第6話――「石けんの甘さ、電卓の乾音」
1986年4月4日未明、尚人は涼子ママのマンションで夜を過ごし、朝が明ける前に静かに部屋を出る。駅前で立ち食いそばとホテルの朝食を腹に入れたあと、杉浦へ電話を入れ、長期保有の賃貸運営と短期の土地売買を分ける方針を固める。さらに品川の事務所では、横須賀と品川を残し、都内4棟を売却対象にする整理が進む。その一方で、五反田、葉山、三崎の3件も現在の保有としてきちんと並べ直される。夜の余韻がまだ身体に残る一方で、尚人の頭はすでに次の数字と役割分担へ向かっている。
(1986年4月4日金曜日午前0時すぎ、横須賀、涼子ママのマンション)
最後の客が引け、ゆかりが上がってから、尚人と涼子は連れ立って店を出た。夜風の冷たさはまだ薄く、路地に残る油の匂いに、遠い車の排気が混ざって鼻に入った。涼子は歩く速さを崩さない。店で見せる笑顔のままなのに、指先だけが少し急いでいる。鍵束が小さく鳴り、街灯の下で金属が一度だけ光った。
マンションは店から5分ほどの場所にあった。共用廊下には昼間の湿り気が残り、コンクリートがわずかに冷たい。涼子はドアを開けると、靴をそろえ、尚人を招き入れた。室内は静かで、壁の薄い時計が秒を刻む音が聞こえた。奥の部屋からは気配がない。息子はもう眠っているのだろう。
涼子は照明を落とし、カーテンを引いた。明るさが変わると、店の外の世界が遠くなる。涼子はバッグを置き、指先で髪を整えた。ボディコンの金の布は光を拾い、動くたびに細い擦れ音を立てた。涼子は尚人に背を向けたまま言った。
「着替えるね。すぐ戻るから」
声は店のときより低く、飾りがない。
寝室の扉が静かに閉まり、しばらくしてまた開いた。涼子は薄い水色の部屋着に変わっていた。肩と腰の線が少しやわらぎ、肌の温度が近く感じられる。尚人はその変化で、場の空気がほどけるのを覚えた。
2人は小さなテーブルでビールを開けた。缶のプルタブがはじけ、炭酸が小さく鳴った。口に含むと苦みが先に立ち、あとから冷たさが舌に残る。涼子は一口飲んでから息を吐くように笑った。
「ここはね、誰にも見られないから楽なの」
尚人はうなずき、缶の水滴を指で拭った。テーブルの木目に薄い輪ができていく。
言葉は長く続かなかった。涼子が尚人のシャツの襟に触れ、ボタンを1つずつ外した。指先が布を押し、外気で冷えた金具が肌をかすめる。尚人は立ち上がり、涼子の肩に手を置いた。互いの呼吸の温かさが近づき、さっきまでのビールの冷たさが遠のいた。
浴室へ向かうとタイルの匂いがした。換気扇の低い音が続き、蛇口をひねると水が管を走る音が壁の中で鳴った。湯が出始めるまでの冷たい水が指先に当たり、すぐ温度が変わる。湯気が立ち、鏡がゆっくり曇っていった。
涼子は棚から石けんを取り、泡を立てた。泡は白く、指の間で柔らかくつぶれる。涼子の手が尚人の肩から腕へ滑り、泡の感触が肌に広がった。洗う動きは急がない。強さを変え、指の腹で確かめるように往復する。湯が背中を打ち、耳の後ろを流れ落ちると、音が少し大きく聞こえた。
尚人も涼子に向き合い、同じように泡を乗せた。髪の先から肩、鎖骨のあたりへ、泡が薄く伸びていく。涼子のまつ毛に水滴が乗り、頬を伝った。涼子は目を細め、尚人を見上げた。
「こんなに丁寧に扱われるのは初めてよ。尚人君は優しいわね」
褒め言葉というより、驚きの告白に近い言い方だった。
浴室を出ると、肌に空気が触れて一瞬だけ寒い。タオルの繊維が背中をこすり、乾いた音がする。部屋へ戻る途中、涼子は息子の部屋の前で足を止めた。扉の向こうは静まり返り、寝息すら聞こえない。涼子はそれを確かめるだけで、何も言わずに尚人の手を取った。
