第4話――「名刺の角、奥席の冷気」
午後7時前、尚人は乾物屋で小さな手土産を買い、紙袋を下げて『さざなみ』の扉を押した。煙草と酒の匂いが残る店内には、ママのほかに2人の男がいた。1人は商店街で顔の利きそうな高瀬、もう1人は昼のパチンコ屋にいた沢村である。名刺の角を指で確かめながら席に着いた尚人は、店の空気が思ったより冷たいことにすぐ気づく。
(1986年3月27日木曜日)
午後7時前、尚人は商店街を歩いていた。昼の惣菜屋の匂いは薄れ、代わりに焼き鳥の煙と、魚屋の氷の冷えた匂いが通りに残っている。店の照明が1つずつ点き、看板の色が路面の濡れににじんで見えた。
尚人は乾物屋の前で足を止めた。棚に並ぶ豆菓子と昆布の袋は、紙の口がきっちり折られている。店の奥には箱入りの菓子が積まれ、包装紙の角が光っていた。尚人は小さめの箱を1つ選んだ。派手ではないが、手土産として形になる。紙袋を受け取ると、軽いのに手の中で存在感があった。
『さざなみ』の前に立つと、細い看板灯が揺れていた。扉のガラスには店内の光が溜まり、外の通行人の影が薄く写っている。尚人は息を整え、扉を押した。
店の中は暖かかった。煙草と酒の匂いが混ざり、カウンターの木には長年の手脂の艶が出ている。ボトル棚のガラスが光を返し、棚の奥でウイスキーのラベルが鈍く光った。小さなスピーカーから歌謡曲が流れ、低い音が壁に吸われていた。
カウンターの奥の方に男が1人いた。髪が整い過ぎていないのに、妙に手入れが行き届いた感じがある。姿勢だけが軽く、笑う前の顔が薄い。尚人は、その男を見ただけで、今日の昼に行ったパチンコ屋の空気を思い出した。手のひらに残る玉の冷たさと、耳の奥に残る機械音が一緒に戻ってくる。
その隣に年配の男が腰を据えていた。52くらいで、背は低くない。スーツではなく清潔なジャンパーを着ているが、襟元と腕時計だけはきっちりしている。商店街の会合で前に立つタイプの顔つきだった。ママの方を見て、時々、言葉を探すように口を開きかけては閉じる。惚れているのが隠しきれていない。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうからママが出てきた。昨日見た巻き髪は整え直され、口紅も引き直してある。だが、目の奥の色は同じだった。尚人は一拍だけ視線を外し、すぐに戻した。
「こんばんは。初めて客として来ました。手土産を持ってきました」
尚人は紙袋を両手で出した。ママは受け取り、袋の口を少し開けて中身を見た。目尻が少しだけ柔らかくなる。
「気が利くね。座りなよ。初めてなら、うちの決まりも言っておくよ」
尚人が椅子に腰を下ろすのを待って、ママは指を折らずに言った。店の声だった。
「セットは2時間で3,000円。氷と水と、軽いつまみは込み。カラオケは1曲100円。ボトルを入れるなら、サントリーの角はキープで4,000円だよ」
尚人は頷いた。金額がはっきりしているのは助かる。曖昧さがない分、店の空気が乱れにくい。
「分かりました。ありがとうございます」
尚人は入口に近い席ではなく、3人から少し離れた位置のカウンター席を選んで腰を据えた。椅子の脚が床に触れる音をできるだけ立てない。背中のジャケットを整え、顔を上げる。
「遅くなりました。早乙女尚人、22です。京浜土地建物株式会社の新入社員です」
言いながら、名刺入れを出し、1枚だけ抜いて差し出した。名刺の角が照明を受けて白く光る。ママは名刺を受け取り、目を落として文字を追った。
「へえ。ちゃんとしてるね。じゃあ、私も名乗るよ。伊藤涼子。みんなはママって呼ぶけどね」
尚人は、その名前を頭の中で一度だけ繰り返した。涼子。呼び方としては、まだ距離がある。ここでは『ママ』が正しい。
奥の男たちにも、尚人は一度だけ頭を下げた。
