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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第10話(後編2)――「焼け跡から戻る四人」

 1898年のユーコンから俊介を連れ戻した直樹は、成城の金庫から双方向のリモコンを取り出す。次の目的は、1946年2月の東京へ飛ばされた尚人と順子の救出である。事情も段取りも知らない俊介は直樹の指示に従い、2人で終戦翌年の焼け跡へ向かう。

 直樹は、俊介を連れて屋敷の奥へ向かった。


 廊下には家政婦が用意した水差しと着替えが置かれていたが、直樹はまだ手をつけなかった。服の泥を落とすより先に、やることがあった。尚人と順子は1946年2月の東京にいる。今も焼け跡の寒さの中で、食べ物と寝る場所を探しているかもしれない。


 書斎の扉を閉めると、直樹は壁際の棚を動かし、奥に隠していた金庫を開けた。


 俊介は、直樹の横に立っていた。成城の屋敷の仕組みも、金庫の中身も、まだ俊介には分からない。いま知っているのは、フランス女が死んだこと、理恵と達也が1986年にいること、そして尚人と順子が1946年2月の東京へ飛ばされていることだった。


 佑馬の死についても、俊介はすでに聞いている。


 だが、それは順子にはまだ伝えられていない。順子は1946年へ飛ばされた時点で、佑馬がその後どうなったかを知るはずがない。だから、救出の場でその名を出すことはできない。


 金庫の中には、封筒、現金、書類、それから箱に収められた双方向のリモコンがあった。


 直樹は、その中から一つを取り出した。


 1872年の香港で作った試作品とは違い、外装は整い、表示窓も見やすかった。ボタンの戻りも確かで、手に持った時の重さも安定している。直樹は机の上にリモコンを置き、行き先を合わせた。


 1946年2月。


 東京。


 有楽町付近。


 尚人と順子が落とされた場所に近い焼け跡である。


「俊介さん」


 直樹はリモコンを持ち、俊介に向き直った。


「このリモコンで行きます。僕はこのままの身体で行くので、※を押してから1を押します。俊介さんも今の身体のまま行ってください。※を押してから1です」


「分かった」


 俊介は表示を確かめ、自分の指で※を押し、それから1を押した。


 直樹も同じように、※を押してから1を押した。


「向こうでは、僕が周囲を見ます。人目があれば、余計なことは言わないでください。尚人さんと順子さんを見つけたら、すぐ戻ります」


「私はお前に合わせる。場所も段取りも知らないからな」


「お願いします」


 直樹は左手で俊介の手を握った。


 俊介の手は35歳の男のものだった。ユーコンで見つけた時の骨ばった老人の手ではない。それでも、握り返す力には迷いがなかった。直樹はリターンキーへ指を置いた。


「行きます」


 ボタンが沈んだ。


 書斎の床が消えた。


 次に足の下へ戻ってきたのは、磨かれた板ではなく、冷えた土と砕けた瓦だった。


 風が顔を打った。


 そこは1946年2月の東京だった。


 灰の匂いがした。焼けた木、濡れた土、古い煙、煮炊きの匂いが混じっている。遠くでは電車の音がしたが、1986年の東京とは違い、鉄が軋む音まで荒く聞こえた。道の両側には焼け跡が広がり、柱だけが黒く残った場所や、板切れとトタンで作った小屋が並んでいた。


 俊介は声を出さなかった。


 彼は目の前の東京を見ていた。1946年。終戦の翌年。自分が生まれる前の東京でありながら、父や母の世代が確かに通ってきた東京でもある。その場所で、順子を探すことになるとは、俊介自身にもまだ飲み込めなかった。


「ここで探すんだな」


「はい。あまり離れていないはずです」


 直樹は周囲を見回した。


 粗末な小屋の前で、女が鍋をかき回している。復員兵らしい男が、肩に荷を背負って歩いている。子どもが2人、焼けた柱の陰からこちらを見ていた。直樹と俊介の服は、この場所では目立つ。長く立ち止まれば、不審に見られる。


