第10話(後編3)――「二つの時代へ分かれる」
1946年の東京から戻った順子は、理恵と達也との再会を喜ぶ一方、夫の佑馬が自ら命を絶ったことを知らされる。直樹は、佑馬を騙した地面師たちを追い詰めた経緯と、尚人が不在の間に動かした資金について報告する。その後、1986年の東京と1872年の香港で、誰が何を担うのかを決めていく。
湯と着替えを済ませると、尚人と順子は成城の応接間へ移った。
理恵と達也は、すでに呼ばれていた。順子の顔を見た途端、理恵は席を立った。達也も立ち上がったが、すぐには声が出なかった。
「お母さん」
理恵が駆け寄った。
順子は理恵を抱きしめた。肩に手を回し、背中を確かめ、そこに娘の体温があることを確かめた。達也も近づいてきた。順子は理恵を片腕で抱いたまま、もう片方の手で達也の腕を引き寄せた。
「理恵、達也。無事だったのね」
達也は母の肩口に額を寄せた。
「お母さんも、戻ってきてくれてよかった」
順子は二人を抱いたまま、部屋の中へ視線を向けた。
尚人がいる。直樹がいる。俊介もいる。俊介は若い姿になっていたが、順子にはその男が誰なのか分かった。長く探していた倉田俊介が、いま目の前にいる。
だが、佑馬がいなかった。
順子は、理恵と達也から少しだけ体を離した。
「佑馬は?」
理恵の表情が変わった。
達也は母の腕をつかんだまま、目を伏せた。
その反応だけで、順子は胸の奥に嫌なものを感じた。1946年の焼け跡で、順子は夫を戦争で亡くした女という身の上を名乗った。あれは生きるための作り話だった。だが今、目の前の理恵と達也の顔は、作り話ではなかった。
応接間には、ホーチミンから来ていたリエン、ミン・ハ、その家族もいた。
直樹は、順子へ答える前に尚人を見た。
「尚人さん。先に、ホーチミンの人たちのことを報告します」
尚人は椅子に腰を下ろし、直樹を見た。
「言え」
「呼んだのは僕です。尚人さんと順子さんが消えたあと、五反田のベル・ローズ周辺に手がかりが残っている可能性がありました。ミン・ハさんとリエンさんには、五反田の女たちの線と、地面師の周辺を見てもらうために来てもらいました」
尚人はミン・ハとリエンを見た。
ミン・ハは話を聞き取れている。リエンは日本語の細かなところまでは追えていないが、尚人と直樹が自分たちの処遇を話していることは察していた。弟妹たちは母のそばに寄り、不安そうに応接間を見回している。
直樹は続けた。
「アンさん、フイさん、ミーリンさん、タインさん、マイさんは、三崎港側で南方果物の販売と加工準備、住まいの支えを担う予定です。生活の場も用意してあります。ミン・ハさんとリエンさんは葉山の低層テラスハウス。アンさんたちは三崎港の店舗付き共同住宅です。寝具、台所用品、洗濯用品、衣類、家電、医療、日本語教材、娯楽用品、移動手段までそろえています」
「費用は」
「僕の方で処理しています。尚人さんの資金と混ぜていません。調査協力、生活支援、商社の仕事は分けてあります」
尚人はそこで、ミン・ハへ向いた。
「ミン・ハ。母さんたちに伝えろ。当面は東京と神奈川に残る。住む場所も仕事も直樹が用意している。危ない場所へは戻さない」
「はい」
ミン・ハは母に向き直り、言葉を選んで伝えた。
リモコンの仕組みや、尚人と順子がどこから戻ったかまでは話さない。危ない移動はこれ以上しないこと。尚人と直樹が生活を守ること。用意された住まいで落ち着くこと。その三つだけを、母と弟妹に分かる言葉で説明した。
リエンは尚人を見た。
尚人はリエンへ向き直った。
「リエン、心配するな。お前たちの生活は、こちらで見る。無理に動かすことはしない」
リエンは深く頭を下げた。
尚人はミン・ハに言った。
「しばらく隣の部屋で待っていろ。細かい話は後で聞く」
「はい」
ミン・ハは母と家族を連れて応接間を出た。リエンは扉の前で、もう一度尚人へ頭を下げた。
扉が閉まると、応接間には尚人、順子、俊介、理恵、達也、直樹だけが残った。
直樹は使用人も下げ、扉を閉めた。
