第14話――「紙袋の重み、夏島の噂」
川崎で1件の申込みを受けたあとも、尚人の足はそのまま町の中を動き続ける。乾物屋と菓子屋で選んだ手土産は、ただの礼ではない。人の懐へ入るための重みであり、その夜の会話をやわらかく開くための重みでもある。居酒屋では、酒と魚の匂いのあいだで土地の話が出る。隣の『さざなみ』では、先に交わした縁が別の男を呼び込み、追浜の港まわりの話が口にのぼる。夏島という地名は、まだ噂の形でしか現れない。だが尚人にとっては、その曖昧さの中にこそ先に動く理由がある。人に会い、物を渡し、何気ない顔で話を聞く。その積み重ねが、次の一手へつながっていく。
1986年3月31日月曜日、午後2時半。川崎のモデルルーム前で尚人はヘルメットを指先で回し、日差しの当たり方を確かめるように空を見た。建物の外壁は新しく、近づくと塗料と木材の匂いが混じって鼻に残った。車のドアが閉まる音が乾いた間隔で続き、子どもの声が短く跳ねた。尚人はその場で迷いを片づけるように頷き、川崎の商店街へ向かった。
駅前へ近づくと、空気の中身が変わった。惣菜屋の揚げ油の匂いが先に届き、次に魚屋の生臭さが薄くかぶさり、八百屋の青い匂いがそれを押し返す。店先の水打ちで舗道がところどころ濡れていて、靴底がペタッと鳴る。尚人は人の流れに逆らわず、目だけを忙しく動かしながら、手土産に向くものを探した。
乾物屋では、籠に盛られた昆布と煮干しが光を吸って黒く沈んでいた。鼻をくすぐるのは潮と醤油の匂いで、指で持ち上げた昆布の硬さが手に伝わる。尚人は女将に渡す分として、小さな包みの佃煮と、酒のあてになる乾き物を選んだ。包んでもらう間、店の奥からは紙を擦る音と、秤の金具が当たる音が聞こえた。紙袋に収まった瞬間、重みがきれいに手のひらへ落ち、これならバイクでも崩れないと分かった。
次に菓子屋へ入ると、甘い匂いが一気に鼻の奥へ入った。ガラスケースの中で丸い饅頭が並び、羊羹は刃を入れた断面が艶を持っている。尚人は涼子ママの顔を思い浮かべ、派手ではないが外れのない詰め合わせを選んだ。店員が包装紙を折るたび、紙の角が立つ音が小さく鳴った。最後に赤い紐が結ばれ、指先で触れると少しざらついた。尚人は礼を言い、両手の紙袋を持ち替えながら商店街をもうひと回りだけ歩いた。
商店街の屋根の下は明るいのに、日陰の空気がひんやりしていた。ラジオの歌がどこかの店から漏れ、買い物かごが擦れる音が近くを通る。尚人は人の肩が触れそうになるたび、歩幅を半拍だけ落として間合いを作った。最後に煙草屋の前で立ち止まり、灰皿の匂いを一瞬だけ吸い込んでから、バイクへ戻った。
キーを回すと、エンジンが低く震え、掌から腕へ振動が上がった。ヘルメットの中は少し蒸れていて、息が頬に当たる。尚人は紙袋を荷台へ載せ、ゴム紐を引いて金具を掛け、指で揺すってずれを確かめた。走り出すと風が首の隙間から入り、甘い菓子の匂いは遠のき、ガソリンと排気の匂いが現実に戻した。川崎を離れるにつれ、潮の気配が薄く混じり、車の流れは一定の速さで続いた。
横須賀のアパートに着くころ、空は少しだけ傾いていた。階段の鉄は昼の熱を残していて、手すりに触れた指先がぬるい。尚人はバイクを決まった位置へ寄せ、スタンドを立て、鍵を掛けた。チェーンが擦れる音が短く鳴り、金具が噛む感触が指に返った。紙袋を抱え直し、今度は徒歩で居酒屋へ向かった。
1986年3月31日月曜日、午後6時。
