第10話(後編1)――「成城への帰還」
1898年のユーコンで俊介を発見した直樹は、自分が早乙女尚人の孫であり、救出のために来たことを明かす。直樹のリモコンで1986年の成城へ戻った俊介は、35歳の体を取り戻す。だが、そこで待っていたのは、家族の無事だけでなく、佑馬の死と、尚人と順子が1946年2月の東京へ飛ばされたという知らせであった。
俊介は、直樹の顔を見つめたまま動かなかった。
膝の上には、修理中のランプがある。泥の上には、小さなネジが落ちていた。だが、俊介はそれを拾わなかった。目の前の若い男が、自分の名を呼び、早乙女尚人の孫だと名乗った。その言葉だけで、十分に異常だった。
「早乙女直樹……」
「はい」
「お前は、私を探してここへ来たのか」
「そうです。詳しい話は戻ってからします。ここは人目が多い。まず、あなたを1986年の成城へ連れて行きます」
「1986年の成城だと」
俊介の目が細くなった。
直樹は外套の内側からリモコンを出した。真鍮の小さな箱である。1872年の工場で作ったものなので、表面には細かな傷があり、角も少し歪んでいた。
俊介はリモコンを見た。
疲れた老人の顔から、表情が変わった。何が起きているかは分かっていない。だが、目の前の道具がただの小物ではないことだけは、すぐに見抜いた。
「それで来たのか」
「はい」
「見せろ」
直樹はリモコンを渡した。
俊介は表の目盛り、針、ボタンの並びを見た。裏蓋を開け、銅線の巻き方、接点、水晶板、絶縁板の収まりを確かめる。事情は知らなくても、技術者として見るべきところは分かっていた。
「粗いな」
「1872年の部品で作りました」
「それなら動いただけでも大したものだ」
俊介はそう言って、リモコンを直樹へ返した。
「操作はお前がやれ。私はまだ何も知らん」
「分かりました」
直樹はリモコンを持ち直した。
小さな窓に文字が浮かんだ。
行きたい年代を押せ。
直樹は指先で、1、9、8、6と順に押した。ゴムが沈み、戻るたびに小さく鳴った。
次の行に注意書きが続いた。
「※を押してから1を押す」と、そのままの身体で行ける。
「※を押してから2を押す」と、押した年代の身体で行ける。
直樹は、※を押してから1を押した。
「俺は、このままの身体で行きます」
俊介は表示を読んだ。
「私は、1986年当時の身体を選べばいいのか」
「はい。あなたは2023年で72歳の時に飛ばされた。ここでも72歳のままです。1986年へ戻るなら、その時代の身体を選べます」
俊介は、自分の手を見た。
骨ばった指、黒く汚れた爪、節の目立つ手。ユーコンで修理仕事をしながら生きてきた手だった。
「1986年なら、私は35歳だな」
「はい」
「なら、それで行く。今の体では長く動けん」
俊介は、※を押してから2を押した。
直樹は俊介の横へ回った。
「肩につかまってください」
「歩ける」
「転移の時に倒れられると困ります」
俊介は少しだけ顔をしかめたが、直樹の肩につかまった。
「よし。押せ」
直樹は左手で俊介を支え、右手でリターンキーを押した。
ユーコンの泥道が消えた。
川の匂い、馬の糞の臭い、焚き火の煙、採掘場へ向かう男たちの声が、一瞬で遠のいた。
次に足が触れたのは、硬く磨かれた床だった。
1986年9月20日土曜日午後3時、成城。尚人の邸宅。
二人は、成城の屋敷の一室にいた。
直樹は自分の手を見た。いつもの20歳の手だった。顔も体も変わっていない。
隣にいる俊介は、もう72歳の老人ではなかった。
白髪は消え、背筋が伸び、深いしわもなくなっている。35歳の男がそこに立っていた。だが、目だけは同じだった。ユーコンの修理小屋で、壊れたランプを見ていた時と同じ、細かな狂いを見逃さない目だった。
俊介は自分の両手を見た。
指を曲げ、開き、肩を回した。しばらく黙って、自分の体が若いことを確かめていた。
「本当に、1986年か」
「はい。成城です」
「私は、35歳の身体に戻っている」
「そのはずです」
俊介が部屋を見回した時、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいた。
家政婦が部屋へ飛び込んできた。直樹を見ると、顔色を変え、すぐに頭を下げた。
「直樹様、ご無事でしたか」
「ああ。何があった」
「暴漢二人は警察に逮捕され、連れて行かれました。理恵様はお帰りになりました」
「理恵に怪我は」
「ございません。ただ、ひどく驚いておられます」
「分かった」
家政婦は、そこで初めて俊介を見た。
見知らぬ男が直樹のそばに立っている。服には泥がつき、髪や顔つきも、普通の来客とはまるで違っていた。だが、家政婦は余計な声を出さなかった。
