第18話――「朝の味噌汁、山の値打ち」
(1986年4月10日木曜日午前5時、三崎港・共同住宅)
新一はいつものように午前4時半に起きた。まだ夜の暗さが部屋の隅に残っている。台所では志保がすでに火を使っており、味噌汁の鍋蓋が鳴り、焼き網の上では鯵が脂を落としていた。炊きたての飯から白い湯気が上がり、海苔の匂いと混じって狭い台所に広がっている。
表からは港へ向かう人の足音と、遠くの船の機関音が聞こえた。三崎港の朝は、空が明るくなる前から始まっている。
新一は飯を食い、味噌汁をすすり、最後に熱い茶を飲んだ。志保が包んだ弁当を受け取り、長靴に足を入れる。
「じゃあ、行ってくる」
「気をつけて」
新一は午前5時には魚河岸へ向かった。午前6時半ごろには朝の魚を仕入れて戻り、志保が店頭へ並べる分と食堂で出す分を分ける。それが片岡家の毎朝の仕事である。
だが、志保の気持ちは昨日までと同じではなかった。
原因は早乙女尚人である。
初めて見た時は、若くて格好のいい男だと思っただけだった。自分より3歳若く、背が高くて身体つきもいい。それだけなら、店へ来た客の1人として終わっていた。
ところが、その男が共同住宅の大家だった。しかも流しの排水、窓の建て付け、風呂場の戸、ベッドのがたつきまで、頼めば自分で直してしまった。
さらに昨夜は、美和の通う保育園がなくなるかもしれないと聞くと、その日のうちに理事長の桑原義明に会いに行った。
尚人はそこで1億円を出し、保育園の土地と建物に加え、社会福祉法人が所有していた山麓の広い土地までまとめて買い取った。名義変更などの事務は残っているが、売買は決まり、桑原も経営から退くことになった。園長以下の職員はそのまま残り、園児も引き続き通える。
保育園を残しながら、土地と建物は尚人の資産になる。
志保が毎日の仕入れや食堂の売上を数百円、数千円単位で考えている横で、尚人は1億円という金を動かした。それなのに、魚屋の食堂で800円の定食をうまそうに食い、自分で床へしゃがみ込んで排水管まで直す。
志保には、その取り合わせが妙に気になった。
その朝、志保は尚人の朝食まで用意した。
鯵の開き、玉子焼き、味噌汁、炊きたての飯。盆へ載せると、味噌汁から上がる湯気が頬に当たった。
自分でも少し世話を焼きすぎだと思ったが、そのまま尚人の部屋へ向かった。
「尚人さん。朝食ができました。持ってきましたよ」
返事はなかった。
志保は盆を持ち直した。
「尚人さん。朝ですよ」
やはり返事がない。
部屋の鍵は管理用として3本あり、そのうち2本は昨日、尚人へ渡していた。残る1本は志保が預かっている。
志保は少し迷ったあと、鍵を差し込んだ。
扉を開けると、室内には朝の薄い光しか入っていなかった。カーテンの隙間から白っぽい光が差し、昨日削った木の匂いと乾いたシーツの匂いが残っている。
尚人は掛け布団を半分蹴飛ばしたまま眠っていた。広い肩が布団から出ており、寝息は深い。
志保は盆を机へ置いた。
「尚人さん。起きてください。ご飯が冷めますよ」
ベッドへ近づき、もう一度声を掛けようとした時だった。
尚人が突然腕を伸ばし、志保の腰を抱き寄せた。
「きゃっ」
志保の身体はそのままベッドへ引き込まれた。掛け布団の中には尚人の体温がこもっており、朝の冷えた空気とはまるで違った。
尚人はまだ目を覚ましていなかった。志保を抱いたまま、寝言のように口にした。
「順子……こんな早くから……」
志保はその名前を聞いた。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
だが、尚人から離れようとはしなかった。
味噌汁の匂い、乾いたシーツ、寝起きの男の体温が狭い部屋に混じっていた。そのまま2人は布団の中でもつれ合った。
部屋の外では港の朝が動き続けている。木箱がぶつかる音が遠くで鳴り、船の機関音も聞こえた。
やがて一通りのことが終わり、尚人はようやく目を覚ました。
最初に見えたのは、すぐ目の前にいる女の顔だった。
順子ではない。
志保だった。
髪が乱れ、頬が赤くなっている。だが、怒っても泣いてもいない。むしろ満足したような顔で、帯と裾を直していた。
尚人は数秒、何も言えなかった。
「……え」
ようやく出たのは、それだけだった。
志保は尚人を見て笑った。
「起きないんですもの」
尚人はまだ状況を飲み込めていなかった。
「でも、起きましたでしょう」
机の上では、朝食の味噌汁からまだ湯気が上がっている。焼いた鯵の匂いも残っていた。
尚人は額へ手を当てた。
寝ぼけて順子と間違えた。その事実だけは、どう考えても動かしようがない。
志保は身支度を整えながら、尚人の顔を見た。
「順子さんって、誰なんですか」
尚人はすぐには答えなかった。
