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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第一章――「最上階の朝、甘い風」

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第18話――「蒸籠の湯気、朱肉の赤」

ミン・ハが部屋を出たあとの最上階で、リエンは蒸籠の朝食を運び、尚人と並んで食卓を整える。昨夜のことを確かめる会話は、ミン・ハの体調への気づかいに触れ、リエンが次は支える側に回る意思を見せる。そこから尚人は話題を切り替え、ホーチミンの持ちビルを1棟ずつ生前に譲ると告げ、名義変更まで今日中に進めると言う。ただし条件として、リエンは夫と別れ、ミン・ハは彼氏と別れることを求める。蒸籠の湯気が上がる中で、2人は沈黙ののちに受け入れ、公証人が入り、朱肉と署名で「暮らしの形」が紙の厚みに変わっていく。後半は場面が変わり、ある女の独白が続く。タオディエンで暮らしながら、男を殺して装置とノートを奪い、さらに保険金目的で鳴海を転落死させて3億円を得る。しかし追及が迫り、彼女は逃げ道として装置を使い、1986年の久里浜へ降り立つ。第18話は、最上階の「現在」と、過去へ降りる「別の女」を並べ、同じ都市の空気の中で違う生き方が走り出す回になっている。

 ミン・ハが部屋を出ていってから、リビングは急に広くなった。窓の外では、朝の1区がすでに動き出している。バイクの短いクラクションと、路地に落ちる水の音が、ガラス越しに薄く混ざった。冷房の風は乾いていて、革張りのソファの表面はひんやりしていた。


 リエン〈40〉は、両手で大きなトレーを抱えて入ってきた。蓋をした椀から湯気が漏れ、白い蒸気に混じって、生姜と豚肉の匂いがふわりと広がった。竹の蒸籠はまだ温かく、指先に木の湿りが残る。小皿のオイスターソースは黒く艶があり、青梗菜の緑が朝の光に映えた。


 尚人はソファの端を少し詰めた。リエンが隣に腰を下ろすと、布地がかすかに鳴り、彼女の髪から石鹸と、料理の湯気の匂いが近くなった。尚人は彼女の肩に腕を回し、一度だけ抱き寄せた。リエンは笑って、唇を寄せる。口づけは長くはないが、指の力がほどけるまでの間、互いの呼吸だけが耳に残った。


 ローテーブルの上には、白い粥がとろりと揺れている。皮蛋の黒い欠片が散り、豚肉の細い筋が沈んでいた。匙を入れると、湯気が顔に当たり、米がほどけた音が小さくする。蝦餃は透ける皮の中に海老の赤が見え、箸で持ち上げると柔らかく弾んだ。ミルクティーは濃い紅茶の香りの奥に甘い乳の匂いがあり、口に含むと舌の上で丸く広がった。


 リエンは粥を口に運びながら、尚人の横顔を覗き込んだ。瞳は冗談めかしているのに、声は少しだけ真剣だった。


 「尚人さん。昨夜のことを聞いてもいいですか。ミン・ハ〈24〉に、好きだと伝えてくれましたか」


 尚人は頷き、箸を置いた。ソファの背に預けたまま、リエンの指先を軽く握る。


 「うん、ちゃんと言った。ミン・ハも受け止めてくれた」


 リエンは一度だけ視線を伏せ、口元に笑みを残したまま、耳たぶを指で触った。照れ隠しの癖のようだった。


 「尚人さん、昨日は……ミン・ハ、無理はしていませんでしたか。痛がっていなかったか心配で。次は私も手伝いますから、遠慮なく言ってください」


 尚人は苦笑し、ミルクティーのグラスを置いた。氷は入っていないのに、ガラスが手の汗を少しだけ冷やした。


 「無理はさせていない。途中で止めた。まだ身体が慣れていないし、痛みが出そうだった。時間をかければいい」


 「次は、リエンにも手を貸してもらいたい。頼む」


 リエンは「そう」とだけ言い、尚人の胸に頬を寄せた。髪が頬に触れ、さらりとした感触が残る。尚人は彼女の背中を撫で、指先で肩甲骨の形を確かめるようにゆっくり動かした。リエンはそのまま、もう一度だけ唇を重ねてくる。ミルクティーの甘い匂いが、呼気の熱に混じった。