順子は理恵と達也の手を握ったまま、もう一度聞いた。
「直樹さん。佑馬は、どうしたのですか」
直樹は順子の前に立った。
「順子さん。あなたと尚人さんが1946年へ飛ばされたあと、1986年側で事件が起きました。佑馬さんは、地面師たちに騙されました。倉田開発㈱の資本金1億円を、土地購入代金として流用し、その金を奪われました」
順子は眉を寄せた。
「倉田開発の資本金を……」
「はい。佑馬さんは、金に困っていたわけではありません。町田小山田と相原で成果を上げ、賞与も得ていました。けれど、その成功で自分の判断を信じすぎた。尚人さんがいない間に、自分で大きな案件をまとめようとして、相手の罠に入りました」
順子の手に力が入った。
理恵が顔を伏せた。達也は歯を食いしばった。
「それで……」
「佑馬さんは、自分が尚人さんの金を失わせたと思い詰めました。そして、自ら命を絶ちました」
順子は、直樹を見たまま動かなかった。
言葉が届くまでに時間がかかった。次に理恵を見た。理恵は泣いていた。達也は母の手を握ったまま、目を合わせられないでいた。その二人の顔で、直樹の言葉が事実だと分かった。
「佑馬が……死んだのですか」
「はい」
「私たちが、あちらへ飛ばされたあとに」
「はい」
順子は椅子の背に手をかけた。座ろうとしたのではない。立っているために、そこへ手を置いた。
理恵が母の前に膝をついた。
「お母さん、ごめんなさい」
順子は理恵の頬に手を当てた。
「理恵。あなたが謝ることではありません」
「でも、お父さんは……」
「あなたが背負うことではありません」
順子は理恵の頬から手を離し、達也の手を取った。
「達也もです。あなたたちが悪いのではありません」
達也は、そこでようやく顔を上げた。
「止められませんでした」
「あなた一人で止められることではなかったのでしょう」
順子の指は震えていた。だが、その震えを隠すために子どもたちから手を離すことはしなかった。
俊介が口を開いた。
「順子。私も、直樹から聞いたばかりだ。佑馬の最期は見ていない。私は1898年のユーコンに飛ばされていた」
順子は俊介を見た。
俊介が戻ったことは、本来なら喜ぶべきことだった。佑馬が生きていれば、父の生還をどれほど喜んだか分からない。だが、その佑馬だけがここにいない。
「俊介さんが戻ったことを、佑馬に知らせたかったです」
俊介は何も言えなかった。
直樹は、そこで続けた。
「佑馬さんを騙した者たちは、放っていません」
順子の目が直樹へ戻った。
理恵も顔を上げた。
達也は、母の手を握ったまま直樹を見た。
「直樹さん、話してください」
順子が言った。
「はい」
直樹は机の上に、封筒をいくつか置いた。
「理恵さんと達也さんは、佑馬さんの部屋に残っていた書類を保管していました。契約書、振込控え、土地の図面、名刺、喫茶店の領収書、潮路のマッチ、それから手帳にあった名前です。二人には危ない相手へ近づかせていません。僕がその書類を見て、線をつなぎました」
順子は理恵と達也を見た。
「あなたたちは、それを残していたのね」
理恵は涙を拭いた。
「はい。何をどうすればいいか分からなかったけど、捨ててはいけないと思いました」
達也も言った。
「父さんの机にあったものです」
直樹は話を戻した。
「書類には、潮路、尾形芳江、矢部、名簿屋、先生、京浜、宮下、白金、倉田開発㈱という名前が出ていました。尚人さんは、横須賀の人間関係をよく知っています。名簿屋という商売も知っていましたし、居酒屋の女将とも縁がありました。だから、潮路と名簿屋という言葉を、ただの偶然とは見ませんでした」
尚人は顔を上げた。
「あの町で飲み歩いた。名簿屋も知っている。書類にその名が出ているなら、土地詐欺と無関係ではない」
「はい」
直樹は続けた。
「僕は横須賀へ行き、潮路の線を追いました。潮路の女将が尾形芳江です。矢部辰夫は名簿屋で、芳江の内縁の夫でした。二人は、佑馬さんを羽鳥の一味へつなぐ入口になっていました」
