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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第四章――「秋谷の屋敷、動き出す布陣」

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第1話――「13億円の春」

三崎の山麓の土地には、もうただの山ではない値打ちが生まれていた。尚人は役所を回り、井戸、水道、接道、地目、排水、斜面まで洗い、話を止めるような強い規制がないことを確かめる。1986年という時代の熱をまとえば、古い査定額はもう物差しにならない。だが、高く売れるだけで相手を決める気はなかった。土地を動かしたあと、三崎に何が残るのか。その問いが、尚人を保育園の事務室へ向かわせる。

 (1986年4月10日木曜日午前9時、横須賀・尚人のアパート)


 尚人は机の上に三崎の地図を広げ、山麓の線を指でなぞった。昨日、バイクで三崎へ戻ってから、水道業者にも役所にも足を運び、あの土地について聞けることは一通り聞いてきた。最初に確かめたのは水だった。尚人にとって、土地の値打ちを左右するもののうち、いちばん重いのは水である。水道業者の返事は早かった。あの場所なら井戸は十分掘れる見込みがあるという。


 だが、井戸だけで安心する気はなかった。市役所の都市計画、建築、農業委員会、土木、水道の窓口を順に回り、地目、道路、排水、斜面、将来計画まで、引っかかりそうなところを1つずつ潰していった。


 結論ははっきりしていた。あの土地は畑ではなく、農地転用で止まる場所ではない。保安林でもなく、都市計画道路や公園の予定地にもかかっていない。前の道路は公道で、幅も足りている。建物を建てるための接道でも詰まらない。斜面はあるが、崖地として強い規制を受けるほど急ではなく、大がかりな造成を前提にしなくても使える。下水道はまだ来ていないが、このあたりではそれ自体が珍しい話ではなく、浄化槽で処理すれば先へ進める。要するに、あの土地を止めるような強い規制は何もなかった。必要なのは普通の確認と手続だけで、致命的な障害は1つもない。


 そこまで確かめて、尚人はようやく腹の底で納得した。自分の読みは外れていない。あの山麓の土地は、ただ広いだけの山ではなかった。買ったあとで話を作れる土地であり、買い手にいくつもの用途を見せられる土地だった。


 尚人には、自分で開発する気はない。欲しいのは完成した施設ではなく、値段の跳ね上がる前の土地である。買ったあとに価値を掘り起こし、次の業者へ渡して利を抜く。


 もっとも、尚人が2026年から1986年へ来たのは、土地売買のためではない。地縛霊となった鳴海を救うためだ。ただ、1986年という時代に身を置いた以上、土地の値段が動き始める空気も見えてしまう。


 この時代なら、土地はまだ熱狂の頂点に達していない。だが、底のほうではもう値段の火が回り始めている。広くて、規制が重くなくて、使い道を何通りも描ける土地なら、業者の目の色が変わる時代だった。


 元々、あの土地は保育園も含めて1億円で買った。尚人から見れば、最初から安すぎる買い物だった。しかも、昔に付いた5億円という見立ても、今の空気で見た値段ではない。前の理事長の時代に出た古い査定であり、1986年よりかなり前の物差しで測った数字にすぎない。そのころは、まだ今ほど土地に未来の値段が乗っていなかった。だが1986年は違う。もう相場の見方そのものが変わり始めている。古い時代なら5億円前後と見られた土地でも、この年ならそれだけで8億円に届いて不思議はない。


 しかも尚人は、買ってから役所を回り、話を止めるような材料がないことまで確かめた。水は見込める。接道も足りる。農地でもない。保安林でもない。都市計画の予定地にもかかっていない。下水がなくても浄化槽で進められる。斜面も扱えないほどきつくはない。ここまで揃えば、値段は古い査定のままでは止まらない。


 ゴルフ場や併設のリゾート用地として見てもいい。別荘地として分けてもいい。企業の保養所や研修施設として買う業者が出てもおかしくない。レジャー施設としてまとめて押さえたい会社が現れても不思議ではない。大事なのは、用途が1つではないことだった。1つの絵しか描けない土地は弱い。だが、あの山麓の土地は違う。買った側が好きなように絵を描ける。そういう土地は、買い手が増えた時にいちばん値が競る。


