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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第三章――「逆アセンブラの女と会社設立を決めた日」

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第1話――「白い皿の午後、解析の約束」

1986年4月2日水曜日の正午、尚人は品川プリンスホテルで真理子と昼食を取る。席で2人は、それぞれ胸の内を少しずつ明かしていく。真理子は夫の単身赴任と息子の不在で、家に話し相手がいないことを口にし、尚人もまた女と距離を置くようになった理由を打ち明ける。さらに真理子は、結婚前にプログラマーとして働いていた過去を話し、尚人の叔父が残した古いプログラムを解析してみたいと言う。昼の会話で生まれた約束は、その日の午後、2人の距離をさらに縮める。


 (1986年4月2日水曜日正午、品川プリンスホテル)


 尚人は、品川プリンスホテルのレストランで、白い皿に整えられたランチを前にしていた。ナイフとフォークが触れる乾いた音が、天井の高い空間に小さく散り、席の間を行き来するスタッフの靴音が一定のリズムで続いた。グラスの水は冷たく、口をつけるたびに舌先がきゅっと締まる。正面の真理子は、淡い香水の匂いをまといながら、背筋を崩さずに笑っていた。


 尚人は料理の説明を聞くふりをしながら、彼女の目元ばかり追っていた。視線が重なるたび、真理子は逸らさなかった。むしろ、受け止めるように、ほんの少し口角を上げた。若い男に、好意を隠さず向けられる。そういう瞬間は、彼女にとって長いあいだなかった。うれしさが先に立つ一方で、胸の奥に、ひっかかりも残った。尚人ほどの青年が、どうして自分にこんなに真っ直ぐなのかという疑問だった。


 真理子はワイングラスの縁を指でなぞり、軽く息を吸った。


「ねえ、尚人さん。彼女はいないの?」


 尚人は一瞬、箸ならぬフォークを持つ手を止めた。逃げ道を探すように視線が皿へ落ち、それから彼女のほうへ戻った。


「いません。学生のときに、それらしい人はいました。でも……いざ、そういう段になったら、拒まれました」


 真理子は眉を上げたが、笑わなかった。先を促す代わりに、パンをちぎって口に運び、待った。


「それ以来、いないんです」


「理由は何だったの?」


 尚人は喉を鳴らし、言葉を選ぶように口を開けて閉じた。顔が少し赤くなる。けれど目は逸らさなかった。


「言いにくいんですけど……体の事情です。大きすぎるって言われました」


「大きすぎる?」


「相手が怖がるというか、痛がるというか……それで、途中で止められました」


 真理子は、数秒だけ間を置いてから、こらえきれないように笑った。声は思ったより大きく出て、隣の席がちらりとこちらを見た。真理子は手で口元を隠したが、目尻は涙で濡れていた。


「そんなことで悩んでたの。ばかね。自分を責めるような話じゃないでしょう」


 尚人は肩をすくめ、困ったように笑った。真理子は笑いながらも、尚人の表情をじっと見ていた。照れと真面目さが同居していて、嘘の匂いがしなかった。だからこそ、真理子の気持ちは一段、近くへ寄った。彼が踏み込んで話したことが、彼女にとっても、踏み込んでよい合図になった。


