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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第四章――「秋谷の屋敷、動き出す布陣」

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第6話――「秋谷の屋敷、7200万円の夜」

町田小山田と相原の土地を同じ日に押さえ、人の配置まで組み替えた尚人の手は、まだ止まらない。品川の事務所で帰り支度に入ったところへ、杉浦が三浦半島の古い屋敷の話を持ち込む。秋谷と芦名の間、谷戸の上に残る旧海運商別邸。広すぎて持て余され、相続人も手を焼いているその家は、仕事の拠点にも、本宅にもなり得る顔をしていた。尚人はその夜のうちに現地へ向かい、自分の目と足で、その家の骨を確かめる。

 (1986年4月14日月曜日午後5時、品川の持ちビル・早乙女不動産㈱)


 尚人が帰り支度を始めた時だった。机の上の書類を革鞄へ入れ、椅子を半歩引いたところで、杉浦が顔を上げた。蛍光灯の白い光が、銀縁のペン先と薄いグレーのスーツの肩に静かに落ちている。


 「社長。横須賀市秋谷と芦名の間、海から少し入った谷戸の上に、面白い物件があります」


 尚人は鞄の口を止める手を止めた。


 「どんな物件だ」


 杉浦は机の端に置いてあった茶色い封筒を引き寄せ、中から古い写真を数枚出した。写真の縁は少し黄ばんでいる。黒松の立つ庭、瓦屋根の大きな屋敷、奥に見える白い土蔵、縁側の長い影。どれも、少し傾いた午後の光の中で撮られていた。


 「秋谷の旧海運商別邸です。建物は大正末から昭和初年にかけて建て増しされた和洋折衷の屋敷で、母屋だけで14LDKあります。離れが2部屋、土蔵が2棟、古い女中部屋も残っています。母屋だけで延床280坪前後。玄関は唐破風気味に張り出し、座敷は3間続き、洋間には暖炉だけが残っているそうです。廊下が長く、天井も高い。庭は1,600坪ほどで、正面に黒松、横に池、裏に梅と柿の古木がある。見た目はかなりくたびれていますが、骨は太いです」


 杉浦の声は淡々としていたが、写真を置く指先だけは少し丁寧だった。珍しく、自分でも気に入っている物件なのだろうと尚人には分かった。


 「色々、便利そうだが、動かせる資金は1億しかない」


 尚人がそう言うと、杉浦はすぐに返した。


 「向こうの言い値は9,000万円です。ただ、相続した長男がかなり持て余しています。東京住まいで、屋敷に住む気はなく、毎年の固定資産税と庭の手入れ代だけが重い。屋根は西側で雨漏り、風呂と台所の配管も古い。便所も一部は汲み取りの名残があります。値切れば7,000万円台にはなるでしょう」


 尚人は写真を手に取った。指先に古い印画紙のつるりとした感触が返る。玄関の庇はたしかに立派で、庭石も大きい。こういう家は、好きな者にはたまらない。だが、好きでなければ、ただ広くて手の掛かる荷物でしかない。


 「それなら買ってもいい。連絡してみてくれ」


 杉浦はすぐに電話を引き寄せた。受話器を取ると、ダイヤルの戻る音が乾いて響いた。事務所の中は、コピー機が紙を吐き出す音と、遠くの電話のベルが一度鳴ったきりで静かだった。しばらく呼び出し音が続き、やがて杉浦の声が少しだけ低くなる。


 「早乙女不動産の杉浦と申します。秋谷の旧海運商別邸の件で……ええ、はい。社長が今日これからうかがいたいと……。はい、夜でも構いません。……7時ですね。分かりました。こちらから参ります」