 尚人は、そこまで読んでいた。山麓の土地だけでも、もう8億円では安い。話の持っていき方次第では、10億円を超えてもおかしくない。ほかの年代なら、そこまで一気に跳ねるとは言いにくい。だが1986年なら別だった。地価そのものだけではない。これから先に膨らむ期待まで、値札に上乗せされる時代である。尚人の目の前には、まさにそういう空気が広がっていた。


 尚人は地図から目を上げ、窓の外の朝の光を見た。三崎の山麓は、もうただの土地ではない。古い査定の紙切れに縛られる場所でもない。時代の熱をまとわせれば、値段はまだ上へ行く。尚人はそう確信していた。


 ◇ ◇ ◇


 (1986年4月10日木曜日午後1時、三崎・保育園の事務室)


 その後、尚人は自宅と保育園を行き来しながら、何社もの業者と電話で話をした。企業の保養所や研修施設として買いたいという会社もあれば、レジャー施設として一体で押さえたいという業者もあった。宅地分譲を前面に出してくる会社は強気で、16億円を提示した。だが尚人は、金額だけで即答する気にはなれなかった。土地を買ったあと、何を建て、誰を呼び、三崎に何を残すつもりなのか。その先まで聞かなければ、売る相手は決められなかった。


 午後になって、志保が保育園の事務室へ顔を出した。机の上には電話のメモが重なり、受話器のそばには園長の丸い字で会社名と金額が並んでいる。窓の外では、園児たちの声が春の空気の中へ飛んでいた。砂のこすれる音と、小さな笑い声が、開けたままの窓から入ってくる。


 園長は老眼鏡を少し上げ、紙を指で押さえた。


 「今日は朝から電話ばかりですよ。こんなに次々とかかってくるなんて、私も思っていませんでした」


 志保は紙を覗き込み、眉を上げた。


 「16億円まであるんですね。でも、宅地分譲ですか」


 「ええ。値段だけならそこが一番です」


 園長はそう言ったが、声は明るくなかった。尚人は窓際に立ったまま、園庭のすべり台を見ていた。赤い鉄の手すりが日に光り、その下で園児が1人、しゃがみ込んで砂を掘っている。


 そこへ保育士の1人が、お茶の湯呑みを盆に乗せて入ってきた。まだ若い先生で、白いエプロンの胸元に名札が揺れている。湯気がふわりと立ち、ほうじ茶の香りが部屋の紙の匂いに混じった。


 「さっき電話してきた会社、宿泊施設を作るって言っていましたよね」


 「言っていました。でも、港とのつながりは薄いですね」


 志保が答えると、別の保育士が帳面を抱えたまま口を挟んだ。


 「それなら、泊まった人が施設の中だけで終わってしまうでしょう。三崎の町へは、あまりお金が落ちませんよね」


 尚人は、その言葉を黙って聞いた。保育士たちは相場の話をしているのではない。町に何が残るのかを見ている。その見方は、尚人にとっても大事だった。


 そのとき、事務室の電話がまた鳴った。園長が受話器を取り、少し背筋を伸ばした。相手の声は聞こえないが、園長の表情が途中で変わった。さっきまでの事務的な顔ではない。何かを聞き分けるような、慎重な顔つきになった。


 「はい。はい……ゴルフ場と併設のリゾートですか。ええ……三崎港へお客様を流す計画。はい、港の食事処や土産物店と組みたい。ええ、分かりました。金額は……13億円ですね」