寝室の灯りは弱く、シーツは昼の熱を失ってひんやりしていた。2人が横になると、布がたわみ、体重の沈む気配がわずかに伝わった。涼子の髪が枕に広がり、濡れた名残の匂いが近い。肩と胸が触れるたび、乾ききっていないところだけが少し粘り、すぐ体温でなじむ。
涼子は尚人の胸に頬を寄せ、呼吸を合わせるように息を吸った。尚人は涼子の背中に手を回し、骨の位置と筋肉の柔らかさを確かめた。店のボックス席での出来事とは違う。壁の薄い部屋の静けさの中で、互いの動きが、そのまま確かな時間になっていく。
やがて言葉も切れた。外の車の音は遠く、代わりにシーツの擦れと、息の増える音だけが残った。涼子の指先が尚人の手を探して絡み、尚人はその指を握り返した。握る強さは少しずつ変わり、最後には力が抜けていった。
目が覚めたとき、部屋はまだ薄暗かった。カーテンの隙間から朝の色が滲み、空気は夜より乾いている。涼子は尚人の腕の中で眠っていた。息は静かで、口元だけが少し笑っているように見えた。尚人は動かず、天井の白さを見た。昨夜の湯気の匂いと石けんの甘さが、まだシーツに残っていた。
◇ ◇ ◇
尚人は枕元の時計を見た。針はまだ早い時刻を指していた。廊下の先で水道管が鳴るような音が一度して、すぐ止んだ。朝が近い家の気配だけが、壁の向こうから薄く染みてくる。
尚人は涼子の髪を指でよけ、起こさないように体を起こした。シーツが擦れる音が出ないように、ゆっくり膝をベッドの縁へ下ろす。床は冷たく、足裏が一瞬だけ縮んだ。部屋の空気には石けんの甘さが残り、窓の隙間から潮の匂いが混じって入っていた。
涼子が目を開けた。眠りの底から引き上げられた顔のまま、尚人の肩越しに息を吐いた。
「もう行くの」
「うん。息子さんが起きる前に出る。変な誤解は避けたい」
涼子は小さくうなずき、ベッドの端に置いてあった尚人のシャツを手探りで渡した。指先が触れ、すぐ離れた。言葉はそれ以上いらないというように、涼子は目を閉じたまま布団を胸まで引き上げた。
尚人は衣服を整えた。ベルトの金具は指で押さえ、音を立てない。靴下を引き上げ、靴は玄関で履くことにした。財布と鍵を確認し、最後に部屋の明かりを落とす。涼子は寝返りを打ち、背中を向けた。呼吸はさっきより落ち着いている。
玄関で靴を履くとき、尚人は片足ずつ体重をかけた。床板が鳴らない角度を探し、息を止める。ドアチェーンは使わず、鍵だけを回した。金属が小さく擦れ、音はそれで終わった。
共用廊下に出ると、空気がひんやりしていた。蛍光灯の白い光が壁に跳ね返り、夜の残りを薄く照らしている。尚人は足音を吸わせるように歩き、階段を下りた。外へ出た瞬間、潮とアスファルトの匂いが一緒に来た。遠くで新聞配達のバイクが走り、エンジン音がふっと途切れた。
尚人は一度だけ建物を振り返った。窓は暗いままだ。涼子の部屋も、息子の部屋も、まだ眠りの中にある。尚人は駅へ向かって歩き出した。歩道の端に溜まった夜露が靴底に移り、冷たさが足首まで上がってきた。
◇ ◇ ◇
(1986年4月4日金曜日午前6時、横須賀中央駅前商店街)
駅前はまだ眠っていた。商店街の看板は消え、シャッターの金具だけが街灯を返している。路面は夜露で黒く、靴底が触れるたびに湿った音がした。タクシーが数台、ロータリーに並び、運転手が窓を少しだけ開けて煙草の煙を逃がしていた。
尚人は腹の底に温かいものが欲しくなり、改札に近い角の立ち食いそばへ入った。入口のビニール幕を押すと、だしの匂いと湯気が顔に当たった。店内は細長く、カウンターの上に湯飲みと七味、箸が整列している。作業服の男が無言で麺をすすり、新聞を半分に折って読みながら出ていった。
尚人は食券を買い、店員に渡した。湯切りの音がひとつ響き、すぐに器が出てくる。白い湯気の向こうで刻みねぎが揺れた。口に入れると熱さが先に来て、次にかつおと醤油の塩気が舌に残る。麺は柔らかく、夜の疲れを押し戻すように腹へ落ちた。七味を少しだけ振ると香りが鼻へ抜け、目が一度だけ冴えた。
