第9話(後編2)「光を売らず、電気を売る」
リヴィング・レターは、香港総督府、英国商館、ホテル、新聞関係者だけでなく、清国側の広州役人筋にも関心を持たれ始めた。白い館には注文が集まり、電灯、発電機、導線、蓄音機、モロー・キネグラフの部品が増え続ける。建物ごとに発電機を置くやり方では、部品、燃料、保守、操作係の教育が追いつかない。直樹は、電灯を売るだけでなく、電気そのものを売る会社を作る必要に気づく。会社名は、モロー香港ライト&パワー社。清国側には香港光力公司と呼ばせる。表では香港の夜を変える新会社が動き出し、裏では直樹とエレナが、誰にも知られてはならない関係へ踏み込んでいく。
清国側の試験が終わった翌朝、白い館の食堂には、いつもより張り詰めた空気があった。
食卓には、卵、焼いた魚、パン、果物、粥、紅茶が並んでいる。窓の外では、朝のヴィクトリア港が動き出していた。小舟が水面を切り、蒸気船の煙が低く流れ、埠頭では荷役人の声が上がっている。
直樹は紅茶の杯を取ったが、向かいのエレナを見なかった。
エレナも直樹を見なかった。
前の夜、二人は控えの間で抱き合い、深い口づけを交わした。エレナは最初、夫の名と屋敷の立場を思い出して踏みとどまろうとした。だが、最後には直樹の襟をつかみ、自分から引き戻した。口づけだけで終わったはずなのに、その余韻は朝になっても消えていなかった。
だからこそ、朝の食堂では、二人とも慎重だった。慎重というより、よそよそしいほどだった。客や使用人の前では、エレナは直樹を「サー・モロー」と呼ぶ。直樹も、彼女に余計な視線を向けず、仕事の用件だけを伝える。二人の間に何かあると悟られないためには、親しげにしないだけでは足りない。以前よりも少し冷たく見えるくらいで、ちょうどよかった。
パオロは、その変化に気づかなかった。
彼は倉庫の帳面、発電機の部品、写真板、音筒、木箱、石炭の保管場所に追われていた。直樹から役目を与えられたことで、ようやく自分の足場を取り戻していた。敗れた次女の夫ではなく、香港支店の部品管理責任者である。その思いが、彼の目を仕事へ向けさせていた。
パオロは帳面を開き、食事の途中で言った。
「サー・モロー。発電機の件で、お話があります」
直樹は顔を上げた。
「何ですか」
「総督府、白い館、ホテル、商館、倉庫。今の注文を全部、建物ごとの発電機でまかなうなら、部品箱が足りません。予備の導線、ガラス球、絶縁材、修理工具、燃料の置き場も必要になります。発電機を置く場所ごとに、扱える人間も要ります。今の人員では追いつきません」
エレナも続けた。
「使用人に触らせるには危険です。濡れた手で触る者もいます。水場の近くに器具を置こうとする者もいるでしょう。建物ごとに発電機を置けば、事故の場所も増えます」
直樹は黙って聞いていた。
発電機を売る。電灯を売る。導線を引く。操作係を育てる。
最初の商売としては分かりやすい。だが注文が増えれば、発電機も保守も燃料も散らばっていく。客は灯りを欲しがるが、機械の面倒まで見たいわけではない。
イザベッラは、果物の皿を横へ寄せながら言った。
「客ごとに機械を持たせるより、サー・モローの側で光を支配した方がよろしいと思います」
直樹は彼女を見た。
「光を支配する」
「はい。商館もホテルも総督府も、機械の扱いを覚えたいわけではありません。明るい玄関、明るい食堂、明るい倉庫が欲しいのです。ならば、機械はモロー側が持ち、客は使った分だけ払う。その方が、事業としても強くなります」
直樹は、紅茶の杯を置いた。
頭の中の線がつながった。
電灯を売れば、一度で終わる。
発電機を売れば、建物ごとに面倒を見ることになる。
だが、電気を売れば、毎月金が入る。
総督府も、商館も、ホテルも、倉庫も、劇場も、新聞社も、写真館も、リヴィング・レターの撮影場も、料金を払う。電灯だけではない。モロー・キネグラフも、蓄音機の改良機も、これから作る機械も、電気を必要とする。
直樹は、食卓にいる全員を見た。
「電灯を売るのではありません。電気を売ります」
食堂が静かになった。
イザベッラだけが、すぐに意味を理解した。
「会社を作るのですね」
「はい。香港で発電と配電をまとめる会社を作ります。最初から香港全体を相手にする必要はありません。まずは、白い館、総督府、港の商館、ホテル、倉庫街に限ります。発電所はこちらで持つ。導線をこちらで管理する。客には月ごとの料金を払ってもらう」
