第19話(前編)―「園長室から追浜へ」
尚人は三崎保育園で新理事長として職員に挨拶するが、その最中に追浜から凶報が入る。杉山工業の社長が地面師に追い詰められ、首を吊ったのである。保育園の朝の明るさを背に、尚人は一転して追浜へ向かう。
(1986年4月9日水曜日午前9時30分、三崎港・三崎保育園)
尚人と志保は、園の玄関先で別れた。尚人は菓子折りの入った紙袋を提げたまま、職員室へ向かった。廊下には朝の陽が細長く差し込み、磨かれた床板の節が白く浮いていた。どこかの部屋で手を叩く音がし、それに遅れて子どもたちの歌う声がばらばらに重なる。石鹸と牛乳と、まだ新しい絵の具の匂いが混じった、いかにも保育園らしい匂いだった。
職員室の戸を開けると、空気が少しだけ変わった。園庭の土の匂いより、こちらは紙と鉛筆と茶の匂いが強い。壁際の棚には出席簿や連絡帳が揃い、窓辺には昨日の雨で濡れたらしい小さな長靴が何足か並んでいた。年の若い保育士たちは、尚人が入ってきた瞬間、いっせいに顔を上げた。白いエプロンの紐を結び直す者、湯呑みを持ったまま目を丸くする者、何か書いていた鉛筆を止める者。ざわ、と、目に見えない薄い波が部屋の中を走った。
園長は、すぐに立ち上がった。50代の小柄な女で、丸い眼鏡の奥の目がよく笑う。頬の線は柔らかく、声は明るいが、背筋の通し方には長く現場を預かってきた人間の芯があった。尚人はその場で、この人なら職員にも受けるし、保護者にも子どもにも安心感を与えるだろうと思った。顔のよさだけで人をまとめることはできないが、この女には、朝の空気を崩さずに全員の動きを揃える力があった。
「改めまして、早乙女尚人です」
尚人は紙袋を机の上へ置いた。包み紙が乾いた音を立てる。中から出した箱菓子とケーキの箱は、白い机の上で妙にきちんとして見えた。
「今日から理事長を務めます。ただ、普段は早乙女不動産㈱と早乙女土地売買㈱のほうの仕事がありますので、こちらへ顔を出せるのは時々になります。現場のことは皆さんにお任せする形になりますが、どうぞよろしくお願いします」
それだけ言うと、尚人は職員1人1人に手土産を渡した。箱を受け取るたび、包装紙が指にこすれる音がした。若い保育士の1人は、ありがとうごさいます、と言ってから、口元を押さえて少し笑った。別の1人は、こんな若い理事長さん、初めてです、と、言いかけてからあわてて背筋を伸ばした。ケーキの箱からは、バターと砂糖の匂いがほんのり立っていた。
園長は、箱を受け取りながらにこやかに言った。
「こういう所は、どうしても女ばかりでしょう。若くて立派な男の方が毎日うろうろすると、職員同士で妙な競争になったりするんです。ですから、時々いらっしゃるくらいが、ちょうどいいんですよ」
声は笑っていた。だが、目の奥は半分本気だった。尚人は一瞬だけ、そんなものか、と思っただけで、深くは受けなかった。保育園という場所には保育園なりの空気がある。現場を預かる女がそう言うのなら、そういう面もあるのだろうと考えただけである。
「そういうものですか」
「ええ。子ども相手の仕事は、ただでさえ感情が動きやすいんです。そこへ、目立つ若い男の人が入ると、余計にね」
園長はそう言って、小さく肩をすくめた。周りの保育士たちは、聞こえていないふりをしながら、耳だけはこちらへ向いている。1人が耐えきれずに吹き出し、もう1人がその肘を小さくつついた。職員室の空気は和んでいた。茶の湯気が立ち、窓の外では子どもが走る靴音が細かく弾んでいる。尚人も、少しだけ口元を緩めた。
その時だった。
机の端に置かれていた電話が、不意に鋭く鳴った。
乾いたベルの音が、さっきまでの和やかな空気を切り裂いた。1度、2度、3度と鳴るたび、職員室の空気が薄く張る。園長が「どうぞ」と目で促したので、尚人は受話器を取った。受話器の樹脂はぬるく、耳に当てると向こうの息がすぐに分かった。
「もしもし、早乙女です」
返ってきたのは、女の泣き声だった。言葉にならない吸い込みと、鼻に詰まった息の音が先に来た。尚人の背筋が、その場で固くなった。
「杉山です……杉山です、あの、追浜の……」
杉山工業の奥さんだった。
「落ち着いて下さい。どうしました」
