第2話――「電話ボックスの曇り、4時きっかり」
1986年3月27日(木)。尚人〈22〉は、昨夜の『さざなみ』の匂いと笑い声を身体に残したまま、横須賀中央駅前のパチンコ屋へ向かう。本社研修(4月3日開始)までの空白を、町の中で埋め直す朝だ。開店前の列、乾いた空調、玉の金属音の中で尚人は台の癖を見極め、午前のうちに3台を打ち止めにして4万円を手に入れる。そのころ店に、男と女が連れ立って入ってくる。女の名は里香で、バッグから覗くマッチ箱には『PINK SALON パールライン』の文字がある。尚人は顔と距離だけを頭に入れ、店を出る。曇ったガラスの電話ボックスに入り、104で店の番号を引き、里香の出勤が「4時」であることを知る。尚人は「4時きっかり」と言い切り、商店街の匂いの中へ戻っていく。
(1986年3月27日木曜日)
翌朝、尚人は久しぶりにパチンコを打ちに行った。日付は1986年3月27日(木)で、本社研修開始日〈4月3日(木)〉までまだ少し間が空いている。昨夜、スナック『さざなみ』で感じたママの匂いと笑い声が、寝起きの身体に薄く残っていた。香水の甘さの奥に、煙草と酒の苦みが重なる。あの店に若い色男が出入りしているなら、早めに顔と癖を押さえておきたい。
駅へ向かう道には潮が混じる。商店街に入ると、魚屋の氷の白さが朝日を跳ね返し、濡れた床の生臭さが靴底にまとわりついた。惣菜屋の揚げ油が鼻を刺し、パン屋の湯気が歩道の上でほどける。『さざなみ』の看板は朝の光の中で妙に鮮やかで、夜の名残だけが薄くガラスに残っていた。
尚人は横須賀中央駅前の、照明が明るそうな店を選んだ。外壁の看板は色が強く、開店前でも入口の蛍光灯だけは点いている。9時に着くと並びはまだ短かった。空気は冷たいが、駅前は人が動くぶん風が生ぬるく、排気の匂いが混じる。尚人は列の先頭に立ち、腕を組まずに手をポケットへ入れた。指先に小さく汗が出るのを感じながら、視線だけで周囲を拾う。
10時までに30人ほどが並んだ。年配の男は新聞を折り、作業服の若い男は煙草をくゆらせ、主婦らしい女は手提げ袋を膝に抱えて黙っていた。店の前を通る電車の音が一瞬だけ膨らんで消え、誰かの咳で列の空気が軽く揺れる。尚人は入口のガラスに映る店内の光を見て、今日の台の古さを想像した。
10時、ドアが開いた。乾いた空調の風が顔に当たり、同時に玉の金属音が奥から押し寄せた。盤面のランプは直球の点滅で、煙草の残り香が空気に漂う。喋る声が自然に大きくなる場所だ。尚人は足を速め、何台かの台番号を頭に控えた。1台しか打てないが、打ち止めで終われば次へ移る。迷う時間が一番の損になる。
学生のころの尚人は朝から晩まで打ち、最低でも5台は打ち止めにした。店員に腕前を褒められた記憶もある。だから開店前に並ばないような男は大した相手ではない、と理屈では思う。だが目だけは探す。色男の姿が見当たらないと分かると、尚人は台の前に立ち、盤面の釘を一度だけ近くで確かめた。
狙いは天穴〈ヘソ〉だった。ここへ玉を寄せ、回転数を上げる。それだけがフィーバー台の攻略だと、尚人は身体で覚えている。ハンドルに指を掛け、打ち出しの強さを微調整し、玉の線を釘の森へ通す。玉が同じ癖で落ち始めると、台の性格が見えてくる。右に逃げる台か、風車で散る台か、素直にヘソへ寄る台か。1ミリの差が勝負を決める。
図柄が揃う瞬間は、耳が先に気付いた。周りの玉音が一拍だけ薄くなり、盤面の音が前へ出る。大入賞口が開いた。尚人の記憶では30秒開いていたはずだが、目の前の台は感覚として短い。15秒ほどで口が閉じた。規制の影が、盤面の動きにそのまま乗っている。それでも中央のチューリップへ玉が吸い込まれるたび、台が同じ動きを繰り返すところは変わらない。
