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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第三章――「逆アセンブラの女と会社設立を決めた日」

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第18話――「朝の味噌汁、山の値打ち」

1986年4月9日水曜日の早朝、志保は尚人のために朝食を用意し、まだ眠る隣室を訪れる。そこで起きた思いがけない出来事は、2人の距離を一気に変えた。朝の混乱のあとも、志保はまるで以前からの恋人であるかのように尚人を連れ、美和を保育園へ送りに行く。さらに尚人は、新しい理事長として園へ顔を出す前に、買収で手に入れた山麓の広い土地を見に向かい、その先にある商いの形まで思い描き始める。港町の暮らしの熱と、不動産屋としての計算が、同じ朝の中で絡み合っていく。

 (1986年4月9日水曜日午前5時、三崎港・共同住宅・尚人宅)


 新一はいつものように午前4時半に起きた。まだ夜の色が部屋の隅に残っている。台所では、志保がもう火を使っていた。味噌汁の鍋蓋が小さく鳴り、焼き網の上では鯵がじゅうじゅうと脂を落とす。炊きたての飯の湯気は白く、海苔の匂いと混じって、狭い台所に朝の温かさを満たしていた。表のほうからは、港へ向かう早い足音や、遠くの機関音がまだ細く聞こえる。三崎港の朝は、空が明るくなる前から始まっている。


 新一は黙々と飯を食い、味噌汁をすすり、最後に熱い茶を一口で流し込んだ。志保が包んだ弁当を脇に抱え、長靴に足を入れる。戸を開けた時、外の空気は冷たく、潮の匂いが鼻の奥へきゅっと入った。


 「じゃあ、行ってくる」


 「気をつけて」


 短いやり取りのあと、新一は午前5時には三崎港の魚河岸へと買い出しに出た。毎日同じ時刻、毎日同じ足取りである。午後6時半には、今朝捕れの新鮮な魚介類を仕入れて帰って来る。志保がそれを料理して昼食に出してお客さんに食べていただく。その毎日の繰り返しが、夫婦のささやかな楽しみでもあり、娘との幸せな暮らしであった。


 だが、その穏やかな繰り返しの中に、志保の心だけは昨日から少し違っていた。早乙女尚人との出会いが、それを変えたのである。


 初めて見た時は、ただ格好の良い男だと思った。自分より3歳も若い、背の高い、たくましい青年。顔立ちも良く、声もよく通る。だが、いくら見栄えが良くても、自分と何の関わりもない男であれば、そんな感想で終わる。終わるはずだった。ところが、その若い男が、この共同住宅全体の大家だという。志保は、大家といえば、頭の禿げた爺さんが帳面ばかり気にしているものだと、勝手に決めていた。自分の弟のような年頃の若い良い男が大家だなんて、とその時点でまず驚いた。


 それで終わりではなかった。試すような気持ちも少しあって、志保は普段困っている居室や店舗の修理を頼んでみた。こんな若い人に出来るとは思っていなかったのである。ところがどうだろう。この男は気軽に引き受けたばかりか、流しも窓も風呂場の戸も、まるで昔からそこに住んでいた人間のような手つきで、あっという間に直してしまった。木を削る音、金具を締める音、流しに水を流した時の軽い水音。そのひとつひとつが、志保の胸のどこかを妙にくすぐった。


 そして決定打になったのは、娘が通う保育園の件だった。危機に陥った保育園を、あの人は助けてしまったのである。何と、1億円の自己資金を投じて、保育園を含む社会福祉法人ごと買い取ってしまった。志保には、とても現実の話とは思えなかった。港の魚屋の女房が毎日数百円、数十円の勘定で暮らしているのに、その隣で1億円を動かしてしまう男が平然と朝飯を食う顔をしている。その落差が、志保にはくらくらするほど強かった。


 その朝、志保は尚人のぶんの朝食まで用意してしまった。鯵の開き、玉子焼き、味噌汁、炊きたての飯。盆に載せると、湯気がふわりと頬に当たる。自分でも何をしているのか少しおかしかったが、止める気にはなれなかった。


