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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第三章――「逆アセンブラの女と会社設立を決めた日」

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第17話――「夜の食卓、一億円の園」

1986年4月8日火曜日の夕方、尚人は三崎港の共同住宅で修繕を終え、片岡新一と志保の夕食の席へ招かれる。港の魚を使った晩飯を囲む、ささやかな食卓だったが、そこで志保は娘の通う保育園が消えるかもしれないという不安を口にする。魚屋の夫婦にとって、それは店の景気よりも深く、日々の暮らしそのものにかかわる問題だった。尚人は、その相談を聞いたその夜のうちに動き出し、三崎港の一角で、ひとつの園の行く末を左右する交渉へ踏み込んでいく。

 (1986年4月8日火曜日午後6時、三崎港・共同住宅・片岡新一(かたおか しんいち)宅)


 修繕がひと通り終わるころには、窓の外の光はだいぶ傾いていた。三崎港の空は白さを失い、薄い黄を帯びて、海の面に鈍い照りを落としている。下の店先では、昼の売り物を片づける音にまじって、夜の支度の音が立ち始めていた。木箱を引く音、氷を砕く音、包丁が骨に当たる重い音。潮の匂いの奥に、焼き魚の脂が温まる匂いが混じり、空腹を思い出させた。


 尚人が最後の道具をしまっていると、志保が階段の下から顔を上げた。


 「早乙女さん、もしよろしかったら、夕飯を下で召し上がりませんか。お礼と言うほどのことではありませんけど」


 言い方は遠慮がちだったが、顔には本当に助かったという気持ちが出ていた。尚人は工具袋の口を閉じてから、軽く頷いた。


 「では、ありがたく頂きます」


 店の食堂は、昼よりも少し暗く、少しだけ親しい空気になっていた。裸電球の明かりが壁にやわらかく落ち、窓の外には、夕方の港を行き交う人影がときおり黒く横切った。新一は店先の片づけを終えたばかりで、前掛けの端がまだ濡れている。志保は奥の台所で鍋の蓋を取り、立ち上る湯気に半分顔を隠しながら、手早く皿を並べていた。


 ほどなくして、夕飯が卓に並んだ。まぐろの頬肉を甘辛く煮つけた鉢は、照りのある汁をまとって黒く光り、箸を入れる前からほろりと崩れそうだった。焼いた鯵は皮に焼き目が入り、香ばしい脂の匂いを立てている。小鉢にはしらすおろし、浅く漬けた胡瓜、茄子の味噌炒め。大きめの椀に入ったあら汁からは、魚の骨と味噌と生姜が混じった濃い匂いが上がっていた。炊きたての飯は湯気が立ち、白い粒が卓の明かりを受けてつやつやしている。


 志保は娘用らしい小さな茶碗も一つ置き、奥へ声をかけた。


 「美和、出ておいで。大家さんにちゃんとごあいさつしなさい」


 奥から現れたのは、四つか五つほどの女の子だった。髪を短く切りそろえ、頬が丸い。少し眠たそうな目をしていたが、尚人を見ると母親の後ろに半分隠れた。


 「娘の美和です」と志保が言った。

 「保育園の帰りで、もう眠いんですけど」


 「こんばんは」


 尚人がそう言うと、美和は小さな声で「こんばんは」と返し、志保の脚に頬をつけた。その子どもの体温のある仕草を見た時、尚人はこの魚屋夫婦がただ店を切り回しているだけではなく、日々の暮らしを必死に支えていることを、改めて目の前のものとして感じた。


 食事が始まると、新一は最初こそ遠慮していたが、酒を少し舐めるうちに肩の力が抜けてきた。徳利から注いだ燗酒は、湯気こそ立たないが、口へ含むとぬるい熱が喉をゆっくり落ちた。新一の顔も、志保の頬も、少しずつ赤みを帯びる。


