第7話――「フロッピーの角、受話器の温度」
1986年4月4日金曜日の昼、尚人は品川の事務所で、ケーソンの図化プログラムをフロッピーへ落とし、真理子へ渡す段取りを整える。受話器越しの約束は、事務所の廊下であっさり受け渡され、仕事の手は止まらない。その直後、杉山修司から薬の催促が入り、尚人は横須賀へ戻ることになる。午後の後半には、追浜の工場へ向かう前の手土産まで揃え、明日の動きが静かに固まっていく。機械の音と電話の声と紙袋の重さが、次の展開へつながる。
(1986年4月4日金曜日午後0時すぎ、品川・早乙女不動産㈱)
尚人は、同じフロアの喫茶店へ内線を回した。受話器は指の脂で少しだけ滑り、耳に当てると、店のざわめきが線の向こうで薄く揺れていた。注文を告げて切ると、事務所の空気に戻る。コピー機の熱い匂いと、ワックスが乾いた床の匂いが混ざり、蛍光灯の白さが机の上だけを平らに照らしていた。
程なくして、ドアが控えめに叩かれた。喫茶店の店員が、黒い盆に白い皿を乗せて入ってくる。湯気がふっと立ち上がり、ソースの甘い匂いが鼻の奥に残った。脇には薄いカップのコーヒーが添えられ、苦みの匂いが紙の匂いを上書きする。尚人は礼を言い、盆を机の端へ寄せた。フォークが皿に触れる小さな金属音が、広いフロアの無音に混ざってすぐ消えた。
食べながら、尚人は足元の鞄から、家から持参したハードディスクを慎重に取り出した。外装の金属が掌に冷たく、角が指の腹に硬い。机の上のパソコンへつなぎ、電源を入れると、ファンの低い唸りが立ち上がった。画面に文字が並び、キーボードを叩く指先に軽い反発が返る。目的はケーソンの図化プログラムだけだった。余計なものを触らないように、必要なフォルダを辿り、ファイル名を確かめ、保存先を指定した。
フロッピーディスクを箱から出すと、薄い樹脂の匂いがした。ラベルの紙はざらつき、指に微かな粉っぽさが残る。ドライブへ差し込むと、カチッと乾いた音がして、回転の風切りが机の脚から伝わってくる。読み書きのランプが点き、消え、点き、消えを繰り返した。データが流れている間、尚人は皿の端のソースをすくって口に運び、舌に甘さと酸味を感じながら、画面の進捗表示を見守った。ドライブの動作音は単調ではなく、短い間を置いて、また急に忙しくなる。機械が迷わず走っている音だった。
数枚に分けてコピーを終えると、尚人はディスクを抜き、ラベルへペンで必要な文字だけ書いた。インクの匂いが立ち、乾くまで指を触れないように端を持つ。机の上に並べると、薄い板が揃っているだけなのに、急に重さが出た気がした。皿の最後の一口を飲み込み、コーヒーを一口含む。苦みが喉を締め、眠気の縁を切り落とす。
そのまま電話へ手を伸ばした。受話器の樹脂が昼の体温でぬるく、耳に当てると、回線の静かな息が聞こえる。竹内真理子の番号を押すたび、ボタンの戻りが指に小さく跳ね返った。
「もしもし、尚人です。以前にお話したケーソンの図化プログラムの逆アセンブラをお願いしたいのですが」
「良いわよ。でも今日は用事があってお時間は取れないの。だから私が会社まで受け取りに行くわ。解析自体は、2、3日で出来ると思う」
「そうですか。わざわざお越し頂いて申し訳ないですね。また別の機会に埋め合わせさせて下さい」
「そうね。何時とは約束できないけど、貴方のお部屋にお伺いするわ」
「了解です。楽しみにしています」
通話を終えると、受話器を置く音が、妙に大きく響いた。尚人はディスクをそろえ、角形の茶封筒に入れた。封筒の表にペンで『フロッピー在中』と書き、口を軽く折って指で押さえる。紙の乾いた感触が指先に残った。窓の外では、昼の光がビルの壁面に反射し、白い点として揺れていた。
ほどなくして、エレベーターの到着を告げる鈴が鳴り、廊下の空気がひとつ動いた。事務所の入口のガラス越しに、真理子の姿が見えた。足音は速すぎず、硬い靴底が床を小さく叩く。近づくにつれて、外気の匂いが薄く混じった。少し冷えた風と、街の排気の匂いである。
尚人が迎えに出ると、真理子は軽く頷いた。手には小ぶりの鞄があり、金具が触れ合って小さく鳴った。
「ディスク、これでいい?」
尚人が茶封筒を差し出すと、真理子は受け取った。封筒の上から指を滑らせ、四角い角が揃っているのを確かめる。口の折り返しを押さえ直すと、紙がかすかに鳴った。封筒はそのまま鞄の内ポケットへ収まり、金具がもう一度だけ小さく鳴った。