 園長は受話器を置くと、しばらく黙ってメモを見た。それから尚人たちに向き直った。


 「この会社、少し話が違います。土地の上だけで商売を終わらせるつもりではないようです。港へ人を流したいと言っています」


 志保が椅子を寄せた。


 「どういう流し方ですか」


 「宿泊客や利用客を、三崎港の食事や買い物へ回すそうです。町と組んで、港まで客を動かしたいと」


 その言葉で、部屋の空気が少し変わった。帳面を持っていた保育士が顔を上げる。別の保育士も、窓の外へ向けていた目を戻した。


 「それなら、町の魚屋さんもお土産屋さんも助かりますね」


 「観光バスで来て、そのまま帰る人とは違いますね。泊まる人が増えたら、三崎の店にも寄りますよ」


 志保は尚人のほうを見た。


 「尚人さんは、どう思いますか」


 尚人は、すぐには答えなかった。電話口では、どの会社ももっともらしいことを言う。だが、言葉の重みは違う。16億円の会社は宅地として切り売りする話ばかりだった。保養所の会社は堅かったが、施設の中で客を囲い込む考えが強い。いまの13億円の会社は、土地の外まで見て話している。


 「話としては、一番筋がいい」


 尚人はゆっくり言った。


 「金額だけなら上があります。でも、町に人が流れる計画を持っているのは、この会社だけです」


 園長は頷いた。


 「私もそう思います。高く売れるに越したことはありません。でも、この土地は三崎にあるんですから、三崎のためになる使い方をする相手に渡したいです」


 そこへ、迎えの時間より少し早く来た母親が2人、事務室の前を通りかかった。志保が声をかけると、2人とも遠慮がちに中へ入ってきた。1人は買い物帰りらしく、腕に網袋を下げている。もう1人は自転車の鍵を指にぶら下げたままだった。


 志保が事情を説明すると、網袋を持った母親が真っ先に口を開いた。


 「16億円って聞くと、そちらへ行きたくなりますけどね。でも、家ばかり増えても、港の店は喜ばないでしょう。子どもたちが大きくなったとき、町が寂しくなっていたら困ります」


 もう1人の母親も、鍵を指先で回しながら続けた。


 「うちは主人が港で働いていますけど、人が町へ来てくれるかどうかで、空気が違いますよ。観光で来た人が1回でも店に寄ってくれれば、それだけで違うんです。だったら、港へお客さんを流してくれる会社のほうがいいんじゃないですか」


 保育士の年長者が、静かに言った。


 「それに、宅地分譲だと工事が終わればそれで終わりになりやすいです。でも、宿泊やレジャーなら、そのあとも人が動きます。町に顔を出す人が増えます」


 別の母親も、迎えに来て話を聞くと、すぐに同じ意見を口にした。


 「金額は大事です。でも、三崎の人間として考えたら、13億円の会社のほうが後で効いてくる気がします」


 事務室の中は、いつの間にか小さな相談の場になっていた。誰も大声は出さない。けれど、口々に出てくるのは、値段だけで終わらない話だった。園児の母親たちも、園長も、保育士たちも、土地の向こうにある町のことを考えていた。


 志保は最後に、尚人へまっすぐ視線を向けた。


 「いちばん高いところへ売れば、お金は増えます。でも、ここまで来たら、三崎に何を残すかで選んだほうがいいと思います」


 尚人は、窓の外を見た。園庭では、園児たちが並んで手を洗っている。小さな手に水が光り、先生が袖をまくってやっていた。三崎の風はまだ少し冷たい。それでも陽は明るく、港のほうから来る空気に春の湿り気があった。


 「分かりました」


 尚人は言った。


 「13億円の会社にします」


 園長が、ほっとしたように息をついた。


 「それがいいと思います」


 母親たちも、口々に「ええ、それがいいです」と言った。保育士の1人は、笑いながら肩の力を抜いた。


 「何だか、私たちまで大きな買い物をした気分です」


 尚人も少しだけ笑った。だが、その胸の中には、金額の大きさとは別の重みがあった。これは土地を売るだけの話ではない。三崎の人たちと相談し、その人たちの顔を見て決めた最初の大きな判断だった。


 その日のうちに、尚人は保育園の電話から13億円を提示した業者へ連絡を入れた。先方は返事が早く、翌日には担当者が三崎へ来ることになった。


 ◇ ◇ ◇


 (1986年4月11日金曜日午後2時、三崎・保育園の事務室)


