第16話――「大家だと明かした港の昼」
1986年4月8日火曜日の午後、尚人は三崎港の共同住宅へ腰を落ち着ける。魚屋の夫婦、片岡新一と志保に勧められて食堂へ下りると、港で上がった魚をそのまま並べた海鮮定食が待っていた。食卓を囲むうちに、尚人は自分がこの共同住宅の大家だと明かし、そのひと言から場の空気が少し変わる。さらに、管理会社任せでは届かなかった住まいの不具合を、その場で自分の手で直し始めることで、港町の人との距離は、ただの貸し手と借り手よりも近いものへ変わっていく。
(1986年4月8日火曜日午後1時15分、三崎港・共同住宅・尚人宅)
尚人は、ひと息ついてから階段を下りた。腹が減っていることを、いまさら思い出したのである。下へ降りるにつれて、魚屋の気配が濃くなった。潮の匂いに、魚の脂の匂いと、味噌を温める匂いが混じる。包丁がまな板に当たる音はさっきより軽く、今度は鍋の蓋が鳴る音や、汁をよそう時の小さな水音も聞こえてきた。店先の明るさは昼の盛りを越えかけていたが、魚の鱗に当たる光だけはまだ白く、濡れた床に細かく跳ねていた。
魚屋の主人は、尚人の顔を見ると、すぐに手を拭いて出てきた。
「どうです、上。使えそうでしたか」
尚人は頷いた。
「ええ。思ったよりずっといい部屋ですね。助かります」
主人は日に焼けた顔をほころばせた。奥から奥さんも顔を出し、手にしていた布巾を畳みながら笑った。近くで見ると、奥さんの頬にはまだ若い張りがあり、目元がよく動く。割烹着の袖口にはうっすら水がにじんでいて、魚屋の仕事の忙しさがそのまま残っていた。
「お昼はまだですか」と奥さんが言った。「うち、食堂もやってますから、よかったら食べていきませんか」
尚人は店の横を見た。魚を並べた売り場の奥に、4人掛けの卓が3つ、壁際に簡単なカウンターがあり、そこが食堂を兼ねているらしかった。壁には手書きの品書きが下がり、まぐろ刺身定食、煮魚定食、海鮮定食と書かれている。湯気の立つ味噌汁の匂いが、食欲をまっすぐ刺激した。
「じゃあ、頂きましょうか」
そう言うと、主人は気さくに頷いた。
「ありがとうございます。海鮮定食なら800円で出せます。今日は朝のものがいいですよ」
尚人は腰を下ろしながら、改めて名を名乗った。
「早乙女尚人です」
主人も前掛けの端で手をぬぐってから頭を下げた。
「魚屋と食堂をやってます、片岡新一です」
奥さんも少し遅れて会釈した。
「妻の片岡志保です。どうぞ、ゆっくりしてくださいね」
名前を交わすだけで、場の空気が少し近くなった。新一は30、志保は25という年頃で、夫婦の間に無駄な遠慮がない。新一が魚を引けば、志保はその横で汁椀を並べ、炊きたての飯をよそう。言葉にしなくても動きが噛み合っていた。
ほどなくして、海鮮定食が運ばれてきた。尚人は思わず目を止めた。800円と聞いていたが、並んだ皿は町の定食屋の水準を明らかに越えていた。
大ぶりの盆の中央に、白くつやのある飯が山のようによそってある。湯気は甘く、米の匂いが立っていた。脇には赤だしの味噌汁が付き、椀の中でわかめとねぎが揺れている。塩気の強い磯の匂いが鼻へ届いた。
刺身は3種類あった。まぐろの赤身は角が立ち、切り口が濡れたように光っている。鯵は銀の皮が薄く残り、身が半透明で、包丁の筋が細かく入っていた。烏賊は白く、縁がぴんと張っていて、噛めば歯に吸いつきそうなつやがある。小皿の脇にはおろした生姜と山葵が添えられ、醤油差しの口からは、濃い醤油の匂いがかすかに立った。
焼き物も付いていた。小ぶりの鯖を塩で焼いたもので、皮に細かい泡が立ち、箸を入れると脂がじわりとにじんだ。甘辛く煮つけた鮪の角煮まで小鉢に入り、照りのある煮汁が器の底に薄く溜まっている。さらに、しらすおろし、浅漬け、ひじきの煮物まで並んでいた。これで800円は、1986年の昼飯としてはやや値が張るが、その分、盆の上には港の朝がそのまま乗っているようだった。