 尚人は息を整え、声の調子を変えた。柔らかさは残しつつ、言葉の芯をはっきりさせる。


 「それで、2人に話がある。これからのことを、今日のうちに形にしておきたい」


 リエンは顔を上げた。箸を持つ手が止まり、蒸籠の中の蝦餃から湯気だけが上がり続けた。


 「ホーチミンの持ちビルが数十棟ある。その中から、お前たち1人ずつに1棟、生前に譲る。名義も変える。前から決めていて、今日は手続きを進めるだけだ」


 リエンの喉が小さく鳴った。信じられないという顔が先に出て、次に喜びが追いかけてくる。だが、尚人は続けて言った。


 「ただし条件がある。リエンは亭主と別れてくれ。ミン・ハには彼氏と別れるように伝えてくれ」


 部屋の空気が一瞬だけ固まった。冷房の風の音が目立つ。窓の外のクラクションが遠くで鳴り、現実が戻ってくる。リエンは唇を開きかけ、言葉を飲み込んだ。指先が震え、湯気で湿った箸を持ち直す。目だけが、尚人の表情を探った。


 尚人は視線を逸らさなかった。押しつける声ではないが、引かない声だった。リエンは深く息を吸い、鼻に入った生姜の匂いで少しだけ落ち着いたのか、背筋を正した。


 「分かりました。少しだけ、時間を下さい。ミン・ハを呼びます」


 リエンはソファから立ち上がり、足音を抑えて廊下へ出た。階下へ向けて名を呼ぶ声は、普段の家の声だったが、どこか上ずっていた。数十秒が長く感じられた。尚人はローテーブルの上を整え、蒸籠の蓋を閉めた。竹の蓋が「こつ」と鳴り、湯気が一度途切れた。


 やがてミン・ハ〈24〉が入ってきた。髪はまだ少し湿っていて、頬に寝起きの赤みが残っている。母の横に立ったまま、尚人とテーブルを見比べた。豪華な朝食の匂いと、部屋の静けさが、彼女の警戒心を薄く揺らす。


 リエンは尚人の言葉をそのまま伝えた。譲渡の話、条件の話。言い終えるころには、彼女自身が信じ切れていないのか、声が少し震えていた。ミン・ハは口を開けたまま固まり、目だけが何度も瞬いた。唇の端に、笑いにも泣きにもならない力が入っている。


 「そんな……本当ですか」


 尚人は頷いた。簡単に、しかし迷いなく。


 「本当だ。書面にする。今日の夕方までに終わらせる」


 ミン・ハは母を見た。リエンも娘を見た。2人の間に、短い沈黙が落ちた。沈黙の間、ミルクティーの香りだけが漂い、窓の外の街の音が、まるで別世界の出来事のように遠かった。


 リエンが先に言った。


 「ミン・ハ、私は……尚人さんの条件を受けたい。あんたの人生も変わる」


 ミン・ハは唇を噛み、頷きかけて止まった。ためらいが目に見える。だが、尚人が促す言葉を足すことはしなかった。ただ、待つ顔で見ている。選ぶのは彼女たちだと言うように。


 ミン・ハは息を吐き、声を絞り出した。


 「……はい。受けます」


 リエンも、同じ言葉を重ねた。


 「私も、はい」


 尚人はすぐに電話を取った。呼び出し音が数回鳴り、相手が出る。尚人は要件だけを伝え、場所と時間を指定した。切ったあと、今度は別の電話を入れる。言葉が途切れない。仕事の段取りの速さが、そのまま生活の決断の速さに変わっていた。