やがて口を開いた。
「別れた彼女だ」
志保の目が少し大きくなった。
「そうですか」
それから尚人の顔を確かめるように見た。
「じゃあ、今はもう違うんですね」
尚人は返事に詰まった。
志保はそれ以上追及せず、机の盆を指した。
「朝ご飯、冷めますよ」
あまりに普段通りの言い方だったので、尚人はかえって何も言えなくなった。
志保は襟元と帯を整え、戸口へ向かった。
「じゃあ、先に店へ戻りますね」
尚人は布団の上に座ったまま志保を見ていた。
志保はその顔を見て笑い、部屋を出た。
階段を下りる足音が遠ざかってから、尚人はようやく朝食へ手を伸ばした。
味噌汁を一口すすった。まだ温かかった。
窓の外では、三崎港の朝がすでに始まっている。競りの声が遠くから聞こえ、潮の匂いが窓の隙間から入ってきた。
尚人は味噌汁の椀を持ったまま、しばらく考え込んだ。
朝から、とんでもないことになった。
◇ ◇ ◇
(1986年4月10日木曜日午前8時20分、三崎港・片岡新一宅前)
3時間ほどたつころには、港の空もすっかり明るくなっていた。
魚屋の前には発泡スチロールの箱が積まれ、流した水が路面を細く流れている。潮の匂いに魚と氷の匂いが混じり、店先には仕入れたばかりの魚が並んでいた。
尚人が階段を下りると、志保はすでに美和を連れて待っていた。
割烹着の上に薄い羽織を着て、片手で美和の手を握り、もう片方には布の手提げを持っている。
「じゃあ、行きましょうか」
志保は何事もなかったように尚人の袖を引いた。
尚人は周囲を見た。
「行くのはいいですが、その……少し離れて歩きませんか」
「どうしてですか」
志保は尚人を見上げた。
「朝からあんなことがあったんですよ」
「ええ」
「ええ、じゃありませんよ」
志保は笑った。
「でも、もうあったことですもの」
そう言って、尚人の襟を指先で直した。
尚人はまた周囲を見た。近くでは八百屋の年配の女が野菜箱を並べているだけで、こちらを気にする様子はない。
美和は2人のやり取りなど気にもせず、道端の猫を見ていた。
3人は保育園へ向かう途中、小さな商店街へ寄った。
朝の商店街では、まだ店を開け始めたばかりのところも多い。乾物屋から昆布と鰹節の匂いが漂い、パン屋からは焼きたてのパンの匂いが流れてきた。
尚人は洋菓子店の前で足を止めた。
ガラスケースには苺のショートケーキ、シュークリーム、マドレーヌなどが並んでいる。
「先生方に何か持っていきましょう。昨日は急に話が決まりましたから」
志保も店内を見た。
「子どもたちにも分けられるものがあるといいですね」
尚人は園長や保育士への手土産として箱入りの菓子を2箱、園児たちには動物の形をした焼き菓子の詰め合わせを買った。
店を出ると、志保は当然のように箱の1つを受け取った。
「私が持ちます」
「ありがとうございます」
並んで歩いていると、志保が尚人の横顔を見た。
「似合いますよ」
「何がです」
「こうして一緒にお菓子を持って歩いていると、恋人みたいです」
尚人は返事をしなかった。
美和が先へ行こうと手を引いたため、そのまま歩き続ける。志保の口元には笑いが残っていた。
保育園に着いたのは午前8時35分ごろだった。
園門の前には母親たちの自転車が並び、門の内側から子どもたちの声が聞こえてくる。泣いている子もいれば、すでに園庭で遊んでいる子もいる。玄関からは、子どもの靴が床を鳴らす音や保育士の声が次々に聞こえた。
志保は尚人と並んで玄関へ入った。
「おはようございます」
出迎えた保育士へ志保が挨拶した。
「今日は新しい理事長さんと一緒なんです」
保育士は驚いて尚人を見た。
そこへ園長が廊下の奥から出てきた。
50代半ばほどの小柄な女で、眼鏡をかけ、髪を後ろでまとめている。紺色のカーディガンを着ており、目の下には少し疲れが残っていた。
志保は園長へ美和を預けると、尚人を示した。
「こちらが早乙女さんです。昨夜、園を買い取ってくださった方です」
園長の表情が変わった。
尚人は菓子折りを差し出した。
「早乙女尚人です。昨夜、桑原さんから保育園の土地と建物、それから法人が持っていた山麓の土地を1億円で買い取りました。名義変更などの手続きはこれからですが、売買は決まっています。桑原さんは退き、私が新しい理事長になります」
園長は尚人を見たまま、しばらく言葉が出なかった。
「園は、このまま続けるんですか」
「続けます。園長先生にも保育士の皆さんにも、これまでどおり働いてもらうつもりです。園児を移す必要もありません」
園長は菓子折りを受け取った。
「ありがとうございます。本当に……ありがとうございます」
「私も1億円出していますから、園を潰したら困りますよ」
尚人が笑うと、園長もようやく表情を緩めた。
「それは、そうですね」