店の戸を開けると、炭の匂いと醤油の焦げる匂いが一緒に来た。カウンターの木肌は艶があり、濡れ布巾の水気が空気に薄く混じっている。奥で包丁がまな板を叩き、湯気が白く上がる。女将は手を止めずに顔だけ向け、「おかえり」と短く言った。
尚人は女将の顔を見つけ、紙袋を両手で差し出した。
「川崎へ寄りまして。大したものではありませんが」
女将は袋の重みを受け取り、すぐに笑った。
「まあ、気を遣わないで。うちのほうが、いつももらってばかりだよ。あとで出すね」
尚人は腰を下ろし、最初の一口のビールで喉の乾きを落とした。グラスの外側に水滴が走り、指先が冷える。焼き魚の皮が弾ける音が時々鳴り、隣の客の笑い声が天井で丸くなる。
カウンターの奥に座っていた男が、焼酎のグラスを持ち上げた。50代前半くらいで、背中が丸い。目元は眠そうなのに、話題だけは離さない。
「尚人くん、土地屋だろ。川崎のほう、どうだ。人が増えるって聞くけどな」
尚人は箸袋を裂き、指先の紙のざらつきを感じながら答えた。
「人は多いですね。駅前は特に。商店街も賑やかでした」
男は鼻で笑い、グラスの水滴を指で拭った。
「賑やかでも、俺には買えねえんだよ。うまい話だけ耳に入る。小さい土地が1つあってな、将来上がりそうなんだ。だが金がない。金さえあれば必ず押さえるのに、ってやつだ」
女将が鍋をかき混ぜる音が一拍だけ強くなる。尚人は男の言い方を、ただの愚痴ではなく焦りとして聞いた。男の指が、卓上の伝票を無意識に押さえ込むように動いている。
「場所はどのあたりですか」
「海のほうだよ。駅から少し歩く。今は何もない。だけど、何かが動くときは一気だ。そういう匂いがするんだ」
尚人はうなずき、口の中の塩気を焼酎で流した。ここで結論を言い切ると場が嘘になる。尚人は、聞いた話をそのまま預かるほうへ身を置いた。
「匂いの根拠を、もう少し教えてください。誰から聞いた話か、何が変わりそうか。そこが分かると話は早いです」
男はそれが嬉しいのか悔しいのか分からない顔をし、グラスを置いた。
「ほら、こういうのだよ。金の話より、話の筋を聞く。尚人くん、若いのに慣れてるな」
女将が小鉢を置き、湯気の隙間から尚人を一度見た。余計な約束はしないで、という目だった。尚人は笑って受け流し、料理の匂いを肺いっぱいに入れてから席を立った。
「また聞かせてください。今日はこのあと、隣へ寄って帰ります」
腹が落ち着くと、尚人は店を出た。外の空気が肌へ触れ、店の熱が背中から離れる。数歩歩くうち、遠くの車の音が途切れ途切れに聞こえ、看板の灯りが路面に薄く落ちた。
◇ ◇ ◇
スナック『さざなみ』の扉を押すと、煙草と香水と氷の匂いが店の中で混ざっていた。カウンターの上ではグラスが触れ合い、氷が溶ける音が静かに続く。涼子ママが顔を上げ、すぐに尚人の手元を見た。ゆかりも、その横で口元だけ笑う。
「尚人くん、今日は早いじゃない。しかも両手がふさがってる」
尚人は紙袋をカウンターへ置き、包みの角を崩さないように押さえながら言った。
「川崎で選びました。ママに。女将さんの分は、もう渡してきました」
ゆかりが覗き込み、声を少し弾ませた。
「わあ、ちゃんとしてる。ねえママ、開ける?」
涼子ママは尚人を一度見てから、結び目を指で確かめるように触れた。
「後でゆっくりね。まずは飲ませてあげよう。顔が少し乾いてる」
「風が強かったです」
ゆかりが水割りを作り、氷を落とす澄んだ音が店の奥まで転がった。尚人は椅子に腰を下ろし、氷の入ったグラスを受け取った。木のカウンターはひんやりしていて、掌の熱が少しずつ奪われる。甘い酒の匂いが鼻へ残り、外の潮の気配は扉の向こうで薄くなった。
