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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第二章――「潮風の町、22歳の尚人」

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第15話――「留守録の赤、9時の約束」

夜の終わりに部屋へ戻った尚人を待っていたのは、留守番電話の赤い点滅だった。そこに残っていたのは、入金の知らせだけではない。追浜と夏島で拾った曖昧な話を、翌朝すぐ動ける形へ変えるための入口でもある。この回では、部屋の静けさの中で聞く声と、銀行の机の上で形になる紙が、続けて置かれる。昨夜まで酒場の会話に過ぎなかった地名が、委任状、公図、一覧表の上で輪郭を持ちはじめる。人づての噂が、朝9時の約束を境に、買収の段取りへ変わる。

 (1986年3月31日(月)午後11時前。横須賀のアパート)


 尚人がアパートの部屋へ入ると、空気がひやりと頬に当たった。廊下の湿り気と古い建具の木の匂いが、いっしょに押し寄せる。靴を脱いで一歩踏み込むと床がわずかに沈み、どこかで冷蔵庫のうなりが低く続いていた。窓の外では車の走行音が途切れず重なり、夜更けの街がまだ起きているのが分かる。


 机の上の留守録が赤いボタンを点滅させていた。暗い部屋の中で、その赤だけが目に残る。尚人は上着を椅子の背に掛け、指先で本体の角を確かめるように触れた。プラスチックは室温より少し冷たく、乾いた感触が指の腹に残った。


 再生ボタンを押すと、機械の内部で小さな歯車が動く音がした。続いて電子音が鳴り、受話器越しの声が部屋に落ちた。資金運用係長の杉浦真弓(すぎうら まゆみ)の声だった。発音が明瞭で、言葉の切れ目が乱れない。


 杉浦はこう言った。


 「3月分の賃貸収入1000万円を早乙女様のお口座に入金いたしました。今後の運用についてご提案もありますので、折り返しお電話下さい。本日は深夜0時まで営業いたしております」


 電子音が鳴り、留守録が黙った。部屋は急に静かになり、窓の外の音だけがはっきり戻ってくる。尚人は腕時計を見た。まだ間に合う。迷いはあるが、迷っている時間のほうが惜しかった。


 尚人は電話機の受話器を取り上げた。思ったより重い。耳に当てると自分の呼吸音が内側で強く聞こえる。ダイヤルを回す指先は乾いていて、数字穴の縁が爪に当たった。戻りの速度が一定で、摩擦音が続く。呼び出し音の向こうに回線のざらつきが混じった。


 数回で女の声が出た。


 杉浦は名乗った。


 「京浜銀行、資金運用係でございます。杉浦真弓(すぎうら まゆみ)です」


 尚人は姿勢を正し、先に礼を置いた。


 「早乙女尚人です。留守録を聞きました。入金の件、ありがとうございます。明日こちらで確認します」


 それから要件に移った。


 「それと、別件でお願いがあります。土地の買収を急ぎたい。明日から動ける段取りにしたい」


 受話器の向こうで紙をめくる音がした。ペン先が何かをなぞる細い音も混ざる。机の上で手順が組み立てられていく気配だった。


 杉浦は言い切った。


 「承知いたしました。運用のご提案は後日にいたします。まずは買収の件を先に進めます」


 尚人は息を吐き、手元の情報を並べた。


 「今ある情報はこれだけです。追浜、夏島、工場、トラックの道、裏側。細い地番はまだ掴めていません」


 杉浦は間を置かず受けた。


 「十分です。場所の輪郭は取れています。私のほうで今夜のうちに資料と名義の当たりを取り、明日からすぐ買える形に整えます。今回、追浜と夏島に入れるお金は7億円で組みます。買える土地は先に全部拾う前提で進めます」


 尚人は、その声の硬さに安心した。焦りが消えるのではない。やる順番が見えるだけで、体が動きやすくなる。


 杉浦は必要な点だけを切り出した。


 「4月1日(火)。午前9時に当銀行までお越し下さい。委任状にご印鑑をお願いいたします。必要書類はこちらで用意いたしますので、印鑑だけお持ち下さい。身分証は念のためお手元へ置いてください」


