第5話――「湯気の乾杯、ネオンの誘い」
1986年4月3日木曜日の夕方、尚人は横須賀へ戻り、いつもの居酒屋へ顔を出す。そこで、京浜土地建物の研修へ進むはずだった若い男が、自分の会社を立ち上げたと初めて口にする。女将は腹の底から笑って祝福し、隣のスナック『さざなみ』のママ涼子も加わって、夜は一気に祝いの色を帯びる。昼の紙と数字に張りつめていた尚人は、酒の湯気と女たちの声の中で、ようやく社長になった実感を自分の体へ落としていく。
(1986年4月3日木曜日午後6時、横須賀、尚人のアパート)
尚人はアパートの階段を下りると、夕方の湿った潮風を胸いっぱいに吸った。昼の品川で嗅いだ朱肉と紙の匂いが、まだ鼻の奥に薄く残っている。駅へ向かう道は、昼間の熱が引ききらず、アスファルトが靴底にやけに固く返ってきた。
いつもの居酒屋は、商店街の曲がり角を入った先にある。赤い提灯が揺れ、ガラス戸の内側に湯気が曇っていた。戸を開けた瞬間、鰹だしと醤油の匂いが顔に当たり、焼き台の脂がはぜる音が耳に入る。カウンターには湿った布巾の匂いと、煙草の煙が薄く混じっていた。
女将は奥から顔を出し、尚人を見るなり手を止めた。包丁がまな板に当たる乾いた音も、いったん途切れる。女将は目を細めて笑い、いつもの席を顎で示した。
尚人は腰を下ろし、上着の内ポケットを確かめた。折り畳んだメモと、今日だけの用事が詰まった紙片が指に触れる。言うべきことは、手早く済ませていいはずなのに、喉が少し乾いていた。
女将が水の入ったコップを置いた。ガラスが指先に冷たく、氷がカランと鳴った。
尚人は息を整え、女将の目を見て言った。「女将さん、今日は報告があって来ました。京浜土地建物の研修、今日からの予定だったんですが、事情が変わりました」
女将は眉を上げた。「どうしたんだい。体でも壊したのかい」
尚人は首を振った。「会社を立ち上げました。早乙女不動産です。社長になります。急に肩書も予定も変わって、ここにも言っておきたかったんです」
女将は一瞬だけ口を開けたまま固まり、それから腹の底から笑った。笑い声が天井板を震わせ、奥の卓の客が振り向いた。女将は手を叩き、まだ熱い湯気の向こうから尚人を見た。
女将は言った。「尚人くんも社長さんになったのかい。偉くなったものだね。今日は私の奢りだ。どんどん飲み食いしてくんな」
女将は言い終えると、もう動いていた。冷蔵庫の扉が開く音、栓抜きの金属音、瓶肌が濡れている気配。サッポロの大瓶がカウンターに置かれ、泡が立つ匂いがふっと広がった。女将はグラスを2つ並べ、琥珀色が光るように注いだ。
尚人はグラスを持ち上げた。指先に冷たさが貼りつき、喉を通るビールが一気に胃へ落ちていく。肩の力が少し抜け、昼間の紙の白さや印鑑の重さが、遠のくのが分かった。
女将はカウンターの向こうで腕を組み、尚人を見て言った。「会社って言っても、急に立ち上げて回るもんなのかい」
尚人は頷いた。「回さないと回らないです。だから、今日はここで一息ついて、それからまた明日も動きます」
焼き鳥の煙が漂い、ねぎまの焦げた匂いが鼻をくすぐった。小皿に乗った冷奴は、葱の青い匂いが立ち、醤油の塩気が舌に残る。カウンターの木は手の脂で艶があり、箸が触れるたびに小さな音がした。女将は「社長さん」とわざと呼び、尚人が苦笑すると、また笑って酒を注いだ。
そこへ引き戸が開き、外の冷えた空気が一筋、店に入り込んだ。香水の甘い匂いが混じる。隣のスナック『さざなみ』のママ涼子が、常連の男と肩を並べて入ってきた。ママの髪は整っていて、耳元のイヤリングが照明を受けて小さく光った。男のほうは酔いが回りかけた顔で、靴音が少し大きい。
ママは尚人を見つけると、声を張った。「あら、尚人くん。今日は早いじゃない」
