第19話(後編)――「点検室の波音、横須賀の朝、さざなみの影」
※を押してから2を押した尚人は、冷房の音が消える感覚とともに移動し、海の塩気が混じる点検室で目を覚ます。
壁の手書きの「設置 1980」は叔父の癖と重なり、場が偶然ではないことを示す。コンクリートの揺らぎは通路ではなく、空間そのものが薄くなる穴であり、尚人は鞄の重みを確かめながらそこへ踏み込む。次に立ったのは畳と洗剤の匂いがする部屋で、鏡には若い自分が映る。日付は1986年3月26日水曜日で、これからの転居や研修、配属の予定が頭の中に並ぶ。さらに場面は横須賀の朝へ移り、尚人〈22〉は独り暮らしの台所で、米を研ぎ、アジを焼き、味噌汁を作り、だし巻きを巻く。海の町の匂いと食卓の音が、過去の時間を「暮らし」として立ち上げる。その後、朝の走りの途中で『スナック・さざなみ』の出入口にいる男女に出会い、若いツバメと、金を渡すママの横顔が、尚人の視線に引っかかって残る。
耳の奥が詰まった。冷房の低い音が遠ざかり、床の感触が一拍遅れて消える。目の前の光が裂けるように細くなり、喉の奥に金属の味が残った。
背中が硬いものにぶつかった。
尚人は息を吐き、しばらく動かなかった。鼻に入った空気が、さっきまでの部屋と違う。冷たく、湿っていて、塩の匂いが混じる。ゆっくり目を開けると、頭上は低い天井だった。むき出しのコンクリートで、壁には白い塗装がまだらに残っている。裸電球が1つぶら下がり、赤みがかった光が小さく揺れていた。
ここは部屋ではない。
海の底の空洞のような場所だった。
遠くで、鈍い衝撃音が続いている。波が外壁を叩いているのだと、体が先に理解した。コンクリートが低く鳴り、床のどこかで水滴が落ちる。足元を見ると、薄い水が床を細く走っていた。
尚人は起き上がった。鞄は手から離れていない。肩に重さが残っている。周囲を見回すと、四角い小部屋だった。壁の一方に鉄のハッチがあり、梯子が上へ伸びている。もう一方には、古い工具箱と、油の染みた布が積まれていた。
壁の塗装の端に、手書きの文字が残っている。
「設置 1980」
数字の書き方に見覚えがあった。叔父の癖だ。横棒を少しだけ長く引く、あの書き方だった。
尚人は息を整え、反射で背後を振り返った。
そこに、青い光があった。出入口という形ではない。壁の角のあたりで空気だけが薄くなり、冷たい青が、濡れたガラス越しの灯りのように滲んでいる。目を凝らすほど輪郭が逃げ、視線を外すと、また確かにそこに戻る。青は、来た道の名残のように見えた。
腕時計に目を落とす。秒針は動いている。だが、ここでは音がしない。波の衝撃と水滴の落ちる気配に、針の進みだけが浮いていた。
尚人は正面へ向き直った。
点検室の正面の壁だけ、様子が違う。コンクリートの表面が、わずかに揺れている。水面のように、空気が歪んでいた。その揺らぎの奥で、赤い光がかすかに脈を打っていた。裸電球の赤みとは別の赤だ。遠い車のテールランプを、暗い水の底から見上げるような色だった。
その前に立つと、風がゆっくり吸い込まれる。産毛が逆立ち、耳の奥がかすかに鳴った。穴だ、と直感した。扉でも通路でもない。空間そのものが薄くなっている。
背後で、また波が外壁を叩いた。
尚人はもう一度だけ青を見た。
青はまだある。だが、さっきより淡い。