そのとき、扉が開いた。外の冷気が一筋入り、煙と甘い酒の匂いが揺れる。入ってきたのは杉山だった。顔色が妙に良く、いつもより肩が開いている。
「おう。尚人くん、いるな」
杉山はカウンターに座り、ママの顔を見てから、わざと普通の声で言った。
「この前の……あれだ。効いたぞ」
尚人は一瞬だけ視線を落とし、杉山の目元を見た。照れと興奮がまだ残っている。
「具合はどうでした」
杉山はグラスを指で回し、笑いを噛み殺すように鼻で息を抜いた。
「効いた。久しぶりに、ちゃんと男に戻れた」
涼子ママはグラスを磨く手を止めず、口元だけで笑った。
「それはよかったじゃない。顔が違うよ」
杉山は肩をすくめ、声を少しだけ落とす。
「ありがとよ。……あとさ、遅漏気味になった。いつもより時間がかかった」
涼子ママはグラスを磨く手を止めず、笑って受けた。
「そういうのも含めて『効いた』ってことだよ。顔が違う」
杉山は照れ隠しに氷を鳴らし、焼酎をひと口含んだ。喉を鳴らしてから、今度は別の話を持ち出す。
「そういや尚人くん、土地屋だろ」
杉山はグラスを置き、肘をカウンターに乗せた。酔いの勢いではない。現場の匂いがついた声だ。
「追浜のほうで、仕事が増えるって話が回ってる。港の近く。空き地みたいな所でも、そのうち動くってさ」
涼子ママが氷を足した。短い音だけが合いの手になる。
「へえ。今夜は景気の話ね」
杉山は苦笑し、尚人を見た。
「俺は金がないから、指くわえて聞いてるだけだ。だけど尚人くんなら、筋があるかどうか分かるだろ。聞くだけでいい」
尚人はすぐに返さず、グラスの水滴を指先でなぞった。冷たさが頭を澄ませる。2026年で一度見た港の再編の絵が頭に浮かんだ。
「追浜のどこですか。夏島ですか、それとも駅の反対側ですか」
杉山は少し考え、指先で氷を鳴らした。
「夏島だ。工場のほう。岸壁じゃなくて内側で、トラックが出入りする道の裏。細かい地番までは知らねえ。又聞きだ」
尚人はうなずいた。場所の輪郭は取れた。追浜、夏島、工場、トラックの道、裏側。
尚人は胸の奥で決めた。周辺を丸ごと押さえる。明日の朝一番で図面を当たり、名義と資金の段取りを組む。先に動いたほうが勝つ。
「ありがとうございます。そこまで分かれば十分です」
杉山は肩を軽くすくめた。
「悪いな、半端で。でも、尚人くんが場所を聞くってことは、やっぱり筋があるんだな」
尚人は笑わずにグラスを持ち上げた。氷の冷たさが喉を通り、決めたことが揺れないまま腹に落ちた。
川崎での申込みを終えた尚人は、その足で商店街を回り、手土産を選び、横須賀へ戻ってから居酒屋と『さざなみ』を続けて訪れる。紙袋の重みは、礼の形であると同時に、人の警戒をほどく重みでもあった。乾物屋と菓子屋で選んだ品が先に場をやわらげ、そのあとでようやく土地の話が口にのぼる。町の中を歩く時間も、酒を飲む時間も、尚人にとっては全部が同じ仕事の流れの中にある。この話で残るのは、誰かが大きな声で教えた確かな情報ではなく、酒の場でこぼれた半端な噂である。海のほう、港の近く、何かが動きそう、追浜、夏島、工場の裏側。言葉はどれも曖昧だが、尚人にはそれで足りる。図面に当たり、名義を調べ、先に動く。その判断が、最後にグラスを持ち上げたときにはもう固まっている。夜の雑談が、次の日の土地の動きへ変わる。その切り替わる瞬間が、静かにはっきり見える。




