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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第四章――「秋谷の屋敷、動き出す布陣」

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第4話――「木曜日の約束、9億2000万円の朝」

横須賀の夜に残った酒と熱は、尚人にとってただの遊びでは終わらなかった。『さざなみ』を出たあと、ゆかりはそのまま尚人の部屋へついて来て、翌朝には木曜日の約束を残して消える。一方で、朝になれば尚人はもう土地の男へ戻り、司法書士と朝食を取りながら町田小山田の決済へ向かう。その流れの先で、相原の旧流通団地予定地まで一気に手へ入る。女の余韻と9億2000万円の商売が、同じ月曜の朝に重なる回である。

 (1986年4月13日月曜日午前6時、横須賀・尚人のアパート)


 尚人は、最後の客が帰ってから間を置かずに店を出た。暖簾をくぐると、夜気は思ったより冷えていて、火照った頬に当たると気持ちが引き締まる。明日は町田小山田の地主と契約の話を詰める日である。気合を入れようと、尚人は両手で自分の頬をバチンと打った。乾いた音が夜の商店街に小さく散った。


 その時だった。後ろから、誰かが尚人の背中へそっと触れた。撫でるような、ごく軽い手つきだった。尚人が振り向くと、案の定、ゆかりが立っていた。店の灯りを背にしているせいで、ワンレンの髪が黒くつやを帯び、酔いの残る頬だけが白く浮いて見えた。さっきまで店の中で笑っていた顔とは違い、今は少し黙った顔をしていた。


 ゆかりは何も言わず、尚人の左腕を取った。指先は思ったより温かい。酒の匂いと、髪に残った香水の甘さが、夜の湿った空気に混じった。ふたりともかなり酔っていた。足取りは危なげではないが、真っ直ぐでもない。商店街の看板灯が濡れた路面に揺れ、その色の上を、ふたりの影がゆっくり重なって動いた。


 尚人のアパートへ着くころには、言葉はほとんど消えていた。階段を上がる靴音だけが、妙に大きく聞こえる。部屋へ入ると、閉め切っていた空気の匂いに、外の夜気と、ゆかりの香りが一緒に流れ込んだ。尚人は灯りをつけ、ゆかりは黙ったまま部屋の中を見回した。机、流し、脱ぎかけた上着、枕元の小さな明かり。男のひとり暮らしの部屋は、取り立てて飾り気もなく、ただ今夜はそこへ女がひとり混じっただけで、急に狭く、近い場所になった。


 ふたりは軽くシャワーを浴びた。湯が肩に当たる音が、狭い浴室に続いた。石鹸の白い匂いが立ち、酔いの熱を少しだけ洗い流す。けれど頭の芯の揺れまでは消えない。濡れた髪から雫が落ち、足元のタイルへ小さな輪を作った。ゆかりは笑いもしなければ騒ぎもしない。ただ、目だけがいつもより少し深く光っていた。


 部屋へ戻ると、そのままベッドへ崩れ込むようになった。言葉は長く続かない。あるのは、近い息づかいと、シーツの擦れる音と、肌に残った湯のぬくもりだけだった。枕元に置いてあったペペローションが、そこでは妙に現実的だった。酔いの勢いだけで終わるには、少し用意がよすぎたとも言える。だが、そういう小さな周到さがあったおかげで、夜は途中で白けずに済んだ。


 ゆかりにとっては、尚人との初めての夜は、思っていたよりずっと強いものだったらしい。最初のうちは、店で見せる軽い笑いをまだ口元に残していたが、それもすぐに消えた。冗談を差しはさむ余裕は長く続かず、代わりに、戸惑いとも驚きともつかぬ息の詰まり方が何度か近くで聞こえた。尚人は酔ってはいたが、相手のそうした変化だけはよく分かった。夜は短くはなかったが、時計を見る者はどちらもいなかった。