 尚人は答えた。


 「分かりました。午前9時に伺います」


 杉浦は言った。


 「承りました。では、失礼いたします」


 電話が切れると、受話器の中のざらつきが消え、部屋の静けさが戻った。留守録の赤い点滅は止まっている。尚人は受話器を置き、手のひらに残る温度を一度だけ確かめた。外の車の音は遠くで続き、冷蔵庫のうなりも同じ調子で鳴る。


 尚人は机の引き出しを開け、印鑑ケースを指先で探り当てた。布の内張りが指に引っかかり、朱肉の匂いがかすかに立った。明日の朝9時。追浜、夏島、工場、トラックの道、裏側。その言葉が、名義と現金の手続きに変わる。尚人はケースを閉じ、腕時計を見た。起きる時刻を頭の中で決めた。


 ◇ ◇ ◇


 (1986年4月1日(火)午前9時。京浜銀行)


 尚人が京浜銀行のロビーに入ると、空調の乾いた冷えが頬に当たった。床の石は硬く、靴音がはっきり返る。受付の横には消毒液が置かれ、アルコールの匂いが薄く残っていた。


 資金運用係長の杉浦真弓(すぎうら まゆみ)は約束の時刻どおりに現れた。前夜の電話の調子と同じで、言葉が乱れない。尚人が伝えた情報が「追浜、夏島、工場、トラックの道、裏側」だけであることも、彼女はすでに把握していた。


 杉浦の案内で資金運用室に入ると、紙とトナーの匂いがはっきりした。キーボードの打鍵音が途切れず、プリンターが紙を送る音が遠くで続く。机の上には住宅地図、公図の写し、用途地域の図、登記の一覧が角を揃えて積まれていた。透明な下敷きの上に赤と青の線で囲みが引かれ、要所には小さな丸が打ってある。


 杉浦は最初に書類を差し出した。


 「登記は司法書士へ回します。そのための委任です。内容は買付ごとに私が整えます」


 紙は厚く、指先に反りが返る。朱肉の匂いが近い。尚人が印を押すと、押し込む力が手首に残り、赤い印影が乾くまで小さく光った。杉浦は印影を目で確認し、すぐに買付の話へ移った。


 杉浦は地図を指で押さえた。


 「追浜と夏島では、大きな土地を1つ買うのではなく、工場へ向かう道のまわりにある小さな土地をまとめて買います。狙うのは、すぐ話が通る土地です。持ち主がはっきりしていて、値段もまだ重くない。そういう土地を先に数で押さえます」


 杉浦の指が追浜側をなぞった。駅から工場へ向かう道のうち、大型車が通る区間だけが青で囲まれ、交差点の角地に丸が打ってある。


 「追浜は市街地の縁です。先に取るのは、工場へ入る車が曲がる角、駐車場として貸されている更地、古い倉庫が載っている宅地です。建物の値打ちより、土地の形と出入りのしやすさで選びます。広さは40坪から150坪を目安にします。普通車向けの土地と、トラックが使える土地は分けて見ます」


 ペン先が紙に擦れる音が続いた。杉浦は丸印の脇に数字と記号を書き込んだ。


 「安く買えるのは、理由がある土地です。間口が狭い、段差がある、古い賃貸が残っている、私道が絡む。そういう土地は普通の買い手が嫌がります。こちらは、その欠点を承知で場所だけを取ります」


 次に杉浦は夏島側を指し示した。海側が広く、線が太い。工場地区へ入る道路の手前に、赤い四角が連続していた。


 「夏島は、工場地区の手前を先に取ります。トラックが一時待機できる空き地、資材置き場に使われている土地、低い事務所兼倉庫が載っている土地です。海側の中心部は今は高い。そこへ先に手を出すより、手前でまだ軽い土地をまとめて買ったほうが早いです」