 昼前、公証人が来た。スーツの襟の糊がきっちり立ち、革鞄から厚い書類を出すと、紙の乾いた匂いが広がった。机の上には朱肉と印鑑、ペンが並び、署名欄が整然と並ぶ。ページを繰るたびに、紙が擦れて小さな音を立てた。


 リエンは尚人の隣に座り、背筋を伸ばしたまま署名をした。ペン先が紙を走る音が、やけに大きく聞こえる。次にミン・ハが書く。手が震え、最初の一画が少し歪んだ。だが最後まで書き切り、深く息を吐いた。尚人は最後に署名し、実印を押した。朱肉の匂いが鼻に残り、印影が紙に沈む瞬間だけ、部屋の温度が少し上がった気がした。


 離婚の件も、その場で進んだ。リエンは目を伏せたまま、必要な手続きと慰謝料の話を受け止めた。悲しみがないわけではない。ただ、彼女の表情は、迷いよりも現実を選んだ顔だった。ミン・ハはスマホを握り、廊下の端へ移動した。画面の光が頬を青く照らす。呼び出し音のあと、相手の声が出る。


 「私、もう無理。ごめん。別れる」


 それだけ言って切った。指先が冷たくなり、手のひらが汗ばむ。ミン・ハは戻ってきて、母の横に座った。リエンがそっと肩を抱き、娘の頭を撫でた。尚人は2人をまとめて抱き寄せた。ソファが軋み、3人の体温が重なった。


 リエンは笑った。笑いながら、目尻が濡れた。ミン・ハは口元を押さえ、声にならない息を漏らした。信じられないという顔のまま、何度も尚人の胸と書類を見た。机の上には、譲渡の文章と印影が並んでいる。現実の重みが紙の厚みになって、そこに置かれていた。


 「私たち……本当に、オーナーなんですね」


 ミン・ハが呟くと、リエンが頷いた。


 「上流階級の人たちの仲間に入ったのね。夢みたい」


 尚人は2人の髪に唇を落とし、低い声で言った。


 「夢じゃない。これからは、俺の女だ。守る。暮らしも、立場も」


 ミルクティーの湯気はもう薄い。粥も冷めかけている。だが、3人の頬の熱だけが残っていた。窓の外では朝の街がいつも通りに鳴っているのに、リビングだけが、別の階層に上がったように静かだった。


 ◇ ◇ ◇


(ある女の独白)


 タオディエンの夜は、川の湿気と冷房の乾きが、薄い膜みたいに肌の上で入れ替わる。彼女がその空気に触れるのは、勤め先のラウンジへ通う時だけだった。住まいは別の区にあった。尚人の持ちビルの一室を借りて、ひとりで暮らしていた。廊下は静かで、遠くの車の音が、窓ガラスの向こうで薄く鳴っていた。昼は眠り、夕方になると髪を整え、香水を一滴だけ首の後ろに落とした。 


 ラウンジ『ルビー・ルーム』では、彼女は愛想を売った。笑う時は歯を見せ、聞く時は目を丸くした。相手の言葉を繰り返し、欲しいものを言わせた。生活費と小銭はそれで足りたが、彼女が欲しかったのは、金よりも生活そのものだった。自分が選んだ服、自分が決めた場所、自分が握る時間。そこまで届く相手を探していた。


 2023年のある晩、客のひとりが妙な話をした。技術者で、現場の汗の匂いがまだ肩に残っている男だった。酒が入ると口が軽くなり、仕事の愚痴の代わりに研究の話を混ぜた。過去へ戻れると言った。冗談にしては細部が揃っていて、嘘にしては目が落ち着きすぎていた。 


 男は、テレビのリモコンに似た制御装置を見せた。白い樹脂の角が少し擦れていて、よく押すボタンだけが黒ずんでいた。彼女は笑って、信じていないふりをした。信じないふりをしたまま、目だけは外さなかった。男がグラスを置くたびに、指先がその装置へ触れるのを見ていた。 