箱が増えると腕に重みが乗った。玉の匂いは金属で、手のひらが黒くなる。打ち止め札が出ると店員が来て箱を引き上げる。尚人は午前のうちに台を替え、昼までに3台を打ち止めにした。交換所は店の横手の小窓で、客が短い列を作っている。窓口の向こうは薄暗く、声だけが淡々と返ってくる。景品を差し出すと紙の擦れる音がして、万札が4枚、折り目を揃えて戻ってきた。胸ポケットに入れると、紙幣の角がシャツ越しに硬い。
ちょうどそのころ、入口の方がざわついた。若い男が女を連れて入ってくる。男は27、8に見え、髪は整え過ぎず歩き方が軽い。女は20くらいで派手な色の服を着ていた。香水が店の煙草臭を一瞬だけ押し返し、ヒールの音が床に硬く響く。笑っているのに目が笑っていない。水商売の女だと、尚人は一目で分かった。
男は空き台を探しながら女の肩口へ顔を寄せた。「里香、こっちだ。今日は回る台を先に押さえる」里香は小さく頷き、バッグを膝に置いた。チャックが開く音がして、金縁のマッチ箱が覗く。『PINK SALON パールライン』。店の名刺代わりだ。里香は隠す気もなく煙草を1本抜き、男に火をねだった。
尚人は玉を打ち出しながら、視線だけで2人の距離を測った。並んでいるが肩は触れていない。男の目は台に速く走り、里香は店内の客をひととおり見て背筋の角度を決める癖がある。尚人はそれだけを頭に入れて席を立った。
店を出ると駅前の光がまぶしい。胸ポケットの万札は体温で少し柔らかくなっていた。商店街へ戻ると鰹だしの湯気と醤油の匂いが鼻へ入る。昨日の木の引き戸の居酒屋へ向かう途中、尚人は電話ボックスを見つけた。緑の箱はガラスが曇り、蝶番がきしむ。中へ入ると外の音が薄くなり、受話器のコードが触れ合う小さな音がよく聞こえた。
尚人は10円玉を入れ、104を回した。円盤ダイヤルが戻る音が、狭い箱の中で妙に大きい。
「104番です」
尚人は用件だけを伝えた。「横須賀の『PINK SALON パールライン』、番号をお願いします」
復唱のあと、数字がゆっくり告げられた。尚人はメモに書きつけ、そのまま店へかけ直した。呼び出し音が2回で切れ、軽い女の声が出る。
尚人は受話器を耳に当てた。「もしもし。今から行きたいんですが、里香チャンいますか」
「すみません。里香は4時出勤なんですよ」
「そうですか。じゃあ、4時きっかりに行きます」
女が少しだけ声を上げる。「お客さん、お名前頂戴できますか」
「早乙女尚人です」
「了解です。早乙女さんを最優先につけますので、4時きっかりにお願いしますね」
尚人は受話器を置いた。重みが手から離れると、ボックスの中の空気が急に軽くなる。ガラス戸を開けると商店街の匂いが一気に戻った。魚屋の氷の白さ、濡れた床の生臭さ、惣菜屋の揚げ油の甘さ、パン屋の湯気の熱が、順番に鼻へ入る。
尚人は居酒屋へ向かった。今日は飲んで食べるつもりだ。パチンコで4万円勝っている。手ぶらで行く気はしなかった。魚屋の前で干物の籠が目に留まり、鯵の開きが塩を吹いていた。紙で包むと潮の匂いが強くなる。尚人はそれを1つ選び、惣菜屋で小さな紙袋の珍味も足した。手に提げると重さは軽いが、匂いははっきりする。
木の引き戸の前に立つと、鰹だしの湯気が外まで滲んでいた。指で戸を引くと木が擦れ、店の熱と醤油の匂いが顔に当たる。カウンターの木は手の脂で艶が出て、短冊の一品書きが壁に並ぶ。尚人は紙袋を見えるように置き、席に腰を下ろした。今日はゆっくり飲める。
尚人が手土産を差し出すと、女将は一瞬だけ目を丸くし、すぐに満面の笑顔になった。「何だい。酒も飲まずに私を口説くつもりかい。まず1杯お飲みよ」
尚人も笑って返す。「そうだね。ビールをもらおうか。女将さんも1杯どうだい」
女将は冷蔵庫を開け、サッポロの大瓶を取り出した。瓶肌が白く曇り、指先に冷たさが貼りつく。栓を抜く金属音が鳴り、泡の匂いがふっと広がった。グラスを2つ並べて注ぎ、最後だけ手首を返して泡を揃える。
