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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第四章――「秋谷の屋敷、動き出す布陣」

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第2話――「草に埋もれた宅地、1億円の名刺」

三崎の山麓を13億円で売り、尚人の普通預金には12億円が残った。ここまで来ると、細かな利を積むだけでは物足りない。尚人の目は、もう次の勝負を探していた。狙うのは、バブルの熱がまだ届き切らない場所に、早くも見放された宅地分譲地である。草に埋もれ、看板だけが色あせ、登記や道路や水の不具合を抱えたまま放り出された土地。誰も見向きしないなら安い。だが、死んだ理由を見抜いて直せる者がいれば、その土地は生き返る。尚人は、その賭けに踏み込む腹を決める。

 (1986年4月12日土曜日午前10時、横須賀・尚人のアパート)


 尚人は、畳の上に通帳と電卓を置いていた。窓の外では、春の光が古いアルミ枠に当たり、白く返っている。部屋の中には、洗ったばかりの湯呑みの匂いと、わずかに乾いた畳の匂いが残っていた。


 数字は何度見ても変わらない。1億円で押さえた保育園と山麓の土地を13億円で渡し、借りた分を返しても、手元には12億円が残った。追浜の土地で抜いた金とは別に、いま自由に動かせる現金がここにある。


 尚人は通帳を閉じ、指先で表紙を軽く叩いた。


 土地は、値上がりするものを待つだけでも儲かる。だが、それでは遅い。人が見捨てた場所に先に入り、何が詰まっているのかを見つけ、そこだけを通してやる。そうすれば、死んだ土地は自分で息を吹き返す。尚人は、それを次の勝負にしようと考えていた。


 そのとき、電話が鳴った。部屋の静けさの中で、乾いたベルの音がやけに硬く響いた。


 尚人が受話器を取ると、向こうから佑馬の声がした。


 「俺です。少し、いいですか」


 「どうした」


 「昨日の話、考えていたんです」


 受話器の向こうで、衣擦れの音が少しした。品川のビルの一室で、背広に腕を通しながら話しているらしかった。


 「横須賀で女の話を拾うにしても、そのあと早乙女不動産の名で動いたら、いつか線がつながります。俺が前に出るなら、表の看板を分けた方がいい」


 尚人は受話器を持つ手を少し止めた。自分も、同じことを考え始めていたところだった。


 「続けろ」


 「古い分譲地とか、開発の残りとか、そういう死んだ土地を見る会社にしておけば、不自然じゃないでしょう。横須賀で拾った噂から東京郊外へ飛んでも、筋が通る」


 尚人は小さく息を吐いた。


 「今どこだ」


 「品川です。これから出られます」


 佑馬は、尚人の持ちビルの3DKに住んでいる。ほかの家族も皆大人になっていて、それぞれ別の3DKに入っている。佑馬は、早乙女不動産㈱の取締役をしており、会社は今佑馬たちが住んでいる尚人の持ちビルの中にあった。会社も生活の拠点も品川側にあるが、尚人の特命を受けてからは横須賀が拠点となるだろう。


 「横須賀へ来い。話をまとめる」


 「分かりました。正午前には着きます」


 「来たらすぐ話す」


 受話器を置くと、部屋はまた静かになった。だが今度の静けさは、止まったものではなく、何かが動き出す前のものだった。


 ◇ ◇ ◇


 (1986年4月12日土曜日午前11時45分、横須賀・尚人のアパート)


 佑馬が来たころには、湯が沸いていた。玄関が開き、外の少し湿った空気と、道路の埃っぽい匂いが一緒に入ってくる。佑馬は濃い色の背広を着ていて、ネクタイはまだ少し硬かった。革靴の表面には、駅から歩いてきた細かな白い埃がうっすら付いていた。


 「失礼します」


 「入れ」


 佑馬は座布団の上に腰を下ろし、まず机の上の通帳を見た。それから尚人の顔に目を戻した。


 「金ができましたね」


 「12億円だ」


 尚人は淡々と言った。


 「ここから先は、小さな物件をいくつも拾うより、死んだ土地を起こした方が早い」


 「死んだ土地、ですか」


 「1970年代から80年代の初めに、景気の言葉だけで切り売りした分譲地だ。駅から遠い。道路が弱い。水が来ない。排水が悪い。私道の持分が割れている。開発会社が倒れて、そのまま草になった。そういう土地は、いま不動産屋でも本気では見ていない。だから安い」