 尚人が翌朝目を覚ました時、部屋にはもう女の気配だけが残っていた。カーテンの隙間から入る朝の光が、枕元を白く照らしている。シーツにはまだ昨夜のぬくもりの名残があり、空気の中には石鹸と香水の薄い混じりが漂っていた。流しのあたりでは、蛇口を使った形跡だけが静かに残っている。


 ゆかりはもう出ていた。


 枕元には、小さなメモが1枚だけ置かれていた。丸みのある、急いだ字だった。


 「亭主が起きるまでには帰らないといけないの。木曜日も楽しみにしているわ」


 尚人はその紙を指でつまみ、しばらく黙って見た。窓の外では、もう町が動き始めている。遠くで車が走り、どこかで戸を開ける音がした。町田小山田の地主と話を詰める日が、もう目の前まで来ていた。だが、枕元に残ったその紙切れだけは、昨夜が酒の勢いだけでは終わっていないことを、妙にはっきり告げていた。


 ◇ ◇ ◇


 ◇ ◇ ◇


 (1986年4月14日月曜日午前7時20分、横須賀中央駅前・ホテルのレストラン)


 尚人は、横須賀中央駅前のホテルのレストランで司法書士と向かい合っていた。朝の光は大きな窓から白く差し込み、銀の縁のついたビュッフェ台の上で、湯気を薄く光らせている。焼いたベーコンの脂の匂い、スクランブルエッグの甘い匂い、温めたロールパンの小麦の匂いが、淹れたてのコーヒーの苦みと混じっていた。皿の触れ合う音、ナイフが金属の縁をかすめる小さな音、遠くの席で新聞をめくる乾いた音が、朝の店内にまばらに散っていた。


 司法書士の小沼(おぬま)は、50に手が届くかどうかという年ごろで、細い銀縁眼鏡をかけ、紺の背広の襟元まできちんと整えていた。皿の上にはトーストとハム、それにサラダが少しだけ載っている。食い意地ではなく、今日やる仕事の順番を頭の中で並べながら、必要なだけを静かに食べる男だった。


 尚人はコーヒーをひと口飲み、テーブルの脇に置いた革の手提げを軽く叩いた。その中には、銀行振出小切手が2通入っている。1通は小山田の谷の分譲地、5億円。もう1通は、昨日の時点ではまだ白紙に近かった。だが尚人の勘では、今日もう1件増える気がしていた。


 「先生、今日の段取りをもう1度だけ」


 小沼は紙ナプキンで口元を押さえ、短く答えた。


 「まず小山田の件です。売主の印鑑証明、権利証、固定資産評価証明、住民票の写し、全部そろうと聞いています。こちらは銀行振出小切手と委任状、会社の登記事項、それから買主側の実印。問題がなければ、その場で申請書をまとめます」


 「昼前には終わるか」


 「売主が余計な欲を出さなければ」


 小沼の言い方は淡々としていたが、少しだけ棘があった。土地の話は、判を押す直前に人が変わることがある。それを何度も見てきた声だった。


 尚人は笑わずに頷いた。


 「今日は変わらせません」


 皿の上のベーコンはまだ熱く、噛むと脂が塩気と一緒に広がった。コーヒーの苦みがそのあとに続く。尚人は朝食を急がなかった。こういう日の朝に胃が空だと、決める声が軽くなる。若い体は便利だが、商売は腹の具合まで含めて整えておいた方がよい。


 食事を終えると、尚人はホテルの会計を済ませ、小沼と一緒に外へ出た。駅前の朝はもう動き始めていて、バスの排気が白く薄まり、通勤の靴音が舗道をせわしなく打っている。尚人はバイクへまたがった。革手袋をはめると、朝の空気の冷たさが少し遠のく。小沼はタクシーに乗り込み、先に町田へ向かう。尚人はエンジンをかけ、低いうなりを胸の底で聞きながら、そのあとを追うように西へ走った。