 受話器を置くと、杉浦は尚人を見た。


 「東京の長男が今夜だけ現地に来るそうです。午後7時、屋敷で会えると」


 尚人は頷いた。もう迷いはなかった。


 品川を出るころには、空の色が少し変わり始めていた。尚人はバイクへまたがり、南へ向かった。夕方の道路はまだ温かく、アスファルトから日中の熱がじわりと返ってくる。信号待ちではトラックの軽油が鼻を打ち、少し走れば、今度は海の湿り気が風に混じった。横須賀を抜け、衣笠を過ぎ、林を背にした道へ入るころには、空気の匂いがまた変わった。潮気はあるが、海沿いの町の匂いではない。乾いた草、土、古い木、夕方の冷え始めた空気。谷戸へ入る匂いだった。


 秋谷と芦名の間の細い道を折れると、両側の木が近くなった。葉の裏を抜けてきた風が、少しだけ冷たい。夕日が斜めに差し、道端の草の先を赤く光らせている。やがて道がゆるく上がり、その先に黒い松の頭が見えた。さらに進むと、石垣と古い門が現れた。門柱の片側には、もう字の薄くなった表札が残っていた。


 バイクを止めた時、敷地の中から、どこかで落ち葉を踏むようなかすかな音がした。門の内側には広い前庭があり、黒松の枝が低く張り出している。池は半分ほど草に侵されていたが、水面にはまだ夕空が鈍く映っていた。母屋は大きかった。瓦屋根の線が長く、玄関の唐破風気味の張り出しは、写真で見るよりもずっと存在感がある。白い漆喰はくすみ、木部の塗りも剥げていたが、家そのものが痩せてはいなかった。


 長男が玄関先に立っていた。50前後の男で、都会の背広を着ているが、靴の先に土がつくのを嫌がるような立ち方をしていた。屋敷の人間ではなく、いまはもう東京の人間なのだとすぐ分かる。


 「早乙女さんですか」


 「そうです」


 握手はしなかった。男は少し疲れたような顔で、玄関へ尚人を通した。


 上がり框に足をかけた時、古い木の匂いがふっと上がった。乾いた畳、障子紙、長く閉めた部屋の空気、それにどこかの柱が吸い込んだ海風の塩気が、薄く混じっている。廊下はたしかに長かった。板は磨り減っているが、歩くとしっかりしている。天井も高く、声を出せば少し遅れて返ってきそうな広さがある。左手の3間続きの座敷には夕方の光が低く入り、床の間の掛軸だけが暗く沈んでいた。右手の洋間には、白いタイルの暖炉が残っている。煤けてはいるが、形はきれいだった。


 尚人は黙って歩いた。廊下の軋み方、柱の太さ、建具の建て付け、風の抜け方。目で見るより先に、足の裏と鼻で家の具合を測っていた。


 「広すぎるんですよ」


 長男が後ろから言った。


 「父が死んで、母も東京へ引き取って、結局だれも住まなくなってしまって。手入れも大変でね。庭師に入ってもらうだけでも、馬鹿にならないんです」


 母屋の奥へ行くと、たしかに西側の廊下の天井に雨染みがあった。壁紙は少しめくれ、板の継ぎ目も黒ずんでいる。風呂場へ入ると、配管の古い金気の匂いが鼻についた。台所の床板はしっかりしているが、水回りだけは手を入れなければならないとすぐ分かる。


 尚人は一通り見てから、庭へ出た。夕方の風が松の枝を鳴らし、池の水面を細かく揺らしている。裏手の梅と柿の木は枝を伸ばしたままだった。土蔵の白壁はくすみ、石垣の一部には苔が厚くついている。だが、崩れてはいない。手を入れれば起きる家だと、尚人はそこで腹の底から思った。


 「水はどうです」


 尚人が訊くと、長男は少し意外そうな顔をした。


 「水道は来ています。ただ、昔の引き込みのままで細いんです。井戸もありますが、前に一度、枯れかけたことがあると聞いています」


 尚人は井戸の場所を見せてもらった。石組みは古く、蓋の木は少し反っている。近くへ寄ると、湿った土の匂いが上がった。完全に死んだ井戸の匂いではない。中を覗き込むと、暗い底にわずかに水の光があった。