 「今日は本当に助かりました」と志保が言った。

 「窓の音もそうですけど、流しまであんなにすぐ直るなんて思っていなくて」


 「困るのは、住んでいる人ですからね」と尚人は言った。

 「直るものなら、その場で直した方が早い」


 新一が頷いた。


 「普通の大家さんなら、管理会社に言って終わりですよ。実際、前に頼んだ時なんか、一週間たっても来ませんでした」


 「そういうものです」と尚人は味噌汁をすすりながら答えた。

 「待っているほうは、その一週間ずっと困るんですけどね」


 志保は箸を止めて、少しだけ笑った。だが、その笑いはすぐに消えた。視線が、美和のほうへ落ちたのである。美和は小さな茶碗を両手で持ち、眠そうに飯をかき込んでいた。


 「本当に、困ることばかりで」と志保は小さく言った。

 「この子の通っている保育園まで、なくなるかもしれないんです」


 尚人は箸を置いた。


 「なくなる、とは」


 新一が顔をしかめ、徳利を卓に戻した。


 「園そのものは、子どもも多いんです。迎えの時間なんか、親御さんの自転車で前がいっぱいになるくらいで」

 「でも、やってる社会福祉法人の理事長が駄目なんです」と志保が引き取った。

 「保育園はちゃんと回っているのに、別の事業で借金を膨らませて、銀行にも業者にも支払いが詰まってるって……。先生からも、はっきりとは言わないんですけど、春を越せるかどうか分からないって」


 店の中の空気が少し変わった。さっきまで魚の脂と味噌の匂いがよく通っていたのに、今は志保の声のほうが強く耳に残る。外では荷を積む音がしていたが、その音まで遠くなった気がした。


 「園児は多いんですね」と尚人は訊いた。


 「ええ」と志保はすぐに答えた。

 「朝から夕方までいっぱいです。うちみたいに店をやってる家は、保育園がないと本当に困るんです。近所の魚屋も八百屋も、みんな同じで……。先生方もよくしてくれて、この子も園長先生が大好きで」


 美和は自分の名前が出たのが分かったのか、顔を上げて「えんちょうせんせい、ピアノじょうず」とだけ言った。眠そうな目のままそう言って、また茶碗を覗き込む。その一言が、かえって重かった。大人が数字や借金で話している向こうに、毎朝同じ先生に会い、同じ庭で遊ぶ子どもの時間がある。


 尚人は少し考えたあと、志保に理事長の名を尋ねた。志保は店の帳場の引き出しから、一枚の紙を出した。保護者向けに配られたらしい、説明会の案内である。紙は少し湿気を吸って柔らかくなっていた。そこに、社会福祉法人浜風福祉会、理事長・桑原義明と印刷されていた。


 「この人です。説明会でも、はっきりしたことを言わなくて……」

 「園は回っているのに、どうして潰れるんだって、みんな怒ってました」と新一が言った。


 尚人は紙を二つに折り、膝の上で軽く叩いた。


 「その理事長、今どこにいます」


 志保と新一は顔を見合わせた。


 「たぶん、園の隣の事務所だと思います」と志保が言った。

 「この時間でも、借金取りみたいな人が来るから、夜まで残っているって」


 尚人は立ち上がった。椅子の脚が床を短く擦り、裸電球の光が一瞬、肩に強く当たった。


 「行きましょう」


 「今からですか」と新一が思わず言った。


 「今だからです。潰れかけた相手は、朝より夜のほうが本音を出します」


 食堂を出ると、港の空気はもう昼のものではなかった。潮の匂いは冷えはじめ、店々の明かりが濡れた路面に細長く映っている。遠くで船の機関が低く唸り、近くでは魚を洗う水が排水溝へ落ちていた。三人は保育園のある通りへ向かった。美和は志保に背負われ、眠ってしまった。小さな体が母親の背にしがみつき、頬が割烹着の肩口に押しつけられている。


 保育園は、昼に子どもの声で満ちていたであろう建物が、今はひどく静かだった。二階建ての園舎は古いが、窓は多く、園庭には錆びた滑り台と、小さな鉄棒が並んでいる。玄関脇のガラス戸にだけ明かりがあり、事務室らしい一室の中で男の影が動いていた。


