第13話――「桜枝の灯り、朱肉の赤」
3月の終わり、川崎のモデルルームにはまだ春が満ち切っていない。入口に飾られた桜の枝も、花はまばらで、灯りに照らされた影だけが先に壁へ伸びている。尚人は仕事として永井佳代子を迎えるが、部屋を見て回り、暮らしの話を聞き、昼の食事をともにするうちに、その時間はただの案内ではなくなっていく。最後に机へ置かれる申込書と朱肉の赤は、住まいを決める印であると同時に、尚人の胸の奥にも別の熱を残す。
(3月31日月曜日午前11時半。川崎モデルルーム)
尚人はバイクのエンジンを温め、川崎のモデルルームへ向かった。朝の冷えがまだ路面に残り、タイヤが白線を踏まないように気をつけるたび、足首に小さく緊張が入る。信号で止まると、排気の匂いがヘルメットの内側にこもり、頬の皮膚だけがじんわり温かくなった。
財布の奥には、学生のころに取った宅地建物取引主任者の証が入っている。会社の研修はこれからだが、資格だけは先に持っている。新人の肩書きに引っ張られず、今日は落ち着いて案内する。そう腹を決めて、尚人は交差点を曲がった。
建物の前に着くと、入口脇に背の高い花瓶が置かれ、桜の枝が飾られていた。薄桃色の花はまだまばらで、枝先に結ばれた細いリボンが風で小さく揺れる。足元のスポットライトが枝を照らし、昼間でも花びらの影が壁に淡く映っていた。その前に、彼女がいた。黒髪が肩でゆるく波打ち、青いタートルネックのニットが体の線に沿っている。黒いプリーツスカートの裾が風で少しだけ動き、片腕には茶色い毛皮のコートを抱え、もう片方の手には小さな茶色のバッグを持っていた。
尚人がバイクを停め、ヘルメットを外すと、彼女は一歩近づいて軽く手を振った。
「早乙女さんですよね。間に合ってよかった」
「はい。お待たせしました。京浜土地建物の早乙女尚人です」
「永井佳代子です。今日はよろしくお願いします」
名前を聞いた瞬間、尚人は妙に落ち着いた。佳代子と呼ぶのは早い。ここでは永井さんだ。そう頭の中で整理しながら、尚人は入口へ手を差し出した。
「どうぞ。中、暖かいです。スリッパに履き替えてください」
玄関を入ると、空調の温い風が頬に当たり、外の排気の匂いが薄まった。新しい壁紙のわずかな甘い匂いと、合板の乾いた匂いが混ざっている。受付のカウンターで名札を受け取り、紙のパンフレットを手にすると、インクと紙の匂いが指に残った。
モデルルームの廊下は明るく、床のフローリングが照明を返していた。スリッパの裏がすべり、歩くたびに小さく擦れる音がする。尚人は歩幅を合わせ、説明の速度を急がなかった。永井さんの視線が、部屋の角や窓枠、コンセントの位置へ丁寧に動くのが分かったからだ。
「リビングはこの広さです。家具は大きく見せるために少し小さめを置いてあります。実際の空き具合は、これより少し詰まると思ってください」
「正直に言うんですね」
「暮らし始めてから、こんなはずじゃなかったって思うのが一番つらいですから」
永井さんは小さく笑い、ソファの背に指を置いた。指先が布を軽く押す。窓の外から車の走る音が遠くに流れ、室内の静けさがいっそうはっきりした。
キッチンへ案内すると、ステンレスの天板が白く光っていた。蛇口をひねると、水が出る前に配管が一度鳴り、細い水音がシンクに落ちる。尚人が止めると、滴が2回だけ落ちて消えた。
「洗い物って、音が出るでしょう。夜中にやると気になるんですよね」
永井さんの言い方は愚痴の形をしているのに、声の角が立っていなかった。尚人は頷き、吊り戸棚の高さを示した。
「背の高い方なら使いやすい位置です。お子さんがいるなら、踏み台を置く場所も考えたほうがいいですね」
「うちは女の子が2人で。上が小学校6年生、下が2年生なんです。まだ何でも触りたがるから」
子どもの話をするとき、永井さんの目が少し柔らかくなった。けれど、その柔らかさの奥に、毎日の疲れが薄く混ざっているのも見えた。尚人は寝室と子ども部屋の想定を見せ、窓の位置と収納の量を淡々と説明した。永井さんは何度も頷き、扉の開閉を自分の手で確かめた。蝶番が新しい金属の音を立て、扉が閉まると室内の空気が一段落ち着いた。
子ども部屋のクローゼットの前で、永井さんは扉をもう一度開けた。棚板の高さを指で確かめ、奥行きを目で測るように覗き込んだ。
「ここなら、上の子の制服も掛けられる。下の子の体操服も一緒に入るね」
「ハンガーの段を1つ増やすなら、こちら側が楽です。押し入れみたいに深くないぶん、出し入れは早いです」
永井さんは小さく頷き、扉を閉めた。その音が、決心の音みたいに小さく響いた。
最後にバルコニーへ出ると、外気が頬に当たり、部屋の匂いが一気に薄れた。遠くの道路の音に混じって、電車の走る低い唸りが聞こえる。永井さんは手すりに軽く指を置き、街の方向を眺めた。髪が風で頬に触れ、黒い毛先が光った。
「夫がね、朝は早く出て、帰りは12時を回ることも多いんです。中間管理職って言うんですか。大変みたいで」
「それは、きついですね。家のことが全部、こちらに寄りますから」
尚人がそう言うと、永井さんは肩をすくめるように笑った。
「分かるんだ。若いのに」
