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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第三章――「逆アセンブラの女と会社設立を決めた日」

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第12話――「机の上の封筒、地図の折り目」

尚人は、1986年の会社へ身内を連れて入り、役割と給料をその場で決めていく。同時に、土地売買と賃貸経営を分ける体制も整い始め、順子と達也には次の現場がすぐに与えられる。机の上の封筒と地図の折り目は、この日から動き出す新しい仕事の形を、そのまま示していた。

 (1986年4月6日日曜日午前6時。横須賀:尚人の自宅アパート)


 尚人は夜明け前に起き、顔を洗って外へ出た。空気が冷えて、息が白くほどけた。ワゴン車を回して横須賀駅前のホテルへ着くと、ガラス戸が静かに開き、館内の暖かい空気が頬に触れた。


 レストランは朝の匂いで満ちていた。コーヒーの苦み、焼きたてのパンの甘さ、皿が重なる乾いた音が、席の間を流れていた。尚人たちは席に着き、品川へ向かう流れを確認しながら朝食を取った。


 食事が一段落したころ、佑馬が尚人に言った。「品川の持ちビルに会社があるなら、住まいもそこにしたいです。横須賀へ戻るより、仕事に入りやすい」佑馬の娘の理恵も続けた。「横須賀と同じ3DKが空いているなら、そこに住みたいです。通勤で時間を削りたくありません」


 尚人はうなずいた。「分かった。3DKを押さえる。今日から入れるようにする」


 朝食のあと、5人は荷をまとめた。寝具の包みは大きく、ビニールの匂いが鼻についた。毛布とタオルケットを抱えると腕がふさがり、紙袋が擦れて音を立てた。後部ドアを開け、積み方を直しながら押し込む。佑馬は箱の角を揃え、理恵は小物をまとめて隙間を埋めた。順子と達也も手を動かし、揺れない置き方に揃えた。


 品川へ向かう道は信号が多く、車は止まっては進んだ。車内では荷がわずかに動き、布団の包みが小さく鳴った。尚人はハンドルを握り、遅れは出る。そう割り切った。


 品川の持ちビルに着き、エレベーターで上がると、早乙女不動産㈱のフロアは電話とコピーの音が続いていた。壁の時計は午前10時を指していた。専務の杉浦真弓が立ち上がり、一礼した。佑馬、理恵、順子、達也も名乗って挨拶を済ませ、尚人は全員を会議室へ通した。


 ◇ ◇ ◇


 会議室の机には書面が揃えられていた。尚人は席に着かせて言った。「競売物件の売買は別会社でやる。社名は早乙女土地建物㈱、資本金10億円だ。早乙女不動産㈱は資本金10億円のまま、賃貸の長期保有を軸にする。俺は両方の代表取締役社長を兼ねる。金と責任は会社で分ける」


 尚人は佑馬に告げた。「佑馬は早乙女不動産㈱の取締役で賃貸事業部長だ。長期で持つ物件の仕入れと運用を担当する。直す場所と家賃の落とし所を決め、管理会社との条件交渉も持つ。判断が要る案件は杉浦へ上げろ」佑馬はうなずいた。「分かりました。責任を持ってやります」


 尚人は理恵に言った。「理恵は早乙女不動産㈱、賃貸事業部の取得担当だ。資料整理、周辺相場の確認、内見の同行、管理会社への聞き取り、修繕見積の集約まで。理恵の担当は理恵が回す」理恵は答えた。「はい。やります」


 尚人は順子と達也へ向けた。「順子と達也は早乙女土地建物㈱の社員だ。順子は競売事業部長。入札準備、書類、占有状況、明渡し、補修と清掃の手配、売却までを統括する。決定が必要なときだけ俺へ上げろ」順子は言った。「了解です。私がまとめます」


 尚人は達也に言った。「達也は競売の現地調査担当。現地確認、写真、近隣聞き取り、鍵と残置物の確認、落札後の片付け手配まで。実務は順子の指示で動け」達也はうなずいた。「分かりました。現地は俺がやります」


