第19話(後編)――「一億円の受領証と白い提灯」
追浜へ着いた尚人を待っていたのは、泣き崩れる杉山の妻と、線香の匂いに沈んだ家だった。事情を聞いても要領を得ないなか、尚人は借金の火を止めるために動く。地面師に追い詰められた男の死は、通夜の席でさらに重く尚人の胸へ残ることになる。
(1986年4月9日水曜日午前11時10分、追浜・杉山邸)
尚人が杉山邸に着いた時、家の前にはもう見慣れない靴が何足も並んでいた。黒い革靴、くたびれたゴム底の短靴、警官らしい固い靴。玄関の戸は半ば開け放たれ、中からは線香とも汗ともつかない重い匂いが流れてくる。春の陽は外では明るいのに、家の中だけが別の天気のように沈んでいた。
バイクのエンジンを切ると、さっきまで耳の内側を満たしていた振動がすっと消えた。その代わり、家の奥から女の泣く声が細く、途切れ途切れに聞こえた。尚人はヘルメットを脱ぎ、脇に抱えた。手のひらに残るのはハンドルの振動ではなく、硬い樹脂の冷たさだった。
玄関へ入ると、畳の匂いがむっと立った。古い家独特の、少し湿った木と、障子紙の乾いた匂いも混じっている。廊下の先では、襖が半分開き、その向こうに人影がいくつも重なっていた。低い声で何か話す男たちの声、鼻をすする音、湯呑みを置く小さな音。どれも抑えてはいるが、家の中の空気そのものがもう普段とは違っていた。
奥の座敷に通されると、杉山の妻が座布団の上に膝を崩していた。髪は乱れ、目の周りは赤く腫れ、白い割烹着の胸元には涙の染みが幾筋も残っている。尚人の顔を見ると、女は何かにすがるように両手を畳へついた。
「早乙女さん……」
声は出たが、その先が続かない。喉が潰れたように息だけが漏れる。尚人は座敷の縁へ腰を下ろし、できるだけ静かな声で言った。
「奥さん、無理に一度で話さなくていい。分かるところだけでいいです。何があったのか、順に聞かせて下さい」
だが、奥さんは首を振るばかりだった。唇が震え、鼻をすすり、何度か口を開けるが、そのたびに嗚咽に変わる。
「主人が……朝……私、起きたら……」
「ええ」
「もう……もう……」
そこから先は泣き崩れるだけで、言葉の形にならなかった。傍らの親類らしい女が背中をさすっている。別の男が「お茶を」と小声で言い、湯呑みの音がした。だが、何を持ってきても、奥さんの手は湯呑みに届かなかった。
尚人は黙って座っていた。泣く女を急かしても、要領のいい話になるはずがない。しかも、様子を見る限り、奥さん自身も詳しい中身までは知らないのだろうと分かった。知っているのは、主人がここ数日ひどく追い詰められていたこと、工場も家も売る話をしていたこと、そして今朝、とうとう首を吊ったこと。その断片だけである。
部屋の隅には、脱ぎ散らした上着と、開きかけた革鞄が置かれていた。鞄の口からは封筒の角が少し見えている。机の上には、煙草の吸い殻が山になった灰皿と、冷めた茶が半分残った湯呑みがあった。昨夜、眠れなかったのだろう。吸い殻の紙は途中から強く噛んだように潰れていた。
尚人は奥さんにいくつか短く尋ねた。
「借入先は分かりますか」
「……会社、みたいな……」
「名前は」
「分からないんです……主人が、私には……」
案の定だった。奥さんは事情をほとんど知らない。借金の話も、土地の話も、まともには聞かされていなかったのだろう。夫婦でも、男は商売の火傷を家へ全部は持ち込まない。まして、こういう見栄の絡む話ならなおさらである。
尚人は部屋を見回した。親類や近所の人間が何人かいる。警察ももう一通り見たあとなのだろう、家の中には、事件というより後始末の湿った疲れが残っていた。ここで泣いている女の背中を見ていても、金の問題は1円も減らない。借金の返済の方が先決だった。
「奥さん」
尚人は少し声を強めた。