「受け取ったよ。家で中を確認して、2、3日で一度連絡するから」
「お願いします」
それだけ言って、真理子は踵を返した。廊下へ出る背中は、来たときと同じ速度で遠ざかる。エレベーターの扉が閉まる直前、鞄の中でフロッピーがわずかに擦れたのか、乾いた小さな音が聞こえた。扉が合わさると、音はそこで途切れ、事務所には蛍光灯の静けさと、パソコンの低い唸りだけが残った。壁の時計は午後1時半を回っていた。
◇ ◇ ◇
真理子が帰ってから間もなく、机の電話が鳴った。受話器のベルは乾いていて、蛍光灯の下の静けさを一度で割った。尚人は指先で受話器をつまみ上げる。樹脂はまだ手の熱を持ち、耳に当てると回線の白い息が薄く聞こえた。
「もし、もし。早乙女です。どちら様ですか?」
「ああ、尚人君か。俺だ。杉山修司だ」
「杉山さんでしたか。なにか御用ですか?」
「いやあ、言いにくいんだが、例の薬、もう少しもらえないか」
杉山の声は低く、言い終わりだけが妙に早い。受話器の向こうで、どこかの機械の音が遠く混じっていた。尚人は椅子の背にもたれずに座り直し、机の端のメモ用紙を引き寄せた。紙は乾いていて、指先がわずかに引っかかる。
「分かりました。まだありますよ。今から横須賀に帰ります。午後4時ころに家まで取りに来て下さい」
「分かった。4時きっかりに伺うよ」
「はい。お待ちしています」
通話が切れると、受話器を置く音が机の天板に残った。尚人は時計を見て、机の上を一度だけ片付けた。ペンの転がりを止め、書類の角を揃え、鞄の口を開ける。外へ出る支度の動きが早くなると、室内の匂いも変わる。トナーの匂いより、ジャケットの布の匂いが近くなる。
尚人は会社を出た。エレベーターの箱の中は少し熱がこもり、降りるにつれて耳が軽くなる。外へ出ると、車の排気と春の湿り気が混ざり、鼻の奥が少しざらついた。ヘルメットを被ると、内張りの布の匂いが顔に寄った。キーを回し、セルを回す。エンジンが咳をしてから整い、振動が腿に伝わる。
横須賀の自宅までは、バイクで1時間半ほどを見ておけば届く距離だった。尚人は早めに走らせる気はなかった。時間だけは遅らせないように、流れに乗ることを優先した。風が顎の下へ入り、目尻が乾く。海が近づくと空気に塩が混ざり、信号待ちの間にそれがはっきり分かった。
◇ ◇ ◇
(1986年4月4日金曜日午後4時、横須賀:尚人の自宅)
午後4時きっかりに、インターホンが鳴った。電子音が室内に響き、すぐ切れる。尚人がドアを開けると、廊下の冷えた空気が足元から入ってきた。杉山は立っていた。背は高くなく、肩が厚い。作業場の匂いが服に染みていて、油と鉄と煙草が薄く混ざっている。
「時間どおりだな」
「約束ですから。どうぞ」
部屋に入ると、杉山は靴を揃え、無駄に見回さなかった。尚人は台所でコーヒーを淹れた。粉の苦い匂いが湯気に乗り、湯を注ぐ音が細く続く。カップを運ぶと、杉山は両手で包むように持ち、まず香りを吸ってから口をつけた。熱さに舌が反応し、唇が一瞬だけすぼまる。
話はすぐ済んだ。仕事のことを2、3つ、近頃の段取りを1つ。尚人は送信機を作らないといけない、とだけ言った。詳しい説明はしない。杉山も深くは聞かない。頷きはするが、視線は尚人の手元と引き出しの位置を外さない。関心がそこにあるのは、最初から分かっていた。
「……で、例のは」
「あります」
尚人は机の脇の引き出しを開けた。木が擦れる音がひとつ鳴り、奥から小さな瓶を取り出す。蓋を回すと、樹脂がきしむ。中の錠剤が触れ合い、乾いた音を立てた。尚人は数を数え、掌に並べる。白い粒が皮膚の熱で少し冷たく感じた。
「27錠です」
杉山は受け取ると、すぐに手の中で数を確かめた。指先の動きが早い。最後に全部を握り込み、息を吐いた。顔が明るくなるのが分かるほどだった。
「助かった。いや、ありがたい」
杉山はカップを置き、身を少し乗り出した。
「お礼と言ってはなんだが、追浜の工場を使え。材料も工具も揃ってる。足りないものがあれば女房に言え。揃えてくれる」
尚人は一度だけ頷いた。遠慮を挟むと話が長くなる。杉山の口調は押しつけではなく、決めたことをそのまま言う調子だった。
「では、お言葉に甘えます。必要なものをまとめます」
尚人は机の上の紙に、材料と工具の名前を並べた。鉛筆の芯が紙に擦れて鈍い音がする。杉山はそれを覗き込み、文字の列を追った。
「何を作るのかは知らんが、材料はだいたいある。女房に手伝わせるから、一緒にやればいい」