 佑馬は頷いた。尚人が話しているのは、単なる思いつきではなく、次の商売の骨だと分かっていた。


 「それで、別会社ですね」


 「そうだ」


 尚人は通帳を机の端へ寄せた。


 「名前は倉田開発㈱にする。資本金は1億円。金は俺が出す。おまえが社長だ。俺は会長に入る。表へ出るのは、おまえにする」


 佑馬は眉を上げた。


 「いきなり社長ですか」


 「嫌か」


 「嫌というより、面倒です」


 「面倒な顔をしている男のほうが、外では信用される」


 尚人がそう言うと、佑馬は諦めたように鼻で小さく笑った。


 「なるほど。では、面倒そうな顔でやります」


 尚人は続けた。


 「早乙女不動産は、もう地元でも品川でも動きが見え始めている。あそこから直接、三崎や横須賀へ線を伸ばすのはよくない。倉田開発は、古い宅地や開発残地の再生をやる会社にする。会社の所在地は、横須賀の俺の持ちビルを使え。まだ空き部屋があるはずだ。これからおまえは、首都圏西側の死んだ分譲地を探して歩く男だ」


 「会長は」


 「出資者だ。必要な時だけ出る。普段は奥にいる」


 佑馬は机の木目を見ながら、考えるように言った。


 「そうすれば、俺が横須賀で何を聞いても、すぐには会長へつながらない」


 「そういうことだ」


 尚人は湯呑みに茶を注いだ。湯気が立ち、わずかに茶葉の青い匂いが広がった。


 「今夜、おまえは『さざなみ』へ行け」


 「例の店ですか」


 「そうだ。ママは涼子。そこで働いているゆかりという女に、土地の噂が流れ込む」


 佑馬は湯呑みを持ち上げたまま、尚人を見た。


 「土地を持ってる女ですか」


 「持っていなくても構わない。持て余している人間の話を知っている女だ。店の中で聞いたことを、寝て起きても忘れない種類の人間はいる。あれはそういう女だ」


 「倉田開発の社長として顔を出します」


 尚人は言った。


 「客の顔で入り、社長の名刺を出せ」


 「初手で信用させようとするな。何の話に食いつくかを見ろ。向こうが先に出した話の中に、売りたい荷物が混じる」


 佑馬は茶を一口飲んだ。まだ熱く、舌に少し渋みが残った。


 「社長になった初日の仕事が、スナックの聞き込みですか」


 「うちはそういう会社だ」


 尚人が言うと、佑馬はとうとう声を立てて笑った。


 「分かりました。倉田開発㈱、引き受けます」


 尚人は電話帳を引き寄せ、司法書士の番号を探した。


 「今日のうちに段取りをつける。登記は急がせる。名刺も作る。今夜、おまえはその名刺を持って行け」


 「いきなりですね」


 「女に待たせると、別の男に口を開く」


 佑馬は苦い顔で湯呑みを置いた。


 「社長というより、まずは客ですね」


 「その客が、話を持って帰ってくる」


 ◇ ◇ ◇


 (1986年4月12日土曜日午後7時10分、横須賀・商店街、スナック『さざなみ』)


 夜の商店街は、昼の熱を少しだけ路面に残したまま、看板灯の色へ移っていた。魚屋の前はもう片づき始めているのに、生臭さだけはまだ溝のあたりに残っている。焼き鳥屋の煙が通りへ細く流れ、醤油の焦げる匂いが風に混じった。