 尚人は机の端の封筒に手を置いた。「給与も所属会社が払う。今月分は今日ここで渡す。来月からは月末払い。賞与は夏と冬の年2回だ」


 尚人は不動産㈱の封筒から渡した。「佑馬。月給64万円。賞与は夏66万円、冬66万円。年俸900万円だ」佑馬は受け取って頭を下げた。「ありがとうございます」


 尚人は理恵へ渡した。「理恵。月給38万円。賞与は夏42万円、冬42万円。年俸540万円だ」理恵は受け取った。「はい」


 尚人は土地建物㈱の封筒へ移った。「順子。月給50万円。賞与は夏60万円、冬60万円。年俸720万円だ」順子は受け取った。「分かりました」


 尚人は達也へ渡した。「達也。月給34万円。賞与は夏36万円、冬36万円。年俸480万円だ」達也は言った。「ありがとうございます」


 尚人は杉浦を見た。「杉浦は不動産㈱の専務で年俸1000万円。月給70万円、賞与は夏80万円、冬80万円。この条件で動かす。両社の支払いと台帳は分けて管理してくれ」杉浦は答えた。「承知しました」


 ◇ ◇ ◇


 話が一巡すると、尚人は机の上の白紙を引き寄せた。「次は足だ。車だけでは詰まる。バイクも2台買う」


 杉浦が顔を上げた。尚人は続けた。「社用車は両社で4台。不動産㈱に2台、土地建物㈱に2台。加えて、土地建物㈱の名義でバイクを2台だ。達也と順子が使う。現地確認と裁判所、役所の往復は、車より早い場面が必ず出る」


 尚人は指を折って言った。「バイクはスクーターでいい。ヘルメット2つ、雨具2つ、太い鎖とU字ロック、カバーも一緒に買え。自賠責と任意保険も付ける。停め場所はビルの裏手に2台分を確保して、鍵は社内で預かる。燃料と整備は土地建物㈱の経費で回す」


 杉浦は手帳を開き、メモを取りながら答えた。「承知しました。今日中に車4台とバイク2台、まとめて見積を取ります。名義と請求先も会社別で揃えます」


 尚人はうなずいた。「PCは5台だ。1人1台。プリンタ、コピー、FAXは会社ごとに1式。土地建物㈱は現地の写真と記録が命だ。達也の道具は先に揃える。順子は案件のファイルと写真の保管を作る。理恵は相場表と物件台帳の型を決めて、数字の書き方を揃えろ」


 尚人は最後に言った。「午後から動け。明日の朝、車とバイクの手配が動いていて、机にPCが乗る段取りになっていればいい」


 ◇ ◇ ◇


 尚人は順子と達也を会議室へ呼んだ。扉を閉めると、廊下の電話の呼び出し音が少し遠のき、代わりに空調の乾いた風が頬に当たった。机の上には地図が広げてあり、紙の端が反っている。コピー機が紙を送る音が、壁の向こうで一定の間隔で続いていた。


 尚人は地図の一点を指で押さえた。「小田原駅の東口側だ。ここを買う。お前たちの目で見て、どう思う」


 達也は地図を覗き込み、眉を寄せた。指先で折り目をなぞりながら言った。「駅前は分かります。でも東口は、古い建物が多い印象です。借地権が絡むと、話が面倒になる。買う理由がまだ見えません」


 順子も言葉を選ばずに言った。「買い手が敬遠する区画は、理由があることが多いです。直して貸すにも、売るにも、出口が見えないと動けません。尚人さんが東口に寄せるのは、何か先の材料があるんでしょうけど、今の情報だけだと私にも読めません」


 尚人は笑わなかった。ただ、ペンを持ち直し、東口側を丸で囲んだ。「分からないなら分からないでいい。だが、分からないままにするな。現地を踏むのは達也だ。順子は買う側の目で、嫌がられる理由を先に潰す」


 会議室を出ると、順子はそのまま自分の席へ戻ったが、胸の中に小さな棘が残った。分からないと言ったまま、尚人の前で止まりたくなかった。順子は受話器を取り、声を落として内線を回した。


 呼び出し音のあと、理恵が出た。受話器の向こうで紙をめくる音がして、鉛筆の芯が机に当たる小さな音も混じった。


 順子は言った。「理恵。今、少しだけいい。小田原駅の東口を尚人さんが狙っている。東口の材料、何か知っているか」


 理恵はすぐに答えた。「平成元年、1989年に東口のお城通り地区で再開発準備組合ができているはずです。駅前の整備計画が土台になって、形が見え始めると、東口側の古い区画でも値が動きます」


 順子は息を止め、言葉を追った。「東口側の、どんな区画が動く」


 理恵は言った。「駅東口から歩ける範囲です。古い雑居ビルや小さな土地で、借地権が絡んだり、権利が面倒だったりして敬遠される場所。今は買い手が少ないけど、計画が形になる段階で一気に評価が変わります。整理できる人に話が寄る。そこを先に押さえるのが早いです」


