第2話――「ベルの音、10億円」
1986年4月2日午後5時、尚人は真理子と過ごした部屋で、杉浦からの電話を受ける。追浜と夏島周辺の港開発計画が発表され、発表前に押さえた土地は一気に値を上げた。売却後の純益は10億円に届き、尚人はその場で退職と会社設立を決める。午後の熱の残る部屋で、女との時間と仕事の数字が重なり、尚人の人生は次の段階へ進み始める。
(1986年4月2日(水)午後5時、品川、尚人の持ちビル)
薄いカーテン越しに、午後の光が部屋へ斜めに入っていた。白い壁はまぶしさを押し返さず、ただ明るくなって、空気の粒まで見えるようだった。シーツはまだ体温を含み、肌に触れるところだけがぬるく、乾ききらない湿り気が残っている。尚人は真理子を抱いたまま、呼吸の上下を胸で感じていた。真理子の髪は枕に広がり、首筋からは洗い立ての匂いに混じって、甘い香りがかすかに立っていた。
ふたりの会話は途切れがちで、言葉より先に、指先が背中をなぞった。窓の外では車が通り、遠いクラクションが1度だけ鳴った。尚人はその音さえ眠りに引きずり込むように、まぶたを落としかけた。
そのとき、電話が鳴った。
金属のベルが乾いた響きを立て、部屋の静けさを一気に割った。尚人は一瞬、夢と現実の境を探し、次に頭が冷えた。ここへ電話をかけてくる相手は限られている。受話器に手を伸ばすと、プラスチックの硬さが指に当たり、さっきまでの柔らかい感触が途切れた。
尚人は受話器を耳に当てた。少し湿った手のひらの汗が、受話器の背に薄く残る。
「もしもし」
「もしもし、杉浦真弓です。土地の買付はすべて順調に終わりました。尚人さん、テレビを見ましたか?」
杉浦の声はいつも通り落ち着いていて、事務的な硬さの中に、言い切る強さがあった。尚人はベッドの端に腰をずらし、背中で枕を押しつぶした。シーツが擦れて、さらりと音がした。
「もしもし、お疲れ様でした。有難うございます。テレビはまだ見ていませんが、どうかしましたか?」
「追浜、夏島周辺の港開発計画が発表されました」
発表という言葉で、尚人の眠気は引きはがれた。鼓動が1段強くなる。部屋の中の匂いが、急に濃く感じられる。真理子の髪の香り、シーツの洗剤、空調の乾き。全部が一緒に鼻へ入った。
「ええ。発表の前に買えたんですよね?」
「勿論です。総額7億円で買えました。いま、買い手の当たりが出始めていて、机上では17億円前後まで動いています」
数字が耳に入った瞬間、尚人は息を吸い、喉が少し鳴った。頭の中で地図の線が走り、追浜と夏島の海の色が浮かんだ。受話器の向こうは、キーボードの音も紙の音もしない。ただ、杉浦の声だけが淡々と続く。
「どのくらいまで行きますか」
「発表されたばかりです。17億円は固いと見ます。買う側は相場ではなく、期限で判断します」
尚人は窓の明るさを見たまま、目の焦点が合わなくなった。現実なのに、夢の続きのようでもあった。指先が受話器を強く握り、背に硬さが出た。
「分かりました。17億円以上で売ってください」
「了解しました」
尚人が受話器を置くと、台座に当たる音が小さく響いた。その音のあとで、部屋の静けさが戻る。電話を切ったあと、尚人は裸足のまま廊下へ出て郵便受けから夕刊を取り出した。
真理子はいつの間にか目を開けていた。まどろみの膜がまだ残る目つきで、尚人の顔を見上げていた。髪が頬に貼りつき、唇が少し乾いている。彼女は腕を伸ばし、尚人の肩に指を置いた。
「尚人さん。貴方は土地の売買をやっているの? 資金はどうしたの?」
声は問いただす強さではなく、驚きと興味の混じった柔らかさだった。尚人は一度、息を整えた。言葉を選ぶより先に、腹の底から出すしかないと思った。
「真理子さん、聞こえましたか。実は祖父の遺産で、土地の買いをやっているんです。短期と長期の2つです」
真理子の目が少し丸くなった。まぶたの裏から眠気が引いていき、現実の輪郭がはっきりしていくのが見えた。彼女は上体を起こし、シーツを胸元へ引き上げた。布が肌をこすり、さらりと音がした。
「そうなの。只の新入社員じゃないのね」
「いえ。会社では只の新入社員です。でも、結果が出たら次へ進みます」