「分かろうとしているだけです。でも、毎日それだと、息が詰まると思います」
案内が一通り終わり、テーブル席に戻ると、紙コップの熱いお茶が出た。湯気が立ち、茶の匂いが鼻に入る。永井さんは両手でカップを包み、熱を確かめるように指を動かした。尚人は資料を揃えるふりをしながら、正直な気持ちを自分の中で認めていた。申込みが取れれば十分だ。だが今日は、永井さんと話している時間のほうが、ずっと大事に思えた。
「永井さん、もしこのあと少しお時間があるなら、近くで昼を食べませんか。すぐそこの通りに、中華の店があるんです。重くないやつで」
押しつける言い方にならないように、尚人は声の調子を落とした。永井さんは一瞬だけ迷う顔をしたが、すぐに笑って頷いた。
「いいですよ。こういうの、久しぶりです。家だと、子どもが先に食べちゃうから」
店に入ると、胡麻油の匂いがまず来た。厨房から中華鍋の金属音が響き、湯気が白く上がっている。テーブルに座ると、箸が木の皿に触れて乾いた音を立て、店内のざわめきが心地よく耳に残った。皿を置くたびに陶器が軽く鳴り、卓上の醤油差しがかすかに揺れた。
永井さんは餃子を半分に割り、熱い湯気を逃がしてから口に運んだ。頬が少し赤くなり、笑いながら水を飲む。その仕草が自然で、尚人は見ているだけで落ち着いた。
「うちの夫、家にいる時間が少ないから、話す相手がいなくて。こうやって誰かに聞いてもらえると、助かるんです」
「聞きます。俺でよければ」
永井さんは箸を置き、少しだけ背筋を伸ばした。
「不思議なんだけど、早乙女さん、私の話を愚痴みたいに扱わないんですよね。ちゃんと聞いてくれる」
尚人は、胸の奥で熱が上がるのを感じた。音を立てないように息を吐き、言葉を選んだ。
「永井さんの言葉は、愚痴に聞こえません。生活のことを、ちゃんと説明しているだけに聞こえます。だから、聞いていて気持ちがいいです」
永井さんは少し照れたように笑い、目を細めた。
「あんたは、少し変わっているけど、良い人だと思うよ。背も高くてたくましいしね」
その一言は軽い冗談の形をしていたのに、尚人には真っすぐ刺さった。永井さんの視線が外れず、尚人が言葉を返す前に、永井さんが続けた。
「決めました。ここ、申込みます。うち、こういうのは早いほうがいいんだよね」
尚人は驚いたが、顔には出さないようにした。喉が一度だけ鳴り、指先に汗が出る。自分でも分かるほど、心臓が速く打っている。
「ありがとうございます。急がせたつもりはないんですが、気持ちが固まっているなら、購入申込書を先に書きましょう。正式な契約は、後日こちらで段取りします。印鑑もお持ちですか」
「持ってきています。念のためにって言われて」
モデルルームへ戻る道で、風が頬を冷やし、さっきの胡麻油の匂いが少しずつ消えた。事務机の上に書類を広げると、紙が擦れる音が静かな室内に残る。尚人は名札の横に、主任者証をそっと置いた。新人の名刺だけで押すより、永井さんが安心できると思ったからだ。
尚人は項目を1つずつ指で示し、永井さんが書くペン先の動きを見守った。ボールペンのインクの匂いがわずかに立ち、紙に手の温度が移っていく。受付電話が鳴り、遠くで短い応対が続く。尚人はそれを背中で聞きながら、手元の行を見失わないように視線を外さなかった。
最後に朱肉の蓋を開けると、古い油のような匂いが小さく広がった。永井さんは印鑑を押し当て、ためらわずに力を入れる。机の上に、どん、と短い音が落ちた。印影が紙に現れ、赤がはっきり定まる。
受付電話が鳴り、遠くで応対の声が続く。受話器の向こうで返事があり、尚人は一度だけ「承知しました」と言って切った。
「これでいいですか」
「はい。確かにお預かりしました。ありがとうございます」
尚人は深く頭を下げた。喉の奥が熱くなり、声が少しだけ低くなった。
「本当に、ありがとうございます」
永井さんは椅子の背にもたれ、ふっと息を吐いた。頬の赤みがまだ残っている。
「こちらこそ。今日は、気持ちが楽になりました。また何かあったら、連絡していいですか」
「もちろんです。いつでも」
尚人は書類をファイルに挟み、紙の角を揃えた。手元の紙には、印影の赤が残っている。だがそれ以上に、永井佳代子という人の声と、笑い方と、生活の匂いが、胸の奥に残っていた。
この日の大きさは、申込みが1件取れたことだけではない。モデルルームの明るい床、桜枝の影、熱いお茶の湯気、中華屋の胡麻油の匂い。その中で永井佳代子が口にしたのは、家の広さや収納の話だけではなく、夫の帰りが遅いこと、子ども2人を抱える毎日の疲れ、誰かに聞いてもらいたい気持ちだった。尚人はそこを軽く扱わず、暮らしの重さとして受け取った。その受け取り方があったからこそ、最後の朱肉の赤までたどり着けた。申込書に残る印影は、住まいを決める印である。だが、この話ではそれだけで終わらない。尚人にとって永井佳代子は、数字や肩書だけでは見えない生活の手触りを持った相手として胸に残る。昼の食事の湯気と、机の上の紙の乾いた音がひと続きに置かれることで、仕事と気持ちが同じ時間の中で動き始めたことが、静かにはっきり伝わってくる。




