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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第一章――「最上階の朝、甘い風」

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第20話――「通帳の桁、潮の残り香」

1986年の朝、尚人〈22〉は走って汗を落とし、無記名の現物債〈総額面30億円〉を鞄に入れて銀行へ向かう。冷房の乾いた空気と紙の匂い、スタンプの音の中で換金と入金が進み、通帳には30,000,000,000円の残高が刻まれる。そこで声をかけてきた資金運用係長・杉浦真弓が、横須賀と都内の物件を20億円にまとめ、月の賃貸料手残りを1,000万円へ落とし込む。手続きが終わると残高は10,000,000,000円になり、尚人は潮の匂いが戻る駅前へ出る。商店街の朝の匂いの中で『スナック・さざなみ』の影を見つけ、腹を満たしてから2階のジムへ上がることを決める。

 ランニングを終えて戻ると、尚人〈22〉は靴を脱いだまま、胸の上下だけを落ち着かせた。汗は乾ききらず、背中と首筋に薄い膜が残っている。窓の隙間から潮の匂いが入ってきて、体温に触れた瞬間だけ濃くなる。


 浴室でシャワーを浴びた。配管が1度鳴り、冷たい水が先に落ちてから湯へ変わる。肩に当たる水圧が皮膚を叩き、汗が筋になって流れた。石鹸の泡は柑橘の匂いが立ち、指で髪を梳くたび、耳の裏がくすぐったい。湯を止めると、浴室の静けさに自分の呼吸だけが返ってきた。


 タオルで拭き、スーツに着替える。布が肩を軽く締め、襟の硬さが首筋を整える。ネクタイを結び、鏡で結び目を直した。机の引き出しには現金が500万円ほどある。封筒の角が揃い、紙の乾いた匂いがした。尚人は引き出しを閉め、鍵を掛ける。


 鞄を開け、無記名の現物債〈総額面30億円〉を確かめた。紙の角が揃っていて、持つとずしりと重い。革の取っ手が掌に馴染み、重みが現実の感触として頼りになった。


 横須賀中央の駅前へ向かう。朝の光は低く、舗道は夜の冷えを抱えたままだ。パン屋の甘い湯気が鼻の奥に触れ、バスの排気が潮の匂いと混ざる。靴底が乾いた音を立て、スーツの裾が膝に擦れた。


 都市銀行の回転扉を抜けると、冷房の乾いた空気が頬に当たった。紙とインクと、磨かれた床のワックスの匂いが混ざっている。スタンプの打音が一定の間隔で続き、カウンター越しに書類が流れていく。


 尚人は窓口に鞄を置き、債券の束をそっと出した。紙が台に触れる音は小さいのに、周囲の空気が一瞬だけ固くなった。行員の目が券面の数字を追い、息が止まる。


 「少々お待ちくださいませ」


 内線の呼び出し音が1回鳴り、奥で椅子が動く。数分後、支店長が現れた。笑顔を作りながら、目だけが束へ吸い寄せられている。


 「早乙女尚人様でいらっしゃいますね。本日はご来店ありがとうございます。こちらは無記名の現物債で、総額面は30億円でございます」


 支店長は声の調子を崩さず、債券の束を両手で受けた。指先は丁寧に角をそろえ、券面を傷めない力で持つ。角度を変え、窓際の光へ透かして透かしと地紋を追う。紙が擦れる音が応接の静けさで目立ち、遠くのスタンプの打音が一定の間隔で続いた。確認が終わると、支店長は小さく息を入れ替え、尚人の前へ書類を滑らせた。


 署名欄にペン先を落とすと、紙がわずかに沈み、インクの匂いが近くなる。支店長の背後で、行員が内線で手早くやり取りをし、椅子が動く音がした。換金の手続きが進み、現金はそのまま普通預金へ入った。