 夜が更け、2人は男の誘いで外へ出た。行き先は短時間利用のホテルだった。ロビーは静かで、照明が白く、廊下には同じ色の扉が並んでいた。男は上機嫌で鍵を受け取り、彼女の肩に手を回そうとした。彼女は笑って身をかわし、続きを聞かせて、と促した。 


 部屋に入っても、男の話は止まらなかった。装置のこと、研究ノートのこと、手順のことを、冗談めかしながら口にした。彼女は相づちを打ちながら、言葉の順番だけを頭に刻んだ。真偽より先に、男の自信の形を見ていた。 


 男が言葉を切った瞬間、彼女は体を寄せた。胸元に手を当て、即座に決めた。男は何か言いかけたが、声にならず、息だけが途切れた。彼女は長引かせなかった。部屋の空調音が一定のまま、時間だけが冷えた。 


 終わったあと、彼女は金目のものには触れなかった。財布も時計も、そのままにした。彼女が持ち出したのは、研究ノートと制御装置だけだった。紙の角と樹脂の冷たさが手のひらに残った。 


 男はそこで死んだ。彼女は部屋を出る時、扉の鍵が閉まる音を聞いた。廊下の白い照明は変わらず、外の夜気だけが少し湿っていた。


 翌朝から、外の世界では男が「戻らない」人間になった。約束の連絡が来ず、職場にも姿を見せず、周囲が騒ぎ始めた。最初は行き違いとして扱われ、次に失踪として扱われた。身辺の確認に時間がかかり、話は遅れて広がった。断片だけが集まり、決め手になるものは見つからないまま、宙に浮いて続いた。


 数日後、聞き込みは店にも及んだ。『ルビー・ルーム』の名が出て、彼女も呼ばれた。彼女は、客のひとりで本名は知らないと答えた。席で話しただけで、店の外での関係はないと言い切った。疑いの目は向いたが、話を固める材料は揃わなかった。 


 その晩、彼女は制御装置を布で包み、奥にしまった。外側はありふれた形だが、彼女にとっては逃げ道だった。


 2025年、彼女は銀行マンの鳴海と知り合った。仕事でホーチミンに出入りしていて、言葉が丁寧で、金の匂いを消すのが上手かった。彼は彼女を大事にした。外食の店は清潔で、車は静かで、部屋は広かった。彼女は28歳になっていた。 


 それでも、物足りなさが残った。彼女が欲しいのは、守られることだけではなかった。見せつける生活だ。誰が見ても分かる贅沢と、誰にも触らせない余裕だ。鳴海は優しいが、慎重だった。贅沢を肯定しない人間ではないが、踏み込む前に立ち止まる。彼女は、その立ち止まりが嫌いだった。 


 彼女は保険を考えた。3社と契約し、それぞれ1億円。鳴海の署名と手続きの壁は高かったが、時間をかければ越えられた。彼女は結婚生活の中で、少しずつ積み上げた。事故や病気の話をして、心配する妻を演じた。鳴海がうなずくたびに、彼女は次の書類を用意した。 


 ある夜、鳴海は酒を飲んで帰宅した。彼女は玄関で迎え、上着を受け取り、靴をそろえた。鳴海は笑い、彼女の肩に軽く触れた。彼女は笑い返した。ここから先は、夫婦の会話の形をしているだけでよかった。 


 ベランダに出る理由は、いくらでも作れた。夜風、街の灯り、煙草、電話。鳴海が柵に手を置いた瞬間、彼女は背中に手を添えた。押した、というより、支えを外した。鳴海の体は重力に負け、暗い下へ落ちた。彼女は叫び、膝をつき、隣人が出てくるまで泣いた。悲劇の主人公を演じる練習は、もう済ませてあった。 


 保険金は、3社から合計3億円。口座の数字が揃った日、彼女はカーテンを開け、昼の光を部屋に入れた。シーツの白さが眩しかった。彼女は満足した。しばらくの間、優雅な生活を満喫した。宝飾品を買い、服を増やし、食事を選び、タオディエンの夜を自分のものだと思えた。 


