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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第二章――「潮風の町、22歳の尚人」

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第12話――「扉の軽い音、名簿の結び目」

五反田の夜は、名簿の束を抱えたまま歩くと、昼とは別の顔を見せる。安いホテルの鍵、定食屋の湯気、地下へ下りる階段の匂い。尚人は汗と紙の粉をまだ身体に残したまま、知らない街の夜へ足を踏み入れる。そこで女に触れ、湯に沈み、翌朝にはまた名簿を開いて電話をかける。遊びと仕事が切れずにつながる、その境目が見える夜である。

 (1986年3月30日日曜日、午後7時すぎ。五反田・東口)


 尚人は名簿の束を抱えたまま、五反田の東口へ戻った。夕方の残り熱は消え、風は冷たい。路面の黒い湿り気にネオンがにじみ、信号待ちの車列が赤い尾を引いた。ヘルメットを外すと、紙と汗の匂いが自分の体から立ち上がり、急に喉が渇いた。


 駅前の通りから少し入ったところに、古いビジネスホテルがあった。外壁は煤け、入口の回転灯が頼りなく回っている。ロビーはカーペットの甘い埃っぽさと、灰皿の残り香が混じり、天井の蛍光灯が白く疲れて見えた。フロントの男が帳面をめくり、鍵を1つ渡した。金属の房が指に冷たく、部屋番号の札が軽く鳴った。朝食付きで1泊3500円だ。札が指から離れると、妙に肩が軽くなった。


 部屋は狭い。机と椅子、電話、薄いカーテン。ベッドのシーツは糊の匂いが残り、窓を開けると線路側の音が入った。尚人は名簿を鞄に押し込み、紐の結び目を指で確かめる。ほどけない。そこでやっと、腹の奥が空っぽだと分かった。


 尚人は駅のほうへ戻り、明るい定食屋に入った。油の匂いが強い。湯気が視界を白く曇らせ、鉄板の上で肉が焦げる音がする。生姜焼きの皿を頼むと、豚の脂と醤油と生姜の匂いが一緒に来た。米を口に運ぶたび、昼の紙の粉が喉の奥から落ちていく気がした。味噌汁の塩気が汗の跡を洗い、舌が少し生き返った。


 外へ出ると、夜の五反田は別の顔をしていた。雑居ビルの窓に青や赤の灯りが点り、呼び込みの声が通りに散る。香水と煙草が混じり、焼き鳥の脂の匂いが風に乗る。尚人は初めての街の歩幅を測るように歩き、看板の文字を追った。派手すぎない入口を見つけるまで、急がなかった。


 小さな階段を下りると、空気が変わった。甘い消毒薬の匂いに、化粧品の粉の匂いが混じる。待合のソファは革張りで、手のひらを置くと少し吸い付いた。受付の男は仕組みを淡々と説明した。初回は決まった時間ごとに女の子が交代でつく。店ではそれを「花びら回転」と呼ぶ。次からは気に入った子を指名してほしい、という言い方だった。尚人は頷き、横須賀で慣れたのと同じ金額を払った。財布が軽くなる感覚が、かえって気持ちを落ち着かせた。


 最初に入ってきたのは里佳という女だ。扉が開くと、濃いピンクの上着がぱっと目に入った。色で先に客の目をつかむやり方だ。次の瞬間には笑っていて、その笑い方も、初対面の距離を一気に消すのに慣れている。大きな目は丸く開き、まぶたの動きが早い。


 髪は黒に近い濃い茶で、肩から背中へゆるく流れていた。手入れはしているが、整え過ぎてはいない。近づいたときに毛先が頬にかすって、さらりとした感触が残る。頬は赤く、照明の下でそれがいっそう目立つ。肌は明るく見えて、光が当たるところがつやっとする。


 上はスポーツ用のジャケットみたいな生地で、伸びるところは伸び、張るところは張って、体の線を隠さない。袖の柄は派手で、端のロゴが目につく。下は丈の詰まったボトムで、薄い緑の柄が入っている。座る前から、腰のくびれと太ももの丸みがはっきり出て、尚人の目は自然にそちらを向いた。


 里佳は迷わず距離を詰めた。尚人の左太ももに腰を下ろし、尚人の右手を握ってショーツの奥に誘う。香りは甘く、少し強い。粉と混ざって鼻の奥に残る。声は少し高く、語尾に息を混ぜる。


