第3話――「追加1セット40分、10番ボックスの名刺」
1986年3月27日(木)午後4時。尚人は、どぶいた通りの奥にある『PINK SALON パールライン』へ入った。消毒液と甘い香水が混じる薄暗い10番ボックスで、里香は昨夜の偶然に驚き、尚人は自分の身体に抱えてきた引け目を打ち明ける。時間切れの声に追われて追加1セット40分が入り、ようやく店を出たとき、尚人の掌には里香が書き足した私用の電話番号入りの名刺が残っていた。夕方の湿った風の中で、紙の角だけが妙に固く感じられた。
(1986年3月27日木曜日)
尚人は繁華街の路地へ折れ、看板の灯りが濡れた舗道ににじむのを見ながら、ピンサロ『PINK SALON パールライン』のガラス扉を押した。店内の空気は外より少し重く、消毒液の匂いに甘い香水が絡み、奥から低音の効いた音楽が壁を震わせていた。
時計を見ると4時きっかりだった。耳の奥に音が張りつく感じがして、呼吸のたびに喉が乾いた。
◇ ◇ ◇
入口脇のカウンターには、黒い服の若い男が立っていた。20代で、髪は整えられ、笑顔だけがやけに明るい。男は尚人の顔を一度だけ確かめると、慣れた調子で言った。
「早乙女尚人さんですね。里香は先程から来ています」
尚人は頷き、手早く聞き返した。
「そうだ。いくら払えば良いんだい?」
「40分4000円です。指名は別に500円いただきます。延長は10分1000円です。追加の1セットも40分4000円です」
尚人は財布から札を出し、4500円を渡した。札が指に貼りつく。空調は効いているのに、背中だけが薄く汗ばんでいた。黒服は受け取った金を手元で数え、レジの引き出しが軽い音を立てる。音楽のリズムに合わせて、床のどこかが微かに震えている。
黒服は声を張り、奥へ向けて呼んだ。
「里香さん。ご指名ですよ。おめでとう。ハッスルしてね」
言い方は冗談めいているが、仕事の合図として切れがあった。尚人は案内され、狭い通路を進む。壁は暗い色で、ところどころに指の跡が残り、照明は目に優しい代わりに輪郭をぼかした。
10番ボックスの前でカーテンが引かれ、薄暗い小さな空間が現れた。
◇ ◇ ◇
中は2人掛けのソファと低いテーブルだけで、空気がこもっている。テーブルの上にはティッシュ箱と、透明なジェルの容器が置いてあった。ジェルは冷たそうな光を返し、鼻を近づけると薬品の匂いがした。ソファの合皮は体温が抜けにくく、腰を下ろすと軽くきしんだ。
少ししてカーテンが揺れ、里香が入ってきた。外の光が背中から差し、髪の縁だけが一瞬明るく見える。目が合った途端、里香は声を上げた。
「あれ、パチンコ屋で会ったお兄さんじゃないの? どうしてここに居ると分かったの?」
驚き方に作り物がなく、尚人は逆に落ち着いた。尚人は里香を軽く抱き寄せ、耳元へ口を寄せる。香水の甘さの奥に、石鹸の匂いが残っていた。
「バッグの中のマッチを見たのさ。それに連れの男が里香と呼んだだろ」
里香は目を丸くしてから笑い、尚人の肩を小さく叩いた。
「そうなんだ。お兄さん、パチンコ上手いんだってね。5回も打ち止めしたって店員が言っていたわ」
「今日は、朝9時半から並んだんだ。良い台が選べたよ」
「開店前から並んだの? お兄さん、プロなの?」
里香は距離を詰め、尚人の膝に乗った。布が擦れる音、ジッパーが下りる乾いた音が、音楽に紛れても妙に近い。尚人は喉を鳴らし、ポケットから名刺を出して里香に渡した。
「いや、普通のサラリーマンだよ。新入社員さ」
里香は名刺を指先でつまみ、暗い照明の下で顔を近づける。紙の白さだけが浮く。
「へえ、良い会社に勤めているのね。本社は東京なんだ。品川か。すごいね」
里香の手が動いた瞬間、彼女は思わず声を張り、笑いと驚きが混ざった調子になった。
「長い。でかい。太い。こんなの初めてみたわ」
尚人は視線を外し、顔が熱くなるのを自覚した。声は小さくなった。
「そうだろ。これが俺のコンプレックスなんだ。学生の時に初めて付き合った女の子に、いざって時に『怖い』って言われて振られたんだ」
尚人は続けた。言葉にすると、胸の奥が少し軽くなる気もした。
「それ以来、俺は女の子と付き合えなくなった。トラウマだよ。断られるのが怖くなったんだ。だから、右手が恋人さ」
里香は一瞬だけ表情を真面目にし、尚人の胸元へ手を置いた。指先は温かい。
「あんたは、身体もでかいし、こちらも大きくて当たり前さ。全然おかしくないよ」
里香は言い切って、少し声を落とした。
「私が何とかしてあげるよ」
里香は手際よく動いた。ジェルを掌に取ると、冷たさが空気に混ざるような匂いが立つ。粘り気のある感触が肌に広がり、音楽の低音が腹に響くたびに、ソファのきしみが小さく返った。