 尚人が「裏側というのは」と聞くと、杉浦はためらわず図面を1枚めくった。等高線の入った図で、工場群の背後が薄い灰色になっている。


 「裏側は、工場の背中の斜面と谷筋、山側です。表通りから1本入った場所で、古い借家、畑の名残の空き地、細い私道に接した宅地が残っています。ここも、今すぐ話が通る土地だけ拾います。隣り合っていて、一緒に買える見込みのあるところを先に当たります」


 杉浦は一覧表を尚人の前へ滑らせた。紙はまだ温かく、印字の匂いが新しい。


 「一次の候補は120件です。追浜は角と道沿い、夏島は手前の溜まり、裏側はつながり。この3つに絞って拾いました。この中から、今日と明日で話がまとまる土地を先に当たります。窓口が1人の名義、管理会社が付いている賃貸、相続の整理が進んでいる土地。そういう順で回します。共有が重い土地や、境界でもめそうな土地は今回は外します。時間のかかる土地に足を取られるより、買える土地だけを先に取り切るほうが早いからです」


 杉浦は書類の束を2つに分けた。左は今すぐ動く候補、右は今回は見送る候補だった。


 「左が今回買う土地です。値段が合えば、そのまま契約へ入れます。早いものは今日手付を入れ、遅くとも明日中に決済まで持っていきます。右は、話だけ聞いて今回は深追いしない土地です。境界でもめる、共有が多い、相手の腹が決まっていない。そこへ時間をかけるより、左を先に全部取りに行きます」


 尚人は一覧表の上に視線を落とした。住所、地番、持ち主、面積、想定価格。酒場で聞いた追浜と夏島が、もう紙の上では順番のついた買い物になっている。


 杉浦は金額の欄に指を置いた。


 「買い付けの予算は7億円です。追浜と夏島で、今すぐ買える土地をここで押さえます。測量費と登記費は別に見ます。買値の本体を7億円に収める形です。狙いは長く抱えることではありません。港の計画が表に出て値が跳ねたところで売ります。2倍でも3倍でも、買い手が付く値になったら順に出します」


 杉浦は決済日の欄を尚人のほうへ向けた。紙の端が机に触れ、乾いた音がした。


 「やることは単純です。今日から売り手に当たり、買える土地を先に押さえる。決済は前倒しで組み、明日までに買えるところは全部取り切る。今回は、買える土地を取りこぼさないことを優先します」


 尚人は地図の赤線と青線、一覧表の住所欄、想定価格の列を順に見た。追浜と夏島が、言葉ではなく紙の上の点と線になっていた。紙をめくる音、プリンターの送り音、空調の風の音が一定で、室内の温度が変わらない。


 尚人は、買う順番が現実の作業に落ちているのを確認し、杉浦へ言った。


 「この順番で進めてくれ。追浜の角地と道沿いからだ。夏島は手前の空き地と倉庫付きの土地を先に取る。裏側は、隣り合っていて一緒に取れそうなところだけでいい。時間のかかる土地は切ってくれ。今回は、7億円で買えるところを先に全部拾う」


 杉浦はうなずき、左の束の先頭に印を付けた。インクの匂いがわずかに立ち、紙の表面をなぞる音が小さく続いた。

この回で残るのは、夜の部屋で光る留守録の赤と、翌朝の机に並ぶ地図の赤と青である。前の夜までは、追浜、夏島、工場、トラックの道、裏側という言葉は、酒の席で拾った曖昧な断片に過ぎなかった。だが、尚人が電話をかけ、杉浦が受け取り、翌朝に委任状へ印を置いたことで、それはもう噂ではなく、金と名義が動く話へ変わっている。この回で大きいのは、尚人が急いで動くための形を先に整えたことである。買う土地を、今日と明日で話がまとまるものに絞り、7億円を一気に入れ、値が動いたら早いところから売る。その流れが、地図と一覧表の上で最初から見えている。読み終えたあとには、尚人が様子を見ながら小さく動いたのではなく、4月1日の朝の時点で、翌日までに買える土地を取り切る腹を決めていたことが残る。夜の電話1本が、翌朝には買い付けの列へ変わり、その先で追浜と夏島の値を大きく動かしていく。その変わり目が、この回の芯になっている。

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