 午前5時を少し回ったころ、志保は隣の尚人が寝ている部屋に声を掛けた。


 「尚人さん。朝食が出来ました。持ってきましたよ」


 返事はない。部屋の中はしんとしている。志保は盆を片手で支え直し、もう一度言った。


 「尚人さん。朝ですよ」


 それでも返事はなかった。


 鍵は管理人から3本預かり、2本は尚人に渡したが、志保も1本持っていたのだ。昨日まではただの預かり鍵でしかなかったのに、今朝の志保の掌の中では、やけに重く感じられた。志保は少しだけ唇を噛み、それから鍵を差し込んだ。金具が小さく鳴り、扉はあっけなく開いた。


 部屋の中には、まだ朝の薄い光しか入っていなかった。カーテンの隙間から白っぽい光が細く差し、昨日直したばかりの木枠の匂いと、乾いたシーツの匂いが残っている。尚人は掛け布団を半分蹴飛ばし、広い肩を見せたままぐっすり眠っていた。寝息は深く、規則正しい。枕元の時計だけが、かち、かち、と妙に真面目な顔で時を刻んでいる。


 志保は盆を机に置いた。茶碗が小さく鳴り、味噌汁の湯気がまた立った。


 「尚人さん。起きてください。ご飯、冷めますよ」


 そう言って近寄り、もう一度声を掛けようとした時だった。尚人がいきなり腕を伸ばし、志保の腰を抱き寄せたのである。


 「きゃっ」


 志保は小さく声を上げた。次の瞬間には、身体がふわりと引かれ、あっという間にベッドの中へ引き込まれていた。掛け布団の中は思ったよりずっと暖かく、男の体温が朝の冷気とは別の熱で迫ってくる。尚人はまだ夢現のままだった。目は半分も開いておらず、ぼそりと寝言のように言った。


 「順子……こんな早くから……」


 志保はその言葉を聞いた瞬間、驚いたのか、呆れたのか、自分でも分からなくなった。だが、抵抗しようという気持ちは起きなかった。むしろ、胸の奥で何かが大きく鳴った。味噌汁の匂い、シーツの乾いた匂い、男の寝起きの熱い息。朝の部屋の空気が急に近くなり、狭くなり、志保は笑う間もなく布団の中でもつれ込んだ。


 部屋の外では、港の朝が着々と動いている。遠くで木箱のぶつかる音がし、どこかの船の機関が重くうなった。だが、その部屋の中だけは、妙に間の抜けた、そして妙に熱い別の朝になっていた。


 しばらくして、一通りの騒ぎが終わると、尚人はようやく正気へ戻ってきた。まぶたを開ける。目の前にいるのは順子ではない。魚屋の志保である。しかも、顔はつやつやしているし、髪は少し乱れているし、何より本人が妙に満ち足りた顔をしている。


 尚人は数秒黙った。


 それから、口を半分開けたまま固まった。


 「……え」


 声はそれだけだった。


 志保は頬を赤らめながら、しかし妙に落ち着いた手つきで帯を直し、裾を整え、髪を耳の後ろへ撫でつけた。まるで朝の支度の続きでもしているような顔である。机の上の朝食からは、まだ味噌汁の湯気が立っていた。焼き魚の匂いも残っている。その日常の匂いと、今しがたの騒ぎの余韻が同じ部屋に混じっているのが、尚人にはどうにも信じ難かった。


 「起きないんですもの」


 志保は小さく笑って言った。


 「でも、起きましたでしょう」


 尚人は驚き呆れていた。寝ぼけて順子と勘違いしたことも、志保を引き込んでしまったことも、どこから手を付けていいのか分からない。だが、今更どうしようもない。時間は戻らないし、目の前の志保は泣いても怒ってもいなかった。むしろ、ひどく機嫌がよさそうだった。


 志保は尚人の顔を見て、少し首を傾げた。


 「順子さんって、誰なんですか」


 その問いは、軽く言ったようでいて、耳には思いのほかはっきり残った。部屋の中には味噌汁の匂いが漂い、窓の外では港の朝の音が少しずつ太くなっている。尚人は額に手をやり、しばらく黙ったあと、低い声で答えた。


 「別れた彼女だ」


 志保は一瞬だけ目を丸くした。それから、何かを飲み込むように小さく息をついた。


 「そうですか」


 声は静かだったが、どこか納得したようでもあり、少しだけ嬉しそうでもあった。


 「じゃあ、今はもう違うんですね」


 尚人は返事に詰まった。答えようとしても、うまい言葉が出てこない。志保はそれ以上は訊かなかった。ただ、口元だけで少し笑って、盆を指さした。


 「朝ご飯、冷めますよ」


 その言い方が、あまりにもいつも通りだったので、尚人は余計に返す言葉を失った。


 その言い方が、あまりにもいつも通りだったので、尚人は余計に返す言葉を失った。


 志保はそのまま黙って身支度を整えた。襟元を直し、帯の具合を見て、足袋を履く。障子の向こうはだんだん明るくなり、港の音も太くなっていく。魚市場から戻るまでにはまだ間がある。魚屋の女房は忙しいのである。


