表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第三章――「逆アセンブラの女と会社設立を決めた日」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

50/67

第9話――「起動キーの文字、練乳の朝」

1986年4月5日土曜日の午後、尚人は杉山工業で組み上げた送信機の片方が消えていることに気づく。机の上に残った1台は、もはや町工場で作った試作品ではなく、向こう側とこちら側をつなぐ道具へ変わり始めていた。画面に出た『往復可能』の文字、真理子から伝えられる12桁の数字、そして尚人自身の手で押す起動キー。畳の部屋の静けさの中で始まった確認は、やがてホーチミンの朝へつながっていく。

 (1986年4月5日土曜日。横須賀:尚人の自宅アパート)


 尚人が玄関の鍵を回すと、金属が擦れる音が小さく鳴り、部屋の中の静けさが耳に広がった。外の潮の匂いは扉の隙間で止まり、代わりに、畳と洗剤の残り香が薄く戻ってくる。靴を脱いだ足裏に床の冷たさが移り、指先にはまだ、はんだとフラックスの甘い焦げがわずかに残っていた。


 机の上にカバンを置くと、革が沈んで鈍い音がした。ファスナーを引く。歯が噛み合う乾いた音が続き、口が開いた瞬間、布の中にこもっていた体温がふっと抜けた。尚人は送信機の入れてある内ポケットを探り、指を差し入れた。あるはずの硬い角が1つしか当たらない。もう一度、底を撫でる。布の縫い目が指に引っかかり、指先が空を掴む。


 尚人は息を止めたまま、カバンを逆さにして机へ傾けた。手帳、工具の小袋、レシートの束が滑り落ち、最後に送信機が1つだけ、こつりと角を鳴らして止まった。もう1つは出てこない。机の上を目で追い、床へ視線を落とし、椅子の下まで覗いたが、何もない。


 掌に残った送信機は、思ったより重く感じた。ケースの角は冷たく、ねじ頭の小さな出っ張りが皮膚に当たる。尚人が電源を確かめるように親指を置いたとき、画面が先に光った。蛍光灯の白さとは違う、青白い薄い光だ。そこに、文字が揃って出ていた。


 『完了。起動キーを入力すれば往復可能』


 尚人は声に出さずに読んだ。「完了……」と唇だけが動き、喉の奥が少し乾いた。誰が、何を終えたのか。自分が知らないところで作業が進んだのか。それとも、もう1台が勝手に動いて、何かを成立させたのか。送信機が2つあったことを、指先がいちばんよく覚えている。今日、工場でねじを締め、確認の灯りが規則正しく点いて消えるのを見た。2台とも、確かに揃っていた。


 尚人の頭の中に、来る前の手応えが浮かんだ。あの時は、リモコンを握った感触が途切れたところで終わり、こちらへ来る途中に、持ち物の段取りが崩れた。持って来られなかったのは、道具の都合ではない。仕組みの都合だ。だからこそ、画面の「往復可能」という文字が、妙に現実味を帯びた。いま手の中にあるのは、ただの試作品ではない。向こう側とこちら側を、同じ手で扱える形に変わった可能性がある。


 ただし条件が付いている。起動キー。尚人は目を細め、画面の文字の端を追った。続きはない。番号も、入力欄もない。起動キーそのものは書かれていない。説明のない断言だけが残り、余計に胸がざわついた。往復できると言われても、鍵穴がどこにあるのか分からないままだ。


 尚人は送信機を机の上に置き、指の腹で画面の縁をそっと押した。硬い。温度が戻らない。時計の秒針が台所のほうで刻み、冷蔵庫のモーターが一度だけ低く唸った。部屋の音が平常に流れるほど、机の上の1行が異物として浮いて見えた。


 送信機の押しボタンは0〜9の10個と#と※の計12個だ。#は確定(決定)キーと仕様書に書いてあったことを思い出した。


(そうだ。仕様書の最後に、1行だけ赤鉛筆の書き込みが残っていたな)


 尚人は仕様書を取り出し確認した。


 「KEY.TBL=起動キー入力手順(数字12桁の入力と、#で確定する手順)/EPROMには起動キー照合の処理が格納されている」


 (ああ、そうか。起動キーは、12個の数字か。リモコン〈送信機〉の数字ボタンを押して、最後に#を押せば良いのだな)