女将は先に一口含み、泡の跡を指で拭って笑った。「遠慮なくもらうよ。あんたのことは、なんて呼べばいいんだい」
尚人は名乗った。「早乙女尚人〈22〉です。京浜土地建物株式会社の新入社員です」
女将の手は止まらない。カウンターの向こうで皿が重なる乾いた音が続き、湯気が立ち上った。飯の白さ、味噌汁の熱、焼き魚の皮の香ばしさが揃うと、店の匂いがいっそう濃くなる。女将は膳を尚人の前に置き、ようやくグラスを持ち上げた。
「尚人、今はまだ休みなんだろ。研修は、いつからいつまであるの」
「4月3日から4月8日までです。4月10日から横須賀支店勤務になります」
女将は頷き、間髪入れずに聞く。「研修はどこでやるの」
「本社は品川にあります」
「その間はホテルかい」
尚人は少し考えて答えた。「品川プリンスホテルにしようと思っていますが、変えるかもしれません」
そこまで話したところで、外の引き戸が続けて鳴り始めた。昼前の波が来たのだ。油の弾ける音が強くなり、鍋の蓋が鳴り、注文の声が重なる。女将は笑顔のまま目だけを忙しく動かし、手を迷いなく働かせた。
尚人も箸を進めた。魚の身がほぐれ、脂が舌に広がる。味噌汁の熱が喉を通り、胃の底へ落ちる。ビールは冷たく、泡が唇に残った。床板がきしみ、皿が触れ合い、奥で誰かが笑う。外の商店街のざわめきは湯気の向こうで遠くなる。
尚人は食べ終えると手早く勘定を済ませた。女将は客の間を縫いながらも目だけで合図を返し、尚人は軽く頭を下げて店を出た。外へ出ると潮の匂いが戻り、昼の光が目に刺さった。
尚人はもう一度パチンコ屋へ戻った。扉を開けると金属音と煙草の匂いが体を包む。玉が盤面を走る音が絶えず、椅子の背がきしみ、床の振動が靴底に伝わる。
男はいた。島の中ほどの台に張りつき、肩だけを小さく揺らして盤面を見ている。煙が蛍光灯に薄く絡み、玉の音が腹の底まで震わせた。
里香もいたが、腰が落ち着かない。視線が台よりも通路へ流れる。里香は島の端の店内電話へ歩き、受話器を取った。10円玉が投入口へ落ちる硬い音がして、すぐに呼び出し音が続く。里香は用件だけを伝え、返事を待つあいだ床を見た。話が終わると受話器を戻し、何事もない顔でトイレへ入った。
数分たっても戻らない。男は台から目を離さず、背中も動かさない。里香だけが煙と光の中から消えた。尚人は玉を打ち続けた。焦りが指に出れば玉の筋が乱れる。回らない台ほど、心の乱れをそのまま映す。尚人はそれを嫌い、呼吸の速さを整えて耳の奥へ金属音を沈めた。
時計を見ると3時半を回っていた。尚人は3時45分で切り上げ、台から立った。外へ出ると空気は生ぬるく、店内の煙草臭が抜けたぶん潮の匂いが強く感じられる。通りの影が少し伸び、看板の電飾が点き始める前の薄い夕方が街に溜まっていた。
尚人は歩幅を崩さず、『PINK SALON パールライン』へ向かった。ガラスの奥には白い照明が溜まり、入口の影が濃い。腕時計を確かめる。4時きっかりに入る。そのためだけに、呼吸を一定にした。
この回は、尚人の「時間の使い方」と「金の扱い方」を、町の匂いと音で押し出している。開店前の列から始まり、盤面の釘、玉の筋、交換所の小窓へと場面が進むにつれて、尚人の目が何を見ているかが具体になる。大入賞口の感覚が記憶より早く閉じる描写は、時代の変化が遊びの場にも入り込んでいることを示し、尚人の感覚が1986年の現実へ寄っていく。電話ボックスは、外のざわめきから切り離された小さな箱として置かれ、円盤ダイヤルの戻る音が、尚人の決断をはっきりさせる。「4時きっかり」は約束ではなく、尚人が自分の呼吸を整える合図になっている。居酒屋の手土産、女将の反応、店の昼の波を挟んで、尚人はもう一度パチンコ屋へ戻り、里香が煙と光の中から消える場面を見届ける。人の癖と不在を観察し、時計に合わせて歩幅を崩さず店へ向かうところで、尚人が町を「生活の手触り」として掴み始めたことが分かる。




