第5話――「港は1つではない」
1986年3月28日金曜日の朝、尚人は部屋で洋食を作って腹を整え、まだ冷えの残る空気の中へ走りに出る。どぶ板通りを抜け、駅前のタクシー乗り場で耳に入ったのは、フランス語めいた発音の女を久里浜港で見たという話だった。横須賀で探すつもりは変えない。だが、港を当たるなら港は1つではない。そう考えた尚人は、潮と軽油の匂いが混じる久里浜へ向かい、フェリー乗り場から運輸省の港湾技術研究所まで足を伸ばす。そこで思いがけず、叔父・倉田俊介の名が、他人の口から現実の重みを持って返ってくる。
(尚人の独白)
尚人は、鳴海を殺したフランス人の女の行方を、そろそろ探そうと思い始めた。1986年の横須賀にいる可能性は高い。ただし、夜の店に勤めているとは限らない。あの女は金を持っている。尚人が動き始めたように、土地の売買で稼ごうとしていても不思議ではなかった。1986年が、まだバブル絶頂期の序盤から中盤に差し掛かった頃だと知っているはずだからだ。
そう考えているうちに、尚人は2023年に失踪した母の弟のことを思い出した。叔父は尚人をよく可愛がった。年は尚人より13歳上で、今なら35歳になる。名前は倉田俊介だった。
俊介は24歳のころに、運輸省の港湾技術研究所へメーカーから派遣で行っていたと言っていた。場所は久里浜だと、酒の席で何度か口にした。ケーソンの図化プログラムをFORTRANで組んだ、と得意げに話したこともある。1973年ごろの話だ。
そこまで思い出して、尚人はすぐに考えるのをやめた。フランスの女とは無関係だ。頭の中で浮いた叔父の顔は、窓の隙間から入ってくる潮の匂いに押されて薄れていった。
◇ ◇ ◇
(1986年3月28日金曜日、朝5時)
尚人は冷蔵庫の取っ手を握り、静かに引いた。庫内の冷気が指の間をすり抜け、卵パックの角が掌に当たって硬い。野菜室からレタスとトマトを出すと、水気の残る葉が指先に貼りついた。昨日は和食を作ったから、今日は洋食にする。そう決めると、台所の空気が少しだけ軽くなった。
フライパンを火にかけると、金属が温まる気配が手首に伝わった。バターを落とすと、じゅっと小さく鳴って甘い匂いが立つ。ベーコンの脂が溶けて、薄い煙が換気扇に吸われていく。卵を割る音は乾いていて、黄身が落ちる瞬間だけ、つやのある丸い色が目に残った。トースターの中でパンが焼けると、表面がきつね色に変わり、香ばしさが部屋の奥まで広がった。皿に並べてナイフを入れると、ベーコンは端がぱりっと割れ、卵の白身はふるりと揺れた。口に運ぶと、熱と塩気が舌を押し、噛むほど脂の甘さが戻ってくる。サラダの葉は冷たく、歯が入るたび水の音がした。最後にコーヒーを一口飲むと、苦みが喉を通って胸の奥に落ち、眠気の残りが引いていった。
食器を流しに置き、蛇口をひねる。水の勢いが陶器に当たり、泡の匂いが一瞬だけ強くなる。窓を少し開けると潮の匂いが入ってきた。尚人はランニングシューズの紐を締め、足首のあたりを指で確かめた。外へ出ると、朝の空気はまだひんやりしていて、吸い込むと鼻の奥が少し痛い。息が白むほどではないが、肌の表面が引き締まるのが分かる。
どぶ板通りへ近づくと、街の成り立ちが目に見える形で現れた。英語の看板が先に目に入り、星条旗の色が店先で揺れている。ジーンズやブーツ、軍用品らしいバッグがガラス越しに並び、店の奥からはレコードの低い音が漏れた。通りのどこかで油の匂いが漂い、ハンバーガーの焼ける甘い煙が風に混ざる。靴底が舗道のつなぎ目を踏むたび、細い振動が膝まで上がった。遠くで米兵の笑い声が弾み、日本語の呼び込みがその隙間に差し込む。トラックの排気が一瞬だけ鼻を刺し、次の瞬間には潮風がそれを薄くした。尚人は走る速さを落とし、通りをゆっくり1廻りした。短い時間でも、この町の顔つきが手に取るように分かる。
続いて尚人は、どぶ板通りを抜け、駅前のタクシー乗り場を覗いた。まだ朝の薄い光が残り、運転手たちは車の脇で缶コーヒーを回していた。近づくと、排気の匂いと煙草の匂いが混ざり、首筋に冷えが貼りついた。
尚人は一番年上に見える運転手に声をかけた。
「外国の女で、フランス語みたいな発音の人を見ませんでしたか。荷物が多くて、金払いが良いタイプです」
運転手は眉を上げ、しばらく尚人の顔を見た。次に、缶を指先で叩きながら言った。
「横須賀中央じゃ、そういう客は珍しくないな。だけどな、フランス語って言われると、こっちより久里浜だ。港のほうで拾ったことがある」
尚人は聞き返した。
「久里浜ですか」
運転手は顎で南のほうを示した。