 尚人が戸を開けると、古い事務所の匂いが鼻を打った。湿った書類、インク、安煙草、冷えた茶。机の上には伝票や封筒が乱雑に積まれ、灰皿には吸い殻が山になっている。壁の時計は八時を少し回っていた。


 机の向こうにいたのは、五十を過ぎた痩せた男だった。髪は後ろへ撫でつけてあるが、油気を失ってぱさついている。目の下が落ちくぼみ、口元には疲れがこびりついていた。これが桑原義明だった。


 「何の用ですか」


 声は乾いていたが、威張る力ももう残っていないようだった。


 尚人は名乗り、単刀直入に言った。


 「この保育園、土地建物ごと売る気はありますか」


 桑原の顔がぴくりと動いた。新一と志保は、尚人の横で息を呑んだ。事務所の天井の蛍光灯がじいっと鳴り、その白い光が桑原の頬のこけを冷たく浮かび上がらせていた。


 「冗談を言いに来たんですか」


 「冗談で夜に来ません」

 尚人は事務机の前の椅子へ腰を下ろした。

 「園は生きている。死にかけているのは、あなたの経営です。そこを分けて考えましょう」


 桑原はしばらく黙っていた。やがて煙草を一本抜きかけたが、火をつけずに戻した。


 「高いですよ」と桑原は言った。

 「保育園は埋まっている。園舎の土地だけじゃない。少し離れた山の裾に、法人名義の広い土地もある。簡単な値では渡せない」


 尚人は事務所の窓の外を一度だけ見た。暗い園庭に、街灯の黄いろい光が斜めに落ちている。昼なら子どもが走り回る場所だろう。だが今は、風に揺れる遊具の鎖がかすかに鳴るだけだった。


 「高い値をつけて、明日まで持ちますか」と尚人は言った。

 「銀行は待たない。業者も待たない。先生方に今月の給料を払えますか」


 桑原の頬がぴくりと引きつった。志保は背中の美和を抱き直し、新一は拳を軽く握った。狭い事務室の空気は重く、暖房もないのに、額にうっすら汗がにじむ感じがした。


 「……いくらなら出す」


 尚人はそこで初めて、少しだけ前へ身を乗り出した。


 「一億円。保育園の土地建物と、法人名義の山麓の土地も込みです。運営は新しい社会福祉法人で引き受ける。園長以下の職員はそのまま雇う。子どもは一人も路頭に迷わせない」


 桑原は鼻で息を抜いた。笑ったのではない。追いつめられた人間が、ぎりぎりで声を立てずに息を出しただけの音だった。


 「安すぎる」


 「安いでしょう」と尚人はあっさり認めた。

 「本来なら、園舎の敷地だけでも値はある。そのうえ山の裾のまとまった土地まで付く。平時なら数億で動く話です。だが、今のあなたには時間がない。高く売る力も残っていない。私は明日から動けます。あなたは今夜、判を押せる」


 その言い方には、情けと冷たさの両方があった。救ってやる、ではない。条件を出し、それが相手にも最後の道だと示しているだけだった。


 桑原は机の引き出しから帳簿を出した。紙は擦り切れ、端が黒ずんでいる。ページをめくる指先は細く、爪の間にインクが詰まっていた。未払金、借入金、支払期日。数字の並びは荒れた港の水面のように落ち着かず、見るだけで経営の崩れが分かった。


 尚人は黙ってそれを見た。借金の額、土地の面積、建物の減価、園児数、月の保育料収入。さらに、別紙に綴じられた土地台帳には、山麓の広い一団地が載っていた。頭の中で数字が素早く組み替わる。園はまだ使える。山の裾の土地も、すぐ現金にはならなくても、手を入れれば大きく化ける。問題は園でも土地でもない。その上に乗っている腐った箱だけだ。尚人にはそれがはっきり見えた。


 「この条件でしか動きません」

 尚人は帳簿を閉じて言った。

 「一億円を現金でまとめる。保育園の土地建物も、法人名義の山麓地も移す。理事長は退く。私は新しい社会福祉法人を立て、理事長に入る。園長先生以下の職員は一人も切らない。その代わり、あなたは今夜この話を飲む」


