第10話(後編)――「路地の操作、畳の冷え」
翌朝、尚人は佑馬一家を呼び出し、ついに送信機を使う。ホーチミンの路地から跳んだ先にあったのは、1986年の横須賀の古い部屋だった。
(2026年1月20日火曜日午前7時半。ホーチミンの自宅)
尚人はスクーターで1区へ向かい、グエンフエ通りの近くに停めた。朝の通りは、人の数がまだ揃っていない。歩道清掃の水が石畳に残り、靴底が少しだけ滑る。屋台の湯気の匂いと、排気の匂いが混ざり、空気は重い。尚人は約束の時刻まで時間があるうちに、周囲を歩いて確かめた。
店の表通りから少し外れたところに、車も人も入ってこない小さな路地があった。壁は古い塗装が剥げ、足元に割れたタイルが残っている。見上げると、電線が低い位置で交差し、影が細く落ちていた。尚人はそこを覚え、戻る道も頭に入れた。誰かに見られずに立ち止まれる場所が要る。そこでリモコンを使うつもりだった。
◇
9時ちょうど、リバーブリーズ・カフェに佑馬一家が入ってきた。佑馬の妻、倉田順子(43)。娘の倉田理恵(24)。息子の倉田達也(22)。4人とも、急に呼ばれた顔をしている。身なりは整っているが、視線が落ち着かない。
尚人は席に座らせ、最初に言った。「落ち着いて聞いてくれ。今日ここに来た時点で、お前たちは俺の遠縁の親戚という扱いになっている。証明の類も整っている。だから、現地で身分の話をする必要はない」
佑馬は眉を寄せた。「会長、話が飛んでいます」
尚人は浅く頷いた。「順番に言う。まず、お前の父親、倉田俊介の件だ。俊介さんはフランス人の女に殺された。その女はその場から消えて、1986年の横須賀あたりへ跳んだ」
順子が口を開いた。「跳んだって……どういう意味ですか」
尚人はバッグを開け、手のひらに収まる機械を2つ置いた。どちらも見た目は古いテレビのリモコンに似ているが、角の作りと画面の光り方が違う。尚人は言った。「これが送信機〈リモコン〉だ。俺はこれで移動している。2つある。1つは、俺とその女が1986年へ行ったときに使った一方通行のものだ。俊介さんが作った可能性が高い。もう1つは俺が作った。これは往復できる」
達也が言葉を選びながら言った。「本当に、そんなことが……」
尚人は達也の目を見て言った。「本当だ。だから今から確認しに行く。お前たちには、一方通行のほうを使って1986年へ行ってもらう。このリモコンは、使うとその場に残る。だから順番に飛べる。最後に俺がもう1つのほうで飛ぶ」
佑馬はまだ理解が追いついていない顔だったが、声は落ち着かせた。「……分かりました。会長がそこまで言うなら、従います。ただ、向こうでどう動けばいいですか」
尚人は言った。「まず、俺が合図するまで勝手に外へ出ない。次に、現地では余計なことを言わない。質問はあとでまとめて受ける」
順子は息を吐き、理恵は手帳を取り出した。理恵は小さく言った。「要点だけ書きます」
尚人は頷いた。「それでいい」
◇ ◇ ◇
尚人は4人を連れて、先に見つけておいた路地へ入った。表通りのざわめきが一気に遠くなり、足音だけが壁に返る。湿った空気がこもり、汗が背中に貼りつく。尚人は立ち位置を決め、路地の入口と奥を一度見てから言った。「ここでやる。声は出すな。終わるまで動くな」
尚人は古いほうのリモコンを佑馬に渡した。画面には指示が出ていた。
「行きたい年代を押せ」
佑馬は喉を鳴らし、指先で1、9、8、6と押した。ゴムボタンが沈み、戻るたびに小さな音がした。尚人は続けて言った。「※を押してから1を押せ」
佑馬が言われたとおり操作すると、佑馬の姿が一瞬ゆらいだ。路地の空気が薄く裂けるように感じた直後、佑馬は消えた。足音も息も、途中で切れた。リモコンだけが地面に残った。
順子が思わず声を出しかけ、尚人が手を上げて止めた。尚人は低い声で言った。「順子、次だ」