「久里浜港だよ。フェリーの売店の前で立ってた。でかい鞄を2つ。人を待ってる顔じゃなくて、土地勘がない顔だった。俺は別の客がいて乗せなかったけど、あそこなら誰か覚えてるだろ」
尚人は礼を言い、指先でポケットの小銭を確かめた。横須賀で探すつもりは変えない。ただ、港を当たるなら、港は1つではない。潮の匂いが、駅前にも薄く流れてきていた。
◇ ◇ ◇
尚人はいったんアパートへ戻り、汗を拭いて着替えた。買い置きがないと落ち着かない性分なので、卵と豆腐ともやしを2日分だけ買い足した。紙袋は大げさな量ではないが、腕に乗る重みは確かで、歩くたびに中身がこすれて乾いた音がした。
尚人はバイクで久里浜へ向かった。朝の空気はまだ冷えていて、ヘルメットの中で自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。キーを回してセルを押すと、エンジンが低く目を覚まし、掌から腕へ細い振動が上がってきた。国道へ出ると風がいきなり強くなり、シールドの隙間から冷気が頬を削った。建物の切れ目ごとに海が見え隠れし、雲の下で潮の色が鈍く光った。信号で止まるたび、遠くの港の金属音がかすかに届き、軽油の匂いが混ざって鼻の奥に残った。
久里浜に着くと、風は横須賀より生臭く、潮と軽油がはっきり混ざっていた。尚人は港の入口で速度を落とし、路肩の砂利を避けながらバイクを滑り込ませた。エンジンを切ると急に静かになり、代わりに波の音と、どこかで鉄板が擦れる低い音だけが残った。尚人はヘルメットを抱え、手袋を外しながら港へ歩いた。
尚人は港へ出た。フェリー乗り場の前は広く、濡れたコンクリートに靴底が吸い付く感じがした。売店のガラス戸には指の跡が残り、棚には菓子と煙草と新聞が並んでいる。レジの奥の蛍光灯が白く唸り、店の女は眠そうな目を上げた。
「外国の女の人で、荷物が大きい人を見ませんでしたか。フランス語みたいな喋り方です」
店の女は首を振った。
「外国の人は来るけど、そこまで気にしないよ。朝は船の客で慌ただしいしね」
尚人は礼を言い、桟橋の先を見た。鉄板が擦れる低い音が続き、潮が柱に当たって泡を立てている。人の顔を見回しても、どれも生活の顔だった。急いで逃げる顔も、隠れる顔もない。尚人は自分の胸の中で、熱がゆっくり冷えていくのを感じた。
港だけで終わらせるのは癪だった。尚人は足を伸ばし、運輸省の港湾技術研究所のあるほうへ歩いた。研究所の塀は背が高く、門の前の道は潮風で砂が薄く寄っていた。建物の隙間から機械の音が漏れ、油と海水の匂いが混ざっている。ここは人が物を運ぶ場所ではなく、港そのものを考える場所だった。
門の脇に、小さな守衛詰所があった。窓口のガラスは曇り、灰皿の古い煙草の匂いが残っている。中にいた年配の男が、尚人を見て眉を動かした。
「見学ですか」
「いえ。人を探しているわけではないんですが、昔ここに来ていた人のことを聞きたくて」
尚人は言いながら、胸の奥が少しだけ嫌な形でざわつくのを感じた。女のことではない。自分の中の記憶を確かめるだけの話だ。
「倉田俊介という人です。メーカーから派遣で来ていたと聞きました。24歳のころに」
年配の男は、顔を正面に戻し、しばらく黙った。窓の外で風が鳴り、旗がぱたぱたと乾いた音を立てた。
「倉田……俊介。ああ、いたな」
尚人は一歩だけ近づいた。
「覚えているんですか」
「覚えているよ。派遣の若いのは入れ替わるが、あいつは背が高くてな。いつも図面の筒を抱えて、歩くのが早かった。朝が早いくせに、昼になるとコーヒーを濃くして飲んでた」
尚人の喉が乾いた。潮風の塩気ではなく、別の乾きだった。
「今もここにいるんですか」
男は首を振った。
「さあな。ここは研究所だ。終わったら戻る。みんなそうだ」
尚人は礼を言い、詰所を離れた。久里浜まで来ても女は見つからなかった。その現実は動かない。ただ、俊介の名前が他人の口から出た瞬間、尚人の中で「ただの思い出」だったものが、手で触れる固さを持った。
尚人は門の外で立ち止まり、風の向きを確かめた。潮の匂いに、油と金属の匂いが混ざる。女はどこにもいない。それでも尚人は、今日ここへ来たことを無駄だと思い切れなかった。
この回では、女の行方を追う線と、叔父の記憶へ伸びる線を、久里浜という同じ場所で重ねている。朝食のバターの匂い、どぶ板通りの油煙、久里浜港の潮と軽油、研究所の油と金属の匂いを順に置くことで、尚人の足が町をどう確かめているかを見せた。港では手掛かりは空振りに終わるが、守衛の口から出た倉田俊介の名が、ただの思い出だったはずの話に固さを与える。題名の『港は1つではない』は、女の探索先が広がったことだけでなく、尚人の過去へ通じる入口もまた1つではないことを示している。




