第10話――「輪っかと白い錠剤」
夕方の商店街は、昼の熱をまだ路面に溜めたまま、少しずつ夜の顔へ移っていく。尚人は手土産を下げて『さざなみ』へ向かい、店の空気、人の匂い、女たちの目配せの中へ自然に入っていく。その夜は、酒を飲むだけでは終わらない。路地では内緒話が交わされ、カウンターでは年上の男の弱音がこぼれ、尚人はそれぞれに違う顔で応じていく。
(1986年3月29日土曜日、夕方)
尚人はスナック『さざなみ』の涼子ママの顔を思い浮かべながら、駅前の商店街をゆっくり歩いた。昼の熱がまだ路面に残り、アスファルトの匂いがぬるく立ち上がっていた。乾物屋の店先では昆布と煮干しが籠に盛られ、潮と醤油が混ざった香りが鼻の奥をかすめる。八百屋は床に水を打っていて、踏み込むたびに靴底がしっとり鳴った。踏切の警報が遠くで続き、電車の走る音が商店街の屋根に当たって金属のように伸びた。
手土産を探し、尚人は洋菓子店のガラス戸を押した。外よりひんやりして、バターと砂糖の甘い匂いが胸に入る。ショーケースの照明は白く、ケーキの艶がくっきり見えた。苺の赤、クリームの白、チョコレートの黒が整列し、どれも見栄えがする。尚人は迷ってから箱を選び、店員が薄い紙で包む音を聞いた。リボンが締まると紙がきゅっと鳴り、指に軽い抵抗が残った。手提げ袋は控えめな重さでも、甘い匂いだけははっきりついてきた。
腹が鳴った。尚人は隣の立ち呑み屋に入り、入口のビニール幕をくぐった。中は湯気と油の匂いが濃く、カウンターの木肌は手の脂で黒く光っていた。笑い声が続き、皿が触れ合う乾いた音が混ざる。換気扇が奥でうなり、暖かい風が首筋を撫でた。尚人は中瓶を頼み、栓が抜かれる金属音を聞いた。瓶肌は冷えて白く曇り、触ると指先が吸い付く。口をつけると苦みが喉を落ち、遅れて胃の底が温まった。頼んだ料理は塩気が強すぎず、湯気が鼻に当たった。箸を動かすうちに腹の重さが落ち着き、店主が焦げた匂いをまとわせて皿を置く動きが、妙に頼もしく見えた。
店を出ると、商店街の灯りが少しずつ目立ち始めていた。ネオンはまだ控えめで、空は青から灰色へ移りかけている。尚人は手土産の袋を確かめ、歩幅を崩さず『さざなみ』へ向かった。
着いたのは夕方7時前だった。扉の前に立つと、店の中から低い音楽が漏れ、ガラス越しにボトル棚の影が見えた。尚人が扉を開けると、甘い香水と煙草の残り香、氷の冷えた匂いが混ざって鼻に入った。カウンターの中でグラスが触れ合い、どこかで水が流れる音がする。赤いボックス席の革はまだぬるく、客の熱が残っていた。
涼子ママはまだ来ていなかった。代わりに、23か24歳くらいの若い女が1人、カウンターの中に立っていた。髪は整い、口紅は強すぎない。尚人が入ると、その女は背丈を確かめるように見上げ、すぐに人懐っこく笑った。ママから話を聞いていたのだろう。動きに迷いがない。
女はボトル棚から名前の入ったボトルを抜き、栓を外した。氷がグラスに落ち、澄んだ音が店の奥まで転がる。水の細い流れが続き、最後にウイスキーが落ちると甘い匂いが立った。冷えたグラスの底がカウンターに触れ、ぴたりと落ち着く。
女は名乗った。
「私はゆかりというのよ。時々、入っているの。尚人さんでしょ。ママから聞いたわ」
ゆかりは首を傾けたまま言った。
「私も1杯もらってもいいかしら?」
尚人はうなずいた。
「もちろんだ。遠慮しないで飲んでよ」
尚人は手土産の袋をカウンターに置き、ゆかりへ渡した。紙袋が擦れ、甘い匂いがふっと濃くなる。ゆかりは受け取った瞬間、目の端が明るくなった。
ゆかりは言った。
「ありがとう。私はチョコレートケーキをいただくわ」
角の水割りをひと口含むと、氷の冷たさが唇に残り、香りが鼻へ抜けた。店は静かではないが、騒がしさは整っている。換気の風が頬を撫で、背中のシャツが少しひんやりした。ゆかりは氷を鳴らしながら世間話の糸をつなぎ、尚人も今の住まいのこと、駅前の人の多さのことを、無理のない言葉で返した。