パオロは帳面へ書き始めた。
「発電所を置く場所が必要です。石炭を運びやすく、水も使える場所がよいでしょう。港に近すぎると、人の出入りが多すぎます。坂の上では燃料を運ぶのが大変です」
エレナも言った。
「導線を道路沿いに通すなら、使用人だけではなく、荷役人や子どもにも危険を知らせる必要があります。むき出しにしない。水場から遠ざける。壊れた時に勝手に触らせない。そういう決まりを作らなければなりません」
直樹は頷いた。
「エレナさんには、その決まりを作ってもらいます。使用人やホテル従業員にも分かる言葉にしてください。技術者向けの説明ではなく、暮らす人間向けの説明です」
エレナは姿勢を正した。
「承知しました、サー・モロー」
その呼び方は、あまりに丁寧だった。
直樹は何も返さなかった。
その日の午後、直樹は総督府へ向かった。
同行したのは、イザベッラ、パオロ、梁である。エレナは白い館に残り、使用人と撮影場の動線を見直すことになった。人前で一緒に動きすぎない。その判断は、直樹とエレナが言葉にしなくても一致していた。
総督府の書斎で、サー・レジナルド・アッシュベリー〈58〉は、直樹の話を慎重に聞いた。
「つまり、サー・モロー。あなたは各建物へ発電機を売るのではなく、発電所を作り、そこから電気を送ると言うのですか」
「はい。最初は範囲を絞ります。総督府、白い館、港の商館、ホテル、倉庫街。これなら安全に管理できます」
「道路を掘る必要がありますな」
「はい。導線を通す場所、保護する場所、点検する場所が必要です。総督府の許可なしにはできません」
総督は指で机を叩いた。
「香港は狭い町です。道路を掘れば、商人も荷役人も文句を言う。火事や感電の心配も出るでしょう。失敗すれば、総督府の責任になります」
直樹は頭を下げた。
「責任は、私の会社が負います。工事の範囲、導線の場所、点検係、火災時の停止手順、すべて書面にします。最初の契約先も限定します」
隣の部屋から、総督夫人クララ〈38〉が入ってきた。
「レジナルド。私は、試す価値があると思います」
総督は眉を上げた。
「クララ、これは夜会の灯りだけの話ではない。港の道路と商館を巻き込む話だ」
「だから価値があるのです」
クララは、直樹の方へ一度視線を向けてから、夫に言った。
「総督府だけが明るくなっても、町は変わりません。けれど、港から商館、ホテル、総督府まで同じ光が通れば、香港の夜そのものが変わります。ロンドンから来た客に、香港は端の港ではないと見せられます」
イザベッラも静かに加えた。
「総督閣下。電灯を一つずつ売るより、発電と保守を一つの会社が担う方が、客にとっても安全です。故障した時に誰を呼べばよいか、すぐ分かります。使用人や商館の小僧が勝手に機械をいじる危険も減ります」
パオロも、緊張しながら言った。
「発電機を何十台も別々の建物へ置くより、まとめて管理した方が、部品の紛失も故障も減ります。私は倉庫を見ます。部品と燃料の帳面は、毎日付けます」
総督はパオロを見た。
「あなたが管理を」
「はい。私は港の倉庫を見てきました。船荷と部品の扱いならできます」
総督はしばらく考えた。
直樹は、そこで会社名を出した。
「会社名は、モロー香港ライト&パワー社とします。英語名は、Morrow Hong Kong Light & Power Company。清国側には、香港光力公司と呼ばせます」
クララがその名を繰り返した。
「ライト&パワー。光と力」
「はい。電灯だけではなく、今後の機械にも電気を使います。リヴィング・レターの撮影場、ホテルの換気、倉庫の荷役、新聞社の夜間作業。電気は、灯りだけで終わりません」
総督は椅子に深く座り直した。
「よろしい。試験免許です。範囲は、総督府、白い館、港の商館、ホテル、倉庫街の一部。道路工事は総督府の監督下で行う。事故が起きた時の責任は、あなたの会社が負う。料金表と停止手順も提出していただきます」
直樹は頭を下げた。
「承知しました」
その夕方、白い館へ戻る馬車の中で、イザベッラはすでに新しい仕事を考えていた。
「会社を作るなら、株主を選ぶ必要があります。全員に出資させると、口も増えます。直樹さんが過半を握るべきです。総督府寄りの投資家を少し入れ、商館主にも少し持たせる。けれど、決定権は手放してはいけません」
