第11話(前編1)――「東京へ行こう」
1872年10月20日、直樹はロンドンのモロー邸へ戻る。夕食の席には、エレノア、メアリー、ルイーザがそろっていた。直樹は3人に、明日から1週間ほど東京へ遊びに行かないかと誘う。3人は遠い東洋への旅を想像するが、直樹は船の手配も旅程も説明しない。ただ、自分に任せてほしいと言うだけだった。
(1872年10月20日日曜日午後6時前、イングランド・ロンドン、モロー邸)
直樹がモロー邸へ戻ったのは、夕食の支度が整う少し前だった。
玄関の扉が開くと、外の冷たい空気とともに直樹が入ってきた。屋敷の中には石炭を燃やす暖炉の匂いがあり、台所からは焼いた牛肉の香りが流れていた。
物音を聞いたメアリーが玄関広間へ出てきた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
メアリーは直樹の外套を受け取った。
「夕食ができています。今日はローストビーフです」
「それはありがたい。腹が減っている」
「では、手を洗って食堂へいらしてください」
直樹が食堂へ入ると、エレノアとルイーザがすでに席に着いていた。
「お帰りなさい、ナオキ」
エレノアが言った。
「ただいま」
ルイーザも直樹を見た。
「ちょうどよいところです。メアリーが朝から肉の焼き加減を気にしていました」
料理を運ばせていたメアリーが振り返った。
「失敗していません」
「まだ誰も食べていませんよ」
「匂いで分かります」
ルイーザが笑い、直樹も席に着いた。
最初に出たのは、牛肉から取った澄んだスープだった。細く切った野菜が入り、湯気とともに肉の香りが立った。外の冷気に当たってきた直樹には、その熱さが心地よかった。
次に、茹でたサーモンへパセリソースをかけた皿が出た。淡い色の魚の身にナイフを入れると、柔らかくほぐれた。
直樹は魚を口に運んだ。
メアリーが尋ねた。
「どうですか」
「うまいですよ」
「魚のことですか。それとも今夜の料理全部ですか」
「まだ途中でしょう」
「では、全部食べてから聞きます」
やがて主菜のローストビーフが運ばれてきた。
厚く切った牛肉の横には、ヨークシャープディング、焼いたじゃがいも、にんじんのバター煮、グリーンピース、アスパラガスが並んでいる。肉を切ると、赤みの残る断面から肉汁がにじんだ。
直樹は一口食べた。
メアリーが待っている。
「うまいです」
「そうでしょう」
メアリーは満足して自分の席へ戻った。
食事が進み、4人の皿から肉が半分ほどなくなったころ、直樹は口を開いた。
「明日から、1週間ほど休みませんか」
エレノアが顔を上げた。
「誰がですか」
「僕たち4人です」
メアリーが驚いた。
「4人ともですか」
「はい」
ルイーザは直樹を見た。
「工房も屋敷も置いて?」
「1週間なら大丈夫でしょう。工房には責任者も職人もいます。毎日、僕たち4人が立っていなければ仕事にならない状態ではありません」
エレノアはすぐには反対しなかった。
今の工房には、それぞれの持ち場を任された責任者と職人がいる。注文を受け、材料を確認し、製造を進める仕組みもできていた。1週間ほどなら、必要な指示を残しておけば困らない。
「どこへ行くのですか」
ルイーザが聞いた。
直樹は答えた。
「東京です」
3人がそろって直樹を見た。
「東京?」
メアリーが聞き返した。
「はい」
「日本の?」
「そうです」
ルイーザが尋ねた。
「明日から、ですか」
「明日の朝に出ます」
今度はエレノアが聞いた。
「1週間で帰ってこられるのですか」
「帰れます」
「ロンドンから東京まで行って?」
「はい」
エレノアは直樹の顔を見た。
メアリーもルイーザも黙っている。
どう考えても、普通の船旅ではない。それでも直樹は、何でもないことのようにローストビーフを食べていた。
メアリーが尋ねた。
「荷物は、どれくらい持っていけばいいのですか」
「大きな荷物はいりません。着替えを少し用意してください」
「船の中で着る服は?」
「船には乗りません」
メアリーの手が止まった。
「では、汽車ですか」
「汽車でもありません」
「馬車?」
「違います」
「では、どうやって東京へ行くのですか」
「それは僕に任せてください」
ルイーザが笑った。
「ずいぶん不親切な旅行案内ですね」
「でも、面白いと思いますよ」
「何があるのですか」
「それも、行ってから見た方がいいです」
ルイーザはエレノアを見た。
「私は行きたいです」
「あなたはまだ何も聞いていませんよ」
「だから行きたいのです」
メアリーも続いた。
「私も行きます」
エレノアが尋ねた。
「あなたまで?」
「東京の料理を食べてみたいです」
「まだ料理の話は何もしていません」
「日本には魚が多いのでしょう」
直樹は笑った。
「魚だけではありません。肉もあります。野菜もあります。菓子もあります」
「それなら問題ありません」