 支店長が新しい通帳を差し出した。表紙は硬く、紙の匂いが新しい。尚人が窓口脇の記帳機に通すと、ガリ、と乾いた音がして、数字が1行ずつ刻まれた。


 普通預金 残高 30,000,000,000円


 尚人は印字面を見て、通帳を閉じた。鞄の内側へ収め、金具を軽く押さえて音を立てないようにした。


 「差し支えなければ、定期預金もご検討いただけませんでしょうか」


 支店長の声は柔らかいが、言葉の端に焦りが混じる。尚人は首を横に振った。


 「急に金を動かす必要が生じるかも知れないので、今は普通預金にしておきたい」


 立ち上がって出口へ向かいかけたとき、背後から呼び止められた。


 「早乙女様、少々よろしいでしょうか」


 振り向くと、名刺を差し出す女性が立っていた。20代前半に見える。紺のスーツが体に合い、白いブラウスの襟が清潔に光る。近づくと、石鹸のような匂いに、わずかな甘さが混じっていた。笑みは大きいが、目は静かで、距離を詰めすぎない。


 資金運用係長。杉浦真弓(すぎうら まゆみ)


 「少しだけ、お時間を頂戴できますか」


 尚人は頷いた。杉浦に案内され、運用室へ入る。絨毯が足音を吸い、空気は乾いている。机の上には都内地図と物件資料が並び、紙の端がきっちりそろっていた。電卓が置かれ、窓のブラインドが朝の光を細く切っている。


 杉浦は椅子に座ると、間を置かずに話を切り出した。


 「普通預金に30億円のまま置くのは、効率が悪いです。早乙女様は、賃貸物件の買収をお考えですか?」


 「それは良いかも知れない。やるとすれば20億円は商業ビルと賃貸ビルの買収に使う。10億円は普通預金に残しておく。動くときに迷わない金も要るからな」


 尚人の声は淡いが、言い切り方に揺れがない。杉浦は一度だけ小さく頷き、資料を手早く入れ替えた。


 「承知しました。品川は駅徒歩圏で1棟、横須賀は早乙女様がお住まいのアパートを一棟、その他は都内で収益が安定する物件を複数、合計で20億円にまとめます。名義と抵当の当たりは済ませています。権利関係は単純です」


 杉浦は最初に横須賀の資料を出した。外観写真、戸数、家賃の一覧が並ぶ。紙の上の数字を追うと、尚人の頭に、階段の鉄の冷たさと、壁の薄い塗料の匂い、夜に聞こえる冷蔵庫の唸りが戻ってくる。住んでいる部屋が、賃料を生む建物として整理されていく。


 「横須賀は一棟でまとめて買えます。購入額は2億5,000万円。現状の稼働率で表面年9%台です。抵当の縛りはありません」


 次に品川の資料が出る。地図の上に赤鉛筆で小さな丸が付けてある。駅からの距離、道路の幅、周辺の飲食店と事務所の並びが一覧になっている。


 「品川は駅徒歩8分。ファミリー向け中心です。購入額は4億5,000万円。表面年5%台で、稼働が安定しています」


 杉浦はそこで都内地図を広げ、残りの資料を順に置いた。物件は都内の賃貸ビルが4棟で、場所は分散している。どれも築年数は古いが、駅から歩け、空室が長引きにくい型だ。


 「都内は4棟です。合計で13億円です。いずれも一棟買いで、管理は外部委託に回せます。ここまでで買収総額がちょうど20億円になります」


 杉浦が電卓を叩く。乾いた打音が室内に響いた。


 「この6棟の表面年間賃料収入は概算で約1億4,500万円です。ここから管理費、固定資産税、保険、共用部の費用、定期清掃、空室の見込み、修繕の積立を差し引きます。控えめに見積もっても、実質の年間手残りは1億2,000万円を確保できます」


 杉浦は数字の列を指で押さえ、尚人の顔を見た。


 「月に直すと1,000万円です。早乙女様が残される普通預金10億円は、修繕や空室の波、次の買い増しのための待機資金として残します。収益は物件で作り、預金は手を出す順番を守るために置きます」


 尚人は椅子の背に軽く体重を預けた。冷房の乾きが喉の奥へ入り、さっきまでの体の熱を落ち着かせる。


 「いい。手続きを進めろ」


 杉浦は買付書と振込指示書をそろえた。紙は少し厚く、署名欄がまっすぐ並ぶ。尚人がペンを持つと、指先に重みが乗り、書くたびにペン先が紙を掴む。インクの匂いが微かに立った。