 道が横須賀を離れるにつれて、海の匂いは薄れ、乾いた土と春の草の匂いが前へ出た。トラックの軽油、信号待ちの排気、畑の脇を抜ける時の湿った泥の匂いが、ヘルメットの下へ順番に入ってくる。尚人の頭の中には、昨日見た谷の赤土と、雑貨屋の老女の顔、それから資産家の家の応接間の木の匂いが、まだ残っていた。


 (1986年4月14日月曜日午前10時5分、町田・小山田の資産家宅)


 資産家の家へ着くと、門扉の前に小沼の乗ってきたタクシーが止まっていた。空は高く、陽はもう十分に上がっている。玄関脇の植木鉢の土は昨日と同じように乾いていたが、庭木の葉だけが少し風を受けて鳴っていた。


 応接間へ通されると、今日は昨日よりも空気が締まっていた。磨かれた木の床、ガラスの灰皿、低いテーブルの上に整えられた書類の束。そこへ新しい紙の匂いと、朱肉の油の匂いが混じっている。資産家の根岸(ねぎし)は、昨日と同じ背広を着ていたが、今日は最初から商売の顔をしていた。


 「早いですね」


 「こういう話は、早い方がいいでしょう」


 尚人がそう返すと、根岸は口元だけで笑った。


 「それはそうだ」


 小沼が鞄を開き、必要書類を1つずつ机へ並べた。権利証、印鑑証明、住民票、評価証明。紙が机に置かれるたび、乾いた音が小さく重なる。尚人は手提げから銀行振出小切手を出した。白地の厚い紙には、銀行名と金額が端正に打たれている。5億円という数字は印字の上では妙に静かだが、机の空気だけはその額にふさわしく少し重くなった。


 根岸は小切手を受け取ると、いったん窓の光へかざした。紙の繊維が薄く浮き、銀行の地紋が白く返る。現金の束のような生々しさはない。だが、だからこそ逃げ場もない。今日ここで終わる金の顔だった。


 「確かに」


 根岸がそう言った時、小沼はもう申請書へ視線を落としていた。印鑑を押すたび、朱肉の匂いがふっと立つ。尚人も実印を置き、重みのある感触を指先で受けた。紙の上へ残る赤い印影は湿っていて、まだ少しだけ光っていた。


 所有権移転の段取りは、小沼が間を空けずにまとめた。質問も確認も多くはない。話は日曜のうちに腹まで詰めてある。月曜の今日は、もう迷いを消して形へ落とすだけだった。


 小山田の件が片づくと、根岸は小切手を封筒へ入れ、机の端へ寄せた。それから灰皿の横で指を組み、少しだけ考えるような顔をした。


 「早乙女さん」


 「はい」


 「昨日、全部を見ると言っていましたね」


 「言いました」


 根岸はそこで背を椅子に預けた。


 「実は、もう1つ寝かしている土地があります」


 尚人は顔色を変えなかった。ただ、目だけを少し上げた。


 「どちらです」


 「相模原の相原町寄りです。県道沿い。昔、流通団地をやる話で土建屋がまとめていた土地を、倒れたあとで私が引き取った。入口も幅もある。大型車も入れなくはない。だが、途中で話が死んだ」


 根岸はそう言いながら、横の戸棚から古びた図面筒を出した。筒の紙には少し湿気た匂いが残っていた。広げられた図面には、太い道路予定線、四角く切った区画、消えかけた青焼きの文字が見える。古い計画の骨だけが、そのまま机の上へ戻ってきたようだった。


 「建材置場と小規模流通団地の予定でした。途中まで砕石も入れた。排水溝も半分は掘った。だが、分譲に入る前に会社が潰れた。以来、私が抱えたままです」


 尚人は図面へ手を置き、目だけで線を追った。県道に面している。入口の幅も取れている。まとまった面積があり、しかも単一名義なら、手を入れる前から筋がいい。完成していない中途半端さが逆に値を寝かせている。そういう土地だった。


