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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第三章――「逆アセンブラの女と会社設立を決めた日」

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第10話(前編)――「朝の電話、若い客の顔」

尚人は、叔父の死の真相を追うため、身内を少しずつ巻き込み始める。まず声をかけたのは、甥の佑馬と、ホーチミンで暮らす娘の美咲、そして孫の直樹だった。

 (2026年1月19日月曜日午前7時半。ホーチミンの自宅)


 午前中の光がまだ薄い時間に、尚人は甥の倉田佑馬(ゆうま)(44)へ電話をかけた。佑馬は早乙女不動産㈱の関連会社で賃貸部門を預かっており、社内では現場と資料の両方を見られる男として通っている。呼び出し音の向こうで、受話器が取られる気配がした。


 佑馬は少し眠そうな声で言った。「ああ、会長ですか。朝早くから何のご用ですか」


 尚人は息を整えてから言った。「倉田くんか。実はな、お前の父親の消息が分かりそうなんだ。詳しいことは会ってから話す。大事な話がある。家族全員で来てくれないか」


 佑馬の声が硬くなった。「父の、消息ですか。分かりました。みんなを連れて行きます。どこへ行けばいいですか」


 尚人は少し間を置いた。「明日の9時に、リバーブリーズ・カフェでどうだ」


 佑馬はすぐに答えた。「確か、1区のグエンフエ通りですね。分かりました。伺います」


 尚人は念を押すように言った。「頼んだぞ」


 ◇ ◇ ◇


 (2026年1月19日月曜日午前7時45分。ホーチミンの自宅)


 尚人は、次に娘のモロー美咲〈36〉へ電話した。スマートフォンを耳に当てると、窓の外を流れる朝の車の音が、薄いガラス越しに遠く鳴っていた。ホーチミンの空気は朝からぬるく、冷房を入れた室内にいても、肌の表面にうっすら湿り気が残る。呼び出し音が2回続いたあと、受話器の向こうで女の声がした。


「あら、お父さんなの? 随分久しぶりね」


 美咲の声は明るかったが、少し鼻にかかっていて、若いころの面影が残っていた。尚人は椅子に腰を下ろし、机の上の灰皿の横に指先を置いた。


「うん。直樹はいるか。いたら替わってくれ」


「分かったわ。ちょっと待ってね」


 少し離れたところで、美咲が呼ぶ声が聞こえた。


「直樹。お祖父ちゃんから電話よ」


 床を歩く足音が近づき、受話器が替わる気配がした。若い男の呼吸が、ほんの少しだけ受話口に触れた。


「もしもし、直樹です。何か用なの?」


 声は若々しかったが、響きはもう大人の男のものだった。尚人は窓の外へ目をやった。白い日差しが向かいの壁に反射して、室内の床に鈍く照り返している。


「電話じゃ話せないような、込み入った用件なんだ」


「分かったよ。今からお祖父ちゃんの家に行く。30分もあれば着くから、待っていてね」


 返事に迷いがなかった。尚人は浅く息をつき、通話を切った。


 30分後、エレベーターが上がってくる低い機械音が廊下の奥から聞こえた。間を置いて、扉が開く乾いた音がした。続いて、磨かれた床を踏む足音がまっすぐこちらへ近づいてくる。急ぎすぎず、だがためらいもない歩き方だった。


 先に気づいたのは、台所にいたミン・ハ〈24〉だった。彼女は切ったばかりの青ねぎを小皿に移していた手を止め、廊下のほうを振り向いた。揚げにんにくの香りと、炊きたての米の湯気がまだ台所に残っている。リエン〈40〉は熱い茶を湯のみに移していたが、来客の気配を察すると、盆を持ったまま居間の入口へ顔を出した。


 次の瞬間、2人はそろって動きを止めた。


 廊下の先に立っていた直樹は、ひと目で人の視線を引く男だった。背が高く、肩と胸に無理のない厚みがある。肌は日本人の血の白さを残しながら、南の陽を少しだけ受けた柔らかな色をしていた。鼻筋は通り、額から鼻先へ落ちる線がきれいだった。目は深く、睫毛が長い。黒に近い髪の下で、瞳だけがわずかに明るく見える。顔立ちそのものは整っているのに、冷たさはなく、若さの清潔さが前に出ていた。薄手のシャツの胸元には、外の熱気を吸ってきた空気がまだ残っており、近づくと、石鹸の匂いに街の埃とスクーターの排気がかすかに混じった。


 ミン・ハは思わず目を丸くし、小さく息をのんだ。


「まあ……」


 言葉がそれだけで切れた。驚きが先に立ち、笑顔が遅れて顔いっぱいに広がる。リエンは盆を落としそうになって持ち直し、すぐに背筋を伸ばした。


「お客様ですね。どうぞ、どうぞお入りください」


 いつもより声が明るかった。直樹が軽く会釈すると、その仕草まで妙に品よく見えた。ミン・ハはもう台所へ引き返しかけていた。


「冷たいお茶を出します。いえ、果物も切ります。今すぐ」


「私が皿を出しますよ」とリエンがすぐに続けた。「こんな暑い中をいらしたんですもの」


 2人の動きは露骨なほど早かった。冷蔵庫の扉が開き、氷の触れ合う音が鳴る。ガラス皿を重ねる音、包丁が果物の皮を裂く軽い音、盆を置き換える音が、いつもより少し高い調子で続いた。2人とも、台所と居間を行き来するたびに、ちらちらと直樹のほうを見ていた。