 支店長と行員が出入りし、必要書類が次々に整う。印鑑証明、本人確認、預金口座の控え。スタンプの音が何度も続く。書類の束が重なり、ホチキスの針が光る。振込は6本になった。横須賀、品川、都内4棟。合計20億円が、通帳から確実に外へ出ていく。


 杉浦が封筒を差し出した。


 「キャッシュカードは本日、仮カードをお渡しできます。正式カードは後日郵送です」


 封筒の紙がさらりと乾いていて、角が掌に当たる。尚人は受け取り、鞄の内側へ収めた。


 最後に記帳機へ通帳を差し込む。ガリ、と同じ音がして、数行が増えた。尚人は印字が止まるのを待ち、通帳を引き抜いた。


 普通預金 残高 10,000,000,000円


 10億円が残っている。紙の薄さは変わらないのに、残った桁が現実の余裕として効いてくる。尚人は通帳を閉じ、鞄の口をきっちり留めた。金具が触れ合って小さく鳴った。


 銀行を出ると、潮の匂いが戻ってきた。駅前は人が増え、バスの排気が朝の空気に混ざる。尚人はスーツの襟を指で整え、歩き出した。


 毎月賃貸料として1,000万円が手に入る。預金には10億円が残る。尚人は歩き出しかけて、窓口の脇でいったん立ち止まった。冷房の乾いた風がスーツの袖口に入り、磨かれた床の冷えが靴底に返ってくる。紙とインクの匂いに、ワックスの匂いが薄く重なり、スタンプの打音だけが一定に続いていた。


 尚人は鞄の内ポケットから小さなメモ帳を出し、ペンを開いた。白い紙の中央に1本、まっすぐ線を引く。左に『本日の振込』、右に『次の買い増し』と書いた。左には横須賀2億5,000万円、品川4億5,000万円、都内4本で13億円と、順番に並べる。合計が20億円であることを最後に書き、線の下に残す10億円とだけ記した。


 右には、月に1,000万円と書く。下に矢印を引き、次の買い増しに回す、と添えた。


 ◇ ◇ ◇


 銀行の回転扉を抜けた瞬間、冷房の乾いた空気が切れて、潮の匂いが鼻の奥へ戻ってきた。通帳は鞄の内側で動かず、残高の数字だけが頭の隅に貼り付いている。普通預金に残ったのは10億円だった。

 肩の力が落ちた途端、胃の底が遅れて鳴った。空腹は痛みではなく、身体が次を求める、乾いた合図だった。


 商店街へ入ると、朝の気配が急に濃くなる。魚屋の前には氷の白が盛られ、濡れた床に鯖の匂いが落ちている。惣菜屋の揚げ油が甘く鼻を刺し、パン屋の湯気が歩道の上でゆっくりほどけた。すれ違う人の息はまだ浅く、ジャージ姿の学生が自転車で風を切る。尚人はその流れを避けるように、端を歩いた。


 さっき見かけたスナックの看板が、朝の光の中で妙に鮮やかだった。『さざなみ』。青い文字が濡れたガラスに映って、夜の名残を薄く残している。

 その隣に、木の引き戸の居酒屋があった。赤提灯は畳まれ、代わりに「定食あります」と墨の札がぶら下がっている。見上げると、古い5階建ての雑居ビルで、2階の窓にロープが張られ、グローブの影が揺れていた。ボクシングジムだ。


 尚人は、腹と肩の順番で決めた。先に食べる。次に殴る。

 引き戸を開けると、鰹だしの湯気が顔に当たり、炊けた米の匂いが奥から押してきた。畳と醤油と、鉄板の熱。小さな店で、カウンターの木は手の脂で艶が出ている。壁には短冊の一品が並び、海鮮の文字が多い。白い湯のみが伏せてあり、湯気で曇ったガラス越しに朝の商店街が滲んで見えた。


 「いらっしゃい」


 女将が出てきた。40くらい。髪はきちんとまとめ、腕まくりした手首がしっかりしている。声が明るく、目がよく動く。笑うと頬に柔らかさが出て、面倒見の良さがそのまま顔に出た。