「何の問題ですか」
「食事です」
エレノアはメアリーを見てから、直樹へ向き直った。
「危険はないのですか」
「僕と一緒にいれば大丈夫です」
「何を持っていけばいいですか」
「普段の旅行より少なくて結構です」
「金は?」
「僕が用意します」
「それでは、あなたに全部払わせることになります」
「今回はそれでいいでしょう」
「よくありません」
エレノアはすぐに答えた。
直樹は笑った。
「分かりました。向こうへ着いたら、それぞれ使える金を渡します」
「それなら結構です」
ルイーザが言った。
「もう行くことになっていますね」
エレノアは紅茶のカップへ手を伸ばした。
「あなたたち2人だけ行かせる方が心配です」
「では、4人ですね」
「そうなります」
その夜の食卓は、急に旅行の話でにぎやかになった。
メアリーは東京の市場を見たいと言った。魚や肉や野菜がどのように売られているか、自分の目で確かめたいらしい。
ルイーザは店と服に興味を示した。
「東京の女性は、どんな服を着ているのでしょう」
「いろいろです」
「それでは分かりません」
「実際に見れば分かります」
「また、それですか」
「その方が面白いでしょう」
エレノアは旅行そのものより先に、工房へ残す指示を考えていた。
「明日の朝までに帳簿を整理します。支払い予定と材料の注文も書いておきます」
「1週間ですよ」
「1週間だからです。戻ってから帳簿が混乱していたら、せっかくの旅行を後悔します」
直樹は反論しなかった。
エレノアは、旅行へ行くと決めれば行く女である。しかし、任せるべき仕事を放り出して出発することはない。誰に何を任せるのかを決め、自分がいない間に困らないよう整えてから動く。
食後には、トライフルと焼きリンゴが出た。
メアリーは早くも翌日の昼食を気にしていた。
「東京に着いたら、最初に何を食べますか」
「まだ決めていません」
「では、今決めましょう」
「東京へ着いてから考えればいいでしょう」
「空腹になってから考えるのは遅いです」
ルイーザが笑った。
「あなたは旅行より昼食の方が大事なのですね」
「両方大事です」
エレノアは焼きリンゴを食べながら言った。
「私は、まず東京の町を見たいです」
「見られますよ」
「大きな町なのですか」
「大きいです」
「ロンドンより?」
直樹は答えた。
「見てから決めてください」
エレノアは直樹を見た。
「明日、何を見せるつもりなのか知りませんが、ずいぶん楽しそうですね」
「楽しいと思います」
「あなたがそう言うなら、期待しておきます」
直樹は、それ以上話さなかった。
東京へ着けば、3人は自分の目で見ることになる。今夜は旅行に行くと決めるだけで十分だった。
◇ ◇ ◇
(1872年10月21日月曜日午前8時、イングランド・ロンドン、モロー邸)
翌朝、3人はいつもより早く起きた。
エレノアは工房の帳簿と支払い予定を整理し、責任者へ必要な指示を残した。ルイーザは屋敷へ来る客と手紙の扱いを使用人に伝えた。メアリーは台所を任せる者に食材の仕入れと保存について説明した。
1週間である。
工房も屋敷も、3人がいなければ止まるほど脆くはない。
午前9時、エレノア、メアリー、ルイーザは直樹の部屋に集まった。
3人とも旅行用の服を着ていた。大きな鞄はない。直樹に言われた通り、着替えと身の回りの品を少し持っているだけだった。
メアリーが部屋を見回した。
「馬車は来ていませんね」
「使いません」
「駅へ行かないのですか」
「行きません」
ルイーザが尋ねた。
「では、本当にここから東京へ行くのですか」
「そうです」
エレノアは腕を組んだ。
「昨夜から考えましたが、やはり分かりません」
「すぐ分かりますよ」
直樹は小型のリモコンを手に取った。
3人の視線がそこへ集まった。
メアリーが尋ねた。
「それは何ですか」
「今は気にしなくていいです」
「気になります」
「東京へ着いたら話します」
「またですか」
直樹は笑った。
「では、僕に触れてください」
3人が直樹を見た。
エレノアが聞いた。
「なぜですか」
「離れないためです」
ルイーザが直樹の左腕につかまった。
「こうですか」
「はい」
メアリーも右腕を取った。
エレノアは2人を見てから、直樹の肩に手を置いた。
「これでいいのですね」
「十分です」
「どのくらいかかりますか」
「かかりません」
「何がですか」
「東京までです」
メアリーは直樹の顔を見た。
「本気なのですね」
「はい」
直樹はリモコンを操作した。
次の瞬間、4人はモロー邸から消えた。
第11話前編1では、直樹がエレノア、メアリー、ルイーザを1週間の東京旅行へ誘う。3人は日本へ行くことだけを知らされ、移動方法も、着いた先の年代も知らない。工房と屋敷は責任者や使用人に任せ、翌朝、3人は直樹の体に触れたままモロー邸を出発する。船にも汽車にも乗らず、時間をかけることもなく、4人は東京へ向かった。