 翌日の午後、保育園の事務室には応接机が整えられ、湯呑みが並べられた。窓の外では園児たちの遊ぶ声が続き、部屋の中には新しい茶の香りが満ちている。来たのは40代半ばの部長と、若い課長補佐だった。2人とも背広の襟を正し、地図と計画書の入った鞄を机の上に置いた。


 部長は丁寧に頭を下げた。


 「本日はありがとうございます。私どもは、ゴルフ場と併設リゾートを核にしながら、三崎港へお客様を流す計画で考えております。土地の中だけで完結させるつもりはありません。港の食事、買い物、観光と結びつけて、三崎全体に人が回る形を作りたいと思っています」


 園長はその言葉をじっと聞き、横にいる尚人を見た。志保も黙って頷いた。保育士たちは少し離れたところで立ち会い、母親たちも何人か事務室の外に集まっていた。皆が見守っているのが、尚人には分かった。


 尚人は、契約書を目の前にして最後に聞いた。


 「13億円で間違いありませんね」


 部長ははっきり答えた。


 「はい。13億円です。条件に変更はありません」


 「三崎港へ客を流すという話も、計画の中に入っていますね」


 「入っています。そこが、私どもの事業の柱の1つです」


 尚人は小さく息をつき、契約書に目を落とした。紙は厚く、指先に乾いた重みがある。窓の外で、園児が笑った。誰かが鉄棒から飛び降りたらしく、砂を蹴る音がした。


 「では、お願いします」


 尚人はそう言って署名し、印を押した。朱肉の匂いがふっと立ち、紙の上に赤い印影が残った。部長も続けて署名し、契約書は机の上で静かに重ねられた。


 園長が、深く頭を下げた。


 「これで、三崎にとって良い話になるといいですね」


 部長も頭を下げた。


 「そうなるよう努めます」


 契約が済むと、事務室の外で見ていた母親たちの顔がほころんだ。保育士たちも、声をひそめながら「よかったですね」と言い合った。志保は尚人のそばへ来て、まわりに聞こえないように声を落とした。


 「これでよかったと思います。いちばん高いところじゃなくて、三崎に人を呼べる相手を選んだんですから」


 尚人は頷いた。胸の奥には、勝ったという手応えとは少し違う熱が残っていた。1億円で押さえた土地が13億円になった。数字だけでも十分すぎる話だ。だが、今日の重みはそこだけではない。園児の母親たち、園長、保育士たちと相談し、そのうえで三崎の先を考えて決めた。そのことが、金額以上に大きかった。


 この日を境に、尚人を見る三崎の人たちの目は少し変わることになる。まだ大げさに持ち上げられるわけではない。それでも、土地を動かして金を作るだけの男ではなく、町の先を見て決める男だという見方が、静かに根を張り始めた。三崎港の名士として認められる、その最初の一歩は、保育園の小さな事務室で、園児たちの笑い声を聞きながら踏み出された。


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脚注

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 尚人は、まず自分の普通預金から1億円を出して、三崎保育園と山麓の土地を押さえた。追浜の杉山社長の借金1億円については、自分の会社から短期で資金を借り入れて返済し、ひとまず急場をしのいだ。その後、山麓の土地を手取り13億円で売却すると、借りていた1億円はただちに会社へ返した。それでも尚人の手元の普通預金には12億円が残った。そのうえ、保育園の土地建物と社会福祉法人三崎保育園理事長の地位を保ち、杉山工業も早乙女工業として引き継ぎ、自ら会長兼オーナーに収まった。さらに、杉山社長の屋敷の土地建物の権利も、尚人の側へ移っていた。

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この回では、尚人の目利きと、尚人を取り巻く三崎の人たちの生活感とが、ひとつの決断へまとまっていく。土地は値段だけで動くように見えて、実際には誰に渡すかで、その先の町の姿まで変わってしまう。尚人は13億円という数字を取ったのではなく、13億円の先にある三崎の流れを選んだ。だからこの契約は、転売の成功であると同時に、尚人が三崎の中へ足を踏み入れた出来事でもある。

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