 戸口のところで、志保は一度だけ振り返った。頬にはまだ赤みが残っていたが、目は妙に晴れやかだった。


 「じゃあ、先に店へ戻りますね」


 尚人はまだ布団の上で、何とも言えない顔のまま座っていた。


 志保はそれを見て、くすっと笑った。その笑いには、照れも、満足も、少しの勝ち誇った気配まで混じっていた。魚屋へ戻る足取りは軽い。階段を下りるたび、木の段が小さく鳴る。その音さえ、今朝は妙に弾んで聞こえた。


 部屋には、朝食の匂いと、女の残り香と、尚人の大きな溜息だけが残った。尚人はようやく味噌汁に手を伸ばし、一口すすった。まだ温かい。だが、頭の中はまるで整理がつかなかった。


 窓の外では、三崎港の朝がもうすっかり始まっていた。遠くで競りの声が上がり、潮の匂いが入り、店と暮らしが重なった港町の1日が動き出している。その隣で、尚人の朝だけが、どうにもおかしな具合に始まってしまったのであった。


 ◇ ◇ ◇


 (1986年4月9日水曜日午前8時20分、三崎港・片岡新一宅前)


 朝の騒ぎから3時間ほどたつころには、港の空はすっかり明るくなっていた。魚屋の前には濡れた発泡スチロールの箱が積まれ、流した水が路面に細い筋を作っている。潮の匂いに、鱗と氷と金気の匂いが混じって、いかにも三崎の朝らしい空気だった。


 尚人は、まだどこか落ち着かない顔で階段を下りてきた。髪は整えたし、襟元も直した。だが、胸の内までは整っていない。下へ来ると、志保はもう普段通りの顔で立っていた。割烹着の上から薄い羽織を引っかけ、片手には美和の小さな手、もう片方には布の手提げを持っている。美和は眠たげな顔をしていたが、髪だけはきちんと結ばれていた。


 「じゃあ、行きましょうか」


 志保はそう言って、何事もなかったように尚人の袖を軽く引いた。


 尚人は小さく咳払いをした。


 「行くのはいいですが、その……少し離れたほうが」


 「どうしてですか」


 志保はきょとんとした顔で見上げた。白々しいほど素直な顔である。


 「朝からあんなことがあったんですよ」


 「ええ」


 「ええ、じゃありません」


 志保はそこでくすっと笑った。


 「でも、もうあったことですもの」


 そう言って、尚人の襟を指先でちょいと直した。魚屋の前でやるには、あまりにも馴れた仕草だった。尚人は思わず周りを見たが、幸い、近くでは八百屋の婆さんが野菜箱を並べているだけで、こちらに気を払っている様子はない。美和はそんな大人の空気など気にもせず、志保の指を握ったまま、道端の猫を見ていた。


 3人は保育園へ向かう前に、港から少し入った小さな商店街へ寄った。朝の商店街はまだ半分眠っていて、店の戸を開ける音があちこちから聞こえる。乾物屋からは昆布と鰹節の匂い、パン屋からは焼きたての生地の匂い、和菓子屋からは砂糖の甘い匂いが流れてきた。


 尚人は洋菓子屋の前で足を止めた。ガラスケースには、苺の乗った小ぶりのショートケーキ、黄色いクリームの入ったシュークリーム、白い紙に包んだマドレーヌが並んでいる。まだ朝早いせいで、店内の空気にはバターの匂いが濃かった。


 「園長先生たちには、こういうのでいいでしょう」と尚人は言った。

 「子どもたちには、もっと分かりやすいものがいいですね」


 志保は頷いた。


 「園のみんなで分けられるものがいいと思います。小さい焼き菓子なら、先生たちも配りやすいでしょうし」


 結局、尚人は園長や保育士たちへの手土産に箱入りのケーキを2箱、子どもたちには動物の形をした焼き菓子の詰め合わせを買った。包み紙は白地に薄い青の線が入り、まだ新しい紙の匂いがする。箱を受け取った時、志保は自然な顔でそのうちの1つを持った。その仕草が、まるで何年も一緒に買い物をしてきた女のようで、尚人はまた妙な気分になった。


