第6話――「3枚のホットケーキ、叔父の名残」
久里浜港でフランス人の女の手掛かりを追った尚人は、思いがけず叔父・倉田俊介の痕跡を喫茶店でつかむ。3枚のホットケーキという小さな癖が血のつながりを現実の形で浮かび上がらせ、尚人は叔父が残した後悔を自分の足場に引き寄せながら、店を切り盛りする沙也加にまっすぐ気持ちを告げる。女の行方を追う話で始まりながら、この回では久里浜という町そのものが、尚人に新しい縁を差し出す場になっている。
(1986年3月28日金曜日)
尚人は港湾技術研究所の門を背にし、海の匂いが濃い道をゆっくり戻った。潮風は塀の角を回り込み、頬の汗を冷やしていく。機械の唸りは遠ざかり、代わりに、どこかの桟橋で鉄が擦れる低い音が残った。息を吸うたび、油と海水が混ざった匂いが鼻の奥に引っかかった。
角を曲がると、小さな喫茶店があった。ガラス戸に「珈琲」と白い文字が貼られ、入口の鈴が控えめに揺れている。尚人が戸を押すと、鈴が小さく鳴った。中は外より少し暖かく、焼けた小麦の甘い匂いと、挽いた豆の苦い匂いが重なって漂っていた。
カウンターの奥に、40代前半の女が1人で立っていた。白いエプロンは糊がきいていて、肩の線がすっきり出る。髪はきちんとまとめられ、襟足の細い毛が光っている。顔立ちは派手ではないのに、目がよく通り、口元が静かに整っていた。声も落ち着いていて、店の空気を乱さない。
「いらっしゃいませ」
尚人は窓際の席に腰を下ろした。椅子の背が軽く鳴り、テーブルの木目が手のひらにざらりとした。窓の外では朝の光がまだ弱く、道路の湿りが鈍く反射している。洗い立ての灰皿が石鹸の匂いを残し、砂糖壺の蓋が小さく光った。
「ホットコーヒーと、ホットケーキをお願いします」
女は頷き、伝票にペンを走らせた。ペン先の音が小さく響く。
「ホットケーキは1枚ですか。2枚ですか」
尚人は間を置かなかった。
「3枚でお願いします」
女は一瞬だけ目を丸くし、それから肩を揺らして笑った。
「3枚は久しぶりです。10年以上前にね、同じような注文をする人がいましたよ」
尚人の背中に、冷えたものがすっと走った。喫茶店の暖かさの中で、その感触だけがはっきりした。
「その人、どんな人でしたか」
女は尚人の顔を見てから、記憶を確かめるように言った。
「あなたと同じくらいの年格好で、身長も同じくらいでした。急がないのに、手が止まらないのも似ている。食べ終わると、いつも軽く会釈して帰っていきました」
尚人は笑って受けたが、胸の奥では笑えなかった。
「失礼ですが、その人の苗字は倉田さんではありませんでしたか」
女は少し迷う顔をしてから、カウンターの下を開けた。紙を挟んだクリップがいくつか並び、古い伝票の束が端で黄ばんでいる。女はその1つを引き抜き、指で文字をなぞった。乾いた紙が擦れて、かすかな音がした。
「そう。倉田さんです。伝票の名前欄にね、自分で苗字だけ書いていました。いつも『3枚』って、横に小さく」
尚人は息を吸い、コーヒーの苦い匂いを一度胸に入れた。
「僕は早乙女尚人と言います。その人はたぶん僕の叔父で、倉田俊介です」
女は手を止め、顔を明るくした。
「あらまあ。倉田さんの甥っ子さんだったの。道理で、よく似てらっしゃると思ったわ」
厨房のほうから、鉄板に生地が落ちる音がした。じゅう、という弱い音と一緒に、バターの匂いが立つ。尚人はその匂いに混ざって、子どものころに聞いた叔父の声を思い出した。いつもより静かで、少しだけ喉が乾いていた。
◇ ◇ ◇
