第19話(前編)――「ルビー・ルームの噂、過去の手触り」
譲渡の手続きがまとまり、尚人は「鳴海を殺した女」の足跡を追うため、タオディエンのラウンジ『ルビー・ルーム』へ向かう。店の女の子たちの記憶から出てくるのは、フランス人の若い女の存在と、酔うと口にした妙な冗談である。『過去に戻れるリモコンを持ってる』。軽口として流されるはずの言葉が、尚人の中では重さを持つ。夜、帰宅した尚人はリエンとミン・ハと湯に浸かり、前回越えられなかった一線を、今度は母の手助けを借りて慎重に越えていく。身体の熱と生活の匂いが落ち着いた後、深夜に階下から金具の音が上がり、尚人は空き部屋へ足を向ける。そこに現れた鳴海は、納戸に「それ」があると言い切る。埃の匂いの中で見つかった黒い樹脂の塊と、破れた仕様書が、噂を現実の手触りへ変えていく。
(2026年1月19日月曜日。夕方)
リエン〈40〉とミン・ハ〈24〉への持ちビルの譲渡の話がまとまり、尚人は気になっていた女の足跡を確かめるため、タオディエンのラウンジ『ルビー・ルーム』へ向かった。スクーターのシートは昼の熱をまだ抱えていて、腰を下ろした瞬間に薄い汗が背中へ広がった。時計の針は午後4時半を指していた。
1区の通りは、夕方の光に少しだけ角が立っていた。排気の匂いが鼻の奥に残り、屋台の甘い油の匂いがその上に重なる。信号で止まるたび、ヘルメットの内側に熱がこもり、頬を伝う汗が顎先へ落ちた。川沿いへ近づくと風が湿り、肌の表面が薄い膜で覆われたように感じた。
『ルビー・ルーム』の入口は、外の明るさと切り離されたように暗かった。扉を押すと冷房の乾いた空気が頬に当たり、汗の熱が一気に引いた。香水と酒と、磨かれた木の匂いが混ざっていた。カウンターの奥でグラスが触れ合い、氷が乾いた音を立てた。
尚人は席に着き、先に酒を頼んだ。話を急がないためだ。店の女の子たちは、最初は軽い世間話で様子を見た。尚人が余計な詮索をしない客だと分かると、彼女たちの口調は少しだけ柔らかくなった。
「前に、ここにフランス人の子がいたと聞いた。覚えている人はいるか」
何人かが顔を見合わせ、1人が肩をすくめて笑った。笑い方が、思い出の距離を測っているようだった。
「綺麗だったよ。体つきも目立った。砂時計みたいで、立ってるだけで客が寄ってきた」
別の子が、指先で自分の首筋を叩いてみせた。
「お酒が入ると、冗談が大きくなるタイプ。『過去に戻れるリモコンを持ってる』って、笑いながら言ったことがある。誰も本気にはしなかったけど、言い方だけ妙に真面目だったんだよね」
尚人は頷くだけにして、話を先へ運ばせた。どんな酒を好んだか。酔う早さ。口癖。誰と仲が良かったか。出勤の時間帯。香水の匂い。店の子たちは、答えを探しながらも、記憶の底から少しずつ拾い上げた。笑い声の間に、急に声が落ちる瞬間があり、そこで尚人は一言だけ返して先を促した。
店を出たのは夜になってからだった。冷房に慣れた肌へ外の湿気がまとわりつき、喉の奥に甘い酒の余韻が残った。街の光は濡れた路面に伸び、バイクの尾灯が途切れず流れていく。尚人はスクーターを走らせながら、断片を頭の中で並べ替えた。冗談だとしても、同じ言葉を口にするには理由がいる。理由の形を掴むまで、今夜は焦らないと決めた。
自宅に戻ると、時計の針は午後11時を過ぎていた。静かなリビングで待っていたのは、リエン〈40〉とミン・ハ〈24〉だった。ふたりの顔には、長い待ち時間の焦りよりも、安堵がにじんでいた。尚人が靴を脱いだ瞬間、ミン・ハが水の入ったグラスを差し出した。掌越しに伝わる体温が、今日の疲れを柔らかく溶かしていった。
家族風呂に並んで浸かった。湯気が頬を撫で、石鹸と湯の匂いが混ざる。ミン・ハの細い肩をリエンがそっと抱き寄せ、尚人はその背中を静かに撫でた。水面の揺れが体の熱を伝え合い、言葉を交わさずとも心がほどけていく。湯上がりのテーブルには、塩気のある小皿と果物、冷えた酒瓶が並んだ。口にした酒が、胸の奥でゆっくり熱に変わっていく。
やがて寝室の明かりが落とされる。静かな部屋で、尚人はミン・ハの髪をそっと撫で、リエンは娘の手を取り、細やかに指先をほぐした。前回は、尚人の身体が大きすぎてミン・ハを傷つけてしまうのではと、最後の一線を越えることができなかった。ミン・ハも尚人も、どこか戸惑いが残ったままだった。
だが今夜は違った。リエンが母としての優しさでミン・ハをリードし、不安や痛みを先回りして受け止めた。ミン・ハはリエンの支えに身を任せ、呼吸を合わせるうちに、緊張が少しずつほどけていく。尚人もまた、焦らずに、二人の様子を細かく気遣いながら、静かに寄り添った。
