第11話――「湯気と名簿」
1986年3月29日土曜日の夜、尚人は久里浜の居酒屋で中華そばをすすりながら、五反田の会社移転を手伝ってほしいという話を持ちかけられる。相手は引っ越し屋ではなく、不要書類を回収して回る名簿屋の森下邦彦だった。翌朝、東洋通信工業ビル3階で書類の仕分けと搬出を手伝ううちに、尚人は社員名簿、社宅と独身寮の入居者一覧、緊急連絡網という営業の足になる紙束を手に入れる。汗と紙の粉にまみれた一日の終わりに、尚人は次の商談へつながる入口を背中に積んで帰る。
(1986年3月29日土曜日、午後10時)
尚人がスナック『さざなみ』の扉を押すと、煙草と香水と氷の匂いが背中から離れ、夜の空気が肌に貼りついた。看板の灯りが路地の壁を薄く照らし、湿ったアスファルトが鈍く光っている。遠くで車が通り過ぎ、排気の匂いに潮の気配が混ざった。
すぐ隣の居酒屋は、まだ暖簾が下がっていた。ここは23時までやっている。尚人にとっては、こういう店が残っているだけで助かる夜がある。ガッツリ食べたいわけではない。口の中の酒の甘さを、少し塩気で流したいだけだった。
引き戸を開けると、煮えた醤油と油の匂いが鼻をついた。カウンターの上には小皿が並び、湯気の向こうで女将が鍋を覗いている。金属の盆が擦れる音、箸が器に当たる乾いた音、ラジオの低い声が重なって、店の中は小さく忙しかった。常連らしい男が1人、焼酎のグラスを前にして腰を落ち着けている。年の頃は50代前半で、背中の丸さが仕事帰りの疲れをそのまま置いているように見えた。
尚人は空いている席に座り、手でメニューを押さえた。紙が指先に少しざらつく。女将が顔だけ向け、鍋の前から動かない。
尚人は言った。「中華そばをお願いします。軽くでいいので」
女将は頷いた。「はいよ。すぐできるよ」
女将は注文を受けながら、前の常連客と二言三言、言葉を交わしていた。火を強めると、鍋の中で湯が一段高い音を立てた。麺をほぐす手つきは迷いがなく、湯切りの瞬間に湯気がふわっと立ち上がり、頬を一瞬だけ熱くした。丼に注がれたスープは濃い褐色で、表面に小さな油の粒が揺れる。葱の青が浮き、海苔が1枚、縁に沿って沈んだ。
女将は気さくに話しかけてくる。「尚人くんだったね。まだお休みなんだろ?」
尚人は丼を手前に寄せ、湯気の向こうを見ながらにこやかに返した。「ええ。4月3日(木)から、品川で本社研修ですので、それまでは暇といえば暇ですね」
女将は、常連の男のほうへ顎をしゃくった。「そうかい。このお客さんが、明日1日手伝ってくれる人を探しているんだよ。話を聞いてやってくれないか?」
尚人は箸を割り、麺を少し持ち上げた。湯気に混ざって醤油の匂いが強くなる。口に入れると、熱いスープが舌に当たり、少し遅れて塩気が喉を締めた。尚人は頷いた。聞くだけなら構わないと思った。
男が椅子を少し引き、尚人へ体を向けた。声は低いが、押しつけがましくない。「兄ちゃん。五反田のビルの一室で引っ越しの手伝いをして欲しいんだ」
尚人は麺をすすり、丼の縁で小さく息をついた。湯気が目の前で白く曇った。「引っ越しの手伝いはお断りします。本業の人がいるでしょう」
男は苦笑して、手のひらを軽く上げた。「俺は引っ越し屋じゃない。名簿屋なんだ。そこの会社へは毎日顔を出して、要らない書類とか新聞とかをただで回収しているんだよ。もちろん他の会社へも顔を出す」
名簿屋という言葉が耳に残った。尚人の箸が一瞬止まる。スープの匂いの奥で、紙の乾いた匂いまで想像してしまう。不動産会社の営業にとって、名簿があるかないかで動ける幅が変わる。電話帳の薄いページをめくる手触りとは別の、生きた名刺の束が頭に浮かんだ。
男は続けた。「五反田の大崎寄りにある、東洋通信工業って会社だ。でかいビルだよ。引っ越しって言っても、机と段ボールが少しだ。俺1人じゃ腕が足りなくてね」