 里佳は笑って言った。「五反田、初めてでしょ。顔に出てますよ。背が高いし、いい感じ。今日は私に任せて、楽にしてて」


 尚人は苦笑いで返した。「仕事で来ただけだ。夜はついでだよ」


 里佳は、少し身体をくねらせながら、ショーツを脱ぎ、再度、尚人の太ももに乗りかかる。尚人は太く長い指で里佳の姫を優しく愛撫し続ける。里佳も器用に、尚人のズボンとパンツを下げ、天狗の鼻を緩やかに擦り立てる。


 流石に上手に擦るが、責められずきの里佳は、尚人の長くて太い中指が姫の奥まで忍び込み、太い親指でお(さね)をこねくり回されると、辛抱たまらず、両足を思いっきり突っぱねて前のソファーに押し当てながら、逝ってしまった。当然、尚人の天狗を握っていた右手も離れてしまっている。


 「お兄さん。上手だね。何度も逝かされちゃった。自分だけ逝ってごめんね」


 里佳は尚人に謝りながら、尚人の天狗の鼻を時間が来るまで、大きな口で咥えて舐めしゃぶってくれた。


 時間が来ると、里佳は名残惜しそうに出ていった。扉が閉まる音が軽い。


 次に入ってきたのは真紀という女だった。年は33。黒い髪を長く下ろし、赤いカチューシャの花が目に付く。胸元の開いた赤いドレスは飾りのレースが光を拾い、歩くたび布が小さく鳴った。背が高く、肉付きが良い。胸は先に揺れ、腰のくびれから太ももへ落ちる線も隠さない。


 真紀は、「お兄さん。若いね。久しぶりに良いお客さんに当たったよ。爺さんだと中々立たなくてさ」と喋りながら、ショーツを器用に脱ぎ、尚人のズボンとパンツを脱がしてしまう。尚人がビンビンになっているのを見てとるや、後から尚人の上に乗り、大きなお尻を尚人の天狗に押し付けてくる。


 素股で逝かすつもりだろうが、そうは行かない。尚人は、真紀の腰を掴み、彼女を前後左右にゆるゆると動かしながら、バカでかい天狗の鼻で、真紀の姫とお尻の両方〈当然お(さね)も〉を丁寧に愛撫する。


 やはり、指よりも天狗様そのものの方が良い。感触が違う。ぐっしょりと濡れそぼち始めた真紀の姫とお(さね)は、尚人の硬い天狗様をはねつけることは出来ず、するりと先っぽを受け入れてしまった。


 真紀は隣のボックスや黒服の様子を気にしながら、お尻をどんどん尚人の天狗様にぶつけてきて、「ううーん」と唸りながら、大逝きをしてしまった。


 まだ時間は、10分も残っている。尚人は前に突っ伏している真紀の腰を抱えながら、連続ピストンを試み、最後は抜いて外に出した。


 やがて時間が来て、真紀は「め!!」と怒った顔をして取り繕いながら、出ていった。尚人は服を整え、喉の奥に残った乾きを舌で払った。初めての街の夜を歩くには、まだ頭が熱い。


 店を出ると、外気が冷たかった。ネオンが雨のない路面に広がり、遠くで救急車の音がひとつ響く。尚人はゆっくり歩いて銭湯へ向かった。暖簾をくぐると、番台の明かりが落ち着いた黄色で、石けんと湯の匂いが鼻を満たした。脱衣所の籠の木が乾いていて、指先にざらりと触れる。浴場へ入ると、タイルが白く光り、湯気が天井へ溜まっている。湯桶に湯を汲む音が、妙に大きく聞こえた。


 尚人は体を洗った。昼の紙の粉と、夜の匂いと、汗の塩を、手のひらで順に落とす。湯が肩に当たると、筋肉がほどけた。湯船に沈むと、耳の横で湯が小さく鳴り、息が自然に長くなった。五反田の夜は騒がしいはずなのに、湯の中だけは別の時間が流れる。尚人は目を閉じ、明日から使う名簿の束を思い出した。重さと、紙の匂いと、結び目の感触が手に残っている。


 ホテルへ戻る道は静かだった。さっきまで眩しかった看板が、角を曲がると急に遠くなる。尚人は鍵を回し、狭い部屋の灯りを点けた。ベッドに腰を下ろすと、畳まれたシーツの匂いが戻ってきた。名簿の入った鞄を机の横に置き、指で1度だけ叩く。今日の汗と、明日の仕事が、そこでつながった。