 順子は「分かった」とだけ言って受話器を置いた。指先に汗が残り、電話機のプラスチックが少し滑った。コピー機の音がやけにはっきり聞こえる。順子は立ち上がり、尚人の机へ向かった。


 尚人は書類に目を落としていたが、順子の足音で顔を上げた。順子は回りくどい前置きをせずに言った。「小田原駅東口から歩ける範囲で、古い雑居ビルや小さな土地を拾っておきましょう。借地権が絡んで敬遠される区画です。計画が形になる段階で評価が変わります。平成元年、1989年に東口のお城通り地区で再開発準備組合ができると聞いています」


 尚人の表情が一気に変わった。机の端を叩き、声を上げた。「流石だ。お前を見込んで責任者にした甲斐があった」


 順子が目を瞬いた次の瞬間、尚人は畳みかけた。「俺は昔からお前のことが気に入っていた。お前を連れてきて良かった。今日の返しで分かった」


 順子は胸の奥が熱くなり、喉が一瞬だけ詰まった。自分の口から出たのは、理恵の知識を借りた言葉だ。そこまで大きく褒められるとは思っていなかった。順子は姿勢を正し、返事だけは崩さなかった。「ありがとうございます。すぐ当たりに行って、拾う候補を並べます」


 席へ戻る途中、順子はガラスに映った自分の顔が少し赤いのを見て、視線を外した。今は嬉しさが先に立つ。次は受け売りで終わらせない。そう思った。順子は心の中で決めた。分からないことが出たら、理恵に聞く。恥をかいてもいい。仕事が前に進むほうが大事だ。


 ◇ ◇ ◇


 尚人は机の上の地図を畳み、指の腹で折り目を押さえ直した。紙が乾いた音を立て、インクと古い紙の匂いが鼻に残った。会議室の空調は乾いていて、喉の奥が少し渇く。尚人は順子を見た。


 尚人は言った。「昼から小田原へ行く。東口を自分の目で見て、空気を確かめる。順子、お前も来い。現場で『買う理由』を言葉にできるようにしておきたい」


 順子は椅子の背から体を起こした。さっき褒められた熱がまだ胸に残っている。だが、気持ちだけで走ると足元が滑るのも知っていた。「はい。駅から歩いて、通りの表情と店の埋まり方を見ます。借地権のにおいがする区画は、その場で当たりも付けます。小田原だと泊まりになりますが、予約しておきましょうか?」


 尚人は順子に言った。「小田原は泊まる。部屋を2つ予約しておいてくれ」


 順子はうなずいた。「駅前を2回歩けますね。昼と朝で店の息づかいが違います」


 尚人は頷き、達也へ視線を移した。達也は黙って待っていた。コピー機の音の間に、誰かの靴音が廊下を横切る。


 尚人は言った。「達也は東京に残れ。競売の玉を拾って来い。今日は『数』じゃない。筋が通った候補を1つでいい。場所、占有の気配、直すところ、売却の見通し。その4つを揃えて持って来い」


 達也は喉を鳴らして息を整えた。「どこを当たればいいですか。役所ですか」


 尚人は即答しなかった。ペン先で机を1度叩き、乾いた音を立てた。「自分で考えろ。品川の持ちビルが拠点だ。歩ける範囲に役所も窓口もある。行って、話を聞いて、紙を集めて、最後は現地を踏め。机の上の情報だけで決めるな」


 達也は強く頷いた。「分かりました。区役所を起点に回って、掲示と資料を拾って、午後には1件は現地まで行きます。写真も撮って戻します」


 尚人はそれだけでよしとした。


 順子はメモを取りながら、窓の外を見た。春の光がビルの谷間に落ち、車の列が白く光っている。小田原へ行くとなれば、潮の匂いが混じる風も嗅げるだろう。達也は東京の埃っぽい空気の中で、競売の種を拾う。役割は分かれた。尚人は椅子の背から立ち上がり、会議室の扉へ手を伸ばした。「行くぞ。昼飯を食って、すぐ出る」

この回では、尚人が会社の形を整えるだけでなく、身内の役割を現場へ落とし込み始めた。封筒の中の給料、机に広げた地図、小田原東口の古い区画、そして東京に残る達也の競売調査。人と金と場所が、それぞれ別ではなく、同じ流れの中で動き始めている。次はその流れが、実際の町と現地の空気の中で試されることになる。

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