「私が過半を持ちます。ロンドンの工房ともつなげます」
パオロは言った。
「発電所の候補地を見ます。石炭の荷揚げ、水、倉庫、導線の出しやすさ。この4つを確認します」
「お願いします」
直樹は答えた。
その時、ふとエレナの顔が浮かんだ。
人前では冷静な顔をしている。だが、前夜の控えの間で見せた顔は違った。直樹はその落差を思い出し、窓の外へ視線を逃がした。
白い館へ戻ると、玄関広間ではエレナが使用人たちを集めていた。導線に触らないこと、水場に器具を置かないこと、壊れた時は勝手に直そうとしないこと。梁を通して中国人の使用人へ説明している。
「濡れた布で電灯のそばを拭かないこと。壊れたガラスは、素手で拾わないこと。光が消えた時は、火を近づけず、まずパオロさんか直樹さんを呼ぶこと。分からない時は触らない。これを覚えてください」
梁が広東語に訳すと、使用人たちは真剣な顔で頷いた。
説明が終わると、エレナは直樹に気づき、少しだけ礼をした。
「サー・モロー。総督府でのお話は、いかがでしたか」
あまりに他人行儀な声だった。
玄関広間には、イザベッラもパオロも使用人もいた。直樹は、その芝居に乗った。
「試験免許が出ます。範囲は限られますが、モロー香港ライト&パワー社を作れます」
「それは、よろしゅうございました」
エレナは丁寧に答えた。
直樹は彼女の顔を見た。
そこには、仕事をする女の顔しかなかった。
その夜、白い館では会社設立の準備が始まった。
イザベッラは応接室で、株主候補の名を書いた。アーサー・ブレイク、ジェームズ・ペンローズ、ヘンリー・スタンフォード、総督府に近い銀行家、新聞関係者。出資を受ける者と、契約だけにとどめる者を分ける。金を出す者には口を出す権利も生まれる。そこを間違えると、会社は最初から動きにくくなる。
パオロは倉庫で、発電所用の資材表を作った。発電機、蒸気機関、石炭置き場、水の確保、導線、支柱、絶縁材、修理工具、消火用の砂と水桶。彼の帳面には、今までの部品管理よりも大きな項目が並び始めた。
エレナは、使用人教育と安全規則の草案を書いた。
濡れた手で触らない。
壊れたら呼ぶ。
子どもを近づけない。
勝手に直さない。
水場のそばに置かない。
火事の時は、まず人を出す。
暮らす者には、技術の理屈よりも、何をしてはいけないかが先に必要である。エレナはそれを分かっていた。
夜が更けたころ、直樹は倉庫から戻った。
廊下の曲がり角に、エレナがいた。手には、書きかけの紙を持っている。
「安全規則の草案です。明日、確認してください」
声は平静だった。
廊下の奥に、使用人の足音が聞こえた。エレナは直樹から十分に距離を取り、直樹も紙を受け取る時、指先が触れないようにした。
「ありがとうございます。明日の朝、見ます」
「では、おやすみなさいませ、サー・モロー」
使用人が通り過ぎた。
足音が遠ざかる。
その瞬間、直樹はエレナの手首を取った。
エレナは驚かなかった。待っていたように、ほんの少しだけ息を吐いた。
「人が戻ります」
「戻る前に入ります」
直樹は控えの間の扉を開け、エレナを中へ入れた。
扉が閉まった。
控えの間に入った途端、エレナの顔から昼間の落ち着きが消えた。安全規則の紙を持っていた手が、胸の前で止まる。廊下にはまだ使用人の気配があり、倉庫にはパオロがいる。ほんの少し声が漏れれば、誰かに気づかれるかもしれない。
それでも、エレナは扉へ戻らなかった。
直樹は彼女の手から紙を取り、机に置いた。紙が木の上に触れる小さな音に、エレナの肩が揺れた。直樹が近づくと、彼女は目を伏せたが、足は引かなかった。
直樹は、まずエレナの頬に触れた。
昼間は冷静に使用人へ指示を出していた女の肌が、今は熱を帯びていた。親指で頬を撫でると、エレナは目を閉じ、息を浅くした。直樹はすぐに口づけなかった。彼女が逃げないこと、拒まないこと、ただ緊張していることを確かめるように、頬から耳元へ、耳元から髪へ、ゆっくり指を移した。
エレナは小さく息を吐いた。
「待たないでください」
かすれた声だった。
その言葉で、直樹は唇を重ねた。
最初の口づけは静かだった。だが、すぐに深くなった。エレナは受けるだけではなかった。直樹が少し離れようとすると、胸元の布をつかみ、自分から引き戻した。息が乱れて顔をそむけても、手は離さない。直樹の肩に額を押しつけ、また顔を上げる。その繰り返しの中で、彼女の体から少しずつ力が抜けていった。