「初めまして。早乙女です。今日から顔を出します。よろしくお願いします」
52の男が、酒の入ったグラスを置いて、尚人をまっすぐ見た。
「礼儀がいいな。俺は高瀬だ。商店街で、まあ世話役みたいなことをしている。歳は52だ」
隣の若い男は、口の端だけ上げた。
「俺は沢村。ここじゃ暇つぶしだよ」
言い方が軽い。目が笑っていない。
ママは手際よく氷を入れ、グラスを拭き、水を注いで尚人の前に置いた。氷が触れ合う音が、店の小ささの中でよく響いた。
高瀬が尚人の体格を見上げるようにして言った。
「でかいな。何かやってるのか」
「ボクシングです。昨日も昼にジムへ行きました。今日は昼、パチンコで少し時間を潰しましたけど」
尚人がそう言うと、高瀬の顔がぱっと変わった。昔の話を出したくて仕方がない表情になる。
「おい、ボクシングか。俺も若い頃、少しやった。横須賀のジムでな。体重は何キロだ」
「82です」
「82で、その身長か。でかい階級だな。日本じゃ相手が少ない」
高瀬は自分のグラスを持ち上げ、空中で小さく振った。酔いの勢いではない。話の勢いが出ている。
「試合はやったのか」
尚人は頷いた。
「学生の時にアマで14戦です。全部勝って、12回は倒しました」
高瀬は息をひとつ吸ったあと、笑った。
「それは相当だ。おい、ママ。すごいのが来たな」
ママは口だけで笑い、尚人の顔を見た。昨日の店内の白い蛍光灯の下で見た顔と、今の薄い照明の下の顔は違う。だが、尚人の中では同じ線でつながっている。
高瀬は昔の練習の話を始めた。縄跳びの癖、ミットの構え、息の吸い方。尚人は要点だけ返し、相手の話を切らさない。店内の空気が少しずつ温まっていく。グラスの水滴が木に輪を作り、拭いても消えない。
そこへ、沢村が口を挟んだ。笑いながらだが、声ははっきり通る。
「お前ら、そんな話で盛り上がってるけどさ。結局、ママが好きで通ってるんだろ」
高瀬の表情が固まった。ママも手を止める。
沢村は続けた。グラスを軽く持ち上げ、勝った気分の顔を作る。
「残念だが、ママは俺の女だぜ。お前らは精々通って金を落としな。その金は俺が全部、ポーカーで使ってやるよ」
言い終えたあと、沢村は笑った。店の空気が一瞬だけ止まる。歌謡曲の音だけが、やけに遠く聞こえる。
高瀬は椅子から半分立ち上がり、ママを見た。目が揺れている。
「……本当なのか」
ママの口が開きかける。だが、その前に尚人が動いた。
尚人は椅子を引く音を立てずに立ち上がった。背が高いので、動くだけで視線が集まる。尚人は高瀬とママの間に体を入れ、正面は高瀬に向けた。声を低くし、早口にしない。
「今、確かめたい気持ちは分かります。でも、ここでママに詰めるのは違います。店を壊すやり方です」
高瀬が尚人を見る。怒りの矛先が定まらず、顔が赤くなっている。
尚人は一度だけ沢村の方へ目を向け、言葉を続けた。
「それより、みんな聞きましたよね。この人は『店に落ちた金を博打で使う』と言いました。恋人の話じゃありません。店に唾を吐いた話です」
その一言で、高瀬の目が沢村へ向いた。怒りの方向が変わる。ママの肩が少しだけ下がる。
沢村は鼻で笑った。
「言葉遊びだろ。何、真に受けてんだ」
尚人は沢村の前に立たず、距離を残したまま、条件だけを置いた。酒が入っていても逃げにくい形にする。
「言った以上、筋を通してください。今ここで『店の金に手を出さない』『この店の名前を賭け事に使わない』と言い直してください。できないなら、帰ってください」
沢村の笑いが薄くなる。高瀬が黙って睨む。ボックス席の客が会話を止め、こちらを見ている。
尚人は続けた。声は同じ調子のまま、落とすところを落とす。
「それと、ママが『俺の女』だと言うなら、客前で口にした責任を取ってください。ママに一言、詫びてください。できないなら、その程度の関係です」
