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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第四章――「秋谷の屋敷、動き出す布陣」

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第5話――「9億2000万円の昼、東口の布陣」

1986年4月14日月曜日の昼、尚人は町田小山田と相原の土地を同じ日に押さえ、買ったあとの段取りまで佑馬へ回し始める。だが、重いのは決済の速さだけではない。品川へ戻った尚人は、早乙女不動産㈱と早乙女土地売買の役割をはっきり分け、杉浦、順子、理恵、達也の持ち場を新しく組み替えていく。大崎駅東口の買付と、小田原駅東口の売却宣伝。次の勝負は、もう人の配置から始まっていた。

 (1986年4月14日月曜日午前11時、町田・小山田の資産家宅)


 応接間の机の上には、所有権移転の書類がまだきれいに重ねられていた。朱肉の油の匂いと、新しい紙の乾いた匂いが、春の昼の空気の中に薄く残っている。小山田の谷の分譲地も、相原の旧流通団地予定地も、もう話の上ではなく、尚人の手の内へ入った。日曜日から今日の昼すぎまでで、やるべきことは一気に片づいたのである。


 尚人は、応接間の窓から外を見た。庭木の葉先が風に揺れ、陽はもう昼を回って、少しだけ白さを増している。ここから先は、自分が前へ出て歩き回るより、段取りを切って人を動かす仕事になる。そうなると、佑馬の出番だった。


 「電話、お借りしてよろしいですか」


 尚人がそう言うと、根岸はすぐに頷いた。


 「どうぞ。そこです」


 部屋の隅の黒い電話機は、古い木の台の上に置かれていた。受話器を取ると、少しぬるい感触が掌へ残る。尚人は横須賀のアパートの番号を回した。円盤を戻すたびに、細かな音が指の下で返る。呼び出し音が遠くで何度か鳴り、やがて受話器の向こうで、畳を踏むような気配がした。


 「はい」


 佑馬の声だった。まだ少し若いが、どこか気を張っている声である。


 「俺だ」


 その一言で、向こうの気配が変わった。


 「ああ、叔父さんですか」


 尚人は、椅子に腰を下ろしながら言った。


 「小山田も相原も、もう押さえた」


 向こうで、しばらく言葉が止まった。受話器の奥で、息を呑む小さな音だけがした。


 「……もうですか」


 「もうだ。小山田は5億円。相原は4億2,000万円。どちらも所有権移転まで済ませた」


 今度は、もっと長く黙った。佑馬が自分の部屋の真ん中で、受話器を持ったまま立ち尽くしている姿が見えるようだった。やがて、詰めていたものが抜けたように、ふっと息を吐いた。


 「叔父さん、早すぎますよ」


 「おまえが遅いんだ」


 尚人はそう返したが、声は硬くなかった。


 応接間には、根岸が煙草を揉み消す小さな音がした。小沼は机の端で書類を鞄へしまっている。紙が擦れる音が、電話の向こうの静けさと重なった。


 尚人は、そのまま用件へ入った。


 「後の仕事をやれ。小山田は、まず測量と境界の洗い直しだ。入口から谷へかけて赤土の流れを止める段取りもいる。水の見立てを急げ。相原は、排水溝の詰まりをさらえ。入口の砕石を足して、県道から見た時の荒れ方を消せ。草を刈って、放り出した土地には見せるな」


 受話器の向こうで、慌てて紙を探す音がした。机の引き出しを開けたのか、何かがごとりと鳴る。すぐに鉛筆の先が紙の上を走る、かりかりという乾いた音が混じった。


 「はい、小山田は測量、境界、赤土、水……相原は排水、砕石、草刈り……」


 書き取る声には、さっきより元気があった。重い買い付けそのものは終わってしまったのである。あとは人を当たり、見積もりを取り、順番を決める仕事だ。佑馬にとっては、そのほうがずっと手に馴染むのだろう。


 尚人は窓の外へ目をやった。庭の土は明るく乾き、空気には春先らしい少し青い匂いがあった。小山田の谷も、相原の砕石の地面も、まだ頭の中に生々しく残っている。日曜からの1日半で、やるべき山は越えた。ここから先は、動かした金を、見える形へ変える段取りになる。


 「分かったか」


 「分かりました」


 今度は、佑馬がはっきり答えた。


 「後のことはお任せ下さい」


 その言い方には、気負いよりも、ほっとした気配のほうが濃かった。いちばん重いところを尚人が済ませてしまったのである。あとは自分が回せばいい。その割り切りが、そのまま声に出ていた。