「園の運営についてはあとで詳しく聞かせてください。その前に、買い取った山の土地を見てきます。昨夜は書類でしか確認していませんから」
「分かりました。9時半ごろでしたら少し落ち着きます」
「では、そのころ戻ります」
志保は美和の頭を撫でた。
「お昼まで、いい子にしてるのよ」
美和はすでに園の中へ気持ちが移っていた。園長のそばへ走っていき、そのまま奥へ消えていった。
志保はその背中を見送り、顔をほころばせた。
昨日まで、なくなるかもしれなかった保育園である。それが今朝もいつもと同じように開き、美和はいつもの先生のところへ走っていった。
◇ ◇ ◇
保育園から山麓の土地までは、歩いてもそれほど遠くなかった。
港を背にして坂を上がっていくと、潮の匂いは次第に薄れた。道の両側には古い家や畑、小さな林が入り混じっている。乾いた土と草の匂いが強くなり、鳥の声も聞こえた。
いくつか坂を曲がったところで、尚人が足を止めた。
「ここか」
昨夜、保育園の土地建物とともに取得した山麓地である。
書類では面積を確認していたが、実際に立ってみると想像以上に広かった。
低い木立の向こうに緩やかな起伏を持つ草地が広がり、ところどころに背の低い松が立っている。古い畑の跡らしい段も残り、土地はさらに奥まで続いていた。朝日を受けた草の先には露が残り、風が吹くたびに一面がざわついた。
志保も辺りを見回した。
「こんなに広かったんですね」
尚人は返事をせず、土地を見渡した。
保育園を残せたことはよかった。それとは別に、尚人は買い取った山麓地そのものの値打ちを見極めようとしていた。ここをどう使うかで、今回の買い物が安かったか高かったかが決まる。
頭の中では、すでに土地の使い方がいくつも浮かんでいた。どこへ道を通し、どのあたりを区画し、建物を置ける平場をどこに取るか。斜面をどこまで残せば眺めを生かせるかも考える。
この広さなら、ゴルフ場のような大きな施設も考えられる。全部を一度に使わなくても、海を望める場所を区画して別荘地として売る方法もある。港から近い一方で、少し高いところまで上がれば騒がしさも弱くなる。
尚人はさらに上へ歩いた。
木立の切れ目まで来ると、向こうに海が見えた。
朝の光を受けた海が白く輝き、その手前には三崎港の屋根が並んでいる。
「化けるな」
尚人が言った。
志保は横から顔を見た。
「そんなにいい土地なんですか」
「ええ。1億円出した意味は十分ありそうです」
尚人は眼下の土地を指した。
「保育園の土地と建物も手に入りました。そのうえ、この広さです。使い方を間違えなければ、山の土地だけでもかなり値打ちが出るでしょう」
「保育園を助けるためだけに買ったわけじゃなかったんですね」
志保が言うと、尚人は当然のように答えた。
「商売ですから。園は残します。でも、1億円を出す以上、土地の価値もきちんと見ます」
志保は尚人を見て笑った。
「そう言われると、早乙女さんらしいですね」
尚人はしゃがみ込み、地面の土を指でつまんだ。表面は乾いているが、少し下には湿り気が残っている。草の生え方も悪くない。
「道をきちんと入れて区画すれば、かなり見栄えがします」
「別荘でも建てるんですか」
「それも候補です。ゴルフ場でもいい。ただ、何をやるにしても先に調べることがあります」
尚人は立ち上がった。
「水です」
「水?」
「これだけ広くても、水がなければ使いにくいでしょう。上水道がどこまで来ているかを確認します。足りなければ井戸も考えます」
志保は土地の奥を見た。
「井戸を掘るんですか」
「必要なら試しに掘ります。十分な水が出るなら、この土地の使い道は一気に増えます」
尚人は斜面の低い方へ目を向けた。
地形だけを見て水の位置を決めるつもりはない。周囲の井戸や水道管の位置、土地の高低を調べ、その結果を見て業者へ頼めばよい。
「まず図面を確認します。水道がどこまで来ているかも調べる。そのうえで井戸屋にも相談します」
志保は笑った。
「昨日は大家さんで、夜には保育園を買って、今朝は山の値段を考えてるんですね。本当に忙しい人」
「1億円払った翌朝ですからね。買ったものくらい自分の目で見ておかないと」
志保は声を立てて笑った。
坂の下から、保育園の子どもたちの声が風に乗って聞こえてきた。
尚人はもう一度、広い山麓地を見渡した。
保育園の運営は続ける。その一方で、この土地にも利益を生ませる。昨夜の1億円を、ただ消えていく金ではなく、さらに価値を生む資産に変えるつもりだった。
「戻りましょう。今度は保育園の仕事です」
志保は頷いた。
2人は並んで坂を下り始めた。
三崎港では魚屋も保育園も、すでに1日の仕事を始めている。
尚人もまた、昨日1億円で手に入れたものを、今日から働かせるつもりだった。