順子は息を詰めた。
「佑馬は、その居酒屋で……」
「はい。芳江は、潮路で佑馬さんを見ていました。社長になったこと、尚人さんに任された会社を持ったこと、自分も役に立ちたいと思っていたことを聞き出した。そして、土地話へ誘導しました」
達也が拳を握った。
「それで父さんを……」
「はい」
直樹は達也を見た。
「尾形芳江と矢部辰夫は、もう1986年にはいません」
順子が直樹を見た。
「どういう意味ですか」
「二人を捕まえました。閉店後、裏道へ出たところで押さえました。芳江の手帳には、倉田、京浜、白金、羽鳥、分け前らしい数字が残っていました」
俊介が聞いた。
「白状させたのか」
「はい」
「どこで」
直樹は、順子と理恵と達也を見てから答えた。
「1495年のイスパニョーラ島北岸、ラ・イサベラ近郊です」
応接間の空気が変わった。
順子は言葉を失った。理恵と達也は、その意味を理解して顔を強張らせた。俊介は直樹の顔を見たまま動かなかった。尚人は何も言わなかった。直樹がどういう手を使ったか、だいたい察していた。
直樹は続けた。
「そこには、黒岩辰夫がいます。黒岩は、港南の襲撃現場で敵側の片道式リモコンを拾い、隠し持っていました。僕はそのリモコンを取り上げ、1495年のイスパニョーラ島北岸、ラ・イサベラ近郊に設定して、黒岩を送りました」
俊介が低く聞いた。
「黒岩は、どうなった」
「金鉱掘りの奴隷になっています。金も会社も暴力も通じない場所です。手首を縄で縛られ、泥の中で石を砕いていました」
達也は息をのんだ。
理恵は口元を押さえた。
順子は目を閉じた。夫を死なせた連中の一人が罰を受けていると聞いても、すぐに喜びにはならない。だが、胸の奥にあった重い塊の形が、少しだけ変わった。
直樹は話を止めなかった。
「僕は芳江と矢部をそこへ連れて行き、黒岩の姿を見せました。二人は話しました。倉田開発㈱の1億円詐欺。京浜土地建物㈱の50億円詐欺。白金台の偽売主。先生と呼ばれる羽鳥修一。芳江が佑馬さんを潮路でつなぎ、矢部が名簿を出し、羽鳥が偽の書類を作った。佑馬さんは、自分の手柄を立てたい気持ちを突かれました」
順子の目に涙が浮かんだ。
「佑馬らしい……」
その声には、夫への怒りも、悔しさも、情けなさも混じっていた。
「自分で役に立てると思ったのでしょうね。尚人さんがいない間に、自分が何とかしようとして……」
尚人は顔を伏せた。
「私がいれば止められたかもしれん」
順子は尚人を見た。
「尚人さん、それは違います。佑馬が勝手に動いたのです」
「だが、私がいれば止めた」
「私もいれば止められたかもしれません」
順子はそこで唇を押さえた。
誰か一人の責任にすれば、少しは楽になる。だが、それでは何も残らない。佑馬は失敗した。騙された。追い詰められた。そして死んだ。その事実だけが、誰の言い訳にもならずに残っている。
直樹は、さらに封筒を一つ前へ出した。
「芳江と矢部は、金鉱に置いてきました。黒岩と同じ場所です。その後、僕は潮路へ戻り、奥の戸棚を開けました。そこには、倉田、京浜、白金、宮下、羽鳥、矢部名簿、分配、連絡先と書かれた封筒がありました。倉田の封筒には、佑馬さんの来店日、同席した客、土地話へ誘導した日、喫茶店の領収書の写し、紹介料の控えが入っていました。羽鳥、矢部、芳江の分け前も書かれていました」
理恵が息を整えた。
「だから、証拠はあったのですね」
「あります。写真もありました。佑馬さんが潮路のカウンターに座っている写真、宮下徹がベル・ローズの外で男と会っている写真、白金台の偽代理人らしい男の写真、羽鳥修一らしい男の写真です」
達也は声を震わせた。
「そこまで残していたのか」
「芳江は、自分の取り分を守るために控えていました。その控えが証拠になりました」
俊介が言った。
「羽鳥はどうした」
「五反田の事務所へ行きました。羽鳥はフランス女に電話していました。潮路、芳江、矢部、黒岩と連絡が取れないと報告していた。そこに田口と、ベル・ローズ五反田の店長もいました」
