第11話――「綿の匂い、駅前の夜」
1986年へ移ったばかりの佑馬一家に、尚人は会社の役割と金の流れを明かす。その夜、杉浦から入った電話が、翌日からの動きをさらに現実のものへ変えていく。
(1986年4月5日土曜日午後5時半。横須賀:尚人の自宅アパート)
部屋の空気は乾いていて、畳の匂いが鼻の奥に残った。窓の外は夕方の光に傾き、カーテンの隙間から入る灰色の筋が、机の角と流し台の縁を細くなぞっていた。遠くで車が走る音が続き、階下の生活音が薄く混じった。
尚人は全員の顔を見渡してから言った。「目的と要点は話した。次は金の話だ。大雑把に説明する」
佑馬は息をひとつ吐いた。順子は姿勢を正し、理恵は膝の上で手を組んだ。達也は背中を壁から少し離し、尚人の口元を見た。
尚人は言った。「ホーチミンからこちらへ来るとき、無記名の現物債を持ち込んだ。総額面で30億円だ。それを元手に、賃貸物件の購入と土地の売買を回した。そう時間をかけずに10億円の利益が出た。だから資本金10億円で早乙女不動産㈱を立ち上げた」
佑馬は言葉を選んで言った。「現物を持ち込んで、ここで回したんですね」
尚人は頷いた。「そうだ。いま会社の形はできている。俺が社長で、杉浦真弓が専務だ。任務分担もはっきりしている。賃貸の長期運用は杉浦が整える。土地の売買は俺が決める」
順子が明るく言った。「分かりました。私は、どういう仕事をやればよいのですか。明日から動くなら、先に教えてください」
尚人が答えた。「役割は今ここで決める」
尚人は佑馬を見た。「佑馬は取締役で、賃貸事業部長だ。長期で持つ物件の仕入れと運用を見ろ。物件を見て、直す場所と家賃の落とし所を考える。管理会社との条件交渉もやる。最終判断は杉浦に上げる」
佑馬はすぐに頷いた。「分かりました」
尚人は理恵へ視線を移した。「理恵は賃貸事業部の取得担当だ。資料の整理、周辺相場の確認、内見の同行、管理会社への聞き取り、修繕見積の集約だ。佑馬のそばで覚えることはあるが、理恵の仕事は理恵の手で回す」
理恵は少し笑って言った。「はい。やります」
尚人は順子を見た。「順子は競売事業部長だ。入札準備一式、書類の段取り、占有状況の確認、明渡しの手配、軽い補修や清掃の手配、売却までの段取り。全部任せる。決定するときだけ俺へ上げろ」
順子は気さくに言った。「了解です。社長、私に任せてください」
尚人は達也に向き直った。「達也は競売の現地調査担当だ。現地確認、写真、近隣聞き取り、鍵や残置物のチェック、落札後の片付け手配。順子の配下で実務をやれ」
達也は息を飲み、頷いた。「分かりました。現地は俺が動きます」
尚人は全員を見渡した。「これで分担は分かれた。佑馬と理恵は賃貸側だ。順子と達也は競売側だ」
畳の冷えは残っていたが、部屋の空気はさっきより揃った。
尚人は言った。「住まいの話もしておく。このビルに空き部屋がある。3DKだ。部屋は余っている。1人につき1室を使ってくれ」
順子がほっとして言った。「寝る場所が決まると気が楽になりますね」
佑馬は言った。「拠点が固定なら助かります」
理恵は窓の外の光を見て言った。「横須賀って、夕方の色がいいですね。1986年の空気が、まだ残ってる感じがします」
達也は素直に言った。「部屋があるなら腹は決まります。今日はよく眠れます」
尚人は頷いた。「よし。じゃあ部屋へ行き、中を確認しろ」
午後6時ごろ、4人は割り当てられた部屋を順に見て回り、最後に尚人の部屋へ戻ってきた。廊下の蛍光灯は白く、壁紙は少し黄ばんでいる。ドアの開け閉めのたびに、建物のこもった匂いと外気の冷たさが混ざった。部屋の中はまだ生活の匂いが育っておらず、床の乾いた感触と、窓から入る潮気だけが目立った。
◇ ◇ ◇
尚人は壁際の電話機の前に座った。黒い受話器を取り、指でダイヤルを回す。戻るたびに小さな機械音がして、部屋の静けさに歯切れよく響いた。甥たちが来ていることは、まだ専務には伝えていない。話す内容は仕事だけに絞るつもりだった。