 尚人は小さく息を吐き、送信機を両手で包んだ。外の足音はない。隣の部屋の気配もない。それでも、もう自分だけの部屋ではない気がした。画面の文字は消えず、一定の明るさでそこにあった。尚人は背筋を伸ばし、机の上の散らばった物を端へ寄せながら、頭の中で1つだけ言い直した。


 戻れるかもしれない。ただし、起動キーが要る。


 ◇ ◇ ◇


 尚人は机の上にリモコンを置き、立ち上がって窓を開けた。窓の外は曇っていて、線路のほうから警笛がひとつ届いた。


 しばらくして電話のベルが鳴り、尚人は受話器を取った。2,3回で呼び出し音が切れ、相手の声が入った。回線の向こうに、乾いた雑音が薄く混じっている。


 「見たよ。あんたが渡したやつ」


 「どうだった」


 「妙なものがあったわ。図形の計算とは違う場所よ。そこに、12桁の数字コードが埋まってるの」


 尚人はメモと鉛筆を取り出した。


 「言ってくれ。書く」


 彼女は一度だけ息を吸い、淡々と12桁を読み上げた。尚人は聞き返さなかった。ここで口を挟むと、相手の区切りと自分の書き取りの調子が狂うと思ったからだ。鉛筆の芯が紙に擦れ、12桁が一気に並んだ。


 「これで終わりか」


 「私はそう思う。そこだけ、わざと目立たないように隠してあるからね。いまの実行には要らないわ。なのに残ってる。だから変なのよ」


 尚人は受話器を耳に当てたまま、書いた12桁をもう1度なぞった。数字の形が、鉛筆の圧で少し黒くなる。


 「助かった。ありがとう」


 「用途は聞かない。そういう約束でしょ」


 電話が切れた。受話器を置く音が部屋に残り、次に空調の音だけが戻ってきた。


 ◇ ◇ ◇


 尚人はしばらくリモコンの画面を見た。ここへ来るときは、リモコンを持って来られなかった。あのときは、鳴海の部屋に置かれた古いリモコンを使うしかなかったはずだ。ならば『往復可能』とは、今はこれを持ち運べるという意味なのか。片道ではなく、行って戻り、また行けるということなのか。


 尚人はリモコンを手に取り、20桁の起動キーを押した。最後に#を押すと、画面が一度暗くなり、すぐに文字が浮かび上がった。


 行きたい年代を押せ。


 尚人は指先で、2、0、2、6と順に押した。ゴムが沈み、戻るたびに小さく鳴る。続けて、注意書きが表示された。尚人は画面を追い、黙って読み下した。


 「※を押してから1を押す」と、そのままの身体で行ける。

 「※を押してから2を押す」と、押した年代の身体で行ける。


 尚人はリュックの中身を開いて確認した。当面必要なものは入れてある。それでももう一度だけ、財布、鍵、紙類が手元にあることを確かめた。尚人は※を押してから2を押した。


 ◇ ◇ ◇


 耳の奥が詰まった。部屋の空気が遠ざかり、足元の感覚が一拍遅れてほどけた。息を吸ったのに、肺の奥まで空気が届かないような感じがして、喉の奥に金属の味が残った。


 背中が硬いものに当たり、尚人はすぐには動かなかった。鼻に入った空気は、ついさっきまでの畳の部屋と違う。冷たく、湿っていて、塩の匂いが混じっている。ゆっくり目を開けると、頭上は低いコンクリートの天井だった。壁には白い塗装がまだらに残り、裸電球が1つ、赤みがかった光を細く揺らしていた。遠くで鈍い衝撃音が続いている。波が外壁を叩いているのだと、体が先に理解した。床のどこかで水滴が落ち、薄い水が靴の下を細く走っていた。


 尚人は起き上がった。四角い小部屋だった。壁の塗装の端に、見覚えのある手書きが残っている。


 「設置 1980」


 数字の書き方に見覚えがあった。叔父の癖だ。横棒を少しだけ長く引く、あの書き方だった。


 背後を振り返ると、青い光が壁の角で滲んでいた。来た側の時間が、まだ閉じ切っていない。正面の壁だけが、水面のようにわずかに揺れている。その奥には、今度も湿った赤い光が脈を打っていた。海の塩気の中に、冷房の乾いた気配がかすかに混じる。


 尚人はリュックの肩紐を握り直した。もう一度だけ青い光を見てから、正面の揺らぎへ足を踏み入れた。


 ◇ ◇ ◇


 次の瞬間、足元の感覚が薄くなり、部屋の音が遠のいた。視界が一拍遅れて追いつく。息を吸ったのに、肺の奥まで空気が届かないような感じがして、喉の奥に金属の味が残った。