 「座りな。定食でいいかい」


 尚人はカウンターに腰を下ろし、鞄を足元へ置いた。革の取っ手が床に触れる音が小さく鳴る。


 「お願いします。魚がいいです」


 女将は炊飯器の蓋を少し開け、湯気を確かめるように頷いた。そこでふと、手を止めて聞いてきた。


 「お酒はいらないのかい?」


 尚人は笑った。喉が渇いているのに、口が酒を欲しがらない。身体が先に答えを出している。


 「飯を食ってから2階のボクシングジムに行きたいんだ。酒はよく飲むけど、トレーニング前に飲むのは、さすがに失礼だろ」


 女将は目を細めた。笑いながら、肩を軽くすくめる。


 「そりゃそうだね。あんた、立派なガタイしてるよ。向いていそうだ」


 言い方がいやらしくない。褒めるのが癖になっている人の、自然な温度だった。尚人の胸の奥が、すっと軽くなる。


 定食が出てきた。白い湯気の立つ飯、味噌汁、焼き魚、漬物、小鉢。焼き魚の皮はぱりっと張って、箸を入れると身がふわりとほどける。脂が舌に広がり、塩が後から追いかけてくる。味噌汁はわかめの海の匂いがして、熱が喉をまっすぐ下りた。小鉢の酢の物が口を締め、次の一口がまた旨くなる。


 女将はカウンター越しに、尚人の食べ方を見ていた。米を残さず、味噌汁を最後まで飲む。箸の運びが早すぎず、遅すぎない。よく働く男の食べ方だとでも言いたげに、満足そうに頷く。


 「いい食いっぷりだね。朝から走ってきたのかい」


 「走った。腹が空いた」


 それだけ言うと、女将がまた笑った。笑い声に油の匂いが混じり、店が少しだけ温まる。


 尚人は、妙な感覚に気づいていた。女将の目線が、商売の愛想だけで終わっていない。肩幅、腕、背中の厚み。そこに遠慮のない好意が混じる。母親のように世話を焼きたがる温度と、女の目が同時にある。


 懐かしい、と尚人は思った。

 精神は62だ。だが鏡に映るのは22の若造で、肌も目も、まだ疲れの置き場所を知らない。歳を重ねるほど、こういう好意は自然に減っていった。声をかけられる側ではなく、かける側に回る時間が増えた。

 今は逆だ。店の空気が先に近づいてくる。若さが勝手に道を作る。これは、久しく触っていなかった感触だ。


 尚人は、湯のみの水を飲んだ。冷えた水が舌に当たり、腹の熱を少し落とす。胸の奥に、薄い嬉しさが残った。羨ましいというより、取り戻した、という手触りだった。


 「ごちそうさま。うまかった」


 「また来な。今度は終わってから一杯だ」


 女将はそう言って、伝票を指で押さえた。指の動きが速く、迷いがない。尚人が代金を出すと、女将は釣り銭をきっちり揃えて返した。紙幣の端が揃い、指先で擦れる音が乾いている。


 尚人は鞄を持ち、店を出た。引き戸を閉めると、外の音が一気に戻る。商店街のざわめき、遠いバイクの排気、潮の匂い。

 ビルの階段へ足を向ける。2階から、革の擦れる音がかすかに落ちてくる。グローブを叩く、乾いた衝撃。ロープがきしむ音。


 尚人は一段目に足をかけた。腹は満ち、身体は軽い。

 この世界にいる限り、しばらくはこの感覚を味わえる。そう思うだけで、足取りが少しだけ速くなった。

数字が生活の中でどう「動くか」を、匂いと音で追っていく。シャワーの配管音から始まり、銀行のワックスとインクの匂い、記帳機の乾いた音、スタンプの打音が続くことで、通帳の桁が現実の重さとして立ち上がる。杉浦の説明は買う額と残す額、毎月の手残りを一枚の地図に落とすように整理して、尚人の判断を早める。後半は潮の匂いが戻る街へ出て、魚屋の氷や揚げ油の匂い、看板の色、グローブの影へつながり、金の話がそのまま身体の話に移っていく。『さざなみ』の名残と、若さに反応する周囲の目が、次に追うべき女の輪郭を薄く残して終わる。

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