 「似合いますよ」


 志保が唐突に言った。


 「何がです」


 「そうやってお菓子の箱を持って歩いてるところです。恋人みたいです」


 尚人は思わず足を止めかけたが、美和が先に歩こうと手を引っ張るので、何も言えずにまた歩いた。志保は横で、何でもないような顔をしている。だが、口元だけが少し笑っていた。


 保育園に着いたのは、午前8時35分ごろだった。園門の前には、母親たちの自転車が何台も並び、門の内側では小さな子どもたちの声が入り乱れていた。泣いている子もいれば、すでに園庭の隅で砂をいじっている子もいる。鉄の門柱には朝の光が当たり、まだ少し冷たそうに見える。中からは、子どもの靴が床をぱたぱたと打つ音、先生の明るい声、誰かの笑い声が次々にこぼれてきた。


 志保は自然に尚人の腕へ自分の肘を軽く添えた。そのまま園の玄関へ入る。尚人はもう諦め半分で、その格好のまま歩いた。玄関で出迎えた保育士が一瞬目を丸くし、それからすぐに笑顔を作った。


 「おはようございます」


 「おはようございます」と志保が答える。

 「今日は、理事長さんと一緒なんです」


 理事長さん、という言い方は分かっていたが、朝の玄関でいきなりそう呼ばれると、尚人の耳には妙にこそばゆかった。美和は靴を脱ぎながら、園の奥へ目を向けている。昨日までと同じ先生たちがいて、同じ匂いがして、同じ床が光っている。それだけで安心したように見えた。


 園長はちょうど廊下の向こうから出てきた。50代半ばほどの、小柄で眼鏡をかけた女だった。髪を後ろでまとめ、紺のカーディガンを着ている。目の下には少し疲れが残っていたが、立ち姿はしゃんとしている。


 志保は軽く頭を下げた。


 「おはようございます。うちの美和をお願いします」


 そして尚人のほうを見た。


 「こちらが、新しい理事長さんです」


 園長の表情が一瞬だけ固くなり、そのあとすぐに丁寧な笑顔に変わった。尚人は菓子折りを差し出した。


 「早乙女尚人です。正式なお話は改めてさせてください。今日はまず、ご挨拶だけに」


 「ご丁寧にありがとうございます」


 園長は箱を受け取り、焼き菓子の箱を見て、それからケーキの箱へ視線を移した。そこに込められた気遣いはすぐに伝わったらしい。保育士たちも奥から気にして見ている。


 「少しだけ外を見て回ってきます」と尚人は言った。

 「そのあとで、改めてお時間をください」


 園長は頷いた。


 「分かりました。9時半ごろなら、ひと息つきます」


 尚人はその返事を聞くと、園庭をひと通り見回した。古いながらも、手入れは悪くない。問題は、ここではなかった。帳簿に載っていた、山麓の広い土地である。


 「行きましょう」と尚人は言った。


 志保は美和の頭を撫でた。


 「お昼まで、いい子にしてるのよ」


 美和はもう気持ちが園へ向いていて、振り返りもしなかった。園長のそばへ駆け寄り、奥のほうへ小さな背中を消していく。その姿を見て、志保はほっと息をついた。


 保育園から山麓の土地までは、歩いてもそう遠くはなかった。港の湿った空気を背にして、坂を上がる。道の両側には古い家、畑、小さな林が入り混じり、少し高くなるにつれて海の匂いが薄くなっていく。代わりに、乾いた土の匂いと、朝日に温められた草の匂いが立った。鳥の声が細く鳴き、足元では小石が時おり靴の裏で鳴った。


 坂をいくつか折れた先で、尚人は足を止めた。


 「ここか」


 そこから先は、思っていた以上に広かった。


 低い木立の向こうに、ゆるやかな起伏を持った土地が大きくひらけている。斜面といっても急すぎない。ところどころに背の低い松が立ち、草地の間には古い畑の名残のような段が見えた。さらに上のほうまで視線を送ると、土地は思った以上に奥へ伸びていた。朝の光が斜めに当たり、草の先の露が細かく光る。少し風が吹けば、乾いた草の葉がざわっと鳴る。