店を出ると外気が頬を冷やした。尚人は自販機の前で立ち止まり、缶コーヒーのボタンを押した。落ちる音がして、缶の金属が掌に当たる。まだ熱い。両手で包むと、指先の冷えがゆっくりほどけていった。口に含むと甘さが広がり、あとから苦みが追いかけてくる。朝の甘い缶コーヒーは、うまいというより、身体を落ち着かせる薬に近かった。
時計は6時台の半ばだった。喫茶店が動き出すまで、まだ間がある。尚人は駅前のベンチではなく、風の当たりにくい壁際へ寄った。通勤の人が増え始め、革靴の音が連なっていく。誰も他人を見ない。駅前の朝は、互いの顔を忘れる速さで流れていた。
7時を回るころ、尚人は駅前の小さなホテルへ入った。ロビーは薄いカーペットで、足音が丸くなる。廊下の先のコーヒーハウスから、焙煎した豆の匂いとトーストの熱が混ざって流れてきた。ガラス扉を押すと照明は明るく、椅子の背が高い。泊まり客の朝が重なる時間で、席は埋まり切ってはいないが、皿が戻るたびにテーブルの上の景色が変わる。店員は空いた皿を下げ、トングを替え、パン籠を満たし、ポットを入れ替える手が止まらない。目が合えば軽く会釈だけして、すぐ動きに戻った。
尚人は朝食券を買い、1000円を払った。小さな札を受け取り、入口で係に渡すだけだった。料理は朝食台から自分で取る形式になっている。トレーを取り、皿を選ぶ。洋食の側にはトーストと小袋のバター、ジャム、サラダ、ゆで卵、ソーセージが並ぶ。和食の側には白いご飯、味噌汁、焼き魚、納豆、漬物の小鉢が整っていた。湯気の立つ味噌汁の鍋を覗くと、わかめの黒が揺れ、ねぎの青が浮く。
尚人はまず味噌汁を手に取り、次にご飯と焼き魚を皿へ乗せた。反対側でトーストも1枚だけ取る。腹を満たすための食事だが、選べる種類が多いと朝の気分が少しだけ軽くなる。席に戻ると、箸とナイフの音、皿の触れ合う音、コーヒーカップの受け皿が鳴る音が、店内の一定のリズムになっていた。
尚人は味噌汁をすすり、口の中の塩気で目を覚ました。焼き魚の脂が舌に残り、コーヒーを飲むとそれが洗われる。店員はテーブルの空きを見て回り、皿を下げる手だけが素早い。言葉は最小限で済む。尚人にとってはそれでよかった。今は誰かと話して自分の匂いをつけるより、静かに朝へ移りたかった。
◇ ◇ ◇
(1986年4月4日金曜日午前8時すぎ、横須賀、尚人の自宅)
尚人は自宅に戻ると、上着を椅子の背に掛け、電話機の前に座った。受話器を上げると発信音が乾いて耳に当たる。指で番号を押し、品川の早乙女不動産㈱へかけた。
「早乙女不動産、杉浦です」
幸い、専務の杉浦真弓はすでに出社していた。事務所の向こう側で紙を揃える音がして、コピー機の低い唸りが混じった。
「杉浦さん、今いいか。長期で持つ賃貸の運営と数字は杉浦さんが握ってくれ。俺は短期の土地売買と、売り先を作るほうをやる」
「承知しました。長期の見立てと運営、資金繰りと銀行対応、毎月の数字は私が整えます。社長は競売や任売の情報を拾って、現地を見て、売り先まで先に作ってください」
尚人は続けた。ここが今朝の用件だった。
「それと、もう1つ。保有を2つに分けて整理したい。1つ目は20億円で買った賃貸6棟だ。横須賀1棟、品川1棟、都内4棟。2つ目は五反田、葉山、三崎の3件で、こっちももう持ち分として並べてある。そのうえで、6棟のうち都内4棟を売って、次の土地の資金に回したい」
杉浦は即答した。
「承知しました。保有は2区分で資料を揃えます。20億円の6棟はすべて購入済みとして整理します。都内4棟は購入額合計13億円の分ですね。名義と抵当の当たりを先に済ませて、権利関係をもう1度きれいにしておきます。五反田、葉山、三崎の3件は別枠保有としてまとめます。買い手の当てを先に作り、値崩れしない順番で出します」