まるで、来た時間がゆっくり閉じていくようだった。
尚人は鞄の取っ手を握り直した。ここに留まる場所はない。
ゆっくり一歩だけ踏み出す。
足が、赤い揺らぎに触れた。
◇ ◇ ◇
光が折れ、足元の感触が抜けた。身体の輪郭が一度ほどけ、次の瞬間には、乾いた空気が鼻に入った。
尚人が目を開けると、天井が違った。コンクリートの白さではなく、薄い板の色だ。空気は乾いていて、古い畳と洗剤の匂いがする。窓の外から、車の走る音が近い。ホーチミンの絶え間ないクラクションとは違い、規則正しい低い音が続いていた。
身体を起こすと、手が軽い。肩の動きが滑らかで、寝起きなのに関節が若い。壁際の小さな鏡に目を向けると、そこには40年前の自分が映っていた。頬の線が細く、目の下が軽い。髪も、今より勢いがある。
尚人は深く息を吸い、吐いた。胸の奥が妙に静かだった。身体の感覚は確かに若いのに、頭の中には2026年の記憶がそのまま残っている。
壁のカレンダーに目を向ける。印刷の色が少し褪せている。日付は1986年3月26日水曜日だった。尚人の頭の中で、予定が音を立てて並び始める。3月26日(水)に横須賀中央駅近くのアパートへ転居し、4月3日(木)から4月8日(火)まで京浜土地建物株式会社の本社研修に入り、4月10日(木)付で横須賀支店へ配属になる。そういう段取りだった。
尚人はもう一度息を吐いた。吐いた息が、古い部屋の匂いに混じって薄く消えた。手元には鞄があり、握った指先には、あのリモコンの硬さが残っていた。
◇ ◇ ◇
横須賀の朝は、窓を少し開けただけで分かる。潮の匂いが薄く入ってきて、遠くでエンジン音が低く続き、カモメが一声だけ空へ落ちる。尚人〈22〉は独り暮らしの部屋で、寝ぼけた目のまま台所へ向かった。冷蔵庫はぎっしり埋まっている。卵も肉も魚も野菜も、何でもある。選ぶだけだ。
今朝の献立は、炊きたてのご飯、アサリとわかめの味噌汁、アジの塩焼き、しらす入りのだし巻き、三浦野菜のサラダ、ヨーグルトに蜂蜜と柑橘、それと濃いめのコーヒーにした。朝から全部やるのか、と自分で思いながらも、手が動く。独身の胃袋は正直で、朝でも遠慮しない。
最初に米を研ぐ。水を張ってひと混ぜすると、白い濁りがぱっと広がった。指先が冷たくて目が覚める。ざるに上げ、もう1回だけ軽く洗って炊飯器へ。スイッチを押す音が乾いて、部屋の静けさに小さく響いた。
次は魚だ。冷凍庫から出しておいたアジは、半解凍の硬さがまだ残っている。塩を振ると表面が少し湿って、指に細かな粒が張りついた。グリルを予熱すると、金属が温まる匂いが立ってくる。そこへアジを滑り込ませる。しゅ、と音がして、すぐに脂の香りが鼻の奥をくすぐった。焼ける音は細かい泡が弾けるようで、台所が急に生き物みたいになる。
味噌汁は手早くいく。鍋にだしを張り、砂抜きしたアサリを放る。貝がカタカタとぶつかり合って、湯が温まるにつれ白い泡が縁に集まった。やがて貝の口がぱかりと開き、磯の匂いが立ち上がる。わかめを入れると、黒が一瞬で緑にほどける。火を止めて味噌を溶く。木べらで混ぜるたび、湯気が顔に当たり、肌がしっとりする。
だし巻きは、尚人が一番好きな作業だ。卵を3個割る。殻の割れる音が小気味よくて、黄身がとろりと落ちる瞬間に気持ちが整う。だし、醤油、砂糖を少し。箸で溶くと、液体がさらりと軽くなっていく。そこにしらすと刻みねぎを入れると、白と緑が散って、朝の色になる。卵焼き器を熱し、油を薄く引く。卵液を流した瞬間、じゅわっと甘い匂いが広がった。巻くたびに表面がふっくらして、箸先が柔らかい抵抗を返す。