 尚人が目を開けると、ホーチミンの持ちビルの中にいた。鳴海が地縛霊と成り果てた、あの部屋である。目の前のテーブルには、古びたリモコンが置いてあった。以前、ここで使っていたほうだ。


 尚人の左手には、今しがた握っていた新しいリモコンがある。背中のリュックもそのままだ。尚人は2つのリモコンを並べ、間違いがないことを確かめてから、どちらもリュックにしまった。部屋を出ると足音が吸われ、廊下の冷房の風が肌をなでた。


 尚人はそのまま、リエン〈40〉とミン・ハ〈24〉が眠っている部屋に入った。2人の寝息は深く、寝具には湯上がりの石鹸の匂いが残っている。尚人は音を立てないように横になり、目を閉じた。送信機の硬さだけが、手の中にまだ残っていた。


 (2026年1月19日火曜日。午前6時)


 尚人は目を開けた。冷房の風が弱くなっていて、肌の表面に薄い汗が戻りかけている。枕元の布はまだ冷たく、頬に当たる感触が少しだけ湿っていた。窓の外から、早い時間のバイクの音が細く混じってくる。クラクションはまだ少ないが、遠くで誰かが荷を下ろす金属音がした。


 鼻をくすぐる匂いが、先に腹を起こした。魚醤の鋭い塩気に、炭火の煙の甘い焦げが重なっている。香草の青い匂いがその上に乗り、熱い湯気が廊下へ流れてきていた。尚人が身を起こすと、胃の底が静かに動いた。夜更けの気配は、もう部屋の角へ押しやられている。


 扉の向こうで足音が止まり、ミン・ハが声を落として母に言った。「起きたみたい。先に顔を洗ってもらおう。寝起きのまま台所に連れて来ると、本人もつらいでしょう」


 リエンは小さく笑った。「起きたらすぐ食べたがる男は多いけど、この人は違うよ。外へ出る前に、いったん仕事の顔に切り替える。そういう癖がある」


 ミン・ハが尚人の部屋に入ってきた。髪はきちんとまとめてあり、素足で歩く音が軽い。手には小さな盆があり、白いタオルと、ぬるい水を入れた器が載っていた。タオルから石鹸の匂いがした。昨夜の湯上がりの匂いとは違い、朝の匂いだ。


 ミン・ハは尚人の前に盆を置き、穏やかに言った。「顔を拭いて。まだ目が半分寝ている。冷たい水じゃないから、すぐ楽になる」


 尚人は苦笑して手を伸ばした。「分かった。自分でやるよ」


 ミン・ハは首を振った。「だめ。爪が少し長いでしょう。自分で拭くと、つい目をこすって痛くする。私がやる。じっとして」


 彼女はタオルを絞り、尚人の額から頬へ、ゆっくりと拭いた。熱ではなく、ほどよい温かさが皮膚に広がり、眠りの膜がはがれていく。タオルの繊維が細かく当たり、鼻の横の皮膚が少しだけくすぐったい。ミン・ハの指先は迷いがなく、手際がいい。


 リエンは廊下から顔を出し、声をかけた。「コーヒーは甘いほうがいい? 練乳を入れるよ」


 尚人は目を瞬かせた。「甘いのは好きだ。頼む」


 台所のほうでカップが触れ合う音がした。湯が注がれる音が続き、次に、スプーンが陶器に当たる小さな高い音がした。空気に苦い香りが立ち、すぐに甘い匂いが混ざった。尚人は喉の渇きを思い出し、唾を飲み込んだ。


 ミン・ハは尚人の顎を軽く持ち上げ、顔をのぞき込んだ。「ひげが少し伸びている。剃っておいたほうがいい。今日は外へ出るつもりでしょう」


 尚人が返す前に、リエンが洗面の道具を持ってきた。古い棚から出したような小さな鏡、剃刀、白い泡の缶。金属が触れる冷たい音がして、尚人の手に剃刀が渡った。剃刀の柄は濡れた指に少し滑る。泡を頬に伸ばすと、石鹸の匂いが鼻を抜けた。冷房の風が泡の表面を少し乾かし、皮膚が引き締まる。