 事務所の時計の針が、かちりと音を立てて進んだ。外では風が少し強くなり、玄関のガラス戸が微かに鳴った。志保の背で、美和が眠ったまま小さく身じろぎをした。


 桑原は長いこと黙っていた。やがて顔を覆うように手を当て、低く言った。


 「……先生たちは、残してくれるんだな」


 「残します」

 「子どもたちも」

 「そのために来たんです」


 その一言で、事務所の空気がわずかに変わった。金の話だけではなくなったからだった。桑原の目には、もう理事長の意地よりも、ここを完全に潰したくないという最後の気持ちのほうが強く出ていた。


 「分かった」


 声は掠れていた。


 「一億でいい。園だけでも、生かしてくれ」


 そこから先は早かった。必要な書類を引っ張り出し、内容を確かめ、足りないものを書き足す。紙を広げるたび、古いインクと湿気た紙の匂いが立った。尚人は電話を借り、横須賀側へ何本か連絡を入れた。受話器の向こうで、眠そうな声がいくつか応じ、必要な段取りが短い言葉で決まっていく。新一は途中で缶コーヒーを買って戻り、志保は眠った美和を膝に乗せたまま、じっと話を聞いていた。


 判を押す時、朱肉の匂いがふっと立った。紙の上に落ちた印影は、赤く、湿って、妙に生々しかった。桑原の手は少し震えていたが、それでも印はまっすぐだった。尚人はそれを見届けてから、ゆっくりと息を吐いた。


 壁の時計は、午後十時を指していた。


 事務所を出ると、港の夜気は思ったより冷たかった。昼の魚の匂いは薄れ、代わりに潮と濡れた土の匂いが前へ出ている。遠くの船の明かりが黒い海に点々と浮かび、どこかで鎖が金属質な音を立てた。志保は背の美和を抱え直し、何か言おうとしたが、すぐには声にならなかった。


 尚人が先に言った。


 「これで園は残ります」


 志保の目に、街灯の光が小さく揺れた。新一は深く頭を下げた。さっきまで夕飯の席で酒を舐めていた男とは思えないほど、言葉が出なかった。


 「……本当に、ありがとうございます」と志保はやっと言った。

 「この子、明日もあの園に行けるんですね」


 美和は眠ったまま、母親の肩に頬を押しつけている。その寝息は小さく、温かく、規則正しかった。尚人はその音を聞きながら、夜の保育園をもう一度見た。暗い園庭、閉じた窓、消えかけた蛍光灯の白さ。だが、そこはもう、ただ潰れかけた場所ではなかった。明日も子どもの声が戻る場所になった。


 三崎港の夜は深くなっていた。それでも、潮の匂いの中には、まだ終わらない町の気配が残っていた。尚人は冷えた空気をひとつ吸い込み、この一日で抱え込んだ仕事の重さを胸の内で測った。重い。だが、持てない重さではない。そう思えた。

この回では、港の魚を囲む夜の食卓が、そのまま一億円の交渉の入口になった。修繕のお礼として始まった夕飯は、志保の娘が通う保育園の窮状へつながり、尚人はその話を聞いた夜のうちに理事長のもとへ踏み込んでいく。食卓の湯気と、夜の事務所にこもる湿った紙と煙草の匂い。その落差が大きいぶん、尚人の決断の重さが強く出た回でもある。また、この回では尚人の商売のやり方もはっきり現れた。潰れかけた法人全体ではなく、まだ生きている保育園を見抜き、園舎の土地建物だけでなく、法人名義で眠っていた山麓の広い土地まで含めて一億円で押さえる。職員も子どもたちも残す道をその場で作りながら、表に見える園の価値だけでなく、少し離れた場所に埋もれていた将来の資産まで見逃さないところに、尚人の商売人としての目が出ている。冷たく数字を読む目と、暮らしを守るために夜のうちに動く速さが、一つの行動として結びついているのである。三崎港の夜気の中で、美和の明日の居場所を残したことは、尚人にとって単なる買い物ではなく、この町に自分の手で一つの土台を打つことでもあった。

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