呼び出し音のあと、向こうで紙を動かす気配がした。
杉浦真弓の声が出た。
杉浦は言った。「はい。杉浦です」
尚人は言った。「俺だ。土曜に悪い。都内の4棟、動きはどうだ」
杉浦は即答した。「社長。売却先が見つかりました」
尚人は受話器を握り直した。掌に少し汗がにじむ。窓の外からは、遠い車の走行音が細く続いている。
尚人は言った。「条件はどうだ。13億で購入した物件だから、15億で売れれば手を打とう」
杉浦は間を置かずに返した。「現金は10億円。それと池袋の遊興ビル〈時価4億円相当〉と、新宿歌舞伎町の雑居ビル〈時価4億円相当〉が付きます」
尚人は目を閉じ、数字を頭の中で並べた。現金の重みと、建物の位置が一緒に浮かぶ。池袋と歌舞伎町は夜が強い。人の足と看板の光が途切れない場所だ。
尚人は言った。「総額で18億円か。池袋と歌舞伎町の賃貸収入は月にいくらだ」
杉浦は言った。「悪くとも月に600万円。いまお持ちの品川と横須賀の賃貸収入が400万円ですから、合計すると月に1000万円です」
尚人は息を吐いた。賃料は保ったまま、手元に10億円の現金が残る。明日から回せる金が、手触りのある現実になった。
尚人は言った。「賃貸収入は今と変わらずに、現金が10億円残るわけだな」
杉浦は言った。「はい」
尚人は椅子の背に軽く寄りかかった。背もたれが小さく鳴り、受話器がわずかに軽く感じられた。
尚人は言った。「それで行こう。早速、契約してくれ。それと急で悪いんだが、明日も出勤してくれないか?その代わり、来週の火曜と水曜を休暇にしてくれ」
杉浦は言った。「了解しました。明日は何か特別な用件でもあるのですか?」
「うん。僕の遠縁の一家4名を会社に入れようと思ってね。明日、会社に連れていくつもりなんだ」と尚人。
杉浦は頷き、「そうでしたか。私の部署にも入れてくださると助かります。ではまた明日、お目にかかりましょう」と答えた。
受話器を戻すと、台座に当たって小さな音がした。部屋に残ったのは、窓の外のざわめきと、尚人の呼吸だけだった。
振り返ると、4人が黙ってこちらを見ていた。尚人が頷くと、順子が先に笑った。
順子は言った。「うまく行きましたね、社長。明日から動けますね」
達也が思わず手を打った。乾いた音が部屋に響き、理恵が顔を明るくして頷いた。佑馬は声を上げなかったが、息をひとつ吐き、肩の力が抜けたのが分かった。
尚人の胸の奥で固まっていたものが、ゆっくり溶けていく感じがした。競売物件の当初資金として10億円を捻出できた。その事実が、紙の上の数字ではなく、明日につながる現実として戻ってきた。
◇ ◇ ◇
必要経費用の現金残は838万4400円だ。尚人は封筒の口を押さえ、札束の角がずれていないかだけ確かめた。紙の乾きが指先に伝わる。今夜は寝具と身の回りを揃えて、部屋を寝られる形にする。
尚人は順子に言った。「順子さん、駅前の百貨店で布団を買おう。4人分だ。今日のうちに必要な物を揃えたい」
順子は明るく頷いた。「分かりました。布団だけだと動きづらいので、肌着と靴も最低限は買っておきます。あと、台所の物も少しだけ。古い物でも手入れすれば使えるけど、今夜は何も無いですから」
5人はワゴン車に乗り、駅前へ向かった。窓を少し開けると潮の匂いが薄く混じり、夕方の車の列が信号のたびに止まっては動いた。歩道の人の声が近く、店先の呼び込みが切れ切れに聞こえる。看板の蛍光灯が点き始め、フロントガラスに青白い光がにじんだ。
駅前に着くと、佑馬たち3人が言った。
倉田佑馬は言った。「俺たちは商店街を少し歩いてくる。百貨店の人混みに付き合うと、荷物持ち以外の役に立たない」
倉田達也は言った。「夕飯の匂いがしてます。駅前を見て回りたいです。時間までには戻ります」
倉田理恵は笑って言った。「私は商店街を見たいです。1986年の看板とか、服とか、見てみたかったので」