女将がすかさず言った。「聞いておくれ。尚人くん、社長さんになったんだよ」
ママは目を丸くし、すぐに笑みに変えた。ママはカウンターの端へ寄り、尚人の肩越しに顔を近づける。頬に当たる息が甘く、口紅の匂いが近かった。
ママは言った。「本当に? 社長さん? 冗談じゃない顔してる。じゃあ、今日は私も祝う。乾杯しようよ」
常連の男が財布を出しかけたが、女将が手で制した。「今日は私の奢りだって言っただろ。ママも座んな」
グラスが増え、氷が鳴り、焼き台の音が途切れず続く。ママが「尚人くんは堅い人だと思ってたけど、やるときはやるのね」と笑い、女将が「昔から目が違ったんだよ」と受けた。尚人は照れを隠すように、焼き魚の身を箸でほぐし、脂の甘さを噛み締めた。口の中に塩気が残り、酒がそれを洗い流す。
店の奥では誰かが麻雀の話で声を上げ、ラジオからは歌謡曲が小さく流れていた。外の商店街のざわめきは、湯気と煙に包まれて遠くなる。尚人は祝いの言葉を受けながらも、明日やるべき用事が頭の隅に並んでいるのを感じた。それでも今だけは、女将の笑い声とママの乾杯の声が、胸の重さを少し軽くした。
◇ ◇ ◇
(1986年4月3日木曜日午後8時、横須賀・商店街、スナック『さざなみ』)
尚人は居酒屋を出ると、すぐ隣の看板を見上げた。赤と青のネオンが雨上がりの路面に滲み、潮の匂いに甘い香水が混じってくる。ガラス戸の向こうは薄暗く、笑い声とグラスの氷が触れ合う音が、外まで細く漏れていた。
ママは先に立ち、足取りが迷わない。隣の常連客、杉山修司〈64〉は背広の肩が立っていて、歩くたびに革靴が乾いた音を出した。杉山は追浜の杉山工業の社長だ。普段の言葉の端々にも、場を仕切る癖がにじんでいた。
戸が開いた瞬間、煙草の煙とウイスキーの匂いがまとわりついた。カウンターの木は黒く艶があり、床は少し柔らかい。昔の絨毯が湿気を含んでいて、足裏に小さく沈む感触がある。壁際のスピーカーから歌謡曲が流れ、ベースの低音が腹に当たった。
ゆかりさんがカウンターの中から顔を出した。明るい照明の下で、口紅の色がはっきり見える。尚人を見ると、ゆかりさんは眉を寄せ、声の調子を少し落とした。
ゆかりさんは言った。「尚人君、久しぶりね。研修はどうしたの? 今日からでしょ?」
尚人は一瞬だけ息を飲み、笑ってごまかすか、正直に言うかを迷った。ママが間に入るのが早かった。ママはカウンターに肘を置き、あっさりと言った。
「尚人君、自分で会社を始めたそうよ」
ゆかりさんは目を丸くした。「えっ、会社?」
尚人は頷き、言葉を選んだ。祖父の遺産の話なら、余計な突っ込みを受けにくい。港の土地の話まで言えば、今夜の空気が変わる。ここは祝いの席だと、尚人も分かっていた。
尚人は言った。「祖父の遺産が入ったんです。それを資本金にして、早乙女不動産㈱を作りました。まだ始まったばかりです」
杉山修司〈64〉は、グラスを軽く持ち上げるだけで笑った。笑い声は出さず、喉の奥で鳴らすような笑い方だった。
杉山は言った。「若いのに腹が据わってるな。社長は顔を出すのが仕事だ。まずは乾杯だろ」
ママが手を叩いた。「そうそう。今日はお祝い。尚人くん、いつものにする?」
尚人は自分のボトル棚を見た。ラベルの端が少し擦れている。角のボトルが薄い灯りを受けて鈍く光った。尚人は頷いた。
「角の水割りをお願いします。濃いめじゃなくていいです」
ママは慣れた手でボトルを取り、氷をすくった。トングが氷に当たる金属音がして、丸い氷がグラスの底で鳴る。水が注がれ、ウイスキーが静かに広がって琥珀色が淡くなる。湯気のない冷たい匂いが立ち、喉の奥が先に熱くなった。
ゆかりさんがママを見て、軽く顎を上げた。「私たちは?」
