第10話(中編)――「リモコン」
香港と上海の支店が動き始める中、直樹は工場へ通い、時間移動用のリモコンをひそかに作り続ける。失敗を重ねた末に小物を往復させることに成功した直樹は、1898年のユーコンへ向かう。目的は、金鉱地帯へ飛ばされた倉田俊介を捜し出すことである。
香港支店と上海支店の仕事が動き出すと、直樹は夜の時間を工場に回すようになった。
表向きは、電灯と蓄音機に使う新しい部品の試作だった。発電機、銅線、接点、絶縁板、時計部品、小型の電池、真鍮のケース。工場の職人たちは、直樹が新しい電気制御の道具を作っているのだと思っていた。
直樹が作っているのは、リモコンだ。
基準にするのは、1986年の成城に残っている双方向のリモコンである。
リモコンは小さな真鍮の箱に収めた。表に目盛りを2つ、針を3本、押し込み式のボタンを1つ付ける。中には銅線、接点、絶縁板、時計部品、磨いた水晶板を組み込んだ。部品の精度は足りない。接点はすぐ焼け、針はわずかに狂い、電池も弱かった。
直樹は何度も作り直した。
小さな釘を送る。焦げて戻る。銅貨を送る。戻らない。布切れを送る。位置がずれて床に落ちる。失敗のたびに接点を磨き、銅線を巻き直し、目盛りを直した。
エレナは、その作業に気づかなかった。
白い館では、エレナが屋敷の暮らしを整えていた。使用人の食事、客間の支度、洗濯、水場、厨房、商館の客への茶菓子。直樹が夜に工場へ行くのも、事業が忙しいからだと思っていた。直樹が戻れば、温かい食事を出し、上着を受け取り、疲れているなら先に休ませた。
エレナは直樹を信じていた。
同居はしている。だが、まだ正式な結婚はしていない。そのため、白い館ではエレナが直樹の世話をしながらも、外では一線を守っていた。
一方で、イザベッラは素知らぬ顔をして直樹に近づいてきた。
イザベッラは、エレナの死んだ父親の妻だった。エレナにとっては義母である。だが、若く美しく、商館の客を相手にしても一歩も引かない女だった。イザベッラは、エレナと直樹の仲を認めていなかった。
ある夜、直樹が工場から戻ると、廊下の途中でイザベッラが待っていた。
「遅かったのですね、ナオキ」
「工場で手間取った」
「エレナはもう休みました。今なら、少し話せます」
イザベッラは、そう言って近づいた。
直樹は立ち止まった。イザベッラは逃げ道をふさぐように、直樹の前へ立つ。香油の匂いがした。薄い部屋着の上からでも、女の体の線が分かった。
「エレナに遠慮しているのですか」
「遠慮というより、騒がれると面倒だ」
「では、騒がれない場所ならよいのですね」
イザベッラは直樹の胸に手を置き、顔を近づけた。
直樹は一瞬迷ったが、拒まなかった。唇が重なった。イザベッラは軽く触れるだけで終わらせず、直樹の首へ腕を回した。直樹も腰を抱き寄せた。
キスはしばらく続いた。
だが、直樹はそこで止めた。
「ここまでだ」
「いつも途中で止めますね」
「最後まで行くと、面倒になる」
「エレナがいるから?」
「そうだ」
イザベッラは笑った。
「正直ですね」
「嘘をついても仕方ない」
「私は、あなたを諦めていません」
「分かっている」
「分かっているなら、いつか私の部屋へ来なさい」
直樹は答えなかった。
イザベッラは、直樹の胸元を指でなぞり、何もなかったような顔で廊下を去った。
直樹は軽く息を吐いた。
エレナに知られれば、当然うるさい。今はそれを避けたかった。直樹には、女同士の争いに時間を使う余裕がなかった。
リモコンの完成が先だった。