「うちね、夫が単身赴任なの。家に帰ってくるのは月に1回あるかないか。息子も大学で、あんまり戻らないし」


 真理子はそう言って、フォークでサラダをつついた。葉の水気が皿の縁に残り、ライトに反射して白く光った。


「家にいるとね、話す相手がいないのよ。『今日、こんなことがあった』って、言うだけの相手がいない。くだらない愚痴なんだけど」


 尚人は黙って頷いた。否定も助言もしない。真理子の言葉の切れ目に、軽く相槌を入れるだけだ。真理子はそれが楽だった。言い終えたあとに、言葉を裁かれない安心があった。


「聞くの、上手いわね」


「上手いとかじゃないです。真理子さんの話、普通に聞きたいんです」


 真理子は一瞬だけ、目を細めた。その言い方が、飾り気がなくて、余計に刺さった。


 食後のコーヒーが運ばれてくると、真理子はスプーンで砂糖を混ぜ、カップの縁に小さな音を立てた。すると、ふと思い出したように言った。


「私、結婚する前はプログラマーだったの。フォートランとコボル。今みたいに画面も親切じゃないから、紙の資料とにらめっこしてさ」


 尚人の顔つきが変わった。驚きが先で、そのあとに興味が追いかける。


「フォートランって、港湾の計算とかで使うやつですよね」


「そうそう。計算機にやらせるっていうより、計算機に働かせる感じ。いま言う人、珍しいわね」


 尚人は、叔父が港湾技術研究所で組んだという古い図化プログラムを思い出した。紙の図面、数字の羅列、磁気テープという単語。頭の中で、点と線がつながる。


「叔父が昔、ケーソンの図を出すプログラムを組んだって言ってました。たぶんフォートランです。まだ残ってるかもしれない」


 真理子はカップを置き、身を乗り出した。


「見てみたい。紙でも、テープでも、出力でもいい。いちど私に預けてみて。解析してあげる」


「本当ですか」


「うん。こういうの、久しぶりに血が騒ぐの」


 尚人は、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。彼女がただ優しいだけではなく、頭と手を動かす人だと分かったからだ。次に会う口実が、綺麗に形になった。


「次、会うときに持ってきます。ちゃんと探してきます」


「約束ね」


 ◇ ◇ ◇


 ランチはそこで締まり、会計を済ませると、2人はホテルの明るいロビーへ出た。外気が入口から流れ込み、花の香りと車の排気が混じった。尚人はワゴン車のドアを開け、真理子を先に乗せた。シートに沈む布の音がして、彼女の膝が一瞬だけ尚人の腕に触れた。その小さな接触が、さっきの約束よりも生々しく、次の時間を予告していた。


「送ります。品川のマンションまで」


 尚人がそう言うと、真理子は小さくうなずいた。声に出さずに笑ったような目つきだけが返ってきた。


 車を出すと、窓の外にホテルの看板が流れていく。車内には、昼のコーヒーの匂いと、真理子の香水の甘さが残っていた。尚人がハンドルを握る手に力を入れ直すと、その動きを見た真理子が、ふいに尚人の横顔を見つめた。


 最初の赤信号で止まった。ブレーキがわずかに沈み、車体が静かに前へつんのめる。尚人が前を向いたまま息を整えていると、真理子の指が顎に触れた。次の瞬間、顔が引き寄せられ、長い口づけになった。唇が離れるまでのあいだ、外の音は全部遠くへ逃げた。青になっても、尚人はすぐには発進できず、真理子が軽く肩を押してようやく動き出した。


 次の赤信号でも同じだった。止まるたびに、真理子が先に尚人を引き寄せる。短いキスでは終わらない。呼吸が乱れて、胸の奥が熱くなる。尚人は何度か「危ないですよ」と言いかけたが、言葉が形になる前に、真理子の息が頬に触れて消えた。


 真理子は尚人の手の甲に指を置いた。ハンドルを握る手に重ねるだけで、握り返さない。逃げ道を残した触れ方だった。けれど、その軽さが余計に胸をざわつかせた。


「このまま帰りたくない」


 赤信号の停止線の手前で、真理子が小さく言った。声は落ち着いているのに、目だけが熱を帯びていた。


「あなたの部屋に行きたい。少しでいいから」


 尚人は喉を鳴らし、進路を頭の中で組み替えた。品川のマンションへ送るつもりだったのに、ハンドルを切る角度が変わっていく。真理子はそれを見て、何も言わずにシートへ深く背を預けた。口元だけが、さっきより静かに笑っていた。


 尚人のマンションに着くころには、車内の空気がすっかり変わっていた。赤信号で止まるたび、真理子は尚人の顔を引き寄せ、ためらいなく唇を重ねた。口紅の味はほとんど残っておらず、代わりに、昼のデザートに混じっていた甘さと、息の温かさが直接伝わった。窓の外ではクラクションがひとつ鳴り、歩道の靴音が流れていったが、車内だけが別の時間になっていた。