 「使っていないだけで、完全には死んでいないな」


 尚人は小さく言った。


 長男は苦笑した。


 「そういうことまで見るんですね」


 「住むつもりで買うなら、そこは見ます」


 その言葉で、長男の顔が少し変わった。転売屋ではなく、本当に自分で住む男だと伝わったらしい。


 ふたりは玄関脇の応接間へ戻った。古いソファの布は日に焼けていたが、座るとばねはまだ生きている。女中がいた時代の名残らしいガラス棚の中には、使わなくなった洋皿が何枚か残っていた。窓の外では、夕空の色が少しずつ濃くなっている。


 「言い値は9,000万円と聞いています」


 尚人がそう言うと、長男は少し肩をすくめた。


 「安くはありませんが、これだけの家ですから」


 「家は立派です」


 尚人ははっきり言った。


 「ただ、そのままでは住めません。西側の屋根、風呂、台所、配管、電気、庭、石垣、水。手を入れるところは多い。文化財指定がないのは助かりますが、その分、全部こちらの金です」


 長男は黙った。外で風が松を鳴らし、枝が窓へ軽く触れた。


 「7,000万円なら、その場で決めます」


 尚人は静かに言った。


 長男の眉が動いた。安く叩かれたと思ったのだろう。だが、尚人の声に冗談がないと分かると、視線が少し変わった。


 「現金でですか」


 「銀行振出小切手で決済します。今日ここで話がまとまるなら、すぐ動けます」


 長男は背もたれへ体を預けた。迷いの顔ではなく、計算の顔だった。税金、庭師代、修理代、兄弟への説明。頭の中でそれらを並べているのが分かる。


 「7,500では」


 尚人は首を横に振った。


 「7,200です」


 その数字を出す時だけ、少しだけ間を置いた。7,000ではなく、7,200。安すぎて腹を立てさせず、だが余地を残さない数字だった。


 長男は、しばらく尚人を見ていた。応接間の時計がひとつ鳴り、どこかで建具が風に小さく鳴った。


 やがて、長男は息を吐いた。


 「分かりました」


 声は少し掠れていた。


 「7,200でいいです。正直、これ以上持っていても、うちには重いだけですから」


 そこでようやく、部屋の空気が動いた。尚人は小さく頷いた。勝った、というより、きちんと落ちるところへ話が落ちたという感じだった。


 「では、段取りを詰めましょう」


 長男は首を縦に振った。顔には、値切られた悔しさよりも、ようやく終わるという安堵の方が濃く出ていた。


 その夜、帰りの道へ出た時には、谷戸の空気はもう冷えていた。松の匂い、湿った土の匂い、遠くの海の塩気が夜気に混じる。尚人はヘルメットをかぶり、古い屋敷を一度だけ振り返った。玄関の灯りが障子越しに淡く滲み、黒松の枝がその前で静かに揺れている。くたびれてはいたが、死んだ家ではなかった。金を入れれば立つ。人が住めば、また家になる。尚人にはその形が、もうはっきり見えていた。

尚人は、土地をまとめて動かすだけでなく、自分が住む場所まで商売の目で選び始めた。秋谷の旧海運商別邸は、広すぎて持て余され、相続人の手には余る家だったが、尚人の目には、手を入れればまた立つ家として映っている。雨漏り、水回り、井戸、石垣。そうした欠点を見ながらも、骨の太さを先に見るところが、いかにも尚人らしい。また、7,200万円という値の落としどころもよかった。安く叩いて終わるのではなく、相手が手放す理由と、自分が直すための費用の両方を踏まえて、きちんと話を着地させている。秋谷の屋敷は、ただの贅沢な買い物ではない。これからの尚人にとって、仕事場にもなり、家にもなり、人を集める場所にもなる。その最初の一歩が、この夜に置かれた。

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