「主人の机や鞄の中で、今日中に金を払えと言ってきた相手の名刺か紙、何かありませんか」
奥さんは涙で濡れた顔のまま、親類の男を見た。その男が鞄を持ってきて、尚人の前へ置いた。革は手垢で鈍く光り、留め金には細かな傷が入っている。中を開けると、紙とインクと、男の整髪料の残り香が混ざった匂いが立った。
封筒、手形控え、メモ帳、司法書士の名刺、消費者金融ではないが、いかにも表向きだけ整えた貸金業者らしい名刺。尚人は指先で紙をめくった。紙は汗を吸ったのか少し湿っている。急いで握った跡が角に残っていた。
1枚のメモに、今日の午後1時、金を持参、と走り書きがあった。場所は横須賀中央に近い雑居ビルの一室。債権者は「東洋総業企画 倉持」とある。名刺の電話番号は、見た目だけはもっともらしい。だが紙質は安く、印字の癖も妙だった。
尚人はそれだけ抜き取り、立ち上がった。
「奥さん。今からその相手に会ってきます」
奥さんは涙で濡れた顔を上げた。
「そんな……でも、お金なんて……」
「話はあとです」
尚人は低く言った。
「今は、杉山さんの借金を止めるほうが先です。ここで差し押さえだの何だのが動き出したら、工場も家も、もっと面倒になります」
奥さんは何か言おうとしたが、結局、両手で口元を押さえて泣くだけだった。尚人はそれ以上なだめなかった。畳の上に残る涙の染み、座卓の上の冷めた茶、線香の細い煙。そういうものを背中で受けながら、家を出た。
表へ出ると、昼前の光がひどく白かった。さっきまで家の中で吸っていた湿った空気に比べると、外の風は妙に乾いていた。だが、鼻の奥にはまだ仏間の線香の匂いが残っている。尚人はバイクへまたがった。セルを回すと、エンジンが短く咳をし、それから低くうなった。振動が腿へ返ってくると、身体だけが先に現実へ戻る。
◇ ◇ ◇
杉山邸を出た尚人は、追浜から横須賀中央の取引銀行へ回った。電話1本で支店長を呼び出し、支店長室で自己資金1億円を現金で用意させたのである。封緘の紙が巻かれた札束は、硬いアタッシェケースに詰めるとずしりと重かった。さすがにこの重さを積んだまま裏通りへバイクで乗りつける気にはなれず、尚人は銀行の前で流しのタクシーを止め、膝の上にケースを抱えたまま、債権者の待つ雑居ビルへ向かった。
債権者の指定した雑居ビルは、昼の横須賀中央の裏通りにあった。表通りの明るさから一本入るだけで、空気の色が変わる。飲み屋の裏口から流れてくる油の古い匂い、湿ったコンクリート、排水の臭い。ビルの階段は狭く、踏むたびに薄い埃が靴の裏で鳴った。上の階からはラジオの音がかすかに漏れ、途中の踊り場には吸い殻が2本転がっていた。
3階のドアには、すりガラスの向こうに「東洋総業企画」と黒い文字が貼ってある。だが、文字の端が少し剥がれ、いかにも急ごしらえの事務所だった。尚人はノックもそこそこに扉を開けた。
中には、脂ぎった空気が溜まっていた。安煙草、古い事務机、インスタントコーヒーの焦げた匂い。窓は開いておらず、部屋の隅では扇風機が首を振っているが、風は紙を少し動かすだけだった。男が2人いた。1人は40代半ば、背広の腹だけが出ている。もう1人は痩せて、唇の端に薄い笑いを貼り付けている。
「杉山さんの代理で来ました」と尚人は言った。
「倉持さんですか」
腹の出た男が椅子にもたれたまま顎を上げた。
「そうだけど。あんた誰」
「早乙女尚人」
名前だけを言った。余計な肩書は付けない。そのほうが相手は探る。
痩せた男が名刺を見せろという顔をしたが、尚人は先に机の上へメモを置いた。
「今日の午後1時に1億円を持参、と書いてある。杉山さんは今朝亡くなりました。話は私が引き受けます」
その瞬間、2人の顔つきがほんの少し変わった。驚いたというより、面倒が増えたという顔だった。尚人はその変化を見逃さなかった。