そのとき、入口の扉が開いた。外の空気が一瞬だけ流れ込み、次に香水と煙草の匂いが勢いよく混ざった。涼子ママが、常連らしい男と連れ立って入ってきた。ママの笑い声が店に広がり、床の影が揺れる。
尚人はグラスを置き、背筋だけ整えた。氷が溶け、グラスの外側に水滴が生まれて指先を濡らす。紹介があるまで、余計な言葉は出さない。そう決めた。
◇ ◇ ◇
ママは常連の男をカウンターの端に座らせ、ゆかりに目で合図した。ゆかりはすぐに男のグラスを作り直し、氷のぶつかる乾いた音が店の奥へ響いた。煙草の煙が天井にたまり、ウイスキーの甘い匂いに、濡れたおしぼりの石けん臭が薄く混じっていた。
その間にママは尚人へ一度だけ目配せした。尚人がうなずくと、ママは伝票を指で揃えたまま体を半歩引き、何でもない顔で言った。
「ちょっと外」
扉を抜けると、店の熱が背中からはがれた。夜気は冷たく、路地のアスファルトはわずかに湿っている。潮と排気の匂いが鼻に残り、車の走行音が途切れ途切れに聞こえた。ネオンの光が壁に薄く揺れ、影がゆっくり伸び縮みする。
ママは足を止め、声を落として言った。
「さっきの人ね。タイヤ屋に顔がきくんだって。だから頼んだ。黒いゴムの輪っかを1個。ペニスリングみたいなやつ」
尚人が黙って聞いていると、ママは指先で空中に輪を描いた。爪の先が冷えた空気に白く浮く。
「何に使うって聞かれたから、店の小道具って言った。説明すると長くなるから、部品だけでいいって。切り口は丸くして、手触りはさらっと。伸ばしても裂けないやつにしてってね」
ママはバッグから小さなメモを出した。紙の端が少しよれていて、インクの匂いがかすかにした。
「寸法は数字で書いて渡した。間違えたら困るからって。そしたら向こうがさ、『ずいぶん、ぴったり言うんだな』って言うのよ」
尚人の喉が小さく鳴った。風が襟元を抜け、背中がひやりとした。
ママは笑い、笑い声だけを軽く残した。
「ぴったりじゃないと効果が出ないって返した。プロの仕事でお願いってね。端材で切って、硬すぎないのを選ばせるって言ってた。出来たら小袋に入れて、あの人が持ってくる。店で中身を言うなって釘も刺した。そこは守るって」
ママは尚人の顔を見て、聞いた。
「確認したでしょうね?」
尚人はうなずきながら返した。
「うまく出来すぎてるよ。1cm単位で調整できるんだ」
「そうなの? 私は輪っかなしでも行けるかも」
ママは笑った。
尚人は財布を開き、万札を10枚まとめて差し出した。紙の角が指に当たり、乾いたざらつきが残った。ママは受け取り、迷いなく5枚だけ抜いて返した。札が擦れる音が、路地の静けさの中で妙に大きく聞こえた。
ママは言った。
「これで足りる。あとは私がやる」
尚人は返された札をしまい、軽く頭を下げた。ママはもう話を終えた顔で扉へ向かい、尚人もその背中に続いた。扉を開けると、煙と甘い酒の匂いがいっせいに戻り、店の音が元の厚みで耳に入った。
◇ ◇ ◇
涼子ママは、カウンターの端に座っていた常連客を尚人のほうへ呼び寄せた。男は背広の上着を椅子の背に掛け、手首を軽く回してから立ち上がった。香水ではない。石けんと整髪料と煙草が混じった匂いが近づいてきた。
ママは笑って言った。
「尚人くん。紹介するわ。うちの古い付き合いの人。ゴルフ仲間でもあるのよ」
男は名刺入れを出す手つきが早かった。爪の端が整っていて、指先に仕事の癖が出ている。男は名乗った。
「杉山修司です。64歳。追浜で小さな会社をやってる。杉山工業っていう、設備の部品を作る町工場だよ」
尚人は自分の名刺を差し出し、軽く頭を下げた。紙の角が指に当たり、乾いた感触が残る。
尚人は言った。
「早乙女尚人です。不動産会社に勤めています。今日はよろしくお願いします」
杉山は名刺を一度見てから、尚人の肩口へ視線を上げた。目つきは荒くないが、距離の詰め方が男同士のそれだった。
杉山は言った。
「良いガタイしてるな。何かやってたのかい。柔道とか、ラグビーとか」
尚人は笑い、グラスの氷が鳴るのを聞きながら答えた。
