↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
193/253

第11話(前編1)――「東京へ行こう」

 1872年10月20日、直樹はロンドンのモロー邸へ戻る。夕食の席には、エレノア、メアリー、ルイーザがそろっていた。直樹は3人に、明日から1週間ほど東京へ遊びに行かないかと誘う。3人は遠い東洋への旅を想像するが、直樹は船の手配も旅程も説明しない。ただ、自分に任せてほしいと言うだけだった。

 (1872年10月20日日曜日午後6時前、イングランド・ロンドン、モロー邸)


 直樹がモロー邸へ戻ったのは、夕食の支度が整う少し前だった。


 玄関の扉が開くと、外の冷たい空気とともに直樹が入ってきた。屋敷の中には石炭を燃やす暖炉の匂いがあり、台所からは焼いた牛肉の香りが流れていた。


 物音を聞いたメアリーが玄関広間へ出てきた。


「お帰りなさい」


「ただいま」


 メアリーは直樹の外套を受け取った。


「夕食ができています。今日はローストビーフです」


「それはありがたい。腹が減っている」


「では、手を洗って食堂へいらしてください」


 直樹が食堂へ入ると、エレノアとルイーザがすでに席に着いていた。


「お帰りなさい、ナオキ」


 エレノアが言った。


「ただいま」


 ルイーザも直樹を見た。


「ちょうどよいところです。メアリーが朝から肉の焼き加減を気にしていました」


 料理を運ばせていたメアリーが振り返った。


「失敗していません」


「まだ誰も食べていませんよ」


「匂いで分かります」


 ルイーザが笑い、直樹も席に着いた。


 最初に出たのは、牛肉から取った澄んだスープだった。細く切った野菜が入り、湯気とともに肉の香りが立った。外の冷気に当たってきた直樹には、その熱さが心地よかった。


 次に、茹でたサーモンへパセリソースをかけた皿が出た。淡い色の魚の身にナイフを入れると、柔らかくほぐれた。


 直樹は魚を口に運んだ。


 メアリーが尋ねた。


「どうですか」


「うまいですよ」


「魚のことですか。それとも今夜の料理全部ですか」


「まだ途中でしょう」


「では、全部食べてから聞きます」


 やがて主菜のローストビーフが運ばれてきた。


 厚く切った牛肉の横には、ヨークシャープディング、焼いたじゃがいも、にんじんのバター煮、グリーンピース、アスパラガスが並んでいる。肉を切ると、赤みの残る断面から肉汁がにじんだ。


 直樹は一口食べた。


 メアリーが待っている。


「うまいです」


「そうでしょう」


 メアリーは満足して自分の席へ戻った。


 食事が進み、4人の皿から肉が半分ほどなくなったころ、直樹は口を開いた。


「明日から、1週間ほど休みませんか」


 エレノアが顔を上げた。


「誰がですか」


「僕たち4人です」


 メアリーが驚いた。


「4人ともですか」


「はい」


 ルイーザは直樹を見た。


「工房も屋敷も置いて?」


「1週間なら大丈夫でしょう。工房には責任者も職人もいます。毎日、僕たち4人が立っていなければ仕事にならない状態ではありません」


 エレノアはすぐには反対しなかった。


 今の工房には、それぞれの持ち場を任された責任者と職人がいる。注文を受け、材料を確認し、製造を進める仕組みもできていた。1週間ほどなら、必要な指示を残しておけば困らない。


