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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第二章――「潮風の町、22歳の尚人」

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第20話――「呼び出し音4回、品川プリンスの昼」

朝は五反田東口のビジネスホテルから始まる。尚人は朝食を済ませたあと、横須賀のアパートへ戻って研修に要る荷物をまとめる。部屋で黒電話を回すと、以前に営業の電話を入れた相手が4回目の呼び出し音で出て、品川プリンスホテルでの昼の約束が決まる。そのあと、尚人は車屋で注文していたワゴン車を受け取り、湾岸を抜けて品川へ向かう。朝食会場、横須賀の部屋、黒電話、販売店、品川プリンスホテルの順に場面が移り、正午の待ち合わせへつながっていく。

 (4月2日(水)午前7時すぎ。五反田東口のビジネスホテル)


 尚人は1階の朝食会場へ降りた。エレベーターの扉が開くと、まずコーヒーの苦い匂いが鼻に入った。次に、味噌汁の湯気と、焼き魚の脂の匂いが追いかけてくる。皿が重なる乾いた音と、トレーがテーブルに置かれる音が、眠気の残る空気を小さく叩いていた。


 尚人は手早く盆に載せた。白飯、味噌汁、卵、焼き鯖、小鉢の漬物。箸で鯖の皮を割ると、香ばしさが一段強くなる。口に入れれば塩と脂が舌に広がり、味噌汁の熱が喉を通って胃の底へ落ちた。コーヒーをひと口飲むと苦みが胸の奥まで落ち、頭の中の霧が薄くなる。


 尚人は時計を見た。7時を少し過ぎている。明日からの研修は品川だ。今日のうちに横須賀のアパートへ寄り、肌着とスーツだけはまとめておく。そのあと車屋へ行き、注文しておいたワゴン車を受け取り、品川の持ちビルへ回る。頭の中で順番を並べると、心拍が一定になった。


 会場を出て外へ出ると、五反田の朝はまだ冷たい。東口の歩道には通勤前の人が点々と動き、コンビニの自動ドアが軽い音を立てて開閉している。排気の匂いが薄く漂い、風に押されて遠くへ引き伸ばされる。尚人は駐輪場へ向かい、バイクのカバーをめくった。指先に夜露の冷たさが残る。ヘルメットを被ると、外の音が一枚布をかぶったように遠くなり、自分の呼吸だけが近くなる。


 キーを回し、セルを押す。エンジンが目を覚まし、低い振動が掌から腕へ上がった。オイルとガソリンの匂いが混じり、冷えた空気の中でだけ妙に濃く感じられる。尚人はアクセルを煽らず、車の流れに合わせて走り出した。白線は朝の湿りで鈍く光り、タイヤが乗るたびに感触が少し変わる。信号で止まると、隣のトラックの排気が一瞬だけ鼻を刺し、すぐに風がそれを薄めた。


 都心を抜けるにつれて、空が広くなる。ビルの間から見える光が増え、路面の色が少しずつ乾いていく。走行風がヘルメットの隙間から頬を削り、耳の奥で風の音が増える。遠くに海の気配が混じり始めると、潮の匂いが薄く鼻に引っかかった。横須賀へ近づくほど、その匂いははっきりしてくる。港町の朝の匂いだ。


 アパートの敷地に入ると、砂利がタイヤの下で細かく鳴った。尚人は端の区画にバイクを滑り込ませ、エンジンを切った。急に静かになる。遠くでカラスが1羽鳴き、隣の部屋の換気扇の低い音が続いていた。尚人はヘルメットを外し、頬の冷えがゆっくり戻るのを感じながら、階段を上がった。鉄の踏み板が乾いた音を返し、手すりは朝の冷たさを残している。


 部屋の鍵を開けると、室内の空気は寝起きの匂いのまま止まっていた。洗剤の香りと、布の匂いと、わずかな潮気が混じっている。尚人は窓を少しだけ開け、外の空気を入れた。カーテンが軽く揺れ、薄い光が床に伸びる。