沢村は口を開きかけたが、言葉が出ない。強がって笑えば笑うほど、店の中の空気が冷える。黙れば黙るほど、言ったことの下品さが残る。
尚人は畳みかけない。返事を待つ時間を作った。沈黙が店内に落ち、氷が溶ける音が聞こえた。
「返事がないなら、もう帰ってください。この店に迷惑をかける客を、ここに座らせておくわけにはいきません」
その言葉を受けて、ママが前へ出た。否定の仕方を選んだ顔をしている。真っ向から沢村を潰すのではない。店の都合として切る。
「……昔、少し仲良くしたことはあるよ。でもね、客の前でこんな言い方をする人とは付き合えない。今夜で終わりだ」
ママは沢村を見たまま、声を落とした。
「店の名前を汚す人は困る。今すぐ出て行け。二度と来るんじゃないよ」
沢村は一瞬、強く笑おうとした。だが、笑えば笑うほど惨めになる空気だと分かったのか、口の端だけ動かして立ち上がった。椅子が床を擦り、音が伸びる。沢村は勘定を置かずに出ようとしたが、ママがきっぱり言った。
「勘定は払ってからだよ。セットは2時間で3,000円。飲んだ分は別で、カラオケは1曲100円だよ」
沢村は舌打ちを飲み込み、札を数枚置いた。置き方が雑で、1枚が少しだけはみ出る。ママは拾い上げず、そのままにした。
沢村が扉を開けて外へ出ると、夜の冷気が一瞬だけ店に入り、煙草の匂いを揺らした。扉が閉まる音が、終止符のように響いた。
高瀬は立ったまま、ママを見た。怒りが残っているが、行き場がない。尚人が一歩だけ横へずれ、ママの顔が見えるようにする。
高瀬は喉を鳴らし、声を出した。
「……すまん。俺が詰める相手を間違えた」
ママは頷いた。いつもの笑いに戻すまで、少しだけ時間をかけた。
「いいよ。席、戻りな。飲みなよ」
高瀬が椅子に座り直す。肩の力が少し抜けた。店の中の客も、ようやく息を戻す。歌謡曲の音が、さっきより自然に聞こえる。
尚人は自分の席へ戻らず、いったんカウンターの端に立ったまま、ママへだけ小さく言った。
「俺は客として来ています。ママの店を壊したくない。だから、あの言い方だけは止めたかったです」
ママは名刺を指先で軽く叩き、かすかに笑った。
「分かったよ。尚人、あんたは店のことを先に考えて動いたんだね」
尚人は一息置いてから言った。新入社員らしい迷いを残しつつ、決めるところは決める声だった。
「さっき言ってた、角を入れます。キープでお願いします」
ママは頷き、棚を見上げた。
「角はキープで4,000円。覚えててね。セットは2時間3,000円。カラオケは1曲100円。うちはその代わり、会計はきっちりだよ」
「それがいいです」
ママは棚から角瓶を出し、紙の札に尚人の名字を書いた。インクが乾く前に軽く振り、輪ゴムで瓶の首に留める。
ママは角の栓を抜き、薄い水割りを作って尚人の前に置いた。
瓶が棚に戻ると、ガラス越しに札の白が浮いた。尚人はそれを見て、初めてこの店の客になった実感が胸に落ちた。
尚人は椅子に座り、グラスを口に運んだ。角の水割りの冷たさが喉に落ち、胸の奥の熱が少しだけ静まる。高瀬はまだ顔を赤くしているが、話の相手を尚人に戻そうとしている。
「なあ、尚人。ミットは誰に持ってもらってた」
尚人は頷き、さっきの途切れた話の続きへ戻った。店は、今夜はまだ終わらない。だが、奥の席だけは空いたままになった。
午後9時前、尚人はレジへ行き、今日の勘定として7,000円を支払った。
沢村が吐いた下品な一言で、店の空気は一度止まった。尚人は高瀬とママの間へ静かに入り、怒りの向きを変え、店を壊さずに沢村だけを外へ出した。奥の席に残った冷気が消えきらないうちに、尚人は角を入れ、自分の札が掛かった瓶を棚に置かせる。夜の『さざなみ』で、尚人は初めて客の顔になった。