尚人が言うと、真理子は息を吐き、笑いそうで笑わない顔になった。驚きが大きすぎて、感情の置き場を探している表情だった。寝室に午後の光が落ち、真理子の頬の薄い汗が小さく光った。
「結果が出るまで、しばらくここで待っています」
尚人はそう言いながら、真理子の髪を指で梳いた。指先に髪の湿り気が残り、香りが手の甲へ移った。真理子は、その手を押し返さず、目を細めた。
「それでは、私も一緒に待っているわ」
言い方は軽いのに、言葉の芯はまっすぐだった。真理子は尚人の胸に頬を寄せ、呼吸を合わせるように静かに息を吸った。尚人は彼女の背中に手を回し、肌の温度が戻ってくるのを確かめた。窓の外では遠くの車の音が続き、日常が流れているのに、部屋の中だけが次の段階へ進んでいた。
ふたりが低い声で甘い言葉を交わしていると、また電話が鳴った。今度のベルは、さっきより鋭く聞こえた。尚人が受話器を取ると、杉浦の声がすぐに乗った。
「尚人さん。売却の手配を入れました。諸費用と手数料、それから税の見込みを差し引いた純益は、10億円です」
数字の響きが、耳の奥に重く落ちた。尚人は言葉を失い、ただ1度だけ、ひとつ息を吐いた。真理子は隣でその様子を見て、尚人の指に自分の指を絡めた。受話器の冷たさと、真理子の指の温かさが同時に伝わり、尚人の体の内側で、緊張がほどけていった。
「分かりました。ありがとうございます」
尚人が受話器を戻すと、部屋の空気がまた静かになった。けれど、その静けさは、さっきのまどろみではない。数字と約束と、互いの体温が混じった静けさだった。真理子は尚人の肩に唇を寄せ、そっと触れるように口づけた。肌に残るその感触が、電話の声より長く、確かに残った。
◇ ◇ ◇
夕方の光が落ちきる前、尚人は部屋の窓を少しだけ開けた。外の空気はまだ冷えきっていなくて、車の排気と街路樹の青い匂いが薄く入ってきた。室内にはシーツの乾きかけた匂いと、さっき淹れたインスタントコーヒーの苦い匂いが残っている。テーブルの上には夕刊が広げられ、追浜と夏島の見出しが黒々と並んでいた。
尚人は新聞を折り直し、メモ用紙を引き寄せた。紙のざらつきが指先に引っかかり、ペン先がこすれる音が静かに続く。書いたのは会社名だった。早乙女不動産㈱。次に資本金として10億円と書き、線を引いて丸で囲んだ。数字が紙の上に乗った瞬間、胸の奥がすっと固まった。勢いではなく、決めたという手触りが残った。
受話器を取ると、プラスチックが指に冷たい。ダイヤルを回す音が部屋に響き、呼び出し音が数回続いた。
「はい、京浜銀行、杉浦真弓です」
受話器の向こうは蛍光灯の気配がした。紙をめくる音が混じり、遠くでタイプライターに似た打鍵が聞こえた。杉浦の声はいつも通り落ち着いていて、言葉の端が揺れなかった。
「杉浦さん、尚人です。さっきはありがとうございました。数字を聞いて決めました」
「はい。何か追加のご指示でしょうか」
尚人は一度、息を吸った。窓の外でバイクが走り去り、低い排気音が細く伸びて消えた。
「会社を辞めます。新しく不動産の会社を作ります。名前は早乙女不動産㈱です。資本金は10億円にします」
間があった。受話器の向こうで紙が静かに置かれる音がして、杉浦が話を聞く姿勢に切り替わったのが分かった。
「承知しました。設立時期はいつにしますか」
「すぐです。今週中に動きたい」
「かしこまりました」
尚人は続けて言った。言いながら、自分でも言葉の重さを確かめていた。
「それで、杉浦さんに来てほしい。うちの専務取締役をお願いしたいです。年俸は1000万円で考えています。仕事は資金と契約の管理を中心に、最初は全部やらないといけないと思っています」
杉浦は即答しなかった。だが迷いの沈黙ではなかった。計算して、段取りを組み直す沈黙だった。
「条件は理解しました。私でよろしければ、お引き受けします」
尚人の肩から力が抜けた。手のひらに汗がにじみ、受話器の背が少し滑る。
「ありがとうございます。助かります。本当に」
「では、明日午前9時、必要な書類の一覧を持って伺います。印鑑と身分証明の準備をお願いします。会社の実印は作成が必要になりますので、手配もこちらで進めます」