尚人はひとこと礼を言い、午前中に事務所で打ち合わせる段取りを決めて電話を切った。部屋の中は静かで、時計の秒針がやけに大きく聞こえた。
◇ ◇ ◇
(1986年4月4日金曜日午前11時すぎ、品川・早乙女不動産㈱)
バイクを置き、事務所へ入ると、コピー紙とインクの匂いが鼻に付いた。空調はまだ弱く、朝の冷えが床から上がってくる。杉浦は机の上にファイルを並べ、付箋の色で分類していた。20億円の6棟が6冊、五反田、葉山、三崎が3冊にまとめられている。
「現状の保有は2つに分かれます。20億円で取得した賃貸6棟と、五反田・葉山・三崎の3件です」
杉浦は最初に20億円の6棟の資料を開いた。外観写真、戸数、家賃の一覧が並ぶ。紙の上の数字を追うと、尚人の頭に、階段の鉄の冷たさと、壁の薄い塗料の匂い、夜に聞こえる冷蔵庫の唸りが戻ってきた。住んでいる部屋が、賃料を生む建物として並び替えられていく。
「この6棟は、横須賀が1棟、品川が1棟、都内が4棟です。いずれも権利関係は単純で、抵当の縛りも整理済みです」
「横須賀は購入額2億5000万円です。現状の稼働率で表面年9%台。月の賃貸料は200万円で見ます。抵当はありません。ここは社長の住まいですから、ここを売る話にはしません」
次に品川の資料が出た。地図の上に赤鉛筆の丸があり、駅からの距離、道路幅、周囲の店の並びが手早く整理されている。
「品川は購入額4億5000万円。駅徒歩8分、単身向け中心で稼働が安定しています。表面年5%台です。月の賃貸料は200万円で見ます。ここは拠点として使っていますから、ここも残します」
杉浦は都内地図を広げ、残りの4冊を順に置いた。場所は分散しているが、いずれも駅から歩けて、空室が長引きにくい型だった。
「都内の4棟は合計13億円で購入済みです。築年数は古いですが、需要が切れにくい場所です。管理は外部委託で回せます。売却対象はこの4棟になります」
杉浦はそこで、横に重ねてあった別の3冊へ手を移した。表紙の角には、五反田、葉山、三崎とそれぞれ書かれている。
「もう1つの箱は、五反田、葉山、三崎の3件です。五反田の遊興ビルが2億円、葉山が3億2000万円、三崎港が3億8000万円。こちらはすでに持ち分として整理済みです。五反田の手取り賃貸料は月336万円、葉山は月224万円、三崎港は月440万円。合計で月1000万円です」
杉浦は2つの数字を指先で押さえ、尚人の顔を見た。
「ですから、売却対象は都内4棟だけです。得た資金は土地購入へ回します」
尚人はうなずいた。紙の上では数字が整い、机の上ではファイルがただの束になっている。だが、横須賀の階段の冷えも、品川の朝の人の気配も、都内の古いビルの埃っぽさも、五反田の夜の匂いも、葉山の静かな住宅地も、三崎港の潮と魚の気配も、全部が現実として身体に残っている。尚人は言った。
「その通りだ。横須賀と品川は残す。都内4棟は売る。五反田、葉山、三崎はそのまま持つ。売った金は僕の土地売買の資金にする。早乙女不動産㈱の資本金は君の長期・賃貸の資金にせよ。任務分担も、この形でいく」
この回では、涼子の部屋で過ごした夜と、翌朝の事務所で進む数字の話が、切れずに1本でつながっている。尚人は女を抱いた余韻を残しながらも、朝になるとすぐ杉浦と役割を分け、保有物件の整理へ入る。横須賀と品川を残し、都内4棟を売るという判断は、暮らしと仕事の線を自分で引き直す動きでもある。そのうえで、五反田、葉山、三崎も現在の保有としてきちんと並び、話の箱が欠けずに揃う。第三章はここで、女と金と物件が、それぞれ別の話ではなく、尚人の1日の中で同時に進む章として深まっていく。




