第10話(前編)――「上海支店長パオロ」
香港支店は、思った以上に早く形になった。白い館には電灯が入り、商館、倉庫、ホテルへの試験設置も順調に進む。リヴィング・レターの注文も増え、香港の商人たちは、次の市場として上海の名を口にし始めた。直樹は上海支店の開設を決め、倉庫と部品の流れを覚えたパオロを支店長に据えようとする。だが、その任命を受ける前に、パオロはエレナへ離婚を申し立てる。エレナは直樹との関係を知られたのかと動揺するが、パオロの口から出た理由は、仕事に専念するためというものだった。
香港支店は、開設から3か月で見違えるように動き始めていた。
坂の上の白い館には、朝から人の出入りがある。玄関広間には電灯が入り、夜になっても階段の手すりや石の床がはっきり見える。応接室ではイザベッラが客を迎え、商館主、海運会社の支配人、ホテルの出資者、総督府の関係者が順に席へ通された。
庭に面した部屋では、エレナが使用人と通訳を動かしていた。水を運ぶ者、客間を整える者、工事の邪魔にならないよう荷をよける者、職人の食事を用意する者。それぞれの動きを見て、足りないところへすぐ人を回す。喪服の時期を過ぎても、エレナの顔にはまだ影が残っていたが、仕事の手は速かった。
裏手の倉庫では、パオロが木箱を開けていた。
発電機の部品、電灯のガラス球、導線、絶縁材、工具、交換用の金具。ロンドンから届いた品は、船便のたびに増えている。香港で買えるものもあるが、肝心な部品はまだロンドン頼みだった。1つ足りなければ、現場は止まる。1つ壊れれば、商館主は不安な顔をする。パオロはそのことを、もう頭ではなく手で覚えていた。
「上海向けの木箱は、ここへ分けます。香港の補修用と混ぜないでください」
パオロは広東語の通訳を通して、人夫たちへ指示した。
「この札には、上海試験設置用と書く。商館用、倉庫用、ホテル用を分ける。船に積む順番も変える。向こうで先に使うものを奥へ入れたら、荷ほどきで半日失う」
人夫たちは頷き、木箱を運んだ。パオロは1つずつ番号を読み上げ、控えの紙に印を付ける。その手つきには、もう以前の迷いがなかった。
昼前、直樹は倉庫へ入った。
白い麻の上着に、薄い色のズボンを合わせている。香港の湿った暑さにも少し慣れたが、港から上がってくる風には、塩と石炭の匂いが混じっていた。直樹は木箱の並びを見て、すぐに頷いた。
「上海分は、ここまで分けましたか」
「はい。香港の補修分とは別にしました。船積みの前に、もう一度数を確かめます」
「早いですね」
「遅いと、支店とは呼べません」
パオロはそう言ってから、少しだけ口を閉じた。以前の彼なら、そこで自分を引いたかもしれない。だが、今は違う。香港で倉庫を預かり、荷札を預かり、壊れた部品の交換を手配するうちに、仕事の背骨ができていた。
直樹は倉庫の奥へ進み、上海行きの木箱を見た。
「パオロさん。上海支店を任せたいと思います」
パオロは、すぐには返事をしなかった。
倉庫の中では、木箱を置く音が続いている。外では馬車の車輪が石の道を鳴らし、港の方から船の汽笛が低く聞こえた。パオロはその音を聞きながら、ゆっくり直樹を見た。
「私に、ですか」
「はい。上海は香港より大きな商売になります。商館、銀行、倉庫、ホテル、埠頭、新聞社まであります。派手な応接だけでは回りません。部品が届き、職人が動き、修理が止まらないことが大事です。それを一番分かっているのは、あなたです」
「私は、ベッラヴィスタ家では中心に立てなかった男です」
「ここでは違います」
直樹は短く言った。
「香港支店で、あなたは部品と倉庫を止めませんでした。客の前に出る者だけが支店を動かすのではありません。木箱が正しく届き、必要な部品がその日に出る。そこを預かる者がいなければ、電灯はただの約束で終わります」
パオロは目を伏せた。
直樹は続けた。
「上海では、あなたを支店長にします。最初の応接には私も出ます。紹介状も持って行きます。ですが、私が香港へ戻ったあと、上海を動かすのはあなたです」
パオロの手が、木箱の縁を握った。
「少し、お時間をいただけますか」
「考える時間ですか」
「いえ。受ける前に、片づけなければならないことがあります」
直樹は、パオロの顔を見た。
「分かりました。今日の夕食後、応接室で話しましょう」
パオロは深く頭を下げた。
その日の夕食は、いつもより静かだった。
食堂には、直樹、イザベッラ、エレナ、パオロがそろっていた。広東料理の皿と、英国式の肉料理が並んでいる。魚の蒸し物からは生姜と葱の匂いが立ち、銀の皿にはローストした肉が置かれていた。窓の外はもう暗く、港の灯りが点々と見える。香港支店の白い館にも電灯が入り、食卓の皿は油の煙に曇らず、はっきり照らされていた。
直樹は食後の紅茶を置き、口を開いた。
「上海支店を開きます」
イザベッラは静かに頷いた。