杉浦の言葉は無駄がなく、具体的だった。尚人はうなずきながら、ペンでメモを足した。印鑑、身分証、実印。紙の上の文字が増えるほど、計画が現実の形になっていった。
「それと、尚人さんが今の会社を退職される件ですが、手続きも私が段取りします。退職届の書式、提出先、退職日、保険や源泉の処理まで、抜けが出ないようにします」
「そこまで……」
「会社を作るなら、余計な消耗は避けたほうがいいです。必要なら、先方の総務と私が直接やり取りします」
電話を切ったあと、部屋はまた静かになった。だが、さっきの静けさとは違った。新聞の紙の匂い、コーヒーの苦さ、ペンの芯の粉。そういう細い手触りが、決断の輪郭を支えていた。
◇ ◇ ◇
机の上は紙で白くなっていた。朱肉の甘い匂いがまだ薄く残り、ボールペンのインクの匂いがそれに重なった。黒い書類ケースの革は、ふたを閉めたあとも空気に温度を残している。尚人は椅子に座ったまま、次に署名する欄へ指を滑らせ、息を整えていた。窓の外では夕方の車が切れ目なく流れ、遠い工事の金属音がときどき混じった。
真理子はベッドから起きて、シャツの袖を通しながら、その様子を黙って見ていた。さっきまでの柔らかい空気は、紙の角とクリップの光に押され、部屋の輪郭が急に仕事の顔になる。尚人の横顔は集中していて、目の下にうっすらと影ができていた。真理子は、それが頼もしくもあり、同時に、今は邪魔をしてはいけないとも感じた。
彼女はバッグの留め具を小さく鳴らし、コートを腕にかけた。床に落ちた髪の1本を指先で拾い、丸めて捨てる。そういう細い動きで、自分の気持ちを落ち着かせてから、尚人の背中へ近づいた。洗剤の匂いのするシャツ越しに、肩の筋肉が固く張っているのが分かった。
真理子は尚人の頭を軽く抱いた。髪に指を入れると、まだ少し湿り気があり、指先がかすかに滑った。尚人が顔を上げると、真理子の香水の甘さが近くなった。窓から入る風に混じって、街路樹の青い匂いが一瞬だけ鼻を抜ける。
「今日のところはこれで帰ります。何時でも良いからまた連絡してね。会社も頑張るのよ。私で良ければ何時でも手伝ってあげるから、何でも言いなさい」
言葉は穏やかだったが、声の芯はまっすぐだった。尚人はうなずき、唇を動かした。
「ありがとうございます。助かります。今日は、こんな格好で」
「いいの。今はそれが大事なんでしょう」
真理子は尚人の額にそっと口づけた。肌に触れた時間は一瞬なのに、熱だけが残った。尚人の手が真理子の手首に触れ、引き止めるほどではない力で止まりかけたが、真理子は指で軽くほどいた。離れ際の布の擦れる音が、やけに大きく聞こえた。
玄関で靴を履くとき、真理子のかかとが床を叩き、小さな乾いた音がした。ドアを開けると、共用廊下の空気は部屋より冷たく、コンクリートの匂いがした。真理子は振り返り、尚人の顔をもう1度確かめるように見た。尚人は言葉を探しているようだったが、結局、手を上げて見送った。
エレベーターのボタンを押すと、機械の低い唸りが近づいてくる。扉が開く風に髪が揺れ、真理子はバッグの持ち手を握り直した。扉が閉まる直前、尚人の部屋の明かりが廊下に細く漏れているのが見えた。紙の白と、ペンの黒が、あの光の中で増えていくのだろうと思った。
ビルの外に出ると、夕方の空気は少し湿っていた。排気の匂いに、屋台の油の匂いが混じり、遠くで踏切の警報機がかすかに鳴った。真理子は小さく息を吐き、肩の力を抜いた。歩き出すと、足元のアスファルトが冷たく硬い感触を返してきた。彼女は振り向かずに進み、尚人のビルのガラスに映る自分の輪郭だけを、ちらりと確認した。
後書き
この回では、尚人の私生活の熱が、そのまま仕事の決断へつながった。追浜と夏島の土地は、開発計画の発表で一気に値を上げ、10億円という数字が会社設立を現実のものにする。杉浦は専務として受けるべき役を静かに引き受け、真理子は女として寄り添いながら、尚人の背中を押す側にも回る。午後の体温と夕刊の見出しと受話器の声が、同じ部屋の中で重なり、第三章の中心である『会社を作る日』が、ここではっきり形を持ち始める。




