物は思ったより早く収まった。布団は寝室、着替えは押入れ、洗面道具は風呂場、書類と帳面は洋間の棚、煙草と灰皿は縁側脇の小机へ置いた。運び込むたびに、荷台の中は少しずつ空いていき、その代わりに家の中へ尚人の気配が増えていった。


 最後に佑馬が、小さな卓上時計を紙に包んだまま差し出した。


 「これも持ってきました。叔父さん、朝これがないと困るでしょう」


 尚人は受け取り、少しだけ笑った。


 「気が利くじゃないか」


 佑馬は荷台の扉を閉め、手の埃を払った。門の外の道では、昼へ向かう車の音が遠く細く続いている。谷戸の空気はまだ静かだが、屋敷の中だけは、もう完全に他人の家ではなかった。


 「これで、今夜から寝られますね」


 佑馬がそう言うと、尚人は縁側の先の池を見た。


 「もう寝るだけの話じゃない。ここが本宅だ」


 佑馬はその言葉に、今度は真面目な顔で頷いた。軽い引っ越しではない。叔父が広い屋敷を買い、その日のうちに寝具と着替えを運び込んで、本気で根を下ろし始めたのだと、そこではっきり分かったのである。


 ワゴン車の荷台が空になるころには、春の光はさらに強くなっていた。池の水面が白く返り、玄関の庇の影が土の上へ濃く落ちている。黒松の枝の向こうに、谷戸の空が静かに広がっていた。


 尚人はその光の中で、ようやくこの家の時間が自分の方へ回り始めたのを感じていた。住み始めるとは、つまりこういうことなのだろう。紙を交わし、鍵を受け取り、湯を沸かし、布団を入れ、着替えをしまう。そうやって少しずつ、家は本当に自分のものになっていく。

秋谷の屋敷は、買った瞬間に本宅になったのではない。司法書士が書類を整え、榎本修一が鍵を渡し、家の癖を口で引き継ぎ、最後に佑馬が寝具と身の回りの品を運び込んで、ようやく尚人の暮らしが屋敷の中へ入り始めた。広い家でも、最初に必要なのは布団、着替え、湯呑み、洗面道具といった手まわりの品である。大きな屋敷へ小さな生活の道具が入ったことで、空き家だった建物が、初めて尚人の家の顔を見せた。また、榎本家との縁もここで切れていない。修一は手放した相手が転売屋ではなく、自分で住む男だと分かって屋敷を渡した。世田谷に本拠を移した資産家の家と、三浦半島で次の拠点を得た尚人とが、ここで静かにつながった。金だけで終わらず、人と家と土地が一緒に動いたところに、この屋敷の買いの重さがある。

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