その時間は、嵐のように激しく、けれどどこか穏やかだった。ミン・ハは、初めて自分の身体が尚人をしっかりと受け入れたことを実感し、湧き上がる衝撃と歓びが心と体を貫いた。リエンは娘の額に口づけし、尚人を見て小さく微笑んだ。
全てが終わった後も、ミン・ハは胸の奥に暖かい余韻を抱き、母と尚人に静かに寄り添っていた。遠くで冷房の音だけが流れ、三人は同じシーツの下、今日の出来事を噛み締めながら、ゆっくりと眠りについた。
◇ ◇ ◇
その日の深夜、階下からガタガタと乾いた音が上がってきた。建物のどこかで金具が震え、床を引きずるような擦れが断続的に続いた。冷房の低い唸りは部屋に広がっているのに、階下の音だけがはっきり耳に残った。
リエン〈40〉とミン・ハ〈24〉は眠っていた。寝息は深く、湯上がりの石鹸と酒の匂いがまだシーツに残っている。昨夜の疲れも安堵も、そのまま眠りへ沈んでいるようだった。尚人だけが目を開けたまま、天井の暗さを見ていた。夕方『ルビー・ルーム』で聞いた言葉が、頭の中で繰り返されていた。『過去に戻れるリモコンを持ってる』。
音がもう一度、下で鳴った。壁の中を伝ってくるような小さな響きで、空き部屋のほうから来た気がした。尚人はベッドを抜け、裸足のまま廊下へ出た。タイルが冷たく、足裏が縮む。照明を点けると、白い光が静かに広がり、影が角に溜まった。
鳴海の住んでいた部屋の前で立ち止まる。ドアノブはひやりとしていた。鍵を回す音は小さいのに、夜の静けさの中では妙に大きかった。扉を開けると、部屋の空気が少し違う。埃っぽさと、湿った布の匂いが混じり、使われていない部屋の匂いがした。
部屋の奥に、鳴海がいた。光の薄い場所に立ち、輪郭が先に見える。表情は読み取れないのに、視線だけがこちらを捉えていた。尚人は息を整え、声を落として話しかけた。
「鳴海。お前を殺した女が、酔ったときにこう言っていたそうだ。『過去に戻れるリモコンを持ってる』」
「心当たりはないか」
鳴海は一瞬、動きを止めた。次の瞬間、声が弾んだ。
「あります。ありますよ。納戸にあります」
尚人は廊下へ戻り、納戸の扉を開けた。戸は少し重く、開くと乾いた埃の匂いがむっと来た。段ボールの角、使っていないタオル、古い工具箱。手を伸ばすたび、紙の端が指先に当たり、ざらりとした感触が残った。
棚の奥に、毛布が丸めて押し込まれていた。尚人は毛布を引き出し、下にあった工具箱をずらした。箱の陰に、黒い樹脂の塊が隠れるように置かれていた。テレビのリモコンに似ているが、少し厚く、妙に重い。手に取ると、冷たさが掌に貼りついた。
尚人はそれを持ったまま、居間の灯りの下へ移動した。裏蓋を外すと、薄い紙が折って入れてあった。仕様書らしきものだ。紙はわずかに黄ばんでいて、インクの匂いが古い。印字は簡素で、命令だけが並んでいる。
行きたい年代を押せ。
尚人は指先で、1、9、8、6と順に押した。ゴムが沈み、戻るたびに小さく鳴る。次の行に注意書きが続いた。
「※を押してから1を押す」と、そのままの身体で行ける。
「※を押してから2を押す」と、押した年代の身体で行ける。
その先は途切れていた。紙の端が不自然に裂けている。場所についての説明はない。尚人は紙を指で押さえ、もう一度だけ読み直した。呼吸の音が、部屋の静けさに混じった。
「……普通は「※を押してから2を押す」だな」
独り言は小さく、すぐに冷房の音に吸われた。尚人は寝室の金庫へ行き、用意していた鞄を引き出した。中には、1986年より前に発行された無記名の現物債が入っている。額面合計は30億円分だ。銘柄ごとに薄紙で巻かれ、束はひもで固く縛ってあった。券面は少し黄ばみ、印刷の線も古いが、角は揃っている。持ち上げると紙の厚みが指先に残り、ずしりと重い。革の取っ手が手に馴染むのが、現実の感触として頼りになった。
リエンとミン・ハの寝息は変わらない。尚人は2人の顔を一度だけ確かめ、足音を殺して鳴海の住んでいた部屋へ向かった。
夜の廊下は冷え、遠くでバイクの音が細く続いている。納戸に入った尚人はリモコンを握り直し、※を押してから2を押した。リモコンは納戸に残り、尚人は、鞄ごと消えた。
前半は『ルビー・ルーム』の乾いた冷房と、路上の湿った排気の匂いから始まり、噂話が少しずつ形を持っていく。女の子たちの言葉は軽いが、尚人は頷くだけで受け止め、断片を並べ替えていく。中盤は家庭の場面に移り、湯気や石鹸、酒の余韻の中で、3人の距離が「ためらい」から「受け入れ」へ変わる。その直後に入る金属音が、温度の違う影として効いている。納戸の埃と紙のざらつき、樹脂の冷たさが、過去へ降りる入口を生活のすぐ隣に置いた。噂はまだ噂のままだが、手に取れる重さになった時点で、尚人の選択は次へ進む。