順子も同じ操作をした。理恵も達也も続いた。4人が飛ぶたび、路地の温度が少しずつ変わる気がしたが、壁も床も何も変わらない。残ったのは、手元に戻る古いリモコンだけだった。
尚人はそれを回収し、バッグから新しいリモコンを取り出した。尚人は年号を入力し、最後の操作だけを変えた。尚人は※を押してから2を押した。押した年代の身体で行く操作だ。次の瞬間、路地の匂いが切れ、足元の感覚が抜けた。
◇
(1986年4月5日土曜日午後4時。横須賀:尚人の自宅アパート)
先に飛んだ佑馬は、畳の上に立っていた。足裏にひやりとした冷たさが返り、鼻の奥には乾いた古い部屋の匂いが入ってきた。洗剤の残り香に、流し台まわりの金属と水道管の匂いが薄く混じっている。
そこは1986年の横須賀にある尚人のアパートの一室だった。天井は低く、蛍光灯は消え、アルミサッシの窓の隅には白い結露の跡が残っていた。カーテンの隙間から夕方の細い光が差し、部屋の角の小机には灰皿とマッチ箱が置かれている。くすんだ蛇口と冷えた排水口まで、どれも古びたまま静かにそこにあった。
佑馬は部屋の中央で立ち尽くし、まず自分の両手を見た。次に足元の畳を見下ろし、最後に窓と玄関へ視線を走らせた。空気は乾いていて、鼻の奥が少しつんとした。窓の外からは遠い車の走行音が絶えず続き、ときおり鳥の声が細く混じった。階下の生活音も、壁の向こうでかすかに鳴っていた。
佑馬は小さく息をのんだあと、声をひそめて言った。
「……本当に、ここが1986年なんですか」
その声は畳に吸われるように沈み、部屋はまた静かになった。
尚人の姿はまだない。佑馬が息を吐いたところで、部屋の空気が一度だけゆれた。音は立たないのに、視界の端が揺らぎ、人が増える気配だけが先に来た。
順子が現れた。順子は立ったまま、反射的に窓と玄関の位置を確かめた。佑馬の顔を見て、尚人がいないことに気づき、声を落として言った。「会長はまだ来ていないのね。鍵はどうなっているの。外から入られたら困るでしょう」
佑馬は落ち着いて答えた。「順子、今は会長はいない。俺たちだけだ。落ち着け」
順子は息を抑え、部屋の壁を見回した。「分かった。大きい声は出さない。近所に聞こえる」
少し間を置いて、また空気がゆれた。理恵が現れ、畳を踏んだ瞬間に肩をすくめた。バッグの口を押さえ、机、流し、窓、玄関へ視線を順に滑らせた。理恵は小さく言った。「家具の位置が、すぐ頭に入ってきます」
最後に達也が飛んできた。達也は半歩よろけて畳に手をつき、藁の感触に顔をしかめた。達也は言いかけて、順子の視線で口を閉じ、声をひそめた。「部屋が古い。匂いも違う」
4人が揃った。室内の静けさがいっそう目立ち、冷蔵庫のモーター音のような低い唸りが耳についた。順子が玄関の方へ一歩動きかけ、佑馬が手で制した。
その直後、これまでより強い圧が来た。空気が一気に締まり、次の瞬間、部屋の中心に人影が立った。
早乙女尚人だった。だが年齢が違う。肌の張りがあり、目の下の影が薄い。1986年当時の尚人、22歳の姿だ。右手には新しい方のリモコンが握られていた。4人は一斉に息を止めた。
尚人は低い声で言った。「全員そろったな。騒ぐな。ここは1986年の俺の部屋だ」
佑馬はようやく声を出した。「会長……なんですか、その姿は」
尚人は答えた。「最後だけ操作を変えた」
順子は尚人の顔を見てから、部屋を見回した。「ここで全部話して下さい」
尚人は頷いた。「話す。ただし、要点だけだ。理恵、手帳を出せ」
尚人は全員に視線を配り、まず言い切った。「事実関係から話す。ここは1986年4月5日土曜日の午後4時だ。横須賀にある俺の持ちビルで、この一室を自宅代わりにしている」
佑馬は喉を鳴らし、順子は玄関と窓をもう一度見た。理恵は手帳を膝の上で開き、達也は畳に置いた手をそっと離した。畳の藁が指先に少し刺さる感触が残っていて、達也はそれを確かめるように指をこすった。