尚人は、丼の縁に唇を当ててスープを一口飲んだ。熱さが胃の奥へ落ちていく。迷っているふりをするほどの距離もなかった。尚人は顔を上げ、男を見た。
尚人は言った。「やらせて下さい。手当はいりません。その代わり、名簿を下さい」
男の目つきが変わった。値踏みではなく、話が早い人間を見つけたときの安心に近い。「いいね。助かる。俺は森下邦彦、52だ。名簿は出せる。紙の束も、最近の名刺もある」
女将は、そのやり取りを聞きながらも手を止めなかった。煮物の蓋を開けて湯気を逃がし、皿を拭いて客に差し出す。湯と油と醤油の匂いが店の奥で混ざり、カウンターの上で湯気が薄く揺れていた。
尚人が丼を空け、箸を揃えて置く頃、女将は会計の皿をすっと滑らせた。動きは手早いのに、目だけは柔らかい。
女将は言った。「尚人くん、今夜はありがとね」
尚人は軽く頭を下げた。「ごちそうさまでした。また寄ります」
女将は湯呑みを拭きながら、口元だけで笑いかけた。言葉はそれ以上重ねない。森下も酒のグラスを指で回しながら黙っていた。
尚人は戸口で一度だけ振り返り、暖簾をくぐって外へ出た。冷えた夜気が頬を撫で、背中に残っていた湯気の熱をすっと奪った。路地の灯りは薄く、明日の約束だけが胸の奥で重く座っていた。
◇ ◇ ◇
(1986年3月30日日曜日、午前9時。五反田、東洋通信工業ビル3階)
尚人はまだ人通りの少ない道をバイクで走り、五反田の大崎寄りにある東洋通信工業ビルへ向かった。朝の空気はまだ冷え、信号で止まるたびに指先がじんとする。ヘルメットの内側に、排気と川の湿り気が混ざった匂いが入り、エンジンの振動が腿に伝わった。
ビルの前に着くと、正面玄関のガラスに白い光が反射していた。歩道の端に停まったトラックは荷台の金属がまだ冷えていて、触れれば手のひらが吸い付きそうな温度だった。入口の回転扉を抜けると、床のワックスの匂いと、どこかの階から流れてくる紙の匂いが鼻に残った。
森下はまだ来ていなかった。受付脇で待っていると、社員証を首から下げた女性が軽い足取りで入ってきた。髪は長くつやがあり、額がきれいに出るよう後ろへ流している。白いふわりとしたカーディガンが肩に沿い、淡い色のジーンズがきちんとした線で落ちていた。化粧は濃くないのに目元がはっきりしていて、笑うと歯が見える。
女性は尚人のほうへまっすぐ来て、明るい声で言った。「早乙女尚人さんですね。今日はよろしくお願いします」声はよく通るのに押しつけがましさがない。石けんと整髪料のような清潔な匂いが、一瞬だけ近くを通った。尚人は反射で背筋が伸びた。
尚人は丁寧に返した。「こちらこそ、よろしくお願いします。お邪魔します」女性は軽く頷き、腕時計を見てから書類袋を胸に抱え直した。笑顔は柔らかいが、目の焦点が仕事に向いている。切り替えの速さが印象に残った。
程なくして森下邦彦が現れた。肩を少しすぼめるようにして入ってきて、軽く会釈をした。「悪いね、待たせた。行こう」3人は階段へ回り、3階まで上った。コンクリートの階段は靴音が乾いて響き、踊り場には古い掲示板の画鋲が残っていた。上へ行くほど紙の匂いが濃くなり、コピー機の熱と煙草の残り香が薄く混ざっていた。
3階の部屋は机が寄せられ、段ボールが積まれ、棚から抜かれたファイルが床に並んでいた。蛍光灯の白い光が紙の端のほこりを浮かび上がらせる。女性社員は机の端に立ち、手早く仕分けの場所を作った。「重要」「保管」「廃棄」と書いた紙を貼り、クリップと紐を机に揃えた。
作業は尚人が動いた。女性社員が引き出しや箱から書類を抜き、束を軽く叩いて揃え、必要なものだけ脇に置く。残りは尚人へ差し出す。「これは要りません。こちらにまとめて下さい」尚人は受け取るたびに紙の重さと角の硬さを手に感じた。古い紙は乾いていて指の腹がざらつく。ホチキスの針が飛び出している束もあり、気を抜くと指先が切れる。
