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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第三章――「逆アセンブラの女と会社設立を決めた日」

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第3話――「朱肉の匂い、1億円の余白」

1986年4月3日木曜日の朝、尚人は品川の持ちビルで杉浦真弓と向かい合う。退職の手続きと会社設立の準備は、朱肉の匂いと紙の感触の中で一気に進んでいく。さらに、尚人は手元の金と物件の数字を整理し、五反田の賃料に加え、葉山と三崎港で新たに買うべき賃貸物件の形まで検討に入る。普通預金8億円のうち7億円を回し、1億円を手元に残す形がはっきりしてくる。その足で入った喫茶店では、仕事の緊張とは別の明るい空気が立ち上がり、尚人の前に新しい女の気配が現れる。

 (1986年4月3日木曜日午前9時、品川、尚人の持ちビル)


 翌日、尚人はコーヒーだけで済ませ、机の上の書類を揃え直してからインターホンを待った。湯気の苦い匂いが鼻に残り、紙の乾いた匂いがそれに重なった。


 約束の時間ぴったりに、専務になる杉浦真弓(すぎうら まゆみ)が来た。黒い書類ケースは角が立っていて、手入れの行き届いた革の匂いがした。ケースを開けると白い紙がきちんと揃い、クリップの金属が蛍光灯を返した。署名欄には付せんが貼られ、順番が崩れないように端が揃えられていた。


 杉浦は言った。「まずは退職手続きです。こちらが退職届です。提出日は本日、退職日は最短で来週末に合わせます。引き継ぎは最低限で済ませる形にします」


 尚人が紙を取ると、紙は薄く乾いていて指先が少し滑った。ボールペンのインクが走り、名前を書いたところで杉浦が朱肉を差し出した。朱肉の甘い匂いが一瞬立ち、手持ちの印が紙に押された。押印の瞬間、紙がわずかに沈み、短い音が鳴った。


 杉浦はその場で電話をかけ、京浜土地建物株式会社の総務に用件を伝えた。口調は丁寧だが遠慮がない。必要なことだけを並べ、相手が確認に回る前に次の段取りを置く。受話器の向こうで相手が言いよどむと、杉浦は一度だけ間を置き、確認すべき点を番号で言い直した。会話が終わるころには、尚人が動くべき日時と提出物がすべて決まっていた。


 杉浦は言った。「これで退職の筋は通りました。次に会社設立です。資本金の払込口座を準備します。銀行側の窓口は私がまとめます。尚人さんは署名と押印を確実にしてください」


 杉浦が差し出す紙を、尚人は次々と受け取り、署名していった。紙の端が指に当たり、インクの匂いが少しずつ濃くなる。窓の外では車が流れ、遠くの工事音が続いた。だが室内では、紙と印と声だけが進んでいた。尚人は会社を辞める実感を、書いた文字と押した印の感触で受け取っていった。


 杉浦は最後に書類を揃え、ケースに戻した。金具がカチ、と乾いた音を立てた。


 杉浦は言った。「ここから先は速いです。決めたことを、そのまま形にします」


 尚人はうなずいた。窓から入る光は昨日より白く、机の上の紙面がはっきり見えた。


◇ ◇ ◇


 会社は品川の持ちビルに置くことにした。ワゴン車は地下の駐車場に入れた。尚人は横須賀のアパートを拠点にし、必要なときだけ品川へ出る。机の上に積まれる書類に目を通し、決裁が要るところだけ手を動かす。あとは杉浦が回す。電話が鳴るたび、尚人の暮らしと仕事の時間がつながっていった。


◇ ◇ ◇


 品川の一室は紙とインクの匂いが濃かった。机の上には通帳の写し、振込控え、登記の控え、夕刊の切り抜きが揃えられている。窓の外では車が切れ目なく流れ、遠くのクラクションがひとつ鳴って消えた。


 尚人は椅子から半歩だけ身を乗り出し、向かいの席にいる杉浦を見た。杉浦は眼鏡の奥で目線を落とし、ペン先で書類の角を揃えていた。クリップが机に当たって金属の乾いた音がした。