 尚人はクローゼットを開けた。ハンガーがぶつかる音が小さく鳴る。スーツの布を指で挟むと、滑りがよく、ひんやりした感触が掌に残った。シャツを取り出すと、糊のきいた襟が硬い。肌着と靴下を重ね、ネクタイを1本選び、ベルトを丸める。必要なものだけに絞ると、手の動きが迷わない。


 鞄を開け、底にスーツを畳んで入れた。布が擦れ、ファスナーの金具が触れてかすかに鳴る。肌着を詰め、シャツを入れ、替えの下着をもう1組だけ足した。歯ブラシ、整髪料、簡単な薬、筆記具。指先が触れるたび、材質の違いがはっきり伝わる。プラスチックの硬さ、布の柔らかさ、紙のざらつき。最後に鞄の口を閉めると、ファスナーが一直線に走り、音がそこで終わった。


 尚人は鞄の重みを確かめ、床に置いた。これで明日から品川へ出ても困らない。あとは車屋でワゴン車を受け取り、品川の持ちビルへ回ればいい。バイクはここに置いておく。尚人は玄関で靴を揃え、もう一度時計を見た。時間はまだ朝のうちだ。次の用事へ移る余裕は十分にあった。


 ◇ ◇ ◇


 尚人は玄関で靴ひもを締め直し、鍵をポケットに落としたところで、ふと手が止まった。以前、営業の電話をかけた奥さんの声が、耳の奥に残っていたからだ。東洋通信工業の取引先に名の通った会社があり、その部長の奥さんだった。住まいは品川の分譲マンションだとすぐ分かったので、尚人は押し売りの調子を引っ込め、天気や近所の買い物の話に切り替えた。相手は明るく、笑うと息が少し弾む。尚人が粘らないので、向こうも警戒を解いた。夫は大阪へ単身赴任中で、息子は九州の大学に進んだ。家の中が広くなって、昼間は比較的時間があると話していた。


 その声を、もう1度聞きたくなった。尚人は部屋へ戻り、黒電話の前に座った。机の上には名簿の紙が開いたままで、紙の端が空気に乾いている。受話器を上げると、回線の低い唸りが耳にまとわりつく。指をダイヤルの穴に入れると、冷たい樹脂の縁が指先に当たった。番号を回し切るたび、戻る音が規則正しく続き、部屋の静けさの中で小さく弾んだ。


 呼び出し音が2回、3回。間が空き、尚人の喉が無意識に鳴った。4回目の途中で、向こうが取った。


 尚人は少し息を整えてから言った。「もし、もし。以前にセールスでお電話した早乙女尚人と申します。お声をもう1度お聞きしたくてお電話しました」


 奥さんはすぐに笑い声を混ぜた。「あら。あなたなの。覚えているわよ。不動産屋の新入社員さんだったわね」


 声は張りがあって、朝の台所のように明るい。受話器の向こうで、湯が沸くような微かな音がした。尚人はその生活音に、相手が本当に家にいることを確かめて、肩の力を抜いた。


 奥さんは畳みかけるように続けた。「明日から研修だったっけ。何時からなの」


 尚人は答えた。「明日からなんですよ。研修に行く前に奥様のお声をもう1度お聞きしたくて、失礼だとは思ったのですが、お電話してしまいました」


 奥さんは間を置き、声の調子を少し柔らかくした。「そうなの。ところで、あなた、今日はどういう予定なの。確か、横須賀のアパートから電話してると言っていたわね」


 尚人は窓の外の風の音を聞きながら言った。「今から、車屋に注文したワゴン車を取りに行き、品川へ向かいます」


 奥さんは軽く息を吸い、いたずらを思いついたように言った。「そうなの。じゃあ、私と品川プリンスホテルでランチを一緒にしない」


 尚人は返事を先に出した。「正午にお伺いします」


 言い終えてから、受話器の中で奥さんが小さく笑った。約束はそれだけで決まった。尚人は礼を述べ、電話を切った。受話器を置くと、部屋の音が戻る。自分の呼吸と、遠くの車の走行音だけが残った。