「以前はボクシングを趣味でやってました。2階のジムにも一度行ったことがあります。プロにならないかって誘われて、その場は良い返事をしたんですが、仕事もありますし、後で電話で断りました」
杉山は喉の奥で小さく息を鳴らしてうなずいた。
「そうかい。両立は骨が折れる。賢明だと思うぞ」
ゆかりが新しい氷を落とし、かん、と澄んだ音が店の奥へ転がった。水割りの甘い香りがふわっと広がり、煙草の煙がその上に薄い膜を作った。カウンターの木肌は、肘を置くとひんやりする。
杉山は気さくで、尚人が場に沈まないように話題を切らさず投げてくる。ゴルフの話をして、追浜の工場の景気の話をして、最後は「若いのに酒の飲み方が落ち着いてるな」と笑った。尚人もほどよく相槌を返しながら、ママやゆかりとも言葉を交わして、店の空気に自分の体温をなじませていった。
杉山の酔いが回ってくると、声の芯が柔らかくなった。笑い声のタイミングが一拍遅れ、指先でグラスを回す癖が増えた。杉山は、ママとゆかりに聞こえないように、カウンター越しに身を寄せた。煙草の苦い匂いが近くなり、息にアルコールの甘さが混じっていた。
杉山は小さな声で言った。
「実はな、最近あっちのほうが駄目になってきてな。若い子とホテルまで行けるのに、途中で折れちまう。どうにもならん。やっぱり歳かな。若い尚人くんが羨ましいよ」
尚人は表情を崩さずにうなずいたが、頭の中ではホーチミンの診察室の冷えた空気を思い出していた。白いライト、消毒の匂い、紙に包まれた錠剤の乾いた音。医者が処方した補助薬は、バイアグラの100mg錠だった。あのとき30錠受け取り、その日のうちにネットで余分に500錠も注文した。バッグに入れてこちらへ持ってきたはずだ。財布にも、確か数錠。
尚人は手を膝の上へ落とし、財布を開いた。革が乾いた音を立て、札の端がわずかに擦れた。指先で探ると、薬の硬い輪郭が触れた。尚人は錠剤を3錠取り出し、掌の中で一度だけ転がしてから、杉山のほうへそっと差し出した。錠剤の白が、店の薄い照明の下で不自然に白く浮いた。
尚人は声を落として言った。
「行為の1時間前に、3分の1くらい服用してください。きっと効くと思います。空腹時のほうが効きやすいです」
杉山は一瞬、目だけで錠剤を見た。驚きより先に、助かったという顔が浮かび、それをすぐに隠すように口元を引き締めた。杉山は指で受け取り、拳に包んだ。掌の中で小さく鳴る気配がした。
杉山は言った。
「……悪いな。ありがたい」
尚人は軽く首を振った。
「気にしないでください。無理はしないで、様子を見て」
そのやり取りを、ママとゆかりは遠目に見ていた。2人は目を合わせ、何か面白いものを見つけたように口元だけで笑った。氷が溶ける音が静かに続き、ウイスキーの匂いが少し甘くなった気がした。尚人はそれに気づいて、肩の力を抜きすぎない程度に姿勢を整え直した。
杉山は照れ隠しのように咳払いをし、話題をゴルフへ戻した。
「今度、ママと回るときさ、尚人くんも来るか。体力ありそうだしな」
尚人は笑って受けた。
「機会があればぜひ」
そのまま尚人は頃合いを見てグラスを置いた。カウンターの木肌が冷たく、指先に水滴がついた。尚人はゆかりに目礼し、ママにも軽く頭を下げた。扉を押すと、店の中の煙と甘い酒の匂いが背中へまとわり、外の夜気がすぐにそれをはがした。商店街の風は冷え、遠くの車の音が途切れ途切れに響いていた。
この回は、店へ入るまでの買い物と立ち呑みで、尚人の足取りをいったん町の中へなじませ、そのあとで『さざなみ』の空気へ入れている。洋菓子の甘い匂い、立ち呑み屋の油と湯気、店に入った瞬間の香水と煙草の残り香が重なることで、夜の入口が自然に見えるようにした。路地で交わす輪っかの相談と、カウンターで差し出す白い錠剤は、どちらも男の身体の不安に触れる話だが、置かれ方はまるで違う。前者は涼子ママの段取りのよさと図太さを見せ、後者は尚人が年上の男に対しても落ち着いて応じられることを見せている。酒の場の会話のままにして終わらせず、次の付き合いへつながる紹介の夜として形を整えた。