尚人は奥歯を噛み、息を整えようとしたが、体は言うことを聞かない。時間が進むほど、焦りが汗になって背中を伝った。里香は一生懸命に合わせてくれるが、尚人の緊張は簡単にはほどけなかった。
突然、天井のスピーカーからマイクの声が入った。
「10番さん、時間ですよ。延長なければご支度をお願いします」
声は事務的で、音楽の上に無遠慮にかぶさる。現実だけが差し込んでくるようだった。尚人は身支度を整え、立ち上がろうとした。
◇ ◇ ◇
そのとき里香が、少し焦ったように、しかし商売の段取りを崩さない声で言った。
「素股で出してあげるから、もう1回40分、追加で入れてよ」
尚人は言葉の意味が良く分からなかったが、パチンコで勝った分が財布に残っていることを思い出した。尚人はカーテンの隙間から黒服を呼び、1万円札を渡した。黒服は釣りの6000円を返し、尚人は受け取ってポケットに入れた。
里香は下着を外し、尚人の上へ後ろから跨るように乗った。肌が触れ、体重がかかる。ローションが先に塗られていて、冷たさが遅れて熱に変わり、滑りが増す。
尚人は一瞬、思わず息を呑んだ。油断すると入りそうになるが、里香は角度と動かし方を細かく変え、入らないぎりぎりを保っていた。腰の動きは巧妙で、ぬるい空気と甘い匂いが混ざった狭い空間の中で、尚人の意識だけが一点に集まっていく。音楽の拍に合わせるように、里香の呼吸が荒くなり、尚人の喉がかすれた。
尚人のものと里香の姫が擦り付けられ、里香は自ら動くたびに快感を堪えきれないように激しくうめき反っくり返る。尚人を何とか逝かそうと里香は懸命に擦り付けるが、逆に自分のほうが堪えきれずに何度も何度も逝かされてしまう。里香のお豆がぷくっと膨らむと、里香は大逝きしてがくりと前のソファの背中におでこをぶつけてしまった。
その拍子だ。里香の姫が、此処ぞとばかりに尚人の一物を擦り立てた。
今まで尚人は目を閉じ、歯を食いしばって堪えていた。しかし、張りつめていたものがほどけた。体から力が抜け、胸の奥が空っぽになる。里香は動きを緩め、後を振り向き、尚人に熱烈なキスを浴びせた。
◇ ◇ ◇
里香はティッシュを1枚ずつ折り、自分の姫を綺麗さっぱり拭い去った後、尚人の一物をぱくりとくわえ、綺麗に後始末をしてくれた。愛情のこもった動作である。
それからは、ソファに座り直し、汗を拭きながら話した。
彼女がパチンコ屋で一緒だった男について語るとき、声には呆れと諦めが混ざっていた。男は同じアパートの住人で、最近は負けが込み、サラ金から借りて追い立てを食っているという。今日は打ち方を教えると言うので付いていっただけで、深い関係ではないらしい。里香は他人事のように言うが、言葉の端々に、面倒を背負わされる側の疲れが滲んだ。
尚人は時計を見て、帰ることにした。立ち上がると脚が少し重い。ボックスの外へ出ると、通路の空気がわずかに冷たく感じた。
里香は尚人を見上げ、名刺を返す代わりに、自分の名刺を差し出した。さらにペンを取り、その場で電話番号を書き足す。ペン先が紙を擦る音が、音楽の隙間に細く通った。
「これ、プライベートの。気が向いたら、連絡して」
尚人はそれを受け取り、紙の角の硬さを指で確かめた。店の甘い匂いと消毒の匂いがまだ鼻に残っている。外へ出れば、夕方の空気がそれを薄めていくだろう。それでも、名刺の紙だけは掌に残り続けた。
◇ ◇ ◇
午後5時20分、尚人は『PINK SALON パールライン』のガラス扉を押し返し、外の空気を胸いっぱいに吸った。店内に残っていた消毒液と甘い香水の匂いが、潮の匂いに押し流される。掌の中には里香の名刺があり、紙の角が指腹に当たっていた。
通りは夕方の顔になりかけていた。どぶいた通りの看板が早い時間から光り始め、米兵の笑い声と日本語の呼び込みが混ざる。革靴の音、バイクの乾いた排気音、店先のラジオの歌が、狭い空の下で重なっていた。
尚人は道の端にある車の販売店へ入った。ガラス越しに、背の高いワンボックスが見える。三菱デリカ スターワゴンだった。角張った車体に、雨上がりの光がまだらに映っている。尚人が近づくと、事務所から作業着の男が出てきて、濡れた手をズボンで拭った。
「いらっしゃい。見るだけでもどうぞ」
尚人は頷き、運転席へ上がった。座面は少し硬いが、膝が窮屈ではない。天井も高く、186cmの体でも頭が当たらなかった。後ろの空間を見回すと、寝台を置く絵がすぐに浮かんだ。
「これを買う。中に寝台と収納を組みたい。できるか」
男は驚いた顔をしたが、すぐに電卓を叩いた。