 尚人は言った。「杉浦さん、確認したい。私の理解で合っていますか」


 杉浦は言った。「はい。どうぞ」


 尚人はメモを指で押さえ、順に口にした。


 「五反田の遊興ビルを2億円で買った。追浜と夏島は7億円で押さえた。売却代金の入金後、普通預金で8億円残してある」


 杉浦は一度だけうなずいた。「そのとおりです。五反田は購入済み、追浜と夏島も決済済みです。普通預金は8億円です」


 尚人は続けた。「追浜と夏島の7億円は、売却して利益が出た。純利益で10億円が残った」


 杉浦は控えをめくり、該当の欄に指先を置いた。「こちらです。諸費用と税の見込みを差し引いた後の純利益が10億円で確定しています」


 尚人は息を吐いた。机の上の紙はどれも冷たいが、朱肉の匂いだけが妙に生々しかった。


 尚人は言った。「その純利益10億円を、早乙女不動産の資本金に充てる。設立はこの流れでいく」


 杉浦は即答した。「承知しました。資本金10億円。払込の手順はこの場で詰めます。登記の書類もそれに合わせて作り直します」


 杉浦は新しい紙を1枚出した。白い紙の上に、数字が整然と並んでいる。杉浦は言った。「五反田の賃料も確認しておきます。稼働8割で下限を置きます。五反田は月336万円です」


 尚人はその数字を見た。五反田は派手な場所だが、入ってくる金は静かに積み上がる。紙の上では、月336万円がただの行でしかないのに、現場の気配が裏に付いているのが分かった。


 杉浦はもう1枚、別の紙を重ねた。紙の端が少しだけ机からはみ出し、指先で押さえるとさらりと動いた。


 杉浦は言った。「普通預金の8億円をそのまま置くのは重いです。7億円は、すぐ賃貸に振ったほうが良いです。1億円は手元に残せます」


 尚人は顔を上げた。「どこですか。横須賀から近くて、私がバイクでも見に行ける場所がいい」


 杉浦は迷わず答えた。「2か所あります。葉山と三崎港です」


 尚人は黙って続きを待った。窓の外で大型車が通り、ガラスがわずかに震えた。


 杉浦は紙の上の1行目を指で押さえた。「葉山は堀内から一色にかけてです。海から少し入った住宅地に、駐車場付きの低層テラスハウスが8戸あります。2階建てで、各戸は2LDKか3LDK。家族持ちや、車通勤の中堅会社員を入れやすい物件です。取得額は3億2000万円で見ます」


 尚人は目を細めた。葉山の住宅地の光景が頭の中に浮かんだ。白い外壁、低い塀、潮の匂い、玄関前に停まる国産車。海沿いの派手さではなく、住むための静かな格がある。


 杉浦は続けた。「ここは戸数を詰める場所ではありません。単価を取る場所です。稼働を控えめに見て、手取り賃貸料は月224万円です」


 尚人はうなずいた。「次は三崎港ですね」


 杉浦は2行目へ指を移した。「はい。三崎港は東岡から下町です。こちらは逆です。1階を店舗、上階を住居にした店舗付き共同住宅が向いています。魚屋、食堂、雑貨、小さな事務所が入れられて、上は単身者向けと夫婦向けの住戸で回せます。取得額は3億8000万円です」


 尚人は港の匂いを思い浮かべた。潮と魚と油の混じった空気。朝が早く、夜も完全には止まらない町だ。横須賀から南へ下れば、自分の目で見に行ける距離でもあった。


 杉浦は言った。「こちらは葉山ほど見栄えでは取りません。戸数と回転です。手取り賃貸料は月440万円で見ます」


 尚人は紙の上の数字を追った。3億2000万円と3億8000万円で、ちょうど7億円。8億円から引けば、手元に1億円が残る。頭の中で線がきれいにつながった。


 「五反田と合わせると、いくらになりますか」


 杉浦は答えた。「五反田336万円、葉山224万円、三崎港440万円です。合計の手取り賃貸料は月1000万円です。年間では1億2000万円です」


 室内がしんとした。紙の擦れる音も、外の車の流れも、その数字のあとでは少し遠くなった。


 杉浦はさらに言った。「資本金10億円を入れたあとでも、普通預金の8億円から7億円を賃貸に回して、1億円を残せます。この1億円が、当面の運転と急な買いの余白になります」