「亡くなった?」
「ええ」
「でも借りた金は借りた金だよ」
腹の出た男はそう言って、指先で机を2度叩いた。乾いた爪の音がした。
「もちろんです」
尚人は答えた。
「だから払いに来た」
部屋の空気が、一瞬だけ止まった。
尚人は鞄を開けた。中に詰めた札束の紙の匂いが立つ。銀行から出したばかりの札は、まだ少し固い。帯の紙も新しい。机の上へ積んでいくと、鈍い重みが木の板に伝わり、扇風機の風で帯の端がわずかに震えた。
男たちの目がそこで初めて本気になった。痩せた男は唇の端の笑いを消し、腹の出た男は椅子から半分身を起こした。金は、人の顔から余計な芝居を剥ぐ。
「1億円、あります」
尚人は言った。
「その代わり、これで杉山さん個人と杉山工業に対する本件債務は完済。以後、一切の請求はしない。受領証を書いてもらう」
痩せた男が何か言いかけたが、尚人は先に視線をぶつけた。温度のない目で見返されると、相手は一度だけ喉を鳴らした。
「……利息分が」
「今日ここで全部終わらせる金です」
尚人は遮った。
「揉めたいなら、警察と弁護士を入れてもいい」
その言葉に、男たちは黙った。彼らにしてみれば、杉山を揺すり続けて工場や家屋敷に食い込む道もあったのだろう。だが、1億円の現金が目の前に積まれている。しかも、変に騒げば、自分たちの貸し方まで探られる。腹の出た男は舌打ちを飲み込み、奥の金庫から領収証用紙を出した。
ボールペンが紙の上を走る音がした。ざらついた紙に、黒いインクが少し滲む。尚人は1行1行を目で追った。債務名義、受領金額、以後異議なく、といった文字が並ぶ。印鑑は朱肉が乾きかけていて、押すたびに薄い鉄の匂いが立った。
「これでいいですね」
腹の出た男が紙を差し出した。
尚人は黙って確認し、受領証を折って内ポケットへ入れた。札束を受け取った男たちは、数えながらも、もう先ほどの余裕を失っていた。紙幣をはじく指の音だけが部屋に続く。扇風機は相変わらず首を振り、安煙草の煙は天井の近くで薄く滞っている。
尚人は椅子を引かなかった。立ったまま言った。
「杉山さんに、どういう話でこの1億円を出させたのか。そのうち改めて聞きます」
痩せた男が鼻で笑ったが、笑いは長く続かなかった。
「何のことだか」
「今はいい」
尚人はそうだけ言って、踵を返した。背中に男たちの視線が刺さる。だが、追ってくる気配はない。廊下へ出ると、さっきまでの脂と煙草の匂いが薄まり、代わりにコンクリートの冷えた匂いが肺へ入った。階段を下りるたび、靴音が乾いて響く。
外の光はさらに強くなっていた。空は白く、海風には少しだけ鉄の匂いが混じっている。尚人は一度だけ大きく息を吐いた。とりあえず、1億円は立て替えた。火の手は目先だけでも止めた。だが、杉山をここまで追い込んだ連中はまだ生きている。受領証の入った内ポケットが、胸の上で妙に重かった。
◇ ◇ ◇
(1986年4月9日水曜日午後2時20分、追浜・杉山邸)
尚人が杉山邸へ戻ると、家の中の空気は、出た時よりさらに重くなっていた。玄関にはさっきより多くの靴が並び、黒い鼻緒の草履まで混じっている。誰かが持ってきたらしい花の匂いと、仏間から流れてくる線香の匂いが、湿った畳の匂いに重なっていた。廊下の奥では、女たちが低い声で何か相談し、茶碗の触れ合う音が時おり短く鳴る。家そのものが、もう通夜の支度へ傾き始めていた。
尚人は玄関で靴を脱ぎ、内ポケットに入れた受領証を一度だけ指先で確かめた。紙はまだ少し温かく、折り目の角が胸に当たる。その感触が、ようやくさっきの1億円が現実に動いたことを知らせていた。