尚人は頷いた。「分かった。こっちは買い物を済ませて車に戻る。無理に揃わなくていい。見たいなら見ておけ」
順子と尚人は百貨店へ入った。回転扉の内側は空気が冷え、床は磨かれて足音がよく響く。上階へ上がるにつれ、新しい綿と布の匂いが濃くなった。寝具売り場に着くと、順子は迷う前に店員へ要件を伝えた。
順子は言った。「敷きと掛けを4組、枕を4つ。カバー類も同じ数で。今日持ち帰れる分を優先してください」
店員が見本を広げ、布の端を指で滑らせて厚みを説明した。順子は触って確かめ、尚人を見た。尚人は頷き、応えた。「それで行こう」
布団が布袋に入れられ、紐で縛られる音がした。持ち上げるとずしりと重く、腕に綿の塊が乗る。新しい布の匂いが近く、鼻の奥が少しむずがゆい。
次に生活用品だ。タオル、洗剤、洗面器、歯ブラシ、紙箱入りの目覚まし時計、ハンガー。順子は棚の前で長く止まらず、必要な物だけを選ぶ。密閉容器の売り場だけは一度手を止め、蓋の締まり具合を確かめて小さく笑った。
順子は言った。「こういうの、あると助かります。冷蔵庫が無い日でも、匂いを止められるから」
衣料品売り場へ移ると、スーツの布の匂いと、アイロンの熱が薄く混じっていた。順子は店員にサイズを告げ、男物と女物を必要分だけ揃えた。佑馬の分は落ち着いた色にし、達也の分は動きやすさを優先した。理恵の分は堅すぎない形のスーツと、歩いても足が痛みにくい靴を選び、肌着とストッキングも合わせた。
化粧品売り場は香りが濃く、照明が鏡の前だけ白い。順子は基礎化粧品と最低限の化粧品を選び、理恵の分は派手にならない色に絞った。箱が紙袋に入るたび、紙が擦れて乾いた音が出た。
会計ではレジの小さなベルが鳴り、レシートが熱い紙の匂いを出しながら長く伸びた。尚人は封筒から札を出し、店員が数える乾いた音を聞いた。順子は領収書を受け取り、品目と金額だけを目で追ってから財布に入れた。
係員が台車で車まで運び、荷室へ積み込むと、白い布袋が天井近くまで詰まり、車内が綿の匂いで満ちた。紙袋の持ち手が指に食い込み、ガサガサと擦れる音が小さく続いた。
尚人は順子に言った。「俺たちは中華に入ろう。買った物の確認もしながら、明日の話をしておきたい」
順子は頷いた。「いいですね。達也は腹を減らしてそうですけど、あの子は勝手に食べます。帰ってきたら何か置いておきます」
尚人と順子は駅前の中華料理屋に入った。暖簾をくぐると油の匂いと湯気が顔に当たり、鉄鍋が火に当たる音が近い。店内は人の声でざわつき、皿が重なる音が混じった。熱い茶を一口飲むと、喉の奥がほどけた。
順子は箸を割って言った。「社長、明日は私が先に書類を揃えます。現場の揉めごとは私の方で受けます。社長は決めるところだけ見てください」
尚人は言った。「頼りにしている。手順だけは飛ばすな」
順子は笑って言った。「そこは大丈夫です。達也は人が良すぎて、気づかない所で手を貸しちゃう。現場は目の届く範囲で使います」
尚人は言った。「分かった。俺の横で体で覚えさせる」
餃子は皮が熱く、噛むと肉汁が出た。酢豚は甘酸っぱく、衣がまだ軽く鳴る。炒飯は米がほぐれ、卵と油の匂いが立つ。順子はよく食べ、話しながらも箸の速度が落ちない。尚人も腹が満ちていくのを感じ、焦りが一段引いていった。
一方そのころ、佑馬たち3人は駅前でそれぞれ腹を満たしていた。達也は屋台の焼き鳥を頬張り、甘いタレと煙の匂いを服に移した。理恵は店のガラス越しに肩の入った服や髪型を眺め、1986年の空気を吸うのが楽しくて歩幅が少し速くなった。佑馬は人混みの外側を選び、古いカメラを胸に寄せたまま、角を曲がるときだけ一度シャッターを切った。撮った写真を見せるつもりはなく、ただ引き出しにしまう一枚を増やしたかった。
尚人と順子が店を出ると、夜風が頬に冷たく、街灯の光が路面に白い帯を作っていた。2人はワゴン車で自宅へ戻った。車内には布団の綿の匂いが残り、袋が揺れるたびに紙が擦れた。