「若い頃に、好きで好きでたまらない人がいた」
「でも、その時は仕事がきつすぎてな。辛さを紛らわせるために、駅前のスナックへよく通っていた。酒を飲まないと、やりきれなかった」
「そこの女給さんに惚れて通っていたわけじゃない。ただ、酔いつぶれたかっただけだった」
「でも、久里浜は狭い。僕が女給さんに惚れて、毎晩通っていると思われた」
「結局、本当に好きな女性からは嫌われてしまったよ。僕がここを出る時、店の人のご主人がほっとした顔で見送っていた。あれを、今でも忘れられない」
尚人は、叔父の言葉の最後が妙に湿ったまま残っているのを感じた。言い訳を飲み込んでしまった声だった。
(僕なら、同じ形では残らない。誤解される前に、先に言う)
尚人はカウンターの女を見た。笑う前に一拍だけ間があり、その間がこちらの背筋を整えさせる。伝票の角を揃える指先が静かで、カップの取っ手を置く向きまで迷いがない。視線が合うと、先に逸らさず、柔らかいまま受け止める。その立ち姿だけで、尚人の胸の内側が落ち着いていく。
コーヒーが運ばれてきた。湯気が立ち、苦い香りが顔を包む。口をつけると、熱が舌を刺し、すぐに柔らかな苦みが広がった。砂糖を入れなくても、胸の奥が静かになる味だった。
ホットケーキは3枚、皿に重ねられて出てきた。表面はきつね色で、縁だけ少し硬く焼けている。バターが真ん中で溶け、黄色い油がゆっくり流れた。シロップを垂らすと甘い匂いが一段強くなり、鼻の奥まで温かくなる。フォークを入れると、生地はふわりと裂け、湯気が静かに立った。口に入れると、甘さと熱が舌に広がり、噛むほど小麦の香りが戻ってくる。尚人は、3枚という数が冗談ではないことを、腹の底で確かめていった。
食べ終えるころ、尚人は席を立った。勘定を済ませ、ポケットから名刺を取り出した。紙は乾いていて、指に軽い抵抗がある。尚人はそれを女に渡し、背筋を伸ばして言った。
「早乙女尚人です。また来ます」
それから、声の調子を変えずに続けた。
「あなたに一目惚れしました。よければ、付き合って下さい」
女は目を見開き、言葉を失った。手の中の名刺だけが白い紙としてはっきり見える。頬がわずかに赤くなったが、笑ってごまかすほうへは逃げなかった。蛍光灯が小さく唸り、外の風がガラス戸を軽く鳴らした。
尚人は帽子を手にしたまま、視線を外さずに言った。
「冗談で言ったわけじゃありません。迷惑なら、きっぱり言って下さい。けど、俺はまた来ます」
女は息を吐き、名刺を指に挟んだまま、口調を落とした。敬語がほどける音が、店の空気の中で小さく響いた。
「勢いがあるね。けど、ここは喫茶店だよ。落ち着きな」
尚人は頷き、言い添えた。
「すみません。もう1つだけお願いがあります。電話、借りてもいいですか」
女は顎でカウンター脇を示した。
「いいよ。用件が多いなら、落ち着いてやりな」
受話器はベージュ色で、表面が指の脂で少し艶を帯びている。耳に当てると店の音が遠のき、ツーという乾いた音だけが残った。
最初はボクシングジムだった。呼び出し音のあと、向こうの声が出た。
「はい」
「早乙女です。しばらく顔を出せません。久里浜で身内のことで動くことになって、外せないんです。それと前言を覆して申し訳ないんですが、プロ入りのお話もお断りさせて下さい」
向こうはひとつ息を吐いた。
「分かった。身体だけは落とすな」
受話器を置くと、耳の熱が戻ってきた。次に尚人は104へかけた。交換手の声は明るく、遠い部屋の響きがした。
「久里浜のホテルをお願いします。港に近いところで」