尚人はまず味噌汁をすすった。赤だしの苦みの奥に魚の出汁が利いていて、塩が喉にきりっと当たる。次にまぐろを口へ運ぶと、身が舌の上でしっとりと崩れ、冷たさと鉄の気配がすぐに甘みに変わった。鯵は脂が軽く、噛むほどに旨味が出る。烏賊はねっとりしているのに歯切れがよく、噛んだあとに海の甘さが舌へ残った。焼き鯖は皮の焦げが香ばしく、身の奥から熱い脂がにじみ出た。飯をかき込むと、その脂と醤油と味噌汁の塩気がひとつにまとまり、腹の底へ落ちていった。
「うまいですね」
尚人がそう言うと、志保は嬉しそうに笑った。
「朝、上がったのが良かったんです。今日はまぐろも鯵もきれいで」
新一は包丁を拭きながら言った。
「港の近くで食べるなら、やっぱり朝のものを出したいですから」
尚人は頷き、もう1口、鯵を口へ運んだ。店の中には、魚の匂いだけではない温かさがあった。飯の湯気、味噌汁の熱、焼き魚の脂、洗い場の石鹸の匂い。そこへ時おり外の潮風が入り、店の暖簾をわずかに揺らした。
食べながら、尚人は軽く言った。
「実は、ここの共同住宅すべて、大家は私なんです」
その瞬間、新一の手が止まり、志保も目を丸くした。
「えっ」と志保が小さく声を上げた。
「大家さん……でしたか」
新一はすぐに前掛けを直し、さっきまでより背筋を伸ばした。
「それは失礼しました。管理会社の方か、お客さんだとばかり」
志保も慌てて頭を下げた。
「知らずに、ずいぶん気安くしてしまって」
その変わりようが、尚人には少しおかしかった。さっきまでの自然なやり取りが急にきちんとしたものへ変わり、2人とも言葉を選び始めたのである。
「そんなに改まらなくていいですよ」と尚人は笑った。「管理はほとんど人任せですし、私はたまに見に来るくらいです。困ったことがあれば、何でも言ってください」
すると、志保は新一の顔を見た。新一も1度だけ志保を見返し、どうするか迷ったようだったが、やがて志保が遠慮がちに口を開いた。
「でしたら……1つ、お願いしてもいいですか」
「ええ」
「2階の流しなんです。水を使うと下の排水が少しおかしくて、それに窓の建て付けも悪いんです。風が強い日は、夜にがたがた鳴って」
新一も続けた。
「前から気にはなってたんですが、管理会社へ言っても、見に来るまで間が空くもので」
尚人は飯を飲み込み、すぐに頷いた。
「あとで見ましょう。道具は少し持っていますし、足りないものは町で買えば何とかなります」
不動産屋として物件を見てきた尚人にとって、こういう修理は珍しくも何ともなかった。壁の傷、建具の歪み、水回りの癖、配線の緩み。売る前にも貸す前にも、そういうものを自分の手で直してきた。机の上で数字を回すだけが仕事ではない。現場で手を汚して、直るものは自分で直す。その感覚が、尚人にはもう身体に染みついていた。見かけは22歳の若造でも、こういう時に出る手つきは、長年この商売で物件を見てきた男のそれだった。
食後、尚人は上へ戻り、流し台の下を開けた。戸を開くと、古い木と湿気の匂いがむっと立ち上がる。排水の継ぎ目にわずかなずれがあり、そこから水が漏れて床板の一部を湿らせていた。窓のほうも見れば、木枠が潮気を吸って膨らみ、鍵の噛み合わせが甘くなっている。指で押すと、確かに少し遊びがあり、これでは風の強い夜に鳴るだろうとすぐ分かった。
尚人は袖をまくり、工具袋を広げた。金槌、ねじ回し、ペンチ、スパナ、細い釘、木ねじ。どれも使い込んで手に馴染んでいる。新一が下から脚立と予備の板切れを持って上がってきて、志保は雑巾と水桶を運んできた。3人の間に、もうさっきのぎこちなさは薄れていた。仕事が始まると、人はかえって自然になる。
まず排水を直した。古い継ぎ手を外すと、ぬめりを帯びた水の匂いが強く上がり、鼻に少しきつかった。尚人は顔をしかめもせず、布で拭き、ずれを合わせ、締め直した。金具を締めるたびに、スパナが短く鳴る。手の甲には細かな汚れがつき、指先は湿って冷えたが、締まり具合は触ればすぐ分かった。水を流してみると、さっきまでの頼りない漏れは止まり、排水はすっと落ちた。