尚人は束を段ボールへ入れ、両腕で抱えて階段を下りた。階段の空気はひんやりして、汗の熱が引いていく。外へ出ると、トラックの荷台から油と鉄の匂いが立ち、床板がきしんだ。積み込むたびに紙が擦れる音が箱の中で鳴り、ベルトが金具に当たって鈍い音がした。腕の筋が張り、肩の付け根がじわじわ熱くなる。
昼食で外に出た以外は、上げ下ろしが続いた。定食の味噌汁が汗をかいた喉に塩気として落ち、戻ると部屋の紙の匂いがさらに濃く感じられた。午後5時が近づくころ、尚人のシャツは背中に貼りつき、指先は紙の粉で黒ずんだ。女性社員は紙の束を扱うたび迷いなく重要書類を抜き、封筒の宛名や印影を確かめ、必要なものを固めていった。疲れているはずなのに背中が崩れない。きれいだというだけではなく、仕事を止めない人の姿勢があった。
荷物の搬出が一段落すると、女性社員は机の上に残った冊子を指で叩いて揃えた。表紙の色が違う名簿が何冊かある。どれも似た形だが、背に印字された文字が違う。女性社員は淡々と言った。「ここから先は、部署に複写が残っている分と、更新が終わっている分です。必要なものがあるなら、選んで下さい」
尚人は頷き、束を1つずつ開いた。紙は他の書類より少し厚く、糊の匂いがまだ新しい。ページをめくると活字が規則正しく並び、ところどころに鉛筆の修正が入っている。
尚人がまず手に取ったのは社員名簿だった。昭和58年度版で、氏名の横にふりがながあり、所属部署と内線番号が続く。さらに進むと現住所と自宅の電話番号、入社年、生年月日まで載っていた。住所は品川、目黒、大田、川崎、横浜が多い。通勤圏が見える名簿は、分譲の案内を電話で切り出すときに話が早い。
次に尚人が選んだのは、社宅と独身寮の入居者一覧だった。建物名と所在地、部屋番号、入居者氏名、所属、緊急連絡先が並び、紙面の端に更新日と担当印が押してある。寮や社宅の名簿は、住まいの不満や住み替えの時期が読める。家賃補助や転勤の波がある会社なら、相談が動く場面も想像しやすい。尚人は住所のまとまりを目で追い、頭の中で駅と線路をつないだ。
もう1冊、尚人は薄い冊子を抜いた。表紙に緊急連絡網とあり、部署別に自宅電話と住所が載っている。巻末に異動後の連絡先を書き込む欄があり、鉛筆で新しい住所が追記されていた。生活が動いた痕が残っている名簿は、こちらが声をかける理由を作りやすい。尚人はページを閉じ、3冊を重ねた。
尚人は森下のほうへ視線を投げた。森下は頷き、口元だけ動かした。「それで十分だ。あとは処分でいい」女性社員は尚人の手元を見て、余計な口を挟まなかった。ただ確認するように言った。「持ち出すなら束ねて下さい。ばらけると困ります」
尚人は机の端で紐を回し、角を揃えてきつく結んだ。紙がきゅっと鳴り、束が締まる感触が手に返った。ビルの外へ出ると夕方の光が壁に長い影を落としていた。尚人はバイクの荷台に名簿の束を載せ、ゴム紐を引いて金具を掛ける。紐が伸び、結び目が掌に食い込む。指で揺すって確かめると、ずれない。
尚人がヘルメットをかぶり直すと、女性社員は玄関脇で軽く会釈し、愛想よく笑いかけただけで引いた。尚人はその笑顔を、紙の匂いと一緒に覚えた。働く場所の清潔さと、迷いのない手つきが残っている。尚人はエンジンをかけ、振動が戻るのを腿で感じながら、名簿の束の重みを背中で確かめた。これが次の商談の入口になる。そう思うと、疲れの奥に小さな熱が残った。
この回では、尚人が人の縁と紙の束を、そのまま次の商談へつながる力に変えていく様子を描いている。居酒屋の湯気と醤油の匂いの中で受けた話が、翌朝には五反田のビル3階で現実の仕事になり、名簿屋の森下、手際のよい女性社員、紙の粉にまみれた搬出作業が一本の流れになる。尚人はただ力仕事をしたのではなく、社員名簿、社宅と独身寮の入居者一覧、緊急連絡網という営業の武器を選び取り、自分で次の入口を作った。疲れのあとに残る熱は、尚人がこの町でまだ前へ進めるという手応えでもある。