 「広さは」


 「5,000坪少し」


 「権利は単独ですか」


 「全部、私です」


 小沼がそこで初めて顔を上げた。相原、流通団地予定地、単独名義。その言葉の並びだけで、数字の匂いが変わる。尚人にもそれは分かった。


 「値段は」


 根岸は少しだけ間を置いた。


 「4億5,000万円を見ていました」


 尚人は図面から目を上げた。


 「4億2,000万円なら、その場で決めます」


 応接間の空気が、また1度深くなった。根岸はすぐには答えなかった。小山田の5億円がもう机を渡っている。今日の尚人は、口だけの男ではない。それが分かっているからこそ、根岸も冗談では返せない。


 「安いですね」


 「寝かせていても税金しか食わない土地でしょう」


 尚人は静かに言った。


 「県道沿いで単独名義なら、持つ人間が変われば値打ちは起きる。だが、起きるまでに手を入れる金と時間が要る」


 根岸はじっと尚人を見た。昨日の谷の話とは違う。こちらはもっと乾いた、事業用地の話である。だが、尚人の声の底に迷いがないのは同じだった。


 「小切手は」


 「持っています」


 尚人は手提げへ手を入れ、2通目の銀行振出小切手を机へ出した。白い紙の上に、4億2,000万円の印字が静かに載っている。根岸の眉がわずかに動いた。用意してきたのか、と顔が言っていた。


 尚人はそれ以上は何も言わなかった。風の音が一度だけ庭の葉を鳴らし、遠くでトラックの低い唸りが聞こえた。


 やがて根岸は息を吐いた。


 「そこまで持って来ているなら、私も寝かせるのをやめましょう」


 それで話は決まった。


 今度は根岸が戸棚のさらに奥から、相原の権利証と図面一式、評価証明の束を出した。紙は少し黄ばんでいたが、整理はきちんとしていた。長く寝かせたままでも、捨てきれなかった土地なのだろう。小沼は眼鏡を押し上げ、書類を1枚ずつ確認した。相原の地番、地目、地積、所有者名。申請書の書き直しに入ると、ペン先が紙の上を走る細い音が続いた。


 尚人はそのあいだ、窓の外を見た。春の光が庭木の葉の先で白く光っている。小山田で5億円、相原で4億2,000万円。今日1日で、9億2,000万円が土地へ変わる。だが、不思議と重くはなかった。金が消えるのではない。形を変えるだけだと、もう身体で知っているからだった。


 小沼が顔を上げた。


 「こちらもいけます。印をお願いします」


 尚人は頷き、また実印を置いた。2度目の朱肉の匂いが立つ。根岸も押す。銀行振出小切手が2通、別々の封筒へしまわれ、所有権移転の書類はきれいに重ねられた。


 すべてが済むと、応接間の空気は、商売の熱が抜けたあとの静けさへ変わった。根岸は椅子へ背を預け、苦くも晴れやかな顔で笑った。


 「今日は、ずいぶん身軽になりました」


 「私もです」


 尚人がそう返すと、根岸は喉の奥で小さく笑った。


 「普通、土地を買った人間がそう言うんですか」


 「ええ。重い土地ほど、買ってしまった方が軽いことがあります」


 それは半分冗談で、半分本音だった。

この回では、尚人の強みがよく出ている。夜はゆかりの揺れを受け止め、朝になれば迷わず商売の顔へ戻る。その切り替えの早さが、まずこの男らしい。また、町田小山田5億円の決済だけで終わらず、売主の口から相原の旧流通団地予定地まで引き出し、4億2000万円でその場でまとめてしまう流れもよい。1件の買収を、次の1件へそのままつなげるところに、尚人の勢いと目利きがある。ゆかりとの木曜日の約束が色の線を残し、相原の取得が商売の線を太くする。第四章が、女と土地の両方でさらに深く動き出した回になっている。

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