サラダは冷蔵庫から野菜を出して、包丁を入れるだけだ。トマトは切ると汁が弾け、きゅうりは芯がしゃりっと鳴る。レタスはちぎると指先が瑞々しい。三浦の野菜は、火を入れなくても甘い。皿に盛って、オリーブオイルと塩、黒胡椒を軽く振る。胡椒の香りが鼻に立ち、眠気を追い払う。
盛り付けが終わる頃、ご飯が炊けた。炊飯器の蓋を開けると、白い湯気が顔にまとわりつく。米の匂いは、どんな香水よりも腹を動かす。しゃもじで返すと粒が立ち、手首に小さな重みが乗る。茶碗によそい、味噌汁の椀を置き、アジ、だし巻き、サラダ、ヨーグルト、そしてコーヒー。テーブルが一気に「朝」になる。
最初のひと口は味噌汁にした。唇に触れた瞬間、熱さがじんわり伝わり、喉の奥がほどける。アサリの旨味がしっかり出ていて、わかめがつるりと口の中を滑った。次にご飯を頬張る。粒がふくらんでいて、噛むたびに甘みがにじむ。独りの部屋でも、食べ物がちゃんとしているだけで背筋が伸びる。
アジの身を箸で割ると、白い蒸気がふわっと立った。皮は香ばしく、身はほろほろ崩れる。脂が舌の上で温かく広がり、塩気が追いかけてくる。大根おろしを添えると、辛味と水分が一緒に流れて、口の中が一度リセットされた。海の近い町の朝は、こういう味が似合う。
だし巻きは箸で持つと、ふるりと揺れた。噛むとふわっとほどけ、だしが舌に染みる。しらすの塩気がところどころで当たり、ねぎの香りが後から立つ。尚人は無意識に笑ってしまい、すぐに口を閉じた。独り言は小さく、冷蔵庫のモーター音に吸われた。
サラダを口に運ぶと、野菜の冷たさが歯に気持ちいい。トマトの酸味、きゅうりの青い匂い、レタスの軽い苦みが順番に来る。コーヒーをひと口飲むと、苦みが舌を締めて、朝が完成した感じがした。
最後にヨーグルトへ蜂蜜を垂らし、柑橘をひと房入れる。白の上に金色が細く流れ、果肉がぷるっと光った。酸味と甘みが一緒に広がり、口の中が静かに終わっていく。皿を見渡すと、きれいに空になっている。尚人は椅子にもたれ、窓の向こうの潮の匂いをもう一度吸った。横須賀の朝は、胃袋の底から整う。
◇ ◇ ◇
まだ、朝の7時だ。尚人〈22〉は水を一口飲み、喉の奥に残った味噌の塩気を確かめてから、軽く腹を叩いた。腹ごなしに走ろうと決めると、上着を羽織り、紐を結び直し、玄関の鍵を閉めた。外へ出た瞬間、海の湿り気を含んだ冷たい空気が鼻の奥へ入り、眠気の残りを一息で拭い取った。
横須賀中央へ向かう道は、まだ店の看板が眠っていた。アスファルトは夜の冷えを抱えたままで、足裏へ硬く返ってくる。呼吸が白くほどけ、胸の中で空気が乾いた音を立てた。遠くからエンジンの低い唸りが続き、車のタイヤが路面の水気を薄く擦る。走るたび、頬が軽く痛み、指先がじんと冴えた。
駅前が近づくと匂いが変わった。潮の匂いの上に、パン屋の甘い湯気と、缶コーヒーの自販機の熱い金属臭が重なる。シャッターの隙間から古い油の匂いが漏れ、紙ごみの湿り気が風に押されて流れた。尚人はペースを落とし、街を一廻りしてから商店街へ入った。早朝の通路は人が少なく、靴底の音が思ったより響く。自分の息だけが近くにあり、他人の気配が薄い分、空気が妙に澄んでいた。