その後しばらくして、佑馬たち3人も家へ戻ってきた。達也は焼き鳥の煙の匂いを残し、理恵は頬を少し紅くして笑い、佑馬は靴先を軽く払ってから玄関を上がった。5人が家で揃い、ようやく同じ夜の時間に戻った。
◇ ◇ ◇
自宅の廊下は静かで、蛍光灯の白い光が壁を平らに照らしていた。尚人は言った。「今日はここまでだ。お休みなさい。荷物は各自の部屋へ運び込もう。音は立てないように頼む」
順子は言った。「お休みなさい。布団は部屋の前まで運びます。達也、腹が減ってたら何か食べな。部屋に入ってからでいいから」
達也は素直に言った。「はい。ありがとうございます」
佑馬はうなずいて言った。「了解した」
理恵は笑って言った。「お休みなさい。明日、駅前をもう少し見たいです」
布団袋を抱えると腕が締まり、紙袋の持ち手が指に食い込んだ。布が擦れる音が廊下に小さく響き、綿の匂いが部屋の中へ入り込む。各自が自分の部屋へ運び込み、畳の上に置くと袋がふわりと沈んだ。最後に「お休みなさい」ともう一度だけ挨拶を交わし、扉が順番に閉まっていった。建物の中に、人が住む夜の気配が落ち着いた。
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購入明細(駅前百貨店)
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1. 寝具(4人分)
・敷布団 4組 156,000円
・掛布団 4組 188,000円
・枕 4個 24,000円
・枕カバー 4枚 3,200円
・敷カバー 4枚 24,000円
・掛カバー 4枚 28,000円
・シーツ 4枚 16,000円
・毛布 4枚 36,000円
・タオルケット 4枚 28,000円
小計 499,200円
2. 衣類(4人分)
佑馬分:スーツ1着、ワイシャツ3枚、ネクタイ2本、革靴、ベルト、靴下、肌着、簡易かばん
小計 138,600円
達也分:スーツ1着、ワイシャツ2枚、ネクタイ2本、革靴、ベルト、靴下、肌着、簡易かばん
小計 116,600円
理恵分:スーツ1着、ブラウス3枚、パンプス、ストッキング、肌着、手提げ
小計 128,100円
順子分:スーツ1着、ブラウス2枚、パンプス、肌着、手提げ
小計 135,600円
衣類小計 518,900円
3. 化粧品・衛生(4人分)
・順子分(基礎化粧品、ファンデーション、口紅など) 45,000円
・理恵分(基礎化粧品、リップ、簡易メイク) 38,000円
・男性2人分(整髪、ひげ剃り、制汗など) 16,000円
・石鹸、シャンプー、歯磨き、消耗品一式 16,800円
小計 115,800円
4. 生活小物(共同)
・バスタオル、フェイスタオル 12,000円
・ハンガー等 6,000円
・洗濯用品、洗剤類 6,000円
・置時計 4台 7,200円
・卓上灯 4台 28,000円
・洗面器、湯沸かしポット、密閉容器、布巾、砥石、簡易食器 34,800円
小計 94,000円
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購入合計 1,223,900円
購入後の必要経費用現金残 716万0500円(当初838万4400円)
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尚人は明細の紙を見下ろしたまま、頭の中で賃料をもう一度並べた。今夜決まった池袋と歌舞伎町、それに品川と横須賀で月1000万円。さらに五反田、葉山、三崎を合わせれば、保有物件の月の賃貸料は合計2000万円になる。競売に回す現金10億円を残したまま、この額が毎月入ってくる。尚人は紙を静かに畳み、明日から動かす金と物件の流れを思い描いた。
会社の役目、売却益、明日の出勤、駅前で揃えた布団と着替え。人が寝起きし、働くための形が、この夜でようやく整った。次は、1986年の会社へ家族を連れて行く朝になる。