 尚人は少しだけ笑った。


 「そうしてくれ。段取りを崩すな。小山田も相原も、最初の見せ方で値が変わる」


 「はい。今すぐ、測量屋と土建屋へ当たります」


 「早くしろ」


 「分かっています」


 電話が切れると、応接間はまた静かになった。受話器のぬるさだけが、まだ手の中に残っている。尚人はそれを元の台へ戻した。


 根岸が、少し面白そうに言った。


 「もう次の段取りですか」


 「買ったあとが大事ですから」


 尚人がそう答えると、根岸は喉の奥で小さく笑った。


 「たしかに、寝かせるだけの人間とは違う」


 尚人は返事の代わりに、机の上の鞄へ手を置いた。小山田の谷は、これで本当に自分のものになった。相原の旧流通団地予定地も同じだ。1つは死んだ分譲地を起こすための土地。もう1つは、もっと大きな会社へ渡すための事業用地である。役目の違うふたつを、同じ日に手へ入れた。その重さは、むしろ心地よかった。


 尚人は立ち上がり、玄関へ向かった。廊下には磨いた板の匂いがあり、外へ出ると、陽はさらに高くなっていた。風が頬に当たり、さっきまで部屋にこもっていた紙と朱肉の匂いを洗い流す。


 日曜日からの1日半で、やるべきことはやり遂げた。あとは、動かした土地を形にしていけばいい。そう思うと、足取りは軽かった。


 ◇ ◇ ◇


 (1986年4月14日月曜日午後3時10分、品川・尚人の持ちビル・早乙女不動産㈱事務所)


 根岸の家を出たあと、尚人は町田の乾いた道を抜けて品川へ向かった。走るほどに、空気の匂いが変わっていく。畑土と草の青さは薄れ、排気とアスファルトの熱が前へ出る。信号待ちではトラックの軽油が重く鼻を打ち、少し走れば、工事現場の鉄とコンクリートの匂いが風に混じった。尚人の頭の中では、買ったばかりの2件の土地が、もう次の段取りへ移っていた。


 品川の持ちビルへ着いたのは、午後3時を少し回ったころだった。ビルの外壁は白い春の光を鈍く返し、ガラス扉の向こうには、平日の午後らしい静かな明るさがあった。中へ入ると、外の排気の匂いが切れ、代わりに床のワックスとコピー用紙の乾いた匂いが鼻へ入る。廊下の奥で電話が短く鳴り、誰かの靴音がすぐに遠ざかった。


 事務所へ入ると、最初に顔を上げたのは杉浦だった。薄いグレーのスーツの襟元まできちんと整っている。順子は窓側の机で帳面を開いており、理恵は壁の地図の前に立っていた。達也は資料を閉じるところだったが、尚人の足音に気づいて椅子から少し身を起こした。


 順子が先に口を開いた。


 「お帰りなさい。どうでした」


 尚人は上着を脱ぐより先に言った。


 「小山田も相原も取った」


 部屋の空気が、その一言で少し変わった。理恵の目が細くなり、達也は思わず息を漏らした。杉浦だけがすぐに次の顔になった。


 「決済までですか」


 「そこまで済ませた」


 達也が小さく笑った。


 「早いな。本当に」


 尚人は机の脇へ立ち、部屋を見回した。ここから先は、人の置き方を変えなければならない。早乙女不動産㈱は長く持つ賃貸を回す会社だ。だが今の流れでは、土地をまとめて買い、回転よく利を抜く仕事のほうが重くなっていた。