「どこへ行くのですか」


 ルイーザが聞いた。


 直樹は答えた。


「東京です」


 3人がそろって直樹を見た。


「東京?」


 メアリーが聞き返した。


「はい」


「日本の?」


「そうです」


 ルイーザが尋ねた。


「明日から、ですか」


「明日の朝に出ます」


 今度はエレノアが聞いた。


「1週間で帰ってこられるのですか」


「帰れます」


「ロンドンから東京まで行って?」


「はい」


 エレノアは直樹の顔を見た。


 メアリーもルイーザも黙っている。


 どう考えても、普通の船旅ではない。それでも直樹は、何でもないことのようにローストビーフを食べていた。


 メアリーが尋ねた。


「荷物は、どれくらい持っていけばいいのですか」


「大きな荷物はいりません。着替えを少し用意してください」


「船の中で着る服は?」


「船には乗りません」


 メアリーの手が止まった。


「では、汽車ですか」


「汽車でもありません」


「馬車?」


「違います」


「では、どうやって東京へ行くのですか」


「それは僕に任せてください」


 ルイーザが笑った。


「ずいぶん不親切な旅行案内ですね」


「でも、面白いと思いますよ」


「何があるのですか」


「それも、行ってから見た方がいいです」


 ルイーザはエレノアを見た。


「私は行きたいです」


「あなたはまだ何も聞いていませんよ」


「だから行きたいのです」


 メアリーも続いた。


「私も行きます」


 エレノアが尋ねた。


「あなたまで?」


「東京の料理を食べてみたいです」


「まだ料理の話は何もしていません」


「日本には魚が多いのでしょう」


 直樹は笑った。


「魚だけではありません。肉もあります。野菜もあります。菓子もあります」


「それなら問題ありません」


「何の問題ですか」


「食事です」


 エレノアはメアリーを見てから、直樹へ向き直った。


「危険はないのですか」


「僕と一緒にいれば大丈夫です」


「何を持っていけばいいですか」


「普段の旅行より少なくて結構です」


「金は?」


「僕が用意します」


「それでは、あなたに全部払わせることになります」


「今回はそれでいいでしょう」


「よくありません」


 エレノアはすぐに答えた。


 直樹は笑った。


「分かりました。向こうへ着いたら、それぞれ使える金を渡します」


「それなら結構です」


 ルイーザが言った。


「もう行くことになっていますね」


 エレノアは紅茶のカップへ手を伸ばした。


「あなたたち2人だけ行かせる方が心配です」


「では、4人ですね」


「そうなります」


 その夜の食卓は、急に旅行の話でにぎやかになった。


 メアリーは東京の市場を見たいと言った。魚や肉や野菜がどのように売られているか、自分の目で確かめたいらしい。


 ルイーザは店と服に興味を示した。


「東京の女性は、どんな服を着ているのでしょう」


「いろいろです」


「それでは分かりません」


「実際に見れば分かります」


「また、それですか」


「その方が面白いでしょう」


 エレノアは旅行そのものより先に、工房へ残す指示を考えていた。


「明日の朝までに帳簿を整理します。支払い予定と材料の注文も書いておきます」


「1週間ですよ」


「1週間だからです。戻ってから帳簿が混乱していたら、せっかくの旅行を後悔します」


 直樹は反論しなかった。


 エレノアは、旅行へ行くと決めれば行く女である。しかし、任せるべき仕事を放り出して出発することはない。誰に何を任せるのかを決め、自分がいない間に困らないよう整えてから動く。


 食後には、トライフルと焼きリンゴが出た。


 メアリーは早くも翌日の昼食を気にしていた。


「東京に着いたら、最初に何を食べますか」


「まだ決めていません」


「では、今決めましょう」


「東京へ着いてから考えればいいでしょう」


「空腹になってから考えるのは遅いです」


 ルイーザが笑った。


「あなたは旅行より昼食の方が大事なのですね」


「両方大事です」


 エレノアは焼きリンゴを食べながら言った。


「私は、まず東京の町を見たいです」


「見られますよ」


「大きな町なのですか」


「大きいです」


「ロンドンより?」


 直樹は答えた。


「見てから決めてください」


 エレノアは直樹を見た。


「明日、何を見せるつもりなのか知りませんが、ずいぶん楽しそうですね」


「楽しいと思います」


「あなたがそう言うなら、期待しておきます」


 直樹は、それ以上話さなかった。


 東京へ着けば、3人は自分の目で見ることになる。今夜は旅行に行くと決めるだけで十分だった。


 ◇ ◇ ◇


 (1872年10月21日月曜日午前8時、イングランド・ロンドン、モロー邸)


 翌朝、3人はいつもより早く起きた。


 エレノアは工房の帳簿と支払い予定を整理し、責任者へ必要な指示を残した。ルイーザは屋敷へ来る客と手紙の扱いを使用人に伝えた。メアリーは台所を任せる者に食材の仕入れと保存について説明した。


 1週間である。


 工房も屋敷も、3人がいなければ止まるほど脆くはない。


 午前9時、エレノア、メアリー、ルイーザは直樹の部屋に集まった。


 3人とも旅行用の服を着ていた。大きな鞄はない。直樹に言われた通り、着替えと身の回りの品を少し持っているだけだった。


 メアリーが部屋を見回した。


「馬車は来ていませんね」


「使いません」


「駅へ行かないのですか」


「行きません」


 ルイーザが尋ねた。


「では、本当にここから東京へ行くのですか」


「そうです」


 エレノアは腕を組んだ。


「昨夜から考えましたが、やはり分かりません」


「すぐ分かりますよ」


 直樹は小型のリモコンを手に取った。


 3人の視線がそこへ集まった。


 メアリーが尋ねた。


「それは何ですか」


「今は気にしなくていいです」


「気になります」


「東京へ着いたら話します」


「またですか」


 直樹は笑った。


「では、僕に触れてください」


 3人が直樹を見た。


 エレノアが聞いた。


「なぜですか」


「離れないためです」


 ルイーザが直樹の左腕につかまった。


「こうですか」


「はい」


 メアリーも右腕を取った。


 エレノアは2人を見てから、直樹の肩に手を置いた。


「これでいいのですね」


「十分です」


「どのくらいかかりますか」


「かかりません」


「何がですか」


「東京までです」


 メアリーは直樹の顔を見た。


「本気なのですね」


「はい」


 直樹はリモコンを操作した。


 次の瞬間、4人はモロー邸から消えた。

 第11話前編1では、直樹がエレノア、メアリー、ルイーザを1週間の東京旅行へ誘う。3人は日本へ行くことだけを知らされ、移動方法も、着いた先の年代も知らない。工房と屋敷は責任者や使用人に任せ、翌朝、3人は直樹の体に触れたままモロー邸を出発する。船にも汽車にも乗らず、時間をかけることもなく、4人は東京へ向かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。