尚人は右手の送信機を見せた。プラスチックの角が手の熱でわずかに曇り、指の跡が光った。「2026年から1986年へ来る方法は2つある。1つは2026年の姿のままで来る方法だ。もう1つは1986年当時の姿で来る方法だ」
順子が眉を寄せた。尚人は続けた。「理恵と達也は、1986年にはまだ存在していない。だから2026年の姿で来る以外に選べない。佑馬と順子は1986年には生まれているが、年齢を合わせると4歳と3歳になる。現実的に、その姿で来る選択は取れない」
佑馬は口を開きかけて閉じ、息をふうっと吐いた。順子は唇を結び、理恵はペン先を手帳に当てたまま動かさなかった。達也は尚人の顔を見て、次に自分の腕を見た。皮膚の色と毛の生え方が、いま自分がどこにいるかとは関係なく、現実のものとしてそこにあった。
尚人は淡々と言った。「俺は元が62歳だ。1986年に合わせると22歳になる。誰が選んでも、22歳の尚人で来たいと思うだろう。俺はその方法を選んだ」
佑馬はようやく頷いた。順子は小さく息を吐き、理恵のペンが動き始めた。達也は視線を落とし、部屋の隅の埃の溜まり方を見ていた。掃除機の音がしない生活の跡が、薄い層になって残っている。
尚人は話題を切り替えた。「次に、俊介さんの話だ。俺の叔父で、佑馬の父親だ」
佑馬の肩がわずかに上がった。順子の目つきが硬くなり、理恵は手帳の上段に線を引いた。
尚人は言った。「俊介さんは2023年にフランス人の女に殺された。その女は俊介さんから送信機と仕様書を奪って逃げた」
順子が低い声で言った。「奪って、逃げた」
尚人は頷いた。「その3年後、その女はホーチミンの銀行マンの鳴海と結婚した。女は鳴海に3億円の生命保険をかけて、鳴海を殺した」
部屋の空気が一段重くなったように感じた。外の車の音が一瞬遠のき、代わりに部屋の中の呼吸の音が耳についた。達也が唾を飲み、喉が鳴った。
尚人は続けた。「今度は完全には逃げ切れなかった。捜査の手が女に伸びた。追い詰められた女は、俊介さんが作った送信機を使って1986年の横須賀方面へ跳んだ」
佑馬は視線を動かさずに聞いていたが、握った拳の関節が白くなっていた。順子は玄関の方を見てから尚人に戻し、理恵は文字を詰めすぎないように、行を変えながら書いた。
尚人は続けた。「鳴海が殺された部屋は、ホーチミンにある俺の持ちビルの一室だ。鳴海はその部屋を借りて、女と生活していた。そこで殺された鳴海は地縛霊になった」
達也が思わず眉を上げた。だが口は挟まなかった。理恵のペンが一瞬止まり、次の行に静かに書き足した。
尚人は言った。「鳴海は俺に訴えた。殺人犯のフランス女を探して、恨みを晴らしてくれ、と」
尚人の声は低かったが、言葉ははっきりしていた。机の上の灰皿が、窓からの光を受けて鈍く光る。マッチ箱の角が擦れていて、誰かが何度も指で押さえた跡がある。
尚人は手の中の送信機を軽く叩いた。「だから俺も、この仕組みを使って1986年の横須賀に来た。操作して分かったのは、俊介さんがタイムトラベルできる機械を発明していたことだ。俺はそれを追いかけて、苦労して自分でも送信機を作った。往復できるやつだ」
佑馬は目を伏せ、小さく言った。「父は……そこまでのものを」
尚人は頷いた。「そうだ。だから、女がここにいる可能性がある以上、俺はここで探す。お前たちは巻き込んだが、理由はこれだ」
順子は尚人の横顔を見たあと、落ち着いた声で言った。「つまり会長は、女を見つけて、鳴海さんの件と、お義父さん〈倉田俊介〉の件のケリをここでつけたい。そういうことですね」
尚人は答えた。「そうだ」
理恵は顔を上げずに言った。「いまの説明で、会長が何をしようとしているかは分かりました。私は要点だけ残しておきます」
達也は息を吐き、畳にもう一度触れた。冷たさがまだ残っている。「……信じるしかない。現にここにいる」
ホーチミンの路地から横須賀の畳の上へ移ったことで、尚人の話は仮説ではなくなった。佑馬一家はここから、1986年の現実の中で動くことになる。