 直樹は道の向こうへ目を走らせた。


 少し離れた場所で、男と女が火のそばに立っていた。


 男は軍服の上着を着ていた。背が高く、立ち方に見覚えがある。女はもんぺと羽織を重ね、髪をまとめている。焼け跡の女に見えるよう身なりを変えていたが、顔を横に向けた瞬間、直樹には分かった。


「いました」


 直樹は声を抑えた。


 俊介もその方向を見た。


 男がこちらに気づいた。目が合った瞬間、尚人の顔が変わった。驚きと警戒が同時に出た。直樹が来たということは、戻る道があるという意味でもある。だが、この場には他人の目がある。


 順子も顔を上げた。


 順子の目は、まず直樹を見た。次に、俊介へ移った。


 若い男の姿になっている。だが、順子はすぐに分かった。顔つき、目元、立ち方。35歳の姿でも、そこにいるのは倉田俊介だった。


「俊介さん……」


 順子の声が乱れた。


 火のそばにいた女が、順子の顔を見た。


「知り合いかい」


 順子はすぐに母親の顔へ戻った。


「はい。親戚です。探していた人です」


 それだけ言うと、順子は女に頭を下げた。


「お兼さん、お世話になりました。必ず礼に参ります」


 お兼と呼ばれた女は、直樹と俊介を見比べた。疑いは残っていた。だが、焼け跡では、親戚を探す者も、迎えに来る者も珍しくない。行く先があるなら、ここで引き止める理由はなかった。


「行けるなら行きな。ここは長くいる場所じゃないよ」


「ありがとうございます」


 順子はもう一度頭を下げた。


 尚人は直樹へ近づき、声を落とした。


「直樹、どうやって来た」


「成城からです。俊介さんも連れ戻しました」


 尚人は俊介を見た。


 聞きたいことはいくつもあるはずだった。なぜ生きているのか。なぜ若い姿なのか。フランス女はどうなったのか。だが、ここは焼け跡の東京であり、近くにはお兼も子どもたちもいる。尚人はそこで問いを増やさなかった。


「すぐ戻れるのか」


「戻れます。ここで話すのは危険です」


「分かった」


 順子は俊介の前に立った。


 言葉を出すまでに、間が空いた。夫の父であり、自分が長く行方を知らなかった男である。その男が、若い姿で目の前にいる。順子は手を伸ばしかけたが、お兼の視線があることを思い出し、手を下ろした。


 俊介は順子の顔を見た。


 佑馬の名が喉まで出た。


 だが、出さなかった。


 順子はまだ知らない。ここで言えば、順子は1946年の焼け跡で、息子の死を突然聞かされることになる。しかも周囲には、こちらの事情を知らない人間がいる。そんな場所で話すことではなかった。


「順子さん、無事でよかった」


 俊介はそれだけ言った。


 順子は両手を前で握った。


「俊介さんこそ……本当に、ご無事だったのですね」


「話は戻ってからだ。今は直樹に従おう」


「はい」


 順子は顔を引き締めた。


 直樹は周囲を確認した。焼け跡の小屋から、何人かがこちらを見ている。米軍のジープの音も遠くから近づいていた。これ以上、この場にいてはいけない。


「四人で戻ります。全員、手をつないでください」


 尚人が順子の手を取った。順子は俊介の手を握った。俊介は直樹の手を握る。直樹はリモコンを持ち、表示を確かめた。


 1986年9月20日。


 成城。


 尚人の邸宅。


「身体はそのままで戻ります。僕が操作します。手を離さないでください」


 尚人は直樹の手元を見た。


「任せる」


 直樹はリターンキーへ指を置いた。


 焼け跡の風が、四人の服を揺らした。お兼の鍋から湯気が上がり、子どもたちはまだこちらを見ている。順子は最後に、お兼の小屋へ目を向けた。あの火のそばで、尚人と順子は一晩を越えた。その恩は忘れられない。だが、今は戻るしかなかった。