 尚人は立ち上がり、鞄の持ち手を握った。革が掌に吸い付く。鍵束の金属が触れ合い、小さな音が鳴った。玄関を出ると、階段の鉄が朝の冷たさをまだ抱えていた。外気は塩気を少し含み、鼻の奥を軽く刺す。尚人はバイクではなく、車屋へ向かう足を速めた。今日は車で品川まで行く。


 販売店のガラス戸を押すと、油とゴムの匂いが混じった空気が流れてきた。奥の車両置き場に、背の高いワゴン車が待っていた。角張った車体に朝の光が線になって走り、フロントガラスに空が薄く映っている。作業着の男が出てきて、書類の束を机に置いた。紙の端が擦れる音が乾いている。


 男は言った。「早乙女さん。手続き、ここまでできてます。鍵、2本です」


 尚人は頷き、必要なところだけ確認した。署名のインクの匂いが指先に残る。鍵を受け取ると、金属の重みが現実味を増した。ドアを開けた瞬間、車内の匂いが鼻に入った。新しいビニールと、内装の接着剤の匂いだ。まだ人の匂いが薄い。座面に腰を下ろすと少し硬く、背中が真っすぐになる。ハンドルの表面はさらりとして、指の腹が滑り過ぎない。


 エンジンをかけると、低い振動が床から上がった。アイドリングの規則正しさが、胸の奥を落ち着かせる。尚人はミラーを合わせ、ギアを入れた。車体がゆっくり前へ出る。タイヤが砂利を踏み、粒が転がる音が車内に響く。


 横須賀の街を抜けると、道は次第に流れが速くなった。信号で止まれば、隣の車から流れてくるラジオの音が一瞬だけ聞こえ、窓を閉めればすぐに遠のく。湾岸へ出るころ、潮の匂いが濃くなり、風の粒が細かくなる。フロントガラスに当たる光が白く、橋の影が車内を一瞬で横切った。


 尚人はアクセルを踏み過ぎず、一定の速度で走った。ハンドルに伝わる路面のざらつきが、手の中で小さく震える。エンジン音は耳にうるさくならず、一定の低さで続く。走るほどに車の癖が分かり、車体の重さが安心に変わっていく。


 品川が近づくと、建物の密度が上がり、空が細く切り取られた。車の流れは詰まり、ブレーキランプの赤が列になって伸びる。尚人は窓の外を見て、時間を確かめた。正午にはまだ余裕がある。焦る必要はない。


 やがて、品川プリンスホテルの建物が視界に入った。ガラスの面に朝の光が返り、入口付近は車の出入りで空気が少し温まっている。ロータリーには制服の係員が立ち、靴音が石の床に硬く響いた。


 尚人は速度を落とし、車を寄せた。エンジンを切ると、さっきまで満ちていた振動が消え、代わりに外のざわめきが車内へ入ってきた。人の声、車のドアの開閉音、遠くで鳴るクラクション。尚人は鍵を抜き、鞄を持って車を降りた。春の空気が頬に当たり、ホテルの入口からは、ほのかな香水と花の匂いが流れてきた。


 ◇ ◇ ◇


 尚人が品川プリンスホテルのエントランスへ足を踏み入れると、外の乾いた風が背中で切れ、空調の冷えた空気が頬に当たった。床の大理石は磨かれていて、照明の白がうっすら映り込む。車寄せから引きずられてきたキャリーケースの車輪が、かすれた音を立てて横を通り過ぎた。フロントの方向からは、紙の擦れる音と低い声が重なり、遠くでグラスが触れる澄んだ音も混じっていた。花の香りと、ワックスの匂いと、ロビー奥のコーヒーの焦げた匂いが、同じ場所で静かに漂っている。