 佑馬は『さざなみ』の前で1度だけネクタイを直し、扉を押した。


 中は、煙草と香水と氷の匂いが重なっていた。カウンターの木は照明を受けて鈍く光り、壁の鏡には客の肩とグラスが細く映っている。ママの涼子が先に気づき、笑顔を向けた。


 「いらっしゃい」


 「ひとりですが、大丈夫ですか」


 「もちろん。カウンターどうぞ」


 佑馬が腰を下ろすと、奥でグラスを拭いていた女が、手を止めてこちらを見た。目元はやわらかいのに、視線だけは相手の懐を探るように細い。涼子が何でもない調子で言った。


 「ゆかり、水割りお願い」


 「はあい」


 ゆかりはグラスを取りに来て、佑馬の背広と靴をひと目で見た。声は軽かった。


 「見ない顔ね」


 「今日はたまたまです」


 「たまたまで、こういう店に来る人は少ないわよ」


 氷の入ったグラスが目の前に置かれた。ガラスの表面に白く曇りが浮き、水滴がすぐに筋になって落ちた。


 佑馬は笑ってごまかし、内ポケットから出来たばかりの名刺を出した。


 「たまたまでもないですね。仕事で横須賀へ来た帰りです」


 ゆかりは名刺を受け取り、指先で表をなぞった。


 「倉田開発株式会社……代表取締役……へえ、社長さん」


 声は軽いが、目は軽くなかった。名刺の文字を見たまま、ゆかりは次の1手を考えている顔をしていた。


 「新しい会社です。古い宅地や、止まった土地を見ています」


 「止まった土地ねえ」


 ゆかりは小さく笑い、名刺を胸元の小さなポーチへしまった。


 「そういう話、嫌いじゃないわ。草ばっかり生えて、人も来なくなって、それでも固定資産税だけは払わされる土地ってあるものね」


 佑馬は、少しだけ興味を持った顔を作った。


 「心当たりがあるんですか」


 「3つくらいなら」


 氷を足す音が、かん、と澄んで鳴った。ゆかりはグラスを拭く手を止め、自分の体を少しだけカウンターへ寄せた。


 「1つ目は、八王子の西のほう。上川口の先にある、小さな分譲地。70年代の終わりに売ったのに、道路が弱くてね。私道の持分が細かく割れて、雨が降るたび赤土が流れてくる。開発した会社も途中で消えて、家が建ったのは何軒かだけ。あとは草」


 佑馬は頷きながら、グラスの水滴を指で拭った。


 「2つ目は町田。小山田の谷のほう。見た目は悪くないのよ。日当たりもあるし、畑だった場所だから広いし。でもね、水が弱いの。上のほうはまだいいけど、谷側は雨が強いとぬかるんで、側溝もあふれる。バスも増えるって話だったのに、そのまま。売れ残りと放り出しが混ざって、いまは持ち主もばらばら」


 「3つ目は」


 「青梅の奥。成木のほう。古い分譲地で、入口は一応あるけど、擁壁にひびが入ったままの区画が残ってる。相続も止まって、誰の土地かすぐ出ないところまであるわ。昼は静かでいい場所だけど、夜は真っ暗」


 ゆかりは3つとも、地名だけでなく、どう腐っているかまで知っていた。噂話にしては、細部が生々しすぎる。佑馬は顔には出さなかったが、尚人の読みが当たっていると感じた。店の奥に立つだけの女ではない。酒の席でこぼれた困りごとが、ここへ集まってくるのだ。


 「ずいぶん詳しいですね」


 「店をやってると、要らない話も入るのよ。土地を持て余してる男って、お酒が入ると案外しゃべるもの」


 ゆかりはそこで1度、言葉を切った。そして、思い出したような顔で付け足した。


 「でも、いちばん面白いのは町田のところかな」


 「小山田の分譲地ですか」


 「そう。あそこ、本体は草のままだけど、入口の角だけならすぐ動くのよ」


 佑馬はグラスを持ち上げる手を止めた。


 「入口の角?」


 「知り合いの女が持ってるの。相続で回ってきたけど、税金ばかりかかるって困ってる。350万円なら離すって」


 安い。だが、安すぎる気もした。しかも、ゆかりは値段を言うまでに1度も資料の話をしていない。先に売りたい気持ちが出すぎている。


 「地目は」


 「宅地よ。たしか」


 「接道は」


 ゆかりはそこで、ほんの少しだけ笑みを濃くした。


 「そういう細かいことは、社長さんが見ればいいじゃない。私は入口の角だって教えてるの」


 その1言で、佑馬には十分だった。それで足りた。3件の話は本物だろう。だが、町田の角だけは匂いが違った。


 それでも佑馬は顔色を変えず、むしろ少し興味を持ったふうに見せた。


 「資料が欲しいですね」


 「明日じゃ遅いかも」


 「早いですね」


 「社長さん、そういうところで遅れると、いい土地はみんな持っていかれるのよ」


 ゆかりはそう言って、カウンターの下から煙草を取り出した。火をつける手つきは慣れていて、煙はまっすぐではなく、いったん横へ流れてから天井へ上がった。


 「紹介だけなら、私にも出来るわ。うまくまとまったら、あとでごちそうしてくれればいいの」


 その笑い方が、親切の顔をした商売人の笑い方だった。悪意だけではない。だが、善意でもない。


 佑馬はグラスを空け、名刺入れを閉じた。


 「分かりました。まず場所を見ます。話はそのあとで」


 「そうして」


 ゆかりは肩をすくめた。


 「でも、角は誰かに取られる前に見たほうがいいわよ」


 佑馬は曖昧に笑い、勘定を済ませて店を出た。背中に、煙草と香水の匂いが少し残った。


 ◇ ◇ ◇


 (1986年4月12日土曜日午後9時10分、横須賀・尚人のアパート)