 だが、司直の目はごまかせなかった。事情聴取は回数が増え、言葉の端を拾われた。鳴海が日本人ということもあり、日本の週刊誌が嗅ぎつけた。見知らぬ番号から電話が入り、ビルの入口に、見慣れない男が立つようになった。彼女は、笑顔を作っても、腹の底が冷えていくのを止められなかった。 


 追い詰められた彼女が思い出したのは、引き出しの奥の布包みだった。2023年に奪った、逃げ道だ。彼女は、ホーチミンで知り合ったママが、よく口にしていた日本のバブルの話を思い出した。土地に金を置けば増える時代。金持ちが、さらに金持ちになる時代。そこに入れれば、3億円は膨らむ。何より、いまの追求から消えられる。 


 彼女は決めた。行き先は日本、年はバブルの前。1986年なら、まだ始まっていない。始まる前に場所を押さえれば、波の上に最初から立てる。 


 日本へ向かう荷造りは軽かった。札束のままでは扱いにくいので、小さくまとまる形に替えた。身につけても不自然に見えない宝飾品も混ぜた。彼女が持っていくのは金と最低限の衣類だけだ。残りは捨てていく。戻るつもりはなかった。


 部屋に戻ると、カーテンを閉めた。外の光が細い線になって、床の端に落ちた。冷房の音だけが続いている。彼女はローテーブルの上を片づけ、布に包んだ制御装置を置いた。テレビのリモコンに似た形で、白い樹脂の角が擦れていた。


 彼女は息を整え、ボタンを押した。年を選ぶ操作はそれだけで足りると、男は酔った口で言っていた。場所は選べない。彼女は横須賀の街を思い浮かべたが、思い浮かべるだけだ。指先に軽い反発が返り、押し切った瞬間、冷房の風が止まった。


 耳の奥が詰まり、床が遠のいた。視界の端が白く滲み、胃が一度だけ浮いた。声を出す暇はない。次の瞬間、彼女は別の空気の中に立っていた。


 潮の匂いが強かった。排気ガスの角が粗く、海の生っぽさが鼻に刺さる。空は低く、曇った光が地面を平たく照らしていた。遠くで金属が擦れる音がして、国道の走行音が重なる。彼女は足元を見た。砂利と土の混じった地面で、靴の裏に小さな石が食い込んだ。


 そこは久里浜だった。駅前は地味でも、海があり、土地があり、動きが読める。横須賀の中心へ出れば人の目が増え、噂も増える。久里浜なら目立たずに根を下ろせる。10億円は手の中に残っている。札束のままではない形に替えて持ってきたものも消えない。彼女は宿を取り、髪型を変え、名前を変え、口調を少し抑えた。1986年の日本では女の単身に目が向く。だから説明は要点に絞り、聞かれたことだけ答え、笑って流した。新聞は毎日買い、値段の動きを書き留めた。1986年はまだ波が来ていない。波が来る前に、足場を作ればいい。


 一方で、送信機〈テレビのリモコン形状〉は未来に残った。彼女の手元にはない。それでも彼女は困らなかった。戻るつもりがないからだ。彼女が欲しいのは、過去の逃げ道ではなく、この時代で増やせる金だった。

題名の「蒸籠の湯気」と「朱肉の赤」は、温かい生活感と、冷たい決裁の色だ。生姜や豚肉の匂い、粥の湯気、ミルクティーの甘さが先にあり、次に署名の音と印影の赤が来る。尚人は気持ちの確認をしたあと、財産と身分を「書面」に落とし、迷いを残す時間を減らしていく。リエンとミン・ハは、得るものの大きさと引き換えに、切るべき関係をその場で切る。ここで効いているのは、愛情の言葉より、紙の厚みと朱肉の匂いである。独白の女は、その対極として置かれている。彼女は生活を選ぶのではなく、生活を奪い取る。装置は逃げ道であり、金は足場であり、1986年は姿を消す場所だ。最上階で押された朱肉の赤と、久里浜で始まる「別の赤い糸」は、いずれ同じ物語の中で交差する予感を残す。

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