 ミン・ハは脇から鏡の角度を変えた。「そこ。顎の下が残りやすい。少し上を向いて」


 尚人は言われたとおり顎を上げ、刃を入れた。泡が薄く削れ、刃が毛を切る感触が指に返った。すすぎの水が器に落ちる音が、朝の静けさの中で妙に大きく響く。最後にタオルで拭くと、頬が少しだけひりついた。眠気の代わりに、頭の芯が澄んでくる。


 台所のテーブルには、もう朝食が並んでいた。白い皿に温いバインミーが半分に切られ、焼いた肉の匂いが立っている。香草ときゅうりの青さが見え、漬けた大根と人参が水気を光らせていた。小さな器には熱いスープがあり、表面に油の粒が丸く浮いている。湯気の向こうで、刻んだねぎがゆらいだ。別の皿には果物が切られ、マンゴーの甘い匂いが台所の端に溜まっていた。


 リエンはコーヒーを置き、尚人の前に椅子を引いた。「熱いから、先に一口だけ飲んで。喉を落ち着かせてから食べたほうがいい」


 尚人がカップを持つと、陶器が手のひらにずしりと乗った。口をつけると、苦みと甘さが一緒に舌に来る。練乳の甘さは強いが、後にコーヒーの香りが残り、喉の奥が温まった。窓の外の音が、少しだけ近く感じられる。


 ミン・ハは尚人の肩に手を置き、背筋を伸ばさせた。「食べる前に、服を整えよう。しわがあると、あなたはあとで気にする。私も気になる」


 尚人は笑った。「まだ食べさせないのか」


 ミン・ハは真顔のまま言った。「先に服。食べ始めると、ソースが落ちる。服に付いたら、私が後始末をすることになる」


 リエンも頷いた。「この人、味は分かるけど、手元が雑なところがある。だから先に着替えて、襟も袖もきちんとしよう」


 2人は迷いなく動いた。尚人のシャツを肩に当て、襟を指で整え、袖口を揃える。布が擦れる音が近い。香水ではなく、洗濯した布の匂いと、ミン・ハの髪の匂いが混ざった。尚人の胸の前でボタンが留められ、指先が一瞬だけ肌に触れる。熱いというほどではないが、人の体温が確かにあった。


 ミン・ハは尚人の髪を指で梳き、言った。「髪が寝ている。少し水をつける。すぐ終わるから」


 リエンが小さな霧吹きを渡し、ミン・ハが軽く吹いた。水滴が髪に落ち、冷たい感触が頭皮に散った。ミン・ハは掌で形を作り、前髪の癖を押さえた。尚人は黙って従った。抵抗すると長くなると分かっている。


 支度が一段落すると、リエンが尚人の前に皿を寄せた。「さあ、食べよう。今日は体を使う日になる。だから少し多めにしてある」


 尚人はバインミーを手に取った。パンは外が硬く、指に軽い反発がある。噛むと、ぱりっと音がして中がふわりと潰れた。肉の脂と魚醤の塩気が広がり、香草の苦みがすぐに追いかけてきた。漬け野菜の酸味が口の中を明るくし、朝の重さがほどけていく。熱いスープをすすれば、喉の奥に湯気が落ち、胃の底がさらに動いた。


 ミン・ハは尚人の箸の持ち方を見て、少し笑った。「昨日より上手になった。ちゃんと食べる顔になっている」


 尚人は口の中を片づけてから答えた。「お前らが用意してくれるからだ。ありがたい」


 リエンは手を止めずに言った。「お礼は食べきってから言いなさい。残したら、私は本気で怒るよ」


 台所の時計が小さく刻み、外のバイクが増えていく。窓の隙間から湿った空気が入り、香草の匂いと混じった。尚人はコーヒーをもう一口飲み、息を吐いた。眠りは完全に引き、身体は軽くなっていた。今朝の段取りを2人が勝手に整えたことが、妙に頼もしく、そして少しだけ可笑しかった。

この回では、尚人の手の中にある送信機が、ただの試作品ではなく時間を往復する道具として輪郭を持ち始める。前半では、横須賀の静かな部屋の中で、消えた1台と『往復可能』の表示が不気味な現実味を帯び、真理子から伝えられた12桁の数字がそれを実行の手順へ変える。後半では、畳の部屋の冷え、海に近い中間の小部屋、ホーチミンの冷房、そしてリエンとミン・ハが整える朝食までが切れずにつながる。起動キーの文字、喉に残る金属の味、練乳の甘さが同じ線の上に並ぶことで、第三章の時間移動はここで片道ではなく、戻れるものとして動き始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