 尚人はシャツの襟元を緩め、窓の外の線路の音を聞いた。目を閉じると、里佳の落ち着いた息と、真紀の明るい笑いが、別々の温度で思い出される。どちらを指名するかは、まだ決めない。決めないまま眠りに落ちるほうが、今夜は都合がよかった。


 ◇ ◇ ◇


 (1986年3月31日月曜日、午前9時すぎ。横須賀・尚人のアパート)


 部屋に入ると、昨日までの洗剤の匂いに紙の匂いが重なった。机の上に東洋通信工業の社員名簿を広げると、薄い紙が乾いた音を立てる。黒い電話機の受話器を持ち上げると、線がつながる低い唸りが耳に来た。尚人は本社研修が始まる前の練習だと思い、グランドシティ川崎ミッドコートの残り住戸が若干あるので購入してくれそうな見込み客を探す気だった。完成は1986年6月である。


 月曜日なので、社宅の番号にかけると奥さんが出ることが多かった。受話器の向こうから子どもの足音が走り、台所の水が流れる音が途切れ途切れに聞こえる。


 「お忙しいところ失礼します。京浜土地建物の早乙女と申します」


 名乗ると、相手の息づかいが一瞬止まり、すぐに日常の声に戻る。尚人は天気や買い物の話題をひと呼吸だけ挟み、相手が話しやすい調子を作ってから、本題に入った。


 「川崎の新築で、もうすぐ引渡しの物件がありまして。条件に合いそうな部屋が少し残っています。もし興味があれば、資料だけでもお届けします」


 押し売りの言い方はしない。相手が嫌がれば、すぐ引く。名簿の行を指で追い、ダイヤルを回す。指先に穴の縁が当たり、戻る音が小さく連続した。電話を切るたび、部屋の静けさが戻り、窓の外の風の音が一段はっきりする。


 何本目かで、反応が違う奥さんに当たった。声が明るく、こちらの言葉を待たない。


 「それ、うち聞きたい。今の部屋、手狭なのよ」


 食い気味に言う。受話器の向こうで湯を沸かす音がして、蓋が触れ合う金属音が小さく鳴った。


 尚人は、その声に引っかかった。どこかで聞いた。向こうも同じらしく、「あれ、声、どこかで聞いたことある」と笑う。尚人の頭に、昨日の受付の場面が戻った。名簿屋が段取りを付け、受付の女性が仕分けの指示を出し、紙の束を運んだのは尚人1人だった。そのとき、要点だけを告げてきた、通る声がある。


 尚人は名をもう一度告げ、確かめるように言った。


 「失礼ですが、昨日、会社の受付でお会いしていませんか。書類の件で」


 奥さんは間を置いてから、声を上げて笑った。


 「おかしいとは思っていたのよ。何で電話番号知っているのかなって。貴方なら名簿を持っているから当然よね」


 尚人は名簿に目を落とした。年齢36歳、子ども2人。ご主人は40歳で課長。昨日、受付で見た印象が若く、数字と結びつかない。口が滑った。


 「同い年くらいだと思っていました」


 奥さんはさらに笑った。


 「ちょっと、あんた。ゴマすり過ぎでしょ」


 と言いながら、声は明らかに嬉しそうだった。


 話は早かった。川崎のモデルルームで11時半に会う。尚人はメモ帳に時間を書き込み、鉛筆の芯が紙を擦る音を聞いた。受話器を置くと、部屋が急に静かになる。尚人はすぐ本社へ電話を入れ、案内の段取りを伝えた。昨日も今日も、現場で動くのは尚人の役目だった。

名簿の束を抱えたまま泊まり、食べ、女に触れ、湯に沈み、それでも翌朝には机へ名簿を広げて電話をかける。五反田の一夜は、尚人にとって息抜きで終わらない。身体をほどく時間のあとにも、仕事の勘だけは冷めずに残っている。この話で手に残るのは、名簿を結んだ紐の感触である。ホテルの狭い机の横でも、銭湯の湯気のあとでも、その重さが消えないからだ。里佳と真紀の温度、湯船の静けさ、そして翌朝の受話器の冷たさが続けて置かれることで、尚人が遊びと商売を別の箱にしまわず、同じ1日の中で動かしていることが見えてくる。

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