「寝台と収納なら、ベッド台と箱を組んで、固定金具まで入れて18万円。車は車両本体が218万円で、登録と整備が17万円。合計で253万円になります」
尚人は一度も視線を外さずに言った。
「今、現金で払う。今日のうちに手続きを始めてくれ」
男の眉が上がった。
「全部、ですか」
「全部だ」
尚人は肩にかけたバッグを開けた。中には帯の付いた札束がいくつも入っている。万札の角が揃っていて、紙の匂いが強い。尚人は机の上に札束を積み、声を切らずに数えた。店の男も一緒に数え、最後に合計を確認した。
「253万円、確かに」
男は領収書を書き、紙の上でボールペンの先を止めずに走らせた。
「ベッドと収納は、木が出来てから組みます。仕上げまで3日から5日。車は整備と登録があるので、受け渡しは早くて来週です」
「それでいい」
尚人は領収書を受け取り、バッグの内側のポケットへ差し込んだ。紙が指先に引っかかり、現金の角とは違う感触が残った。
店を出ると、尚人はどぶいた通りを数十メートル歩き、バイク屋の前で足を止めた。ガラス越しに、黒い車体が照明を受けて光っている。カワサキGPz900Rだった。タンクの曲線は鋭く、触る前から速さが伝わってくる。
店内にはオイルとゴムの匂いがこもっていた。ヘルメットが棚に並び、奥から工具の音が小さく響く。店主らしい男が、尚人の体格を一目見て言った。
「それ、乗るんですか」
「買う。今日、払う」
男は笑うより先に数字を出した。
「車両が118万円。登録と自賠責で7万円。合計で125万円です。書類が揃えば、引き渡しは今夜でもできます」
尚人はバッグを開け、札束を机に置いた。店主は札を揃え、指で弾くようにして数えた。
「125万円、確かに。……すごいな」
尚人は淡々と頷き、書類に署名した。店主は奥へ行き、鍵を持って戻った。
「乗って帰りますか。ヘルメットは貸します。サイズは合うのを探します」
「借りる」
尚人が外へ出ると、夕方の風が頬を冷やした。GPz900Rのエンジンがかかり、乾いた音が通りの音を一瞬押しのける。尚人は領収書をバッグへ入れ、残った現金の厚みを指で確かめた。
この日の支払いは、デリカ スターワゴンと寝台・収納込みで253万円、GPz900Rが125万円、合計で378万円だった。バッグに残った現金は122万円だった。
◇ ◇ ◇
尚人は回転を上げず、クラッチを丁寧に繋いだ。車体が前へ出ると、重量が一度遅れてから付いてくる。だが、動き出せば安定していた。路面は雨上がりで、白線が濡れて光っている。尚人はそこを踏まないようにラインを選び、車の流れに無理に割り込まず、間合いを多めに取って走った。
国道へ出る手前の交差点で赤信号につかまると、尚人は両足を地面についた。足つきは悪くない。横を軽自動車がすり抜け、反対車線からトラックが風を連れてきた。ヘルメットの中で、甘さと薬品の匂いの名残が鼻をかすめる。だが、それも排気とオイルの匂いに混ざって薄くなっていった。
アパートは繁華街から少し離れた場所にある。敷地に入ると、駐車場の砂利がライトを受けて白く光った。尚人は端の空き区画にゆっくり入れ、車体を真っすぐにし、エンジンを切った。急に静かになった。
ハンドルロックをかけ、チェーンも通した。ヘルメットを抱えて一度だけ振り返ると、黒い車体は街灯の下で輪郭だけが浮き、店で見たときより落ち着いて見えた。
部屋へ戻ると、尚人は机の上に領収書を2枚置いた。札束の厚みが減り、代わりに紙が2枚増えた。尚人はそれを見て、金が消えたのではなく形が変わったのだと思った。
顔を洗い、髪を整え、シャツを替えた。派手にするつもりはないが、だらしなく見えるのは嫌だった。
外へ出ると、空はもう暗く、商店街の灯りがひとつずつ点いていた。尚人は歩きでスナック『さざなみ』へ向かった。バイクで行ってもよかったが、店の前に停めて余計な目を集めたくなかった。
途中、尚人は乾物屋の前で足を止めた。棚に並ぶ豆菓子と昆布の袋が、紙の口をきっちり折って並んでいる。尚人は小さめの箱を1つ選び、紙袋を受け取った。軽いのに手の中で存在感があった。
腕時計を見ると、午後7時前だった。尚人は紙袋を持ち直し、『さざなみ』の方へ歩いた。
店を出た尚人は、その足で三菱デリカ スターワゴンとGPz900Rを現金で買った。札束は領収書2枚に変わり、部屋へ戻ると机の上には紙だけが残った。顔を洗い、シャツを替え、乾物屋で小さな手土産を買って、尚人は歩いて『さざなみ』へ向かう。里香の体温も、名刺の紙の感触も、バイクの乾いた排気音もまだ身体に残っていて、夜の町だけが先へ進んでいた。