 正面の柱の影から、待ち合わせの相手がすっと姿を出した。電話で伝えておいたとおり、186cmの尚人は人波の上に頭が抜ける。その背丈を目印にしたのだろう、彼女は迷いなく尚人の顔を見上げ、目だけで『この人だ』と決めたように頷いた。長い黒髪は肩のあたりで柔らかく揺れ、くりくりした茶色の瞳は照明を受けて濡れたように光っている。耳元で小さな金色のピアスが揺れ、黒いオフショルダーのトップスが首筋をすっきり見せていた。淡い色のタイトスカートは腰の線をきれいに出していて、体つきは大柄なのに品が崩れない。年齢は44だと聞いていたが、頬の張りと笑い方の軽さが、数字を先に忘れさせた。


 尚人は胸ポケットから名刺入れを出し、息を整えて1枚だけ差し出した。紙が指先に乾いた感触を残す。尚人は言った。「早乙女尚人です。お電話の件で伺いました」 彼女は受け取り、視線を落として一瞬で読み取り、すぐに顔を上げた。


 彼女は言った。「竹内真理子です。来てくださって、ありがとうございます」 言いながら、真理子も小さな名刺を差し返した。インクの匂いがわずかに鼻に届く。名刺の肩書には、夫の名が添えられていた。夫は竹内雅弘〈50〉、東都デジタル通信株式会社のネットワーク企画部長だという。真理子は続けた。「主人は大阪に単身赴任で、息子の航平〈18〉は九州で大学に通っています。家が静かすぎて、時々、話し相手が欲しくなるんです」


 尚人は返事をしようとして、言葉が遅れた。ロビーの灯りの下で、真理子の笑顔が思った以上に明るく、目尻の小さな影まで柔らかい。香水は甘さが強すぎず、動くたびに石鹸の清潔な匂いが後ろから追いついてくる。尚人が見とれているのを察したのか、真理子は口元を少しだけ緩め、くすりと笑った。その笑いは軽いのに、人を安心させる余裕があった。


 真理子は尚人の腕に手を添えた。指先は温かく、布越しに軽い圧が伝わる。腕を取る動きは馴れ馴れしいのではなく、迷わせないための自然な合図だった。真理子は言った。「レストラン、こちらです。入口が少し分かりにくいので、一緒に行きましょう」 尚人は頷き、歩幅を合わせた。絨毯に靴が沈み、足音が丸くなる。すれ違う客のコートの擦れる音、案内係の短い挨拶、遠くのエスカレーターの機械音が、ロビーの空気に薄く溶けていく。


 2人がレストランの方向へ進むと、室内の匂いが少し変わった。バターの温い香りと、焼いたパンの匂いが混じり、食器を拭く布の乾いた匂いが近づく。真理子の髪が肩で揺れるたび、黒髪の艶が照明を拾って小さく光った。尚人は胸の奥が落ち着かないのに、妙に背筋だけは伸びていた。真理子の手は尚人の腕から離れず、歩く速度も、呼吸の間も、こちらに合わせてくる。尚人はその気配に導かれるように、ロビーの雑音から離れ、席の静けさへ入っていった。

朝の動きは、ホテルの朝食、横須賀の部屋での荷造り、黒電話、販売店、品川プリンスホテルの順に進む。黒電話では、以前に営業を入れた相手が4回目の呼び出し音で出て、正午の約束が決まる。品川へ向かうまでに、尚人はスーツや肌着をまとめ、注文していたワゴン車を受け取る。品川プリンスホテルのロビーでは、電話の声だけだった相手が、竹内真理子という具体の人物として現れる。夫は大阪へ単身赴任中、息子は九州の大学に進んでいる。ロビーの花の匂い、ワックスの匂い、コーヒーの匂いの中で、真理子は尚人の腕を取り、2人はそのままレストランの方向へ歩き出す。

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