奥の座敷へ入ると、杉山の妻は同じ場所にいた。ただ、さっきより泣き疲れたのか、目の腫れた顔でぼんやり座っている。白い割烹着は着替えたらしく、今は地味な鼠色の着物に黒い羽織をかけていた。膝の前には使いかけのちり紙が丸く潰れていくつも積まれている。
尚人の顔を見ると、女は反射のように立ち上がりかけた。だが足に力が入らず、座布団の縁へ手をついた。
「早乙女さん……」
尚人は座敷の縁に膝をつき、低い声で言った。
「奥さん、借金はひとまず止めました」
女は一度、言葉の意味が分からないような顔をした。
「……え」
「1億円、私が立て替えました。受領証も取ってあります。杉山さん個人にも、杉山工業にも、今日の時点でこれ以上あの相手から請求は来ません」
畳の上の空気が、そのひと言で変わった。近くで湯呑みを運んでいた親類の女がぴたりと足を止め、襖の陰で話していた男たちも声を切った。
奥さんは尚人の顔を見たまま、しばらく瞬きもしなかった。やがて、ようやく言葉が追いついたのか、両手で口元を押さえた。
「そんな……そんな大金……」
「今は工場も家も差し押さえの心配をせずに済みます」
尚人は静かに続けた。
「細かいことはあとで整理します。今日はまず、杉山さんをきちんと送ることを考えて下さい」
その言い方を聞いた途端、奥さんの顔が崩れた。泣き声は、さっきまでの取り乱したものとは少し違っていた。悲しみの中へ、遅れてきた安堵が混じる。声にならない声で何度も「ありがとうございます」と繰り返し、そのたびに肩が小さく震えた。
尚人はそれ以上、慰めるようなことは言わなかった。こういう時、言葉は多いほど軽くなる。受領証だけを取り出し、親類の男へ見せた。五十過ぎの、たぶん義兄かなにかだろう、角張った顔の男は、紙を受け取ると眉を寄せて一行ずつ読んだ。眼鏡の奥の目が、途中で大きく開く。
「本当に……これで終わっている」
男は紙を持ったまま、尚人へ深く頭を下げた。
「助かりました」
「まだ助かったと決まったわけではありません」
尚人は言った。
「工場のことも、家のことも、これからです。ただ、今日の火は消えました」
その言葉で、家の中の人間がようやく息をついた。誰かが襖の向こうで、じゃあ坊さんの時間を、という話を始める。別の女が白い布を持って廊下を急いだ。通夜の支度が、そこで一気に現実の手つきへ変わっていった。
仏間にはもう枕飾りが整えられていた。白木の小さな台に香炉と燭台、花立てが置かれ、線香の煙が細く立っている。部屋の隅には、まだ湿り気の残る白菊がいくつも活けられ、水の匂いがかすかに漂った。障子を通る午後の光は白く、部屋の中の黒い喪服と喪章の色だけをはっきり浮かび上がらせている。
杉山は、白い布団の上に寝かされていた。顔にはもう苦しんだ跡は見えず、むしろ疲れ切った男がようやく眠ったようにも見えた。だが、頬の色は土のように鈍く、唇の色だけが少し沈んでいる。昨夜まで煙草を噛み潰しながら金の算段をしていた男が、今日はもう何も答えない。その静けさが、家の中でいちばん重かった。
尚人は仏間の敷居のところで一度だけ頭を下げた。線香の匂いは濃く、鼻の奥へまっすぐ入る。焼けた香の匂いの下に、まだ死の気配が薄く残っている気がした。畳は冷たく、膝をつくと布越しに硬さが伝わった。
そのあとは、通夜の支度がなし崩しに始まった。近所の女たちが台所へ入り、鍋に湯を沸かし、茶を用意し、菓子皿を拭く。台所からは、湯気と醤油の匂いが立った。玄関先では男たちが提灯や受付の机を運び、木が擦れる音が廊下に続く。誰かが電話で寺へ連絡し、誰かが親類の到着時間を口にする。悲しみの家の中に、いやでも段取りの音が増えていく。
尚人もその流れの中へ入った。花屋から届いた白菊の本数を確かめ、足りない座布団を倉庫から引っ張り出し、表に停まる車の位置を近所の男と相談する。指先には花の茎の湿り気が残り、掌には木の机を運んだ時のざらつきがついた。頭のどこかではまだ杉山の死が引っかかっているのに、身体はもう後始末のほうへ動いている。そうでもしないと、家の中は立ち行かない。