「三人とも、そこにいたのか」
「はい。僕は三人を押さえました。そして黒岩、芳江、矢部のいる場所へ送りました。そこで、羽鳥が『先生』と呼ばれていたこと、田口が現場の雑用を動かしていたこと、店長が店を通じて女と客の流れをつないでいたこと、その上にフランス女がいることを認めさせました」
理恵は両手を握った。
「父を騙した人間は、そこまで捕まえたのですね」
「はい。黒岩、尾形芳江、矢部辰夫、羽鳥修一、田口、ベル・ローズ五反田の店長。佑馬さんの件に直接つながる者たちは、1986年の東京には戻れません」
達也の肩から力が抜けた。
怒りが消えたわけではない。父が戻ったわけでもない。だが、相手が何もされずに逃げたわけではない。それだけは、はっきり分かった。
順子は直樹を見た。
「直樹さん。佑馬は戻りません。でも、あなたはあの人たちを見逃さなかったのですね」
「見逃していません」
「ありがとうございます」
順子は深く頭を下げた。
理恵も、達也も頭を下げた。
直樹はすぐには言葉を返さなかった。礼を受けていい話なのか、分からなかったからである。彼がしたことは、警察へ突き出すような復讐ではない。1986年の法では裁けない場所へ、相手を落とした。だが、それでも倉田家には、その事実を知る必要があった。
俊介は、直樹を見ていた。
「お前が、佑馬の復讐をやったんだな」
「はい」
「佑馬を騙した連中に、同じ世界で言い訳を続ける場所を残さなかった」
「はい」
「それで、佑馬が戻るわけではない」
「はい」
「だが、何もされずに終わったわけでもない」
「はい」
俊介はその返事を聞き、椅子へ深く腰を下ろした。
直樹は最後に、フランス女のことを話した。
「大元のフランス女は、成城の金庫からリモコンを奪って逃げようとしました。行き先は1872年4月26日、イタリア王国ナポリ近郊、ヴェスヴィオ火山北西斜面です。僕が飛びついたことで位置がずれ、彼女はリモコンごと溶岩に落ちました。あの女も戻りません」
尚人が顔を上げた。
「直樹、よく生きて戻ったな」
「運がよかっただけです」
「運だけではない」
尚人はそう言ったが、それ以上は続けなかった。
順子は理恵と達也の手を握ったまま、涙を拭いた。
「佑馬は、愚かなことをしました。けれど、ただ騙されて、ただ死んで、相手が笑って終わったのではない。それだけは分かりました」
理恵は母に寄り添った。
「お母さん」
「今日は、もういいです。あなたたちは私のそばにいてください」
達也は顔を伏せたまま、涙を落とした。
直樹は、そこで机の上の書類を取り出した。
「尚人さん。資金の報告もあります」
尚人は直樹を見た。
「言え」
「南方果物食品流通網計画は、9月16日に決済が終わりました。早乙女側90億円、成城側30億円、銀行融資180億円で組んだ計画です。湾岸の冷蔵倉庫、青果配送会社、加工場用地、社宅用地をまとめて押さえ、南方果物を輸入、冷蔵、加工、配送、販売する仕組みとして売却しました」
「いくら残った」
「銀行融資の返済、成城側出資の買戻し、税と諸費用の引当を終えたあと、分配原資として1,000億円です。早乙女側700億円、僕個人300億円に分けています」
尚人の目つきが変わった。
「700億か」
「はい。尚人さんがいない間に、早乙女側の資金は700億円に増えました。僕の方は300億円です。そのうち50億円を流動資金として残し、250億円は都内不動産へ入れる形にしました」
「もう物件は決めたのか」
「はい。短期で転売を狙う90億円と、長く持って賃料を取る160億円に分けています。短期枠は、品川駅東口の倉庫跡、高輪の社宅跡、田町駅近くの駐車場、五反田駅前の古い雑居ビル、大井町駅近くの駐車場です。長期枠は、高輪宝栄ビル、五反田の店舗付きビル、田町の小型オフィスビル、浜松町の店舗兼事務所ビル、品川の小型マンション2棟、大崎の工場跡と事務棟、芝浦の倉庫です」
「全部、決済まで終わったのか」