女房という言い方に、杉山の癖が出る。杉山はコーヒーをもう一口飲み、ふと、誰に言うでもなく付け足した。
「最初のは病気でな。今のは2度目だ。二回り下で、まだ若い」
尚人は頭の中で数を置いた。二回り下なら24歳差で、奥さんは40歳前後になる。杉山はそれを気にする様子もなく、当然のこととして言っただけだった。
カップの底が見えるころ、杉山は立ち上がった。錠剤の入った袋を内ポケットへ入れ、上着を整える。玄関のたたきに靴を置く音が、昼間の部屋に小さく響いた。
「じゃあ、また連絡する」
「はい。お願いします」
杉山がドアを閉めると、廊下の冷えが途切れた。部屋にはコーヒーの苦みの匂いだけが残り、換気扇の低い音がそれをゆっくり薄めていった。
◇ ◇ ◇
(1986年4月4日金曜日夕方、駅前)
尚人は駅前のロータリー脇にバイクを寄せ、ヘルメットを外した。顎ひもがほどけると、耳の奥に残っていた風の音がすっと引いた。排気の匂いに、焼き鳥屋台の甘い煙が混じり、足元のアスファルトは昼の熱をまだ返していた。
百貨店の自動扉が開くと、外の湿り気が切れ、空調の乾いた冷えが頬をなでた。床は磨かれていて靴音が細く響き、香水と紙袋の匂いが薄く重なる。食品売り場へ下りるにつれて、醤油の焦げと揚げ油の匂いが濃くなり、菓子売り場の甘さがその上にふわりと被さった。
ガラス越しに菓子箱が並び、店員の白い手袋が角を揃えて包みを直している。尚人は足を止め、まず数が多い個包装の詰め合わせを手に取った。どら焼きと小さな饅頭が混じった箱で、包み紙の上からでも中の仕切りの硬さが分かる。指で押すと、箱がへこまず、密度が掌に返った。休憩の合間に配っても手が汚れにくい。紙袋を回してみると、重さが偏らず、持ち運びで崩れにくい形だった。
次に、尚人は少し小さめの箱菓子を選んだ。最中と羊羹の詰め合わせで、箱の紙が厚く、角が静かに立っている。誰かの台所へ持って行っても、軽く見えない。のしは付けず、包装だけ丁寧にしてもらうことにした。
ついでに、王麗華への手土産も買った。仕事帰りに渡しても荷物にならず、相手の好みを外しても困らないものがいい。尚人は缶入りの焼き菓子の小箱を選んだ。金属の缶は指先にひんやりし、蓋の縁が滑らかだった。個包装なら店の控え室でも配りやすい。
包装台で紙が擦れる音が続いた。セロテープが切れる軽い音、紙紐を引く乾いた音、袋の底に箱が収まる鈍い音が順に重なる。尚人が受け取った紙袋は、見た目より少し重く、腕に下がる重さが明日の段取りを先に思い出させた。
百貨店を出ると、外気は少し冷えていた。駅前のネオンがガラスに反射し、足元の影が細く伸びる。紙袋の取っ手が指の付け根に食い込み、歩くたびに中で箱がわずかに鳴った。
駅前の中華飯店は、扉を開けた瞬間に胡麻油と湯気の匂いが顔に当たった。奥の厨房から鍋が叩かれる金属音が響き、炒める音が途切れず続く。卓に案内され、椅子に腰を下ろすと、木の座面が体温を吸ってすぐ温かくなった。
尚人は生ビールを1杯頼んだ。運ばれてきたグラスは表面が白く曇り、指で触れると冷たさが皮膚に張り付く。泡はきめ細かく、グラスの縁に盛り上がっていた。ひと口含むと、冷えた苦みが舌の奥へ広がり、喉を落ちるときに軽い痛みが残った。外の空気と店内の熱の差が、体の中でゆっくりならされていく。
料理は湯気が強かった。皿から立つ香りが濃く、箸を入れると表面の油が光った。噛むたびに熱と塩気が口の中でほどけ、舌が忙しく動く。ビールをもうひと口流し込むと、泡が唇に残り、指で拭うと少しだけ甘い匂いがした。
尚人は紙袋を足元に置き、椅子の脚に当てて倒れないように整えた。明日の朝9時、追浜の工場で頭を下げる場面が、袋の重さと一緒に静かに前へ出てきた。店内のざわめき、皿の触れ合う音、厨房の火の音が一定のまま続き、尚人はその中で、食事と1杯の苦みだけをゆっくり片付けていった。
この回では、尚人が会社を作った直後の午後が、機械の作業と人のつながりの両方で進んでいく。フロッピーへ落とした図化プログラムは真理子の手へ渡り、逆アセンブラの段取りが現実のものになる。一方で、杉山からの電話は追浜の工場へ続く道を開き、薬の受け渡しと手土産の準備が、明日の作業を先に形にしていく。第7話は、受話器の温度、ディスクの角、紙袋の重さといった細かな手触りの中で、尚人の仕事が次の場所へ移っていく回である。