 佑馬が戻ると、尚人は机の上に地図を広げていた。裸電球の下で、多摩の西側の道路が細い線になって走っている。部屋にはインスタントコーヒーの焦げた匂いがあり、灰皿には吸い殻が2本、斜めに置かれていた。


 「どうだった」


 佑馬は上着を脱ぎ、話を順に伝えた。八王子の上川口、町田の小山田、青梅の成木。道路、排水、水、擁壁、相続。ゆかりの言葉を、なるべくそのままの形で机の上へ並べていく。


 尚人は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。佑馬が、町田の入口の角地を350万円で買わせようとしてきた話まで言い終えると、尚人は地図の上に指を置いたまま、しばらく黙った。


 「3件とも本物だな」


 「そう見えます」


 「町田だけ、押しが強い」


 「ええ」


 尚人は地図の上で、町田のあたりを1度だけ軽く叩いた。


 「角は押さえろ」


 佑馬はすぐには頷かなかった。


 「そのあと、どうします」


 尚人は視線を上げた。


 「3件とも洗う。地権者、私道、水、擁壁、相続、持分。死んだ理由を全部出せ」


 「10億を、全部そこで見るんですか」


 「1件に全部は入れん」


 声は静かだった。


 「倉田開発に1億入れた。残りは11億だ。あれは3件まとめて見るための金だ。1つの分譲地に丸ごと張る気はない」


 佑馬はそこでようやく頷いた。


 「では、角は入口ですね」


 「そうだ。入口として取る。だが、土を動かすのはまだ先だ」


 尚人は続けた。


 「向こうが町田で何か見ているなら、それはそれでいい。こっちは急がない。まず3件全部の腹を測る。安くまとまる順、直しやすい順、手を入れた時の跳ね方、その3つで並べる」


 「八王子は私道と排水」

 佑馬が言った。

 「町田は水と持ち主の散り方」

 「青梅は擁壁と相続だな」

 尚人が受けた。

 「どれも、理由が見えれば値段は変わる」


 部屋の中には、時計の針の音だけが少しの間続いた。


 佑馬が、少し声を落として言った。


 「ゆかりの話、乗った顔をしておきます」


 「そうしろ」


 「工事のことを探ってくるかもしれません」


 尚人は小さく笑った。


 「探らせておけ。だが、おまえは先に俺へ喋れ」


 佑馬もそこで笑った。悔しいが、そこは否定しなかった。


 尚人は地図をたたみ、机の端へ寄せた。


 「倉田開発㈱は、この3件を見るための会社になる。おまえは社長として前へ出る。俺は後ろで金と順番を決める。早乙女不動産の名は、まだ出すな」


 「了解しました」


 「町田の角は取れ。だが、その先を急ぐな。3件の中で、どこが本当に起こせる土地かを先に決める」


 佑馬は湯呑みを手に取り、中の冷めた茶を飲んだ。渋みが少し舌に残る。


 「分かりました。角は押さえます。そのうえで、3件全部を洗います」


 尚人はようやく少しだけ笑った。


 「それでいい」


 窓の外では、夜の風が看板をかすかに鳴らしていた。三崎で名士の顔を得た尚人は、今度は東京の外れで、誰も見向きしない草の中へ目を向けている。死んだ土地には、死んだ理由がある。だが、理由が分かれば、値段は生き返る。しかも今度は、その値打ちを測ること自体が、別の追跡とも重なり始めていた。尚人の次の勝負は、もう始まっていた。

この回では、第四章の次の軸がようやく形を持つ。尚人は三崎で名を上げたあと、今度は見捨てられた宅地分譲地へ目を向ける。ただの転売ではなく、死んだ理由を見抜いて土地を蘇らせる勝負である。そのために、尚人は自分の影を薄くし、佑馬を表に立てた倉田開発㈱を作る。資本金1億円を入れたあとも、尚人の手元にはなお必要経費用現金を含めて約11億716万0500円が残り、勝負は1件ではなく3件まとめて10億円程度で見る形になった。同時に、『さざなみ』のゆかりも、ただの噂好きでは終わらない。3件の話は本物だが、町田の角地だけは押しが強い。そこに、噂だけでは済まない癖が混じる。佑馬は社長の名刺を持って店に入り、尚人は裏で全体の腹を測る。表と裏が分かれたことで、追跡と商売は、ここで静かに重なり始めた。

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