「いいえ。全額が決済済みではありません。高輪宝栄ビルは、すでに実務へ入っています。1階の貴金属店、銀鈴堂も残し、美奈子さんを店長に入れました。他の物件は、契約と登記を急がせています。250億円の使い道は決めましたが、現金が全部出ていったわけではありません」
尚人は、すぐには喜ばなかった。
佑馬の死を聞いたばかりである。金が増えた話を、明るい話として受け取れる場面ではなかった。それでも、尚人は経営者として聞くべきことを聞いた。
「書類はそろっているな」
「そろっています。銀行員、司法書士、税理士も入れています。細かい数字は、あとで全部見せます」
「よし。700億は早乙女側で管理する。お前の300億は、お前の判断で動かせ。ただし、250億の不動産は、杉浦と小沼だけに任せるな。契約と登記の最終確認は、お前が見ろ」
「はい」
「ホーチミンの7人の生活費も、変に混ぜるな。調査協力、生活支援、商社の仕事、それぞれ分けて処理しろ」
「分けています。啓子さんにもその線で確認を受けています」
「ならいい」
尚人は背もたれに体を預けた。
帰ってきたばかりで、聞く話が多すぎた。佑馬は死に、地面師たちは直樹に処理され、資金は700億に増え、ホーチミンから来た者たちの生活も動いている。自分が1946年の焼け跡にいる間に、1986年側では別の時間が進んでいた。
直樹は、そこで話を次へ移した。
「今後の方針を決めます」
全員の顔が直樹へ向いた。
「尚人さん、順子さん、理恵さん、達也さんは、このまま1986年の東京に残ってください。佑馬さんのこと、倉田家のこと、会社や屋敷のことを整理する必要があります」
尚人が答えた。
「私は東京に残る。順子、理恵、達也の生活を整える。佑馬の件も、会社側の処理も私が見る」
順子は理恵と達也を見た。
「私も残ります。この子たちを置いて、別の時代へ行くことはできません」
理恵は母の手を握り返した。達也も、母のそばから離れなかった。
直樹は机の上に三つのリモコンを並べた。
「次に、リモコンの管理を決めます」
理恵と達也は机の上を見た。順子は二人が手を伸ばさないよう、手元で制した。
直樹はまず、一つを尚人の前へ置いた。
「これは、尚人さんが作った双方向のリモコンです。東京側に残します。尚人さんが責任を持って管理してください」
尚人はリモコンを手元へ引き寄せた。
「分かった。私が管理する。勝手には使わせない」
直樹は次に、もう一つを自分の前へ置いた。
「これは、僕が作った双方向のリモコンです。僕が持ちます。僕は俊介さんと一緒に、1872年の香港へ戻ります」
順子が顔を上げた。
「直樹さんは、香港へ戻るのですね」
「はい。香港には白い館、工場、香港支店、上海支店があります。僕が戻らなければ、向こうの事業が崩れます」
尚人も言った。
「直樹が香港へ戻るのは当然だ。あちらには、直樹が作った仕事と人間関係がある。こちらは私が見る」
直樹は俊介を見た。
「俊介さんには、僕と行動をともにしてもらいます」
俊介は、机の上に残った真鍮のリモコンを見ていた。
「これが、1872年の香港で作った試作品だな」
「はい。あなたをユーコンへ迎えに行くために使ったものです。外装も中身も粗い。ですが、あの時代の部品でどこまでできるかを確かめる材料になります」
「私が預かる」
俊介は真鍮の試作品を手に取った。重さを確かめ、裏蓋の合わせ目を指でなぞった。
「分解する。使える部品と、使ってはいけない部品を分ける。改造できるなら改造する」
「お願いします。外には、特殊な電気制御装置として扱います」
「それでいい。装置の話は、人を選ばなければならない。技術より先に、人間の口から壊れる」
直樹は頷いた。
「今後、リモコンは三つに分けます。尚人さんが作ったものは尚人さんが管理する。僕が作ったものは僕が管理する。1872年製の試作品は俊介さんが持ち、香港で改造を試みる」
理恵が言った。
「私は触らない方がいいのね」