受話器の向こうで、何かが倒れるような音がした。畳か、座布団か、あるいは女が膝をついた音だったのかもしれない。泣きながら話す声は何度も途切れ、聞き取れない。尚人は受話器を握り直し、窓の外ではなく、白い壁だけを見ていた。
「主人が……主人が……首を……」
そのひと言で、部屋の温度が変わった気がした。尚人の指先が冷たくなる。
「警察は」
「もう……来てます……でも、でも……」
女の泣き声の奥で、男たちの低い声が遠く交わっていた。戸の開け閉めの音もする。杉山工業の社長、杉山は、地面師に騙されて1億円の借金を背負わされたのだと、奥さんは息を詰まらせながら言った。追浜の工場も家屋敷も売ろうとしたが、急には金にならなかった。返済の期限だけが先に迫り、昨夜から様子がおかしかった。そして今朝、首を吊った。
尚人は無言で聞いた。受話器の向こうの泣き声は湿っていて、生々しかった。職員室の中では誰も声を立てない。保育士たちも、何かただならぬことが起きたと察したらしく、立ったままの姿勢でこちらを見ていた。ケーキの甘い匂いが、急に場違いなものに感じられた。
「分かりました。すぐ行きます」
尚人がそう言うと、奥さんは何度も、お願いします、お願いします、と繰り返した。受話器を置いた時、机に当たる音が、さっきよりずっと重く響いた。
園長が顔色を変えて尋ねた。
「何かあったんですか」
尚人は短く答えた。
「知り合いの工場の社長が亡くなりました。追浜まで行かないといけません」
さっきまでの和やかな空気は、もうなかった。職員室の中には、茶の匂いと紙の匂いの上に、受話器に残った他人の不幸の湿り気が薄く乗ったようだった。園長はそれ以上は聞かず、ただ頷いた。
「こちらは大丈夫です。どうぞ」
尚人は一礼し、すぐに戸口へ向かった。だが、廊下へ出る寸前で足を止めた。山麓の土地のことが頭をよぎったのである。あの土地の値打ちは、水で決まる。今忘れれば、また半日、1日とずれる。
尚人は職員室脇の電話を借り、番号を回した。水道屋の事務所は、昼前のざわめきがすでに始まっているらしく、向こうで男たちの話し声と工具の触れ合う音がした。
「早乙女です。三崎保育園の理事長になった者です」
「はい」
「園の法人が持っている山麓の土地ですが、試し掘りをお願いします。井戸です。きれいな水がどれだけ出るか、すぐ見たい」
「場所は」
尚人は番地と目印を伝えた。
「費用は構いません。今日か、遅くとも明日には段取りを付けて下さい」
向こうの男は少し驚いた声を出したが、尚人の言い方に押されたのか、分かりました、と答えた。受話器を置くと、今度はもう迷いがなかった。
外へ出ると、春の陽が思ったより強かった。園庭では、ついさっきまでと同じように子どもたちが笑っていた。砂場の砂は乾いて明るく、鉄棒は陽に温められて鈍く光っている。その向こうで、海から来る風だけが少し冷たかった。尚人はその明るさの中を早足で抜けた。保育園の石鹸と牛乳の匂いが背中に残り、門を出るとすぐに港町の潮と魚と排気の匂いが鼻へ戻ってきた。
バイクのところまで走る。靴底が砂を噛み、小石が跳ねた。ヘルメットをつかむ手に力が入る。顎紐を締めると、布が喉に食い込んだ。セルを回す。エンジンが一度低くうなり、それから腹の底へ響く振動に変わった。目の前の景色が少しだけ震える。
三崎から追浜へ向かう道は、陽の匂いがした。海沿いの湿り気と、昼へ向かうアスファルトの乾いた熱が交互に頬へ当たる。信号待ちでは、隣のトラックから軽油の重い匂いが流れ、少し走れば、今度は海の塩気がヘルメットの隙間から入る。尚人は急いだ。風が耳の脇で鳴り続ける。港町の明るさも、園長の笑顔も、箱菓子の甘い匂いも、今はもう後ろへ流れていた。
追浜のほうへ近づくにつれて、空気は海の匂いよりも油と鉄の匂いを強くした。工場地帯の空は少し白く霞み、遠くで金属を打つ音が、風に乗ってかすかに響いていた。尚人はアクセルを少し開けた。胸の内には、首を吊った杉山の姿はまだ具体的に浮かばない。だが、奥さんの泣き声だけは、受話器のぬるい感触と一緒に耳の奥へ残り続けていた。
前編では、保育園の明るい朝が、1本の電話で一気に反転した。尚人は新理事長として穏やかに受け入れられながらも、追浜から届いた死の報せで、すぐ別の現場へ引きずり出される。園の甘い匂いと、受話器の向こうの湿った泣き声の落差が、この回の芯になっている。