 尚人は杉浦を見た。


 「杉浦さん。長期賃貸は、今日から全部あなたに任せる」


 杉浦は椅子の背から少し身を起こした。驚いた顔はしない。ただ、言葉の重さを測るように一拍だけ黙った。


 「全部、ですか」


 「全部です。仕入れも、管理会社との詰めも、家賃の落としどころも、修繕の判断も、まずはあなたが切って下さい。必要な決裁だけ俺へ上げればいい」


 杉浦は尚人の顔を見て、静かに頷いた。


 「分かりました。長期賃貸は私が持ちます」


 その言葉で、部屋の空気がひとつ締まった。杉浦はこういう時、余計なことを言わない。受けると決めたら、後ろへ引かない女だった。


 尚人は次に、順子、理恵、達也の3人へ向き直った。


 「おまえたちは、今日から早乙女土地売買へ移る」


 順子は黙って次の言葉を待ち、理恵はまっすぐ尚人を見た。達也は腕を組みかけてやめた。


 尚人は続けた。


 「これから先、俺が前へ出るのは、競売よりも、土地をまとめて買って回転よく動かす仕事だ。だから人を寄せる」


 そして順子と理恵の2人を見た。


 「順子、理恵。おまえたちふたりには、大崎駅東口まわりの買付を任せる」


 順子の眉がわずかに動いた。


 「大崎ですか」


 「そうだ。東口はこれから動く。駅前の話が表へ出ると、その外側に残っている古い雑居ビル、小さな駐車場、借地の建物、そういう札から先に値が動く。そこを拾う」


 順子は短く答えた。


 「分かりました。相手の腹を見て、売る気のあるところから当たります」


 尚人は頷いた。それから理恵へ目を向けた。


 「理恵は、その先を見ろ。おまえの得意なのは事務じゃない。どこに熱が集まるか、どの札を押さえれば周りの値が変わるか、その先を読むことだ。そこは俺に似ている。大崎東口で、どの筋がいちばん早く跳ねるかを見てこい」


 理恵は一度だけ目を伏せ、それから顔を上げた。


 「分かりました。駅前そのものじゃなくて、その周りで先に効く場所を見ます」


 「そうしろ。順子が話の入口を作る。理恵は、その中から本当に買うべき札を選べ」


 ふたりの役が、そこで分かれた。順子は相手の懐へ入る役で、理恵はその先の値を読む役だった。


 尚人は最後に達也を見た。


 「達也。おまえは小田原駅東口まわりの売却宣伝だ」


 達也が少しだけ顎を上げた。


 「売る方か」


 「そうだ。あっちはもう買ってある。次は、どう高く見せるかだ」


 尚人は机の上の地図を指でなぞった。


 「地元の不動産屋、建設会社、資材置場を欲しがる連中、仮事務所を探している会社、そういうところへ顔を出せ。小田原駅東口はこれから変わる、今押さえれば後で効く、と相手に思わせるんだ。ただの古い物件じゃない。次の値上がりの入口だと、口で売れ」


 達也は小さく笑った。


 「そっちは性に合う」


 「だろうな。おまえは歩いて、喋って、相手の顔色を見ろ。売り先の熱だけ持って帰ればいい」


 部屋の奥では、コピー機が紙を吐き出す音がした。外からは、品川の車の流れの低い唸りが窓越しに鈍く届いている。順子、理恵、達也の3人は、それぞれ違う顔で尚人を見ていたが、誰の目にも、もう自分の役の輪郭が見え始めていた。


 杉浦が静かに言った。


 「人事の紙は、今日中にこちらで整えます。所属変更、給与の振り分け、名刺の差し替え、全部やります」


 「頼みます」


 「肩書はどうしますか」


 尚人は少し考えてから答えた。


 「順子は事業部長、理恵は調査企画、達也は販売渉外でいい。余計な飾りはいらない。何をやる人間かだけ見えればいい」


 杉浦はメモを取り、すぐに頷いた。紙へペン先が走る音が、妙に心強く聞こえた。


 順子は机の上の手帳を閉じた。理恵は壁の地図へ視線を戻し、大崎の東口側へ目を走らせている。達也は窓の外を見ながら、もう小田原で最初に当たる相手の顔を思い浮かべているようだった。さっきまでは同じ部屋にいても、それぞれが別の机の仕事をしていた。だが今は、3人とも違う方向へ向きながら、同じ速さで動き始めていた。


 尚人は、窓の外の品川の空を見た。陽は少し傾き始めている。町田小山田の乾いた谷も、相原の砕石の地面も、まだ今日の光の中にある。その上で、大崎と小田原の次の動きも、もうそれぞれの手へ渡った。そう思うと、胸の内の組み方がひとつきれいに収まった。


 紙とワックスの匂いのする品川の事務所で、人の流れがそこで変わった。長く持つ会社は、杉浦の手に静かにまとまっていく。土地を買い集め、値の付け方を変えて利を抜く会社は、いま、尚人の前でそれぞれの役を持ち、骨を立て始めていた。

尚人の仕事は、もう自分ひとりで土地を取りに行くだけではない。町田小山田と相原を同じ日に押さえたあと、すぐに佑馬へ工事の段取りを渡し、品川では人の置き方まで組み替えた。土地は買っただけでは金にならず、誰に何をやらせ、どの順で形にするかで値の付き方が変わる。その流れが、ここではっきりした。順子、理恵、達也の役目が分かれたことで、早乙女土地売買の形も固まった。順子は相手の腹を読み、理恵はその先の値動きを見て、達也は売り先へ熱を入れる。大崎駅東口では買い、小田原駅東口では売る。長く持つ側は杉浦が預かり、土地を早い回転で動かす側は尚人が前へ出る。その分かれ方も、ようやく落ち着いた。

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