「はい。理恵さんと達也さんは、東京側で順子さんを支えてください。外の人には、今回のことを話さないでください。尚人さんと順子さんがどう戻ったか、俊介さんがどこにいたか、詳しい説明はしません」
達也が聞いた。
「お父さんのことは、外にはどう言うんですか」
順子の手が、わずかに動いた。
尚人が答えた。
「私が決める。佑馬の死については、必要な手続きを取る。地面師の件も、こちらで整理する。ただし、時間移動や俊介さんの件は外に出さない。そこを混ぜれば、佑馬さんの死まで変な話にされる」
順子は尚人を見た。
「尚人さん。佑馬のことは、私も聞きます。逃げません」
「分かっている。ただ、今日はここまでにしろ。これ以上を一度に聞けば、体がもたない」
順子は反論しなかった。
理恵と達也の手を握っているだけで、いまは精一杯だった。
俊介は試作品を懐にしまった。
「直樹。香港へ戻ったら、まず工場を見せろ。材料、工具、職人の腕を見ないと、改造できるかどうか判断できない」
「分かりました。工場は僕が案内します」
「私の扱いはどうする」
「技術者として連れてきた客人にします」
「それなら通るだろう」
尚人は直樹へ言った。
「東京側は私が見る。順子、理恵、達也、リエンたちの生活を整える。会社、屋敷、警察、地面師の処理も進める。直樹は香港へ戻れ」
「はい」
直樹は机の上を片づけた。
「準備ができしだい、僕と俊介さんは1872年の香港へ戻ります。東京側で何かあれば、尚人さんのリモコンで連絡してください」
「分かった」
尚人は自分のリモコンを箱に戻した。
順子は、理恵と達也の間に座っていた。
佑馬はもういない。夫の死を聞いたばかりで、その事実を胸の中に置く場所はまだなかった。だが、子どもたちはここにいる。俊介も戻った。尚人もいる。佑馬を騙した者たちは、直樹の手で1986年から消えた。
悲しみは消えない。
けれど、相手が笑って逃げたわけではない。
「理恵、達也。今日は私のそばにいて」
理恵は、もう泣くのをこらえなかった。
「うん」
達也も、母の手を離さなかった。
直樹と俊介は、1872年の香港へ戻る。
尚人、順子、理恵、達也は、1986年の東京に残る。
リエン、ミン・ハ、その家族も、直樹が用意した住まいと仕事のもとで東京と神奈川に残る。
早乙女側の資金は700億円に増えた。
直樹は自分の資金300億円のうち、50億円を流動資金として残し、250億円を都内不動産へ割り振った。
尚人のリモコンは尚人が持つ。
直樹のリモコンは直樹が持つ。
1872年製の試作品は俊介が持ち、改造を試みる。
成城の応接間で、二つの時代へ分かれる方針が決まった。
戻った者たちは、同じ場所に残るわけではない。それぞれが守るものを持ち、1986年の東京と1872年の香港に分かれて動き始めることになった。
◇ ◇ ◇
直樹は、そこで俊介を見た。
「俊介さんは、1986年に残ってください」
俊介が顔を上げた。
「私は香港へ行かないのか」
「行くのは、もう少し後でいいでしょう。1898年のユーコンから戻ったばかりです。35歳の体になったとはいえ、まだ何がどうなったのか、全部を飲み込めてはいないはずです」
俊介は何も言わなかった。
その通りだった。
ほんの数時間前まで、俊介は72歳の老人として1898年のユーコンにいた。泥にまみれた修理小屋で、壊れたランプやポンプを直して暮らしていた。それが今は35歳の体となり、1986年の成城にいる。
息子の佑馬は死んだ。
順子、理恵、達也は生きている。
自分をユーコンへ飛ばしたフランス女は死に、佑馬を騙した地面師たちは直樹の手で1986年から消えた。
一日に聞くには、あまりにも多すぎる話だった。
直樹は続けた。
「成城の僕の家を使ってください。誰にも遠慮する必要はありません」
「お前の家を?」
「はい。鍵を渡します」
直樹はポケットから鍵束を取り出し、その中から1本を外して俊介の前へ置いた。
「家政婦には話しておきます。食事も風呂も自由に使ってください。外へ出ても構いません。東京を歩くなり、昔知っていた場所を見に行くなり、好きにしてください」