 直樹は少し困ったように笑った。その笑顔がまたよかった。口元だけでなく、目の奥までやわらぐのである。ミン・ハはそのたびに頬をゆるめ、リエンは年長らしく落ち着いた顔を作ろうとしながら、結局は機嫌のよさを隠しきれなかった。


「直樹様はこちらへどうぞ」


 リエンが座布団を整えながら言った。「何か召し上がりますか。甘いものでも、塩気のあるものでもすぐ用意できます」


「ありがとうございます。でも、まずはお祖父ちゃんに」


 そう答える声まで、耳に残る澄み方をしていた。


 尚人は、そのやり取りを部屋の奥から黙って見ていた。直樹がハーフで、しかも群を抜いて顔立ちのよい青年であることは知っていたが、こうして初対面の女たちの反応を見ると、その威力が思った以上であることがよく分かった。若いミン・ハが目を輝かせるのはまだしも、ふだん滅多に取り乱さないリエンまで、盆を持つ手つきに浮き立つものが出ている。尚人は喉の奥で小さく笑い、手で合図した。


「直樹。こっちへ来い」


「うん」


 直樹が部屋に入ると、ミン・ハとリエンは名残惜しそうにそれぞれ盆と皿を置き、扉の外へ下がった。それでも完全には離れず、廊下の気配でこちらをうかがっているのが分かった。尚人が扉を閉めると、外の食器の触れ合う音が薄くなり、部屋の中には冷房の風の音だけが残った。


 直樹は座るなり、少し首をかしげた。


「何だか歓迎されすぎた気がするね」


「お前の顔のせいだ」


 尚人が言うと、直樹は苦笑した。


「それ、褒めてるの?」


「事実を言ってるだけだ」


 尚人は机の引き出しから封筒とノートを取り出し、直樹の前に置いた。厚紙の封筒は中に現金が入っているぶんだけ膨らみ、ノートの表紙は何度も開いたため角が白く擦れていた。さらに、透明袋に入れた紙束と、小さな送信機の部品図も机の上へ広げた。


 直樹の顔つきがすぐ変わった。さっきまでの和やかさが引き、理工系の学生らしい集中が目に出た。紙へ落ちる視線が鋭くなる。


「お祖父ちゃん。それで、僕はどうしたらいいの?」


 尚人は、俊介が殺された経緯、フランス人女性が送信機を奪って1986年へ跳んだこと、鳴海の地縛霊がなお残っていること、自分が佑馬一家を1986年へ連れて行くつもりでいることを、順を追って話した。話すあいだ、部屋の空気は冷えているのに、言葉の内容だけが熱を帯びていくようだった。直樹は一度も口を挟まずに聞き、必要なところだけ小さく頷いた。


 説明が終わると、彼は視線を上げた。


「僕も、佑馬さんたちと一緒に行きたいな」


 言い方は静かだったが、気持ちははっきりしていた。尚人は首を横に振った。


「そうしてもいいが、お前の存在がフランス人女性に知られると、お前も危険になる」


 直樹は黙った。窓の外から遠くクラクションが聞こえ、またすぐに消えた。尚人は机の上の紙束を指先で押さえた。


「だから、お前には別の役をやってもらう」


 尚人はQICと仕様書、それに20桁の起動キーを書いた紙を、1つずつ順に直樹の前へ滑らせた。紙の擦れる音が、静かな部屋でやけにはっきりした。


「これをよく読め。送信機〈リモコン〉を2台作れ。作成したら、その2台は程なくして合体し、1台となる」


 直樹は紙を手に取った。インクの匂いと、古い紙の乾いた匂いがわずかに立った。彼は最初の数行に目を走らせただけで、内容の異様さよりも構造へ先に関心を向けている顔になった。


「そのリモコンが、往復用の送信機になるんだね」


「そうだ。俺も1986年にしか行ったことはないがな」


 尚人は封筒を押し出した。中の札の角が紙越しに硬く当たる。


「当座の資金100万円と、葉山のテラスの住所とキーを渡しておく」


 直樹は封筒を受け取り、その重みを掌で確かめた。現金の重さは、若い男の顔つきを急に現実へ引き戻す力がある。


「行き先に着いたら、まず俺に連絡しろ。一緒に葉山へ行く」


 直樹は顔を上げた。瞳の奥に、若さゆえの怖さと、それでも前へ出る気持ちが並んで見えた。だが声は揺れなかった。


「分かったよ」


 言い終えたあと、彼はもう一度仕様書へ目を落とした。部屋の中では冷房の風が紙の端をかすかに持ち上げ、外ではホーチミンの昼が少しずつ濃くなっていた。扉の向こうでは、まだミン・ハとリエンが何か話している気配がある。2人とも、突然現れた若い客の顔が頭から離れないらしく、弾むような小声がときどき廊下に漏れた。


 尚人はそれを聞きながら、目の前の孫を見た。整いすぎた顔立ちの奥に、頭の回転の速さと、まだ削られていない若さがあった。この青年なら、危うい賭けの中でも道具を作り、言われたとおりに動くかもしれない。そう思わせるだけの静かな力が、直樹にはあった。

電話1本で済む話ではない。尚人はそう判断し、佑馬一家とは別に、美咲と直樹にも役目を振り始めた。次は、いよいよ家族を1986年へ送る段取りに入る。

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