次は窓だった。木枠をいったん外し、削るべきところを見きわめる。鉋を当てると、乾いた木が薄くめくれ、潮気を吸った古い木の匂いが立つ。削りかすは淡い色で、指に触れると軽く、すぐ床へ落ちた。蝶番の緩みも締め直し、鍵の位置を少しだけ調整する。建具はほんの少し狂うだけで閉まり方が変わる。尚人は何度も開け閉めを繰り返し、音と手応えで確かめた。最後に閉めた時、窓は前より深く静かに収まり、隙間風もほとんど消えた。
だが、それで終わりではなかった。志保が「もし、これも……」と遠慮がちに言い、風呂場の戸のぐらつきと、ベッドの足のがたつきも見せた。尚人は苦笑しながらも断らなかった。こういう時は、1つ直すと他も目につくものである。
風呂場の戸は蝶番が錆び、開け閉めのたびに嫌なきしみを立てていた。油を差し、ねじを締め、戸の下端を少し調整するだけで動きは見違えるほど軽くなった。ベッドの足は1本だけ床との当たりが悪く、下に当て木を入れて締め直すと、がたつきはぴたりと止まった。金槌で釘を打つ音が狭い部屋に響き、志保はそのたびに身をすくめながらも、終わるごとに目を明るくした。
気がつけば、窓の外の光は少し傾いていた。三崎港の午後は、陽が低くなるにつれて色が変わる。白かった光はやや黄を帯び、海の反射は柔らかくなり、下の店先に並ぶ魚の腹も朝ほど鋭くは光らなくなる。その代わり、港の音は少し太くなった。荷を片づける声、木箱を引く音、遠くで船のエンジンがうなる音。夕方へ向かう港は、昼とは別の働き方を始めていた。
尚人は最後に手を洗った。流しの水は直したばかりでよく流れ、冷たさが掌の汚れを一気にさらった。石鹸を使うと、魚と金具と木の匂いがようやく薄れ、代わりに安い石鹸の白い匂いが指に残った。
新一が直した窓を開け閉めし、感心したように言った。
「すごいな。こんなにすぐ直るとは思わなかったです」
志保も風呂場の戸を動かし、目を丸くして振り返った。
「軽い……。さっきまで、あんなに引っかかっていたのに」
尚人は雑巾で手を拭きながら言った。
「古い建物は、少し手を入れるだけでずいぶん変わりますよ。まだ気になるところがあったら、そのうちまとめて見ます」
新一と志保は揃って頭を下げた。今度の礼には、さっきのような立場への遠慮だけでなく、本当に助かったという実感が入っていた。
「大家さんが、こんなことまで出来るなんて思いませんでした」と新一が言った。
「本当に助かりました」と志保も続けた。「今夜から、やっと静かに寝られます」
尚人は少しだけ笑った。外では、夕方の潮風が窓の隙間をもう鳴らさなかった。下の食堂からは、夜の仕込みに入る音が上がってくる。包丁の音、鍋の蓋の音、誰かが笑う声。直したばかりの部屋には、干したシーツの匂いと、木を削ったあとの乾いた香りがまだ薄く残っていた。
ここは悪くない、と尚人は改めて思った。海が近く、魚の匂いがあって、下には人の暮らしの音がある。しかも、自分の手で直した場所は、ただ借りた部屋より少しだけ、自分の居場所に近くなる。窓の外の港は夕方の色へゆっくり移り、三崎港の1日は、まだ終わりきっていなかった。
この回では、尚人が三崎港の共同住宅に腰を据えたことで、港町の人との関わりが一気に具体的になった。海鮮定食の皿に載った朝の魚、大家だと明かした時の新一と志保の戸惑い、そして流しや窓の建て付けをその場で直していく手つきまでが積み重なり、尚人がただの旅人でも、ただの貸主でもないことがはっきり見えてくる。見かけは若くても、商売と現場を長く見てきた男の感覚が、港の住まいを自分の手で整えることでそのまま表に出た回でもある。また、三崎港という土地そのものの性格も、この回でよく立ち上がった。葉山の静かな美しさとは違い、ここには魚の匂いも、木箱を引く音も、店と住まいが重なっている気配もある。尚人はその雑多さに落ち着きを見いだし、直したばかりの部屋を、少しずつ自分の居場所として受け入れていく。人の暮らしの音が下から上がってくる住まいを選ぶところに、これからの尚人の動き方と、三崎港で始まる新しい縁の芽が、もう静かに見え始めている。