夕方が近づくにつれて、空の色は少しずつ鈍くなった。追浜の町は工場の汽笛と車の音をそのまま鳴らしているのに、杉山邸の中だけは別の時刻で進んでいるようだった。表の道を通る人間も、玄関先の白い提灯を見ると足をゆるめ、少しだけ声を落として通り過ぎていく。
午後6時を回るころ、僧侶が来た。墨染めの衣の擦れる音が静かに玄関へ入り、家の空気がまたひとつ改まる。読経が始まると、低い声が部屋の隅から隅へゆっくり広がった。木魚の音が、乾いた一定の調子で続く。ぽく、ぽく、と鳴るたび、線香の匂いが一段濃くなる気がした。通夜に集まった人々は、みな膝の上で手を重ね、うつむいている。すすり泣きはあっても、大きな声はもうなかった。
尚人は座敷の端に座っていた。喪服ではない。昼のままの地味な背広に黒いネクタイだけを急いで替えた姿である。それがかえって、今日一日がどれほど急で、どれほど乱暴に人を引きずったかを物語っていた。
読経の声を聞きながら、尚人は内ポケットの紙の感触をまた思い出していた。受領証はある。火は止めた。だが、それで杉山が戻るわけではない。地面師に騙され、1億円の借金を背負わされ、工場も家も売れず、首を吊った。自分で死んだ形にはなっていても、尚人には、あれはほとんど殺されたのと同じだと思えた。
線香の煙が、ゆるく天井へ上がっていく。白菊は水を吸って少しだけ匂いを強くしている。誰かが鼻をすすり、木魚がまた鳴った。杉山の妻は遺影の近くに座り、何度も何度も涙を拭っていた。その横顔は、昼よりも少しだけ静かだった。借金の火が止まったことが、悲しみの底にほんのわずかな足場を作ったのかもしれない。
通夜がひと区切りついたあと、焼香の列ができた。香をつまんで額へいただき、香炉へ落とす。灰の上に小さく煙が立ち、そのたびに匂いが濃くなる。尚人の指にも香の粉がついた。乾いていて軽いのに、指先へ残る匂いだけはなかなか消えない。
焼香を終えた人々が帰り始めても、尚人はしばらくその家に残った。台所では、通夜振る舞いの皿が片づけられ、流しに当たる水の音がしている。茶碗を重ねる音も、昼よりは静かだった。仏間では、遺影の前の蝋燭が細く揺れ、白い花だけが暗い中でぼんやり浮いている。
奥さんが、目を腫らしたまま尚人のところへ来て、深く頭を下げた。
「今日、来て下さらなかったら……どうなっていたか……」
尚人は首を振った。
「今日は休んで下さい。話は、明日以降でいい」
奥さんはまた泣きそうな顔になったが、今度はこらえた。もう朝のように崩れはしない。崩れてばかりもいられないところまで、今日一日が進んでしまったからだった。
家を出ると、夜の空気は冷えていた。工場のほうから流れてくる油の匂いと、家の中でまとわりついた線香の匂いが、尚人の上着に一緒に残っている。遠くで貨物列車の音が低く鳴り、追浜の夜は淡い鉄の匂いを帯びていた。
尚人はバイクにまたがる前に、一度だけ杉山邸を振り返った。白い提灯が門の脇で小さく揺れている。あの家の中では、まだ泣く女がいて、眠れぬまま座る親類がいて、線香が絶えずに燃えている。そして、自分の胸には、1億円を止めた紙と、まだ捕まっていない連中への怒りが一緒に入っている。
ヘルメットをかぶると、外の匂いが少し遠くなった。だが、線香の匂いだけはまだ鼻の奥に残っていた。
追浜へ着いた尚人を待っていたのは、泣き崩れる杉山の妻と、線香の匂いに沈んだ家だった。事情を聞いても要領を得ないなか、尚人は借金の火を止めるために動く。地面師に追い詰められた男の死は、通夜の席でさらに重く尚人の胸へ残ることになる。