 志保も思わず立ち止まった。


 「こんなに広いなんて……」


 尚人は返事をせず、しばらく黙って見ていた。目で見ているのは草地だが、頭の中ではもう別のものに組み替わっている。道の取り方、区画の切り方、法面の残し方、眺めの良い位置、建物を置ける平場。ゆるやかなうねりのある地形は、見方を変えれば、むしろ面白い。昨今はやりのゴルフ場にしてもいいし、東京の人間向けの避暑地、別荘地として売っても映える。海から近く、それでいて港の騒がしさからは半歩離れている。風の抜け方も悪くない。


 「化けるな」


 尚人がぽつりと言った。


 志保は横顔を見上げた。


 「そんなに、いい土地なんですか」


 「ええ。立派です。思っていたよりずっと」

 尚人はしゃがみ込み、土を指先でつまんだ。表面は乾いているが、少し下はしっとりしている。土の粒は細かすぎず、荒すぎず、悪くない。雑草の生え方にも勢いがある。


 「景色もいい。広さもある。車道の通し方次第でかなり見栄えがします」


 そこから少し上がると、木の切れ目の向こうに海まで見えた。朝の海は白くひらけ、港のほうの屋根が光っている。東京の人間なら、この眺めだけで話を聞く。志保にはそこまでの金勘定は分からなかったが、尚人の声に熱が入っていることだけは分かった。


 だが、尚人はすぐに顔を引き締めた。


 「問題は水だな」


 志保はきょとんとした。


 「水、ですか」


 「これだけの土地でも、水がなければ話になりません」

 尚人は立ち上がり、周囲を見回した。

 「上水道がどこまで来ているか。来ていないなら、井戸です。井戸を掘って、きれいな水がどれだけ出るかを見ないといけない」


 風が少し強く吹き、草の上を流れていった。尚人は遠くの低い窪地を見た。あのあたりなら水脈が寄りそうだ、と、経験で分かる。もちろん、経験だけで決めるわけにはいかない。だが、手がかりはある。


 「試し掘りが必要ですね」と尚人は続けた。

 「水が豊富に出るなら、この土地の値打ちは一気に変わる」


 志保はその言葉の意味を半分しか理解していなかったが、尚人の目がもう次の仕事を見ていることは分かった。さっきまで保育園の理事長として菓子折りを持っていた男が、今は草地の上で、井戸の位置と道の線を考えている。目の前で別の顔が次々に現れるようで、見ていて飽きなかった。


 「じゃあ、どうするんですか」


 尚人は土のついた指を払った。


 「まずは園長先生たちに挨拶をする。そのあとで、ここの図面と水道の台帳を見ます。井戸屋も当たらなきゃならない」


 志保は小さく笑った。


 「忙しい人ですね」


 「今さらです」


 尚人も少しだけ笑った。


 眼下では、保育園のほうから子どもたちの声が風に乗って細く届いていた。笑い声が1つ、2つ、坂の下から上ってくる。その音を聞きながら、尚人はもう一度だけ広い土地を見渡した。朝の光はさらに高くなり、草の色を少しずつ濃くしていく。


 この土地は、まだ眠っている。だが、水さえ通せば、きっと起きる。尚人はそう思った。志保はその横で、何も言わずに同じ景色を見ていた。ついさっきまで港の共同住宅の狭い部屋にいた2人が、今は山の裾で、まるで以前からの恋人同士のように並んで立っている。そのことが、朝の風の中では不思議なほど自然に思えた。


 「戻りましょうか」


 志保が言った。


 「ええ。今度は理事長の顔をしないといけない」


 尚人がそう答えると、志保は肩を揺らして笑った。2人は並んで坂を下りた。保育園では、もう子どもたちの1日が本格的に始まろうとしていた。

志保が部屋を訪ねたことで、2人はただの隣人でも借主と大家でもない関係へ一気に踏み込み、寝言に出た順子の名によって、志保は尚人の女の気配まで知ることになる。それでも引かず、朝の港を尚人と並んで歩いていくところに、志保の強さとしたたかさがよく出ていた。その一方で、尚人は保育園の新理事長として動きながら、帳簿の向こうに眠っていた山麓の広い土地を自分の目で見に行き、その価値をすぐに測り始める。景色や起伏をそのまま金と土地の形へ組み替え、水の確保まで考えるところに、この男の本質がよく表れている。

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