 尚人は黙ってペンを取った。メモ用紙に「336」「224」「440」「1000」と書き、最後にその下へ「1億」と書いて丸で囲んだ。囲み終えると、ペン先のインクが小さく滲み、黒がわずかに濃くなった。


◇ ◇ ◇


(1986年4月3日木曜日午前10時半、品川、尚人の持ちビル内の喫茶店)


 尚人は、杉浦に必要な人材の確保を伝えた。毎週火曜日の朝10時に全体会議を開くことも告げ、物件の売買があるときはその都度、連絡してほしいと言った。要件を終えると、尚人は会社を出た。


 空腹が先に立った。同じフロアに喫茶店があり、ガラス越しに白い湯気と、浅く焼けたパンの匂いが見えた気がした。扉を押すと小さなベルが鳴り、店の中の空気が一気にまとわりついた。コーヒーの苦い香りに、バターの甘さ、薄い煙草の残り香が混ざっている。床はよく拭かれていて、靴底がわずかに吸い付く。


 窓際には朝の光が広がり、テーブルの縁が白く光っていた。スプーンとカップが触れ合う音が、店の奥から規則正しく聞こえた。ラジオが小さく鳴っている。椅子に腰を下ろすと、合皮の座面がきゅっと鳴り、背中に冷たさが残った。


 若いウェイトレスが注文を取りに来た。長い黒髪は艶があり、肩から背中にかけて流れている。頬は明るく、目は大きく、笑うと上の歯がはっきり見えた。淡い色のブラウスの袖はふわりと膨らみ、歩くたびに布が軽く擦れる音がした。


 尚人はベーコンエッグセットを頼んだ。ホットコーヒー、パン、ベーコンエッグの3点で300円だと聞いて、尚人は一度だけうなずいた。


 皿が運ばれてくると、湯気に混じって胡椒の匂いが鼻に刺さった。ベーコンは端が少し反り、表面に脂の照りが出ている。卵は黄身がぷるりと丸く、白身の縁が香ばしく色づいていた。コーヒーは黒く、口に含むと舌の奥がじんと熱くなった。


 彼女は配膳のあとも、その場を離れず、尚人にいくつも話しかけてきた。「お仕事帰りですか。朝から大変ですね。こちら、よく来られるんですか」などと、軽い調子で言葉が途切れない。


 尚人は食べる手を止めないまま軽く返し、やがて自分の名も伝えた。


 彼女はにこりと笑って名乗った。名前は朝倉澪(あさくら みお)だと言い、都内にある私立の東都文理大学(とうとぶんりだいがく)に通う2回生だと続けた。指先は細いのに動きが機敏で、空いた皿を取るときも音を立てず、目だけで客の様子を確かめていた。


 尚人は、卵の黄身を崩す感触と、澪の明るい声が、同じ朝の中で並んでいるのを感じた。仕事の重さが少し薄れ、胃の底に温かいものが落ち着いていった。

この回では、尚人が『会社を作る』と決めたあとの動きが、紙と印鑑の感触を伴って現実になった。杉浦真弓は、口先ではなく手続きと段取りで尚人を前へ押し出し、尚人もまた、数字を確かめながら自分の会社の骨組みを固めていく。五反田、葉山、三崎港、普通預金、資本金。ばらばらだった金と物件の話が、この朝で1本の流れにつながった。しかも、8億円のうち7億円を新たな賃貸へ回し、1億円を余白として残す形まで見えた。五反田の月336万円に、葉山の月224万円、三崎港の月440万円が重なり、手取り賃貸料は月1000万円という節目に届く。喫茶店では朝倉澪という新しい女が現れ、仕事の張りつめた空気とは別の明るさが差し込む。第三章は、会社の輪郭と女の気配が、同じ日に並び始める章でもある。

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