「当然の流れです。香港で評判が立った今なら、上海の商館も話を聞くでしょう」
エレナも言った。
「上海へ送る使用人と通訳も、早めに選ばなければなりません。香港と違って、向こうの言葉も人の気質も変わります」
直樹はパオロを見た。
「支店長は、パオロさんに任せます」
エレナは少し驚いた顔をしたが、すぐに納得したように夫を見た。
「あなたなら、できるわ。香港の倉庫は、あなたがいなければ回らなかったもの」
パオロは、エレナの方を見なかった。
彼は椅子から立ち上がった。
「その件で、申し上げたいことがあります」
食堂の空気が変わった。
イザベッラは紅茶のカップを置いた。直樹も黙ってパオロを見た。エレナだけが、夫の横顔を見つめていた。
パオロは、はっきり言った。
「上海へ行く前に、私はエレナと離婚したいと思います」
エレナの顔から、血の気が引いた。
「パオロ、何を言っているの」
声は低かったが、指先は震えていた。
彼女の胸に、最初に浮かんだのは直樹の顔だった。香港へ来てからの夜、直樹の視線、近づいた距離、自分が拒みきれなかった時間。夫に知られたのか。誰かが見たのか。使用人が噂したのか。総督府の晩餐会の後、自分の動揺をパオロに読まれたのか。
エレナは椅子の背を握った。
「あなた、何を知っているの」
パオロは、初めてエレナを見た。
「何も知らない」
「では、どうして急にそんなことを言うの」
「急ではない」
パオロの声は落ち着いていた。怒鳴らない。責めない。だが、引く気もない声だった。
「ナポリを出てから、ずっと考えていた。ベッラヴィスタ家では、私は次女の夫だった。香港へ来て、初めて自分の仕事を持った。倉庫を預かり、部品を数え、壊れた物を直し、人夫を動かした。私は、その仕事で初めて自分の名前を取り戻した」
エレナは唇をかんだ。
「それと離婚に、何の関係があるの」
「上海支店長になるなら、私は仕事だけで生きたい」
「妻がいたら、仕事ができないというの」
「違う。君が悪いのではない」
パオロは首を横に振った。
「私たちは、もう夫婦として歩いていない。ナポリでは家の都合で並んでいた。香港では支店の都合で同じ屋敷にいた。だが、心は別々の場所を見ている。君は香港で生きればいい。イザベッラ様を支え、この白い館を動かせばいい。私は上海へ行き、支店を作る」
エレナは、直樹を見そうになった。
だが、見なかった。
ここで直樹を見れば、自分から答えを出すことになる。エレナは息を整え、夫だけを見た。
「私に男がいると言いたいの」
「言っていない」
「では、私を捨てるの」
「捨てるのではない。互いに役目を分ける」
パオロはそう言った。
その言葉は、冷たく聞こえた。だが、逃げの言葉ではなかった。パオロは本気でそう考えているのだと、エレナにも分かった。
「上海支店を持つなら、私は毎朝、倉庫へ行く。商館へ頭を下げる。職人を叱る。夜は部品の数を合わせる。失敗すれば、モロー工房の名に傷がつく。私は、その責任を中途半端に背負いたくない」
「妻を持つことが、中途半端なの」
「今の私たちにとっては、そうだ」
エレナは黙った。
腹の奥が冷えた。
浮気が責められているのではない。そのことが、かえって重かった。責められれば怒れた。泣けた。直樹の名を出されれば、否定するなり、開き直るなりできた。だが、パオロはそこへ来ない。彼はただ、自分の仕事と、自分の名前だけを見ていた。
イザベッラが静かに口を開いた。
「パオロ。これは、あなた一人で決められることではありません」
「分かっています」
「エレナも、あなたの妻として香港へ来ました。ここで離婚すれば、彼女の立場も変わります」
「そのために、サー・モローにお願いしたいのです」
パオロは直樹へ向き直った。
「香港で正式に離婚を認めていただけるよう、総督府へお取り次ぎをお願いできませんか。私は、上海へ夫婦の形を持ち込みたくありません。支店長として行きたいのです」
直樹は、しばらく黙っていた。
エレナの動揺は分かる。パオロの決意も分かる。だが、これは屋敷内の口約束では済まない。香港は英国領であり、総督府の目がある。ベッラヴィスタ家の名も絡む。勝手に離婚したと言い張れば、あとで上海でもロンドンでも問題になる。
「エレナさん」
直樹は静かに聞いた。
「あなたは、どうしますか」
エレナは顔を上げた。
直樹の声に責める色はなかった。だが、逃げ道もなかった。ここで曖昧にすれば、パオロは上海へ行けない。自分も香港で宙に浮く。
エレナは、長く息を吐いた。
「承諾します」
イザベッラがエレナを見た。
「本当に、それでよいの」
「はい」
エレナは、まだ白い顔で答えた。
「パオロの言う通りです。私たちは、もう夫婦として同じ場所を見ていません。ここで形だけ残しても、互いの足を引くことになります」
パオロの表情がわずかに揺れた。
「エレナ」
「ただし、1つだけ言わせて」
「何だ」