尚人が言うと、女が横から口を挟んだ。さっきより近い言い方だった。
「港に近いなら、そこより『久里浜マリーナホテル』がいい。朝が静かで、風呂が熱いよ」
尚人は交換手にその名を伝え、番号を聞き取った。鉛筆でメモを取ると、紙が指先で少し波打った。続けてホテルに電話を入れ、3月28日から4月1日(火)までの宿泊を申し込んだ。受話器の向こうで紙をめくる音がして、予約が通った。
最後にもう1本だけ必要だった。尚人は品川の持ちビルへ電話を入れ、4月1日(火)の夜から泊まれる空室を確かめた。管理人の声は低かったが、部屋が空いていること、鍵の受け渡しの段取りがつくことを淡々と告げた。
受話器を置いた瞬間、女の視線が刺さった。
「今、品川の持ちビルって言ったよね。あれ、本当?」
尚人は一拍置いた。誤魔化したら、次に出る言葉が全部軽くなる気がした。
「本当です」
「22歳で? どういう話よ」
尚人は喉の乾きをコーヒーで押さえ、言葉を揃えた。
「祖父の遺産を30億円もらいました。20億円は使いました。品川と横須賀で、賃貸ビルを1軒ずつ買いました。他にも投資物件をいくつか買いました」
女はかすかに笑い、すぐ真顔に戻った。
「話がでかすぎる。けど、目が逃げないね。今のは、軽々しく他人に言うなよ」
「はい。でも、ここでは言います。信用が大事だからです」
女は名刺の角を指で叩いた。乾いた音が小さく響く。
「じゃあ、夜のスナック通いってのは何。金持った若いのが毎晩って、誤解されるに決まってる」
尚人は首を振った。
「行きます。ただ、同じ店には通いません。全部、違う店です。叔父のことを聞くだけです。誰かに惚れて通っているわけじゃない」
女は眉を少しだけ上げた。
「誤解を増やさないためってことか」
「はい。叔父の話を聞いてきたので」
女はカウンターの内側でグラスを拭き始めた。布がガラスを擦る音が一定で、店の中の時間が落ち着く。尚人は自分の言葉が軽くならないよう、ゆっくり呼吸した。
「もう一度確認するよ。……名前、何て呼べばいい」
「早乙女尚人です」
女は名刺の文字を一度見て言った。
「私は沙也加。38。ここではママでいい。敬語はいいよ。こっちが落ち着かない」
尚人は小さく頷いた。
「分かりました。沙也加さん。今日は助かりました」
沙也加は顎で外を示した。
「久里浜の用事、まず片づけな。変に夜を荒らすと、噂だけ増える。久里浜は狭いからね」
尚人はその言い方に、叔父の告白の湿り気を重ねた。自分は同じ形では残さないと、胸の中で繰り返しながら帽子をかぶった。
「また来ます。礼も言いたいので」
「来るのは勝手。けど、急ぐな」
尚人が戸を押すと鈴が鳴り、店の暖かさが背中で切れた。外の潮風が一気に頬へ当たり、さっきのシロップの甘さがまだ舌に残っている。尚人はバイクの置いた方向へ歩きながら、久里浜で女が見つからなかった現実を思い出した。だが同時に、叔父の名前がこの町の誰かの記憶に残っている事実もまた、確かな重さで胸に残っていた。
この回では、叔父の記憶が「話に聞いた過去」から「この町に残っている手触り」へ変わる流れを、喫茶店の匂いと音で受け止めている。ホットケーキの甘さ、コーヒーの苦み、伝票の乾いた紙の音が、倉田俊介という名を人の暮らしの中へ下ろした。そのうえで尚人は、叔父のように誤解の中で遅れるのではなく、自分の言葉で先に踏み出す。題名の『3枚のホットケーキ、叔父の名残』は、食べ物の癖だけでなく、後悔の残り香と、その先で始まる新しい関係の入口まで含んでいる。