「こちらの方は……」
「倉田俊介さんだ。大事な客だ。誰にも余計なことは言わなくていい」
「はい。承知しました」
「水と着替えを用意してくれ。それから、理恵には俺が戻ったと伝えてくれ。俺がすぐ行く」
「すぐに用意いたします」
家政婦は頭を下げ、急いで部屋を出ていった。
俊介は、まだ状況を飲み込めていなかった。
「直樹」
「はい」
「あのフランス女はどうしている」
俊介の声は低かった。
彼にとって、まず確かめるべき相手はフランス女だった。あの女は俊介を騙し、俊介自身が作ったリモコンを奪い、殺しかけた。最後には思い直したのか、殺さずに1898年のユーコンへ飛ばした。俊介はその後のことを何も知らない。
「死にました」
俊介の目が動いた。
「お前がやったのか」
「結果としては、そうです」
直樹は答えた。
「あの女は、あなたから奪ったリモコンを使っていました。あなたを1898年のユーコンへ飛ばしたあと、今度は尚人さんと順子さんを1946年2月の東京へ飛ばしました。成城にも手下を入れ、暴漢を使って理恵さんを狙いました」
「理恵を?」
俊介の声が変わった。
「はい。ただ、理恵さんは無事です。暴漢2人は警察に逮捕されました」
俊介は息を止めるように黙った。
「達也は」
「健在です。理恵さんも達也さんも、1986年にいます」
俊介は目を閉じた。
若返った顔に、深い疲れが出た。72歳の体でユーコンに捨てられた男が、ようやく家族の名を聞いたのである。理恵と達也が生きている。それだけは、俊介の肩から少しだけ重しを外した。
「佑馬は」
直樹は、すぐには答えられなかった。
俊介もそれを見て、顔を強張らせた。
「佑馬は、どうした」
「亡くなっています」
「病気か」
「違います。地面師たちに騙されました。土地と金をめぐって追い詰められ、自殺しました」
俊介は、何も言わなかった。
部屋の空気が重くなった。窓の外では、1986年の成城の庭が明るい。だが、その明るさは俊介の顔には届かなかった。
「佑馬が、自殺したのか」
「はい」
「順子は」
「順子さんは、尚人さんと一緒に1946年2月の東京へ飛ばされています。有楽町近くの焼け跡です。生きていると見ています」
俊介は唇を結んだ。
順子は、佑馬の妻である。俊介にとっては息子の嫁であり、理恵と達也の母でもある。その順子まで、1946年の焼け跡に飛ばされている。俊介は目の前の事実を、ひとつずつ飲み込むしかなかった。
「つまり、佑馬は死に、順子は1946年。理恵と達也は1986年にいる。そういうことか」
「はい」
「そして、あのフランス女は死んだ」
「はい」
俊介は、ゆっくり息を吐いた。
「どう死んだ」
「僕はあの女を追いました。女は奪ったリモコンで逃げようとした。行き先は1872年4月26日、イタリア王国ナポリ近郊、ヴェスヴィオ火山の北西斜面でした。僕が飛びついたせいで位置がずれ、女はリモコンごと溶岩に落ちました」
「リモコンもか」
「はい。あの女が持っていたものは焼けました。少なくとも、もうあの女が戻ってくることはありません」
俊介は短く頷いた。
怒りも、安堵も、すぐには言葉にならなかった。息子は死んだ。孫は生きている。息子の妻は1946年にいる。自分を過去へ捨てた女は死んだ。あまりにも多すぎる事実が、一度に戻ってきた。
直樹は続けた。
「あなたを連れ戻したのは、あなたが1898年のユーコンに飛ばされていたからです。居場所が分かった以上、放っておく理由はありません」
俊介は、直樹を見た。
「……そうか」
「はい。それに、まだ尚人さんと順子さんが1946年2月の東京にいます。場所は有楽町近くの焼け跡です。生きていると見ています」
俊介は顔を上げた。
「なら、次は2人を迎えに行くんだな」
「はい。成城の金庫に、尚人さんが作ったリモコンと、僕が作ったリモコンがあります。1872年で作った試作品もありますが、救出には金庫のリモコンを使います」
「分かった」
「今から金庫へ行きます。リモコンを出して、すぐ1946年へ向かいます。細かい話は、尚人さんと順子さんを戻してからにします」
俊介は頷いた。
「案内してくれ」
「はい」
1898年のユーコンから、倉田俊介は戻った。
だが、尚人と順子はまだ、1946年2月の東京にいる。
直樹は俊介を1898年のユーコンから1986年の成城へ連れ戻した。俊介は35歳の体へ戻り、理恵と達也が無事であることを知る一方、佑馬の死と、尚人と順子が1946年の焼け跡にいることを知らされる。直樹は成城の金庫にあるリモコンを使い、次は尚人と順子を救出するため、俊介とともに1946年へ向かうことにした。