数日後、工場の奥で、ようやく小物の往復が安定した。
銅貨を送る。戻る。小さな工具を送る。戻る。布切れを送る。焦げずに戻る。位置のずれも小さくなった。
直樹は、最後に自分の指輪を使った。
指輪は一度消え、数秒後に机の上へ戻った。傷はない。熱もない。
直樹はリモコンを手に取った。
行き先は決まっている。
1898年7月、カナダ、ユーコン準州。ドーソン・シティ近郊。クロンダイク川沿い。採掘場へ向かう道のそば。
倉田俊介は、そこへ飛ばされた。
2023年当時、俊介は72歳だった。1898年のユーコンにいても、年齢は72歳のままである。若返っているはずがない。老人が金鉱地帯で生き延びているかは分からない。だが、俊介は時間移動装置を作った男である。機械を直し、電気を扱い、人の役に立つ技術を持っている。直樹は、そこに望みをかけた。
出発の夜、直樹は白い館に必要な指示だけを残した。
数日、商談で外す。香港支店はエレナが見ろ。来客はイザベッラが受けろ。上海行きの荷はパオロの指示通りに出せ。
エレナは、直樹の外套を整えた。
「お気をつけて」
「ああ。すぐ戻る」
「戻られたら、温かい食事を用意します」
「頼む」
エレナはそれだけ言い、直樹を見送った。余計なことは聞かなかった。直樹が仕事で動く時、エレナは邪魔をしない女だった。
玄関を出る前、イザベッラが現れた。
「また遠くへ行くのですね」
「少しな」
「お気をつけて、ナオキ」
「ああ。すぐ戻る」
イザベッラは直樹の前に立ち、熱いキスを与えた。
直樹は、キスに応え、イザベッラをしばらく抱きしめてから、白い館を出た。
工場の奥へ入り、扉を閉める。机の上にリモコンを置き、目盛りを合わせた。外套の内側には金貨、銀貨、拳銃、水筒、乾パン、方位磁石、折りたたみナイフ、小型ランプを入れてある。
直樹はリモコンを握った。
1898年7月。
ユーコン準州。
ドーソン・シティ近郊。
クロンダイク川沿い。
採掘場へ向かう道。
直樹は一人でボタンを押した。
足元の床が消えた。
次に立っていたのは、湿った泥道の上だった。
空は薄暗い。冷たい空気が頬を刺した。川の匂い、馬の糞、焚き火の煙、濡れた革の臭いが混じっている。遠くで英語の怒鳴り声がした。荷馬車が泥を踏み、車輪がきしんだ。
直樹は周囲を見た。
川沿いに粗末な小屋が並び、採掘道具を担いだ男たちが歩いている。シャベル、鍋、毛布、食料袋。顔は汚れ、服は泥だらけだった。ここは金を掘る男たちの町だった。
道の外れに、修理屋のような小屋があった。
入口には壊れたランプ、ポンプ、時計の部品、銃の部品が置かれている。その奥で、白髪の日本人らしい老人が椅子に座っていた。痩せている。顔には深いしわがある。だが、手元の部品を見る目は鋭かった。
老人は壊れたランプの芯を直していた。
直樹は近づいた。
老人が顔を上げる。
直樹は周囲に人がいないことを確かめ、日本語で言った。
「倉田俊介さんですね」
老人の手が止まった。
ランプの小さなネジが泥の上へ落ちた。
直樹は続けた。
「俺は直樹です。早乙女尚人の孫です。あなたを探しに来ました」
老人は直樹を見つめた。
72歳の倉田俊介は、1898年のユーコンで生きていた。
直樹は1872年の部品と技術を使い、時間移動用のリモコンを完成させた。エレナたちには商談へ出るとだけ伝え、俊介が飛ばされた1898年のユーコンへ向かう。金鉱地帯を捜した直樹は、修理屋の小屋で暮らす72歳の俊介を発見し、自分が早乙女尚人の孫であることを告げた。