「あなたは、私から逃げるために上海へ行くのではない。仕事をするために行く。そう言った以上、必ず上海支店を立てなさい。失敗して、私との離婚を理由にしたら許さない」
パオロは背筋を伸ばした。
「分かっている」
「なら、私は香港に残ります。イザベッラ様と、この白い館を支えます」
直樹は頷いた。
「分かりました。私が総督府へ行きます」
翌日、直樹は香港総督府を訪ねた。
白い石造りの建物は、強い日差しを受けてまぶしかった。庭には刈り込まれた植え込みがあり、玄関前には衛兵が立っている。直樹は通された応接室で、香港総督サー・レジナルド・アッシュベリーと向かい合った。
総督は、直樹の話を黙って聞いた。
「サー・モロー。離婚は軽い話ではありません」
「承知しています」
「まして、あなたの支店の人事と絡むとなれば、商売の都合で夫婦を裂いたと見られかねない」
「だからこそ、隠さずお願いに来ました」
直樹は答えた。
「パオロは上海支店長として任地へ向かいます。エレナは香港支店に残ります。2人とも、この離婚に同意しています。問題を先送りにすれば、上海支店にも香港支店にも、あとで余計な傷が残ります」
総督は、指で椅子の肘掛けを軽く叩いた。
「パオロ氏は、妻の不貞を訴えているのですか」
「いいえ」
「エレナ夫人は、夫の暴力や放棄を訴えているのですか」
「いいえ」
「では、理由は」
「互いに別の職務へ就くためです。夫婦としての生活を終え、それぞれ独立して働く。そういう申し立てです」
総督は眉を上げた。
「かなり珍しい」
「珍しいから、総督にお願いしています」
直樹は、まっすぐに言った。
「彼らは、敗れた家から香港へ来ました。ここで職を得て、ようやく自分の足で立ち始めています。私は2人を道具にするつもりはありません。パオロには上海で働く席を、エレナには香港で働く席を与えます。そのために、夫婦の形を無理に残すより、正式に分けた方がよいと判断しました」
総督はしばらく直樹を見ていた。
「あなたは、相変わらず面倒なことを正面から持ち込む」
「逃げると、もっと面倒になります」
総督は小さく笑った。
「その点は同感です」
総督は机上の紙を取り、秘書を呼んだ。
「双方の同意書を用意させます。ベッラヴィスタ家の事情、香港支店および上海支店での職務、生活費の取り決め、今後の住居、この4点を明記しなさい。形式は、総督府の特別承認として扱う。ただし、騒ぎにしない。総督府が商人の家庭に干渉したと受け取られては困る」
直樹は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い。書類を整え、2人に署名させなさい。あとで揉めない形にすることが条件です」
「承知しました」
その夕方、白い館の応接室で、パオロとエレナは離婚の同意書に署名した。
机の上には、総督府の印が入った書類が置かれていた。イザベッラが立ち会い、直樹も同席した。使用人は部屋の外へ下がらせてある。室内には紙の匂いと、インクの匂いがあった。
パオロが先に署名した。
次に、エレナがペンを取った。
手は震えなかった。少なくとも、紙の上の文字は乱れなかった。エレナ・ベッラヴィスタ。その名を書き終えると、彼女はペンを置き、パオロを見た。
「上海へ行きなさい」
パオロは頷いた。
「行く」
「支店を作りなさい」
「作る」
「香港へ戻ってくる時は、失敗の報告ではなく、次の注文を持ってきなさい」
パオロは、初めて少しだけ笑った。
「分かった」
直樹は、2人の前に立った。
「パオロさん。あなたには、上海支店長を正式に任せます。部品、倉庫、保守、職人の教育、商館との初期契約。全部を見てください」
「はい」
「エレナさん。あなたには、香港支店の人員と屋敷運営を引き続き任せます。イザベッラさんの応接を支え、使用人、通訳、滞在客の世話を整えてください」
「承知しました」
離婚の書類が乾くまで、誰も急いで動かなかった。
外では、香港の夜が始まっていた。港から汽笛が聞こえ、坂の下では荷車の音が続く。白い館の玄関広間には電灯がつき、階段の影をまっすぐ床へ落としていた。
パオロは上海へ向かう。
エレナは香港に残る。
夫婦だった2人は、この夜から別の支店を支える者になった。
直樹は机の上の書類を見下ろした。
上海支店の開設は、ただの事業拡大ではなくなった。1人の男が、自分の名前で立つための出発になったのである。
前編では、香港支店の成功を受けて上海支店の開設が決まる。直樹は、倉庫と部品管理で力を示したパオロを支店長に任命しようとする。だが、パオロはその前にエレナとの離婚を申し立てる。エレナは直樹との関係を知られたのかと動揺するが、パオロの理由は、上海支店長として仕事に専念するためだった。エレナも承諾し、直樹は香港総督へ特別承認を頼み込む。こうしてパオロは上海へ、エレナは香港へ残り、2人は夫婦ではなく、それぞれ別の支店を支える者として歩き始める。