 直樹はボタンを押した。


 1946年の東京が消えた。


 次に足元へ触れたのは、成城の屋敷の床だった。


 1986年9月20日土曜日、成城。


 四人は、書斎に戻っていた。


 窓の外には、よく手入れされた庭が見える。焼け跡の灰も、冷たい風も、煙の匂いもない。廊下の向こうからは、家政婦が動く気配がした。1946年の東京から戻ったばかりの尚人と順子には、その平穏さがかえって現実離れして見えた。


 順子は自分の手を見た。


 指はまだ俊介の手を握っていた。もう人目を気にする必要はない。順子は手を離さないまま、顔を上げた。


「本当に戻ったのですね」


「戻りました」


 直樹が答えた。


 尚人は周囲を見回し、成城の書斎だと確かめた。机、金庫、窓、棚。見慣れた部屋である。それなのに、ほんの少し前まで焼け跡の小屋で火に当たっていたせいで、何もかもが遠い場所のように感じられた。


 順子は俊介を見ていた。


「俊介さん、どうして……」


 その先は言葉にならなかった。


 俊介は順子の手から視線を外し、直樹へ向けた。佑馬のことをここで話すかどうか、判断を求める目だった。


 直樹は首を横に振った。


 今ではない。


 順子は1946年から戻ったばかりである。服は煤で汚れ、顔には疲れが残っている。尚人も同じだった。まずは水と着替えが先だった。佑馬の死を伝えるなら、腰を落ち着け、理恵と達也の所在も合わせて話さなければならない。


 尚人はそのやり取りを見た。


「直樹。何かあるのか」


「あります。ですが、まず身なりを整えてください。順子さんと尚人さんは、1946年の服のままです。この姿で家の者に見られると説明が面倒になります」


 尚人は自分の軍服の上着を見た。順子も、もんぺと羽織を見下ろした。


 成城の書斎に立つには、あまりにも場違いな姿だった。


「分かった。家の者には何と説明する」


 直樹は扉の方を見た。


「詳しいことは言いません。汚れた服で戻った客がいる。着替えと湯を用意してくれ。それだけで十分です」


「それでいい」


 尚人は答えた。


 順子は、ようやく俊介の手を離した。


 俊介は何も言わなかった。順子を見れば、佑馬の名を出したくなる。だが、今は違う。順子はまだ息子が死んだことを知らない。知るべき時は来る。だが、それは焼け跡から戻った直後の、立ったままの書斎ではない。


 直樹は書斎の扉を開け、廊下にいた家政婦を呼んだ。


「湯と着替えを用意してください。客が増えました。誰にも余計なことは言わなくていい」


 家政婦は部屋の中を見て、息をのんだ。


 尚人は焼け跡の復員兵のような姿で立ち、順子はもんぺと羽織を着ている。俊介も、ついさきほどまでユーコンにいた服装の名残を残している。普通の客には見えない。


 それでも家政婦は、声を上げなかった。


「承知しました」


 家政婦が廊下を去ると、書斎に残った四人の間に、ようやく息を整える時間ができた。


 1898年のユーコンから、俊介は戻った。


 1946年2月の東京から、尚人と順子も戻った。


 だが、まだ話していないことがある。


 佑馬の死を、順子はまだ知らない。


 成城の屋敷には、失われた者たちが戻った。けれど、戻った者たちがこれから聞く話は、再会の喜びだけでは終わらなかった。


 直樹と俊介は1946年2月の東京で尚人と順子を見つけ、4人そろって1986年の成城へ戻った。しかし、順子にはまだ佑馬の死が伝えられていない。直樹たちは焼け跡から戻った2人に湯と着替えを用意し、詳しい話は身なりを整えてから伝えることにした。

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