ゆっくり進んだ先、とある商業ビルの1階で声が割れた。正面のガラス扉の横、薄暗い出入口の陰に、男女が向かい合っている。男の声は尖り、女の声は擦れていた。男は20代に見える。身長は170cmほどで背は高くないが、顔立ちは整い、髪はきれいに撫でつけられている。ジャージの襟を立て、片手をポケットに突っ込んだまま、もう片方で指を突きつけていた。
「がたがた文句を言わねえで金を出せよ。たった1万円ポッチじゃねえか。10も若い男をツバメにしてるんだから、当たり前だろ」
声がガラスに当たって跳ね、商店街の静けさの中へ嫌に残った。男の吐く息は煙草と甘い整髪料の匂いが混じり、近くを通るだけで鼻に刺さる。女はその前で肩をすぼめ、手提げのバッグを胸に抱えた。30代半ば、35か36に見える。髪は巻きが少し崩れ、まつ毛の黒さが夜の名残みたいに濃い。コートの襟元から香水がまだ立っていたが、そこに薄い酒の匂いと冷えた汗が混ざって、朝の空気に浮いていた。
「もういい加減にしてよ。今日だけだよ」
女は弱々しく言い、財布を探る指が震えた。指先の赤いネイルが、街灯の残り光に鈍く光る。女の背後には店の扉があり、看板の灯りは落ちているのに、金属のプレートだけが読めた。店名は『スナック・さざなみ』。黒地に銀の文字で、波を象った小さな模様が添えてある。扉の内側にはレースのカーテンが垂れ、奥にボトル棚の影が並んでいた。閉店後の煙草の匂いが、扉の隙間から細く漏れている。
男は札を受け取ると、すぐに数えもせずポケットへねじ込んだ。頬の筋肉だけが動き、笑いとも違う表情が浮かぶ。女は目を伏せたまま、唇を噛んで立っている。その横顔が、妙に整っていた。早朝の冷えの中で、肌だけが白く見え、首筋が細く、髪の香りがふっと届く距離だった。
尚人の身体は正直に反応した。走って温まった血が、別の方向へも流れたのが分かる。股間が敏感に跳ね、パンツの内側で居場所を主張した。尚人は反射的に腹の前へ腕を回し、ジャケットの裾を引き下げた。ごまかす動きは一瞬だったが、女の視線は鋭かった。ママが、尚人の手元へ一度だけ目を落とし、次に顔を上げた。目が合った。濃い睫毛の影の奥で、疲れと苛立ちと、微かな呆れが混ざっている。
尚人は知らぬ顔をした。足取りを崩さず、そのまま通り過ぎる。靴底がタイルを擦り、息が喉を鳴らす。背後では、男が舌打ちをし、女の吐く小さな溜息が冷えた空気に溶けた。『スナック・さざなみ』の扉の金属が、朝の光を拾って一瞬だけ光る。尚人は前だけを見て走り出した。胸の鼓動はまだ速く、鼻の奥に香水と煙草の匂いが薄く残った。
後編は移動そのものより、移動先の空気を確定させる描写が中心になる。点検室は波音と水滴で閉じ、そこから畳の匂いへ切り替わる。過去へ来た証拠は大きな事件ではなく、鼻に入る匂いと、体の軽さと、カレンダーの印刷の褪せ方で示される。横須賀の朝食の段は、食材の手触りと音で、1986年が「生活として回り始める」ことを押し出した。その直後に置かれる『スナック・さざなみ』の小さな揉め事は、町の湿り気と香水と煙草を残し、これから追うべき「女の影」を輪郭だけ先に見せる役目を担う。波の音から始まり、食卓で落ち着き、最後に人の匂いへ寄る。後編は、過去が舞台装置ではなく、手で触れる場所として固定される。