尚人は言った。「好きなのを頼んでください。いつも通りで」
ゆかりさんは一度だけ礼儀の線を引き、軽く笑って言った。「尚人くん、私たちもいただくわね」
ママも笑って言った。「じゃあ、私はブランデーのソーダ。ゆかりは?」
「私はカシスオレンジ。今日はお祝いだもの」
グラスが並び、氷が鳴り、オレンジの甘い匂いが煙草の煙を押し返した。尚人の水割りは冷たく、角の香りが鼻に抜けた。舌の上に薄い苦みが残り、次の一口が欲しくなる。
ゆかりさんは、まだ信じ切れていない顔で尚人を見た。「でもさ、尚人君。どんな仕事をするの? 不動産って言っても色々あるでしょ」
尚人は背筋を伸ばした。社長という言葉はまだ肌になじまず、口に出すと少し照れが出る。それでも、ここは曖昧にしない方がいいと感じた。
尚人はグラスを置き、指先で水滴の輪を一度なぞってから答えた。「免許は取ってあります。事務所のことは専務が回します。僕は競売の現場を見て、買うか見送るかを決めます。買ったら手を入れて売ります」(※1)
杉山修司〈64〉は、頷いた。言葉よりも、尚人の目つきの方を見ている。ママは「それ、格好いいじゃない」と笑い、ゆかりさんは「へえ」と言いながら、少しだけ安心した顔になった。
ママはグラスを持ち上げた。「じゃあ改めて。尚人くん、社長就任、おめでとう」
ゆかりさんも続けた。「おめでとう。無理しないで、でも、ちゃんと儲けてね」
尚人は、胸の奥が温かくなるのを感じた。水割りの氷が溶けて、味が少し丸くなる。店の奥で笑い声が弾み、カウンターの上の灰皿が静かに埋まっていく。今夜だけは、会社の書類の角も、昼間の緊張も、ネオンの光の外に置いてこられそうだった。
ママは尚人の耳元に顔を寄せ、声を落とした。「閉店後、特別なお祝いをしてあげるから。私の家までおいで」
香水の甘い匂いが近くなり、尚人は小さく頷いた。言葉にしなくても伝わる距離だった。ゆかりさんはそれを見て、わざとらしくため息をつき、笑ってグラスを傾けた。
ゆかりさんは言った。「じゃあ私は、今夜は飲む係ね。社長さん、どんどん注いで」
尚人は笑い、ボトルを持ち上げた。氷が鳴り、琥珀色が薄く揺れた。店の夜は、酒の匂いとネオンの熱で、ゆっくり濃くなっていった。
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脚注
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(※1)専務と社長の任務分担
専務|杉浦真弓の担当(長期・賃貸)
・長期の取得判断の下準備(収益、修繕、入居、管理の見立て)
・購入後の運営(入居付け、賃料、修繕、契約更新、クレーム処理の窓口)
・資金繰りと銀行対応(返済、入出金の管理、書類の整備)
・毎月の数字を整え、社長へ報告する(決める点だけ残す)
社長|尚人の担当(短期・土地売買)
・競売や公の処分物件、任売などの情報を拾う
・現地を見る、出口(転売先)を先に作る
・落札後は短期で売り切る。売れなければ次の手を決める
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この回では、尚人が社長になった事実が、初めて横須賀の夜の中で人の口に乗った。紙と印鑑と通帳の数字で進んでいた話が、居酒屋の湯気とスナックのネオンの中へ持ち込まれたことで、尚人自身もようやく肩書を自分の体へなじませ始める。女将の祝福は、町の側からの承認であり、涼子ママの誘いは、尚人が若い男として見られている証でもある。第3話と第4話で積み上がった会社、金、機械の話は、この第5話で横須賀の人間関係へ接続され、尚人の夜もまた新しい形で動き出す。