俊介は机の上の鍵を見た。
「私は子どもじゃない。金くらい自分で何とかする」
「1898年のユーコンから戻ってきた人が、1986年の金を持っているはずがないでしょう」
「それはそうだが」
直樹は立ち上がった。
「少し待っていてください」
直樹は部屋を出た。
しばらくして戻ってくると、手には大きな封筒を持っていた。机の上へ置くと、ずしりと音がした。
俊介が封筒を見た。
「何だ、それは」
「金です」
「いくらだ」
「1,000万円です」
俊介は直樹を見た。
「馬鹿を言うな」
「本当です」
「1,000万円も受け取れるか」
「僕の普通預金には50億円あります」
俊介は黙った。
直樹は平然と続けた。
「そのうちの1,000万円です。僕にとっては困る額ではありません」
「そういう問題じゃない」
「では、貸したことにしましょう」
「返せと言うのか」
「返したければ返してください。返したくなければ、そのままで結構です」
「それでは貸したことにならんだろう」
「細かいことは気にしないでください」
俊介は顔をしかめた。
「お前は、とんでもない金の使い方をするな」
「そうでもありません。僕は300億円を持っています。そのうち250億円を不動産に回し、普通預金に50億円を残しました。1,000万円を渡したくらいで生活は変わりません」
「私の方は変わる」
「だから渡すんです」
俊介は、しばらく封筒を見ていた。
「こんな金、何に使えと言うんだ」
「何でもいいですよ」
「何でも?」
「服を買ってもいい。うまいものを食べてもいい。酒を飲んでもいい。温泉へ行ってもいい。東京を見て回るのもいいでしょう。1898年のユーコンで、ずいぶん苦労したんです。しばらく好きに過ごしてください」
俊介は答えなかった。
直樹は少し間を置いてから言った。
「待っている必要はありませんからね」
「何をだ」
「僕をです。成城の家で、じっと留守番をする必要はありません。外へ出てください。行きたいところへ行けばいい」
俊介は椅子の背にもたれた。
「急に1,000万円を渡されて自由にしろと言われても、困るものだな」
「それなら、まず床屋へ行ったらどうですか」
「床屋?」
「はい。それから服を買う。今の俊介さんは35歳です。せっかく若返ったんですから、少しくらい格好をつけてもいいでしょう」
俊介は自分の手を見た。
72歳の老人の手ではない。指を曲げても痛まない。肩も動く。腰も伸びている。
1898年のユーコンでは、もう二度と戻らないと思っていた体だった。
「35歳か」
「はい」
「本当に、35歳なんだな」
「そうです」
俊介は、もう一度机を見た。
1,000万円の入った封筒がある。
その横には、成城の直樹邸の鍵がある。
俊介はまず鍵を手に取った。
掌の上で一度転がし、それからポケットへ入れた。
次に、1,000万円の入った封筒を持ち上げた。
「分かった。預かる」
直樹は笑った。
「好きに使ってください」
「全部は使わんぞ」
「そこは自由です」
「本当に、後で返せと言わないんだな」
「言いません」
「なら、少し東京を歩いてみるか」
「そうしてください」
俊介は封筒を持ったまま、窓の外を見た。
そこには1986年の東京がある。
1898年のユーコンではない。
泥道も、金鉱へ向かう男たちも、焚き火の煙もない。
自動車が走り、電車が動き、店には食べ物と服があふれている。
俊介は35歳の体で、その東京へ戻ってきた。
直樹は、俊介へ1,000万円と成城の自邸の鍵を渡した。
あとは、俊介が自分の足で歩けばよかった。
順子は佑馬の死を受け止めきれないまま、理恵と達也をそばに置いた。尚人たちは1986年の東京に残り、直樹は1872年の香港へ戻ることになった。一方、俊介はすぐには香港へ行かず、成城の直樹邸で暮らしながら1986年の東京に慣れることになった。直樹から自邸の鍵と1,000万円を渡された俊介は、35歳の体で新しい生活を始める。