 部屋に入ると、玄関のひんやりした空気が足首を撫でた。室内は人が住んでいない匂いではない。洗剤の香りと、布団の乾いた匂いがして、窓の隙間からは街の排気が薄く混じってくる。真理子が靴を揃える動きは早いのに乱れず、尚人はその背中を見て、胸の奥が落ち着かないまま背筋だけが伸びた。


 照明を点けると、白い光が壁を平らに照らした。カーテンの端がわずかに揺れ、遠くの車の走行音が低く続く。真理子は尚人のネクタイに指を掛け、結び目をほどいた。指先が布を滑り、次に、喉元の皮膚にそっと触れる。そこだけが熱を持つ。尚人が息を吸うと、真理子は笑い声を小さく混ぜた。からかうのではなく、緊張をほどくための笑い方だった。


 口づけは、さっきよりも長くなった。唇が離れるたび、吸い込んだ空気が足りなくなり、また近づく。真理子の髪が頬に触れると、シャンプーの匂いに香水の甘さが重なった。耳元で、彼女の息がかすかに湿り、尚人の肩に落ちる。肌の温度が近すぎて、服の布が邪魔に感じられるようになった。


 寝室へ移ると、シーツの匂いが少しだけ新しい。真理子は尚人の手を取って、置き場所を決めるように導いた。掌と掌が合うと、昼間のグラスの冷たさとは違う生の熱が伝わり、指の節が互いに確かめ合う。彼女は急がなかった。身体の向きを変えるたび、布が擦れる音がして、そのたびに室内の静けさが少しずつ薄くなる。


 ローションの気配は、匂いより先に温度で分かった。ひやりとした感触が指先に乗り、次の瞬間、体温でぬるく変わる。滑りが増えると、触れ方が変わり、力の入れ方も変わる。真理子は尚人の反応を見て、手の動きをわずかに調整した。焦らすのではない。安全な幅を測って、そこに時間を足していくやり方だった。尚人は自分の呼吸が乱れるのを感じ、口を開けて息を吐いた。


 窓の外では、エレベーターの機械音が遠くで一度だけ鳴った。どこかの部屋のドアが閉まる音もした。けれど、この部屋の中では、音はすべて小さくなり、代わりに、布の擦れ、肌が触れ合う音、唇が濡れる音が近くなった。真理子はときどき尚人の額に指を当て、汗をぬぐい、言葉をそっと添えた。「大丈夫よ」「力を抜いて」その声は、母親の声ではなく、女の声だった。


 時間は普段よりも長く感じられた。時計を見る余裕などないのに、ひと息ごとに場面が刻まれていく。尚人の背中に残るシーツのしわの感触。真理子の爪が肩に残す薄い圧。呼吸が重なって、どちらの息か分からなくなる瞬間。そういう細部が積み重なり、身体の奥に熱が溜まっていった。


 やがて、尚人の中で張り詰めていたものがほどけ、波のような感覚が胸の奥から広がった。真理子はそれを受け止めるように尚人を抱き、腕の中へ引き寄せた。耳元で「よかった」と小さく言い、笑い声をこぼした。その笑い声が震えを含んでいて、尚人は自分だけではなかったと知った。


 終わったあと、部屋の空気は少し湿り、肌は夜風に触れると冷える。真理子は枕元のティッシュを取り、手早く整え、尚人の胸に頬を寄せた。髪が首筋に落ち、重みが落ち着きを作る。尚人は彼女の背中に手を回し、布のない肌の手触りを確かめた。遠くの道路の音がまた聞こえ始め、現実が戻ってくる。だが、真理子の息が胸に当たるあいだは、まだ戻りきらなかった。

この回では、尚人と真理子の関係が一気に深まった。ただ、それだけの場面ではない。真理子は寂しさを抱えた人妻としてだけでなく、フォートランとコボルを扱っていた元プログラマーとして動き出す。尚人にとっても、叔父が残した古い資料と、次に会う理由がここで1つにつながった。白い皿の昼食から始まった話は、午後の約束へ進み、その先で仕事と私情が同じ場所に並び始める。第三章は、この日を境に新しい流れへ入っていく。

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