直樹はエレナを長椅子へ導いた。
エレナは腰を下ろす前に、直樹の手を握った。止めるためではなかった。ここから先へ進むことを、自分でも確かめるためだった。
ランプの光が揺れた。
エレナの髪がほどけ、肩に落ちた。直樹がそれを払うと、彼女は喉の奥で息を詰めた。直樹はその反応を見逃さなかった。急がず、エレナの呼吸に合わせて触れた。彼女が固くなると待ち、力が抜けると抱き寄せた。エレナは恥じるように目を伏せたが、逃げなかった。むしろ、直樹が待つたびに、早く続きを求めるように肩へ指を立てた。
その指の力が、直樹を揺さぶった。
エレナは怖がっている。罪の意識もある。けれど、直樹を拒んではいない。自分の意思でここに残り、自分の意思で直樹を受け入れようとしている。そのことが、直樹には腕の中で分かった。
エレナは何度も声を抑えた。
直樹の肩に顔を伏せ、唇を噛み、こぼれそうになる息を飲み込む。それでも、苦しげなだけではなかった。直樹が彼女の反応に合わせるたび、エレナの体は少しずつ柔らかくなり、直樹へ預けられていった。しがみつく腕だけが強くなり、離れないでほしいという思いが、その腕から伝わってきた。
直樹は、その変化で知った。
エレナは我慢しているのではない。
受け入れている。
そして、歓んでいる。
直樹が彼女を見つめると、エレナは目を開けた。涙が少しにじんでいた。悲しみだけの涙ではなかった。怖さと恥ずかしさ、そして逃げずに求められている安堵が、同じ目の中にあった。
「そんな顔で見ないでください」
エレナは小さく言った。
直樹は答えず、彼女を抱きしめた。
エレナは、今度は自分から直樹を迎えた。肩に手を回し、胸を寄せ、直樹の息に自分の息を重ねた。最初の戸惑いはまだ残っていた。けれど、それは拒むための戸惑いではなかった。直樹が自分を求め、自分によって満たされていることを感じるたびに、エレナの頬には別の熱が差した。恥ずかしさの中に、女としての誇らしさが混じった。
直樹もまた、エレナが自分を受け入れていくたび、胸の奥から熱が広がるのを感じた。
ただ欲を満たすだけではなかった。
昼間は遠ざけなければならない女が、今は腕の中で息を乱し、自分を必要としている。自分の触れ方でエレナの呼吸が変わり、エレナの手の力が変わり、閉じていた表情が少しずつほどけていく。その一つ一つが、直樹の歓びになった。
エレナを歓ばせたい。
自分だけが先へ行くのではなく、彼女が怖さを越え、安心して身を預けられるところまで連れていきたい。そう思うと、直樹の腕は自然に優しくなった。強く求めながらも、彼女がついて来られるように待った。
エレナは、その優しさに気づいた。
直樹が自分だけのために急いでいないと分かると、彼女の体からさらに力が抜けた。肩に額を押しつけたまま、息を震わせ、やがて堪えきれないように小さく声を漏らした。
すぐに自分の手で口を押さえた。
直樹はその手をそっと外し、唇でふさいだ。
エレナは驚いたように目を開けたが、すぐに受けた。声は口づけの中へ消えた。彼女は直樹の背中へ腕を回し、もう逃げることをやめた。
その夜、二人は初めて結ばれた。
口づけだけではなかった。抱擁だけでもなかった。直樹はエレナを女として求め、エレナは自分の意思で直樹を受け入れた。夫が同じ屋敷にいることも、使用人が廊下を通るかもしれないことも、明日には何事もなかった顔で食堂に座らなければならないことも、二人は分かっていた。
分かっていて、それでも離れられなかった。
白い館の外では、香港の夜が動いていた。遠くで汽笛が鳴り、荷役人の声がかすかに流れた。だが、控えの間の中では、その音さえ遠かった。直樹にはエレナの息遣いしか聞こえず、エレナには直樹の鼓動しか聞こえなかった。
やがて、エレナの体から力が抜けた。
彼女は直樹の胸に顔を伏せたまま、しばらく動かなかった。髪は乱れ、頬には熱が残り、呼吸はまだ整っていない。昼間の冷たい顔はどこにもなかった。直樹が背中に手を置くと、エレナは目を閉じたまま、その手に身を預けた。
「……悔しいです」
エレナは小さく言った。
「何がですか」
「あなたに抱かれて、安心してしまいました」
エレナは直樹の胸元を握った。
「悪いことをしたと分かっています。怖いのです。それなのに、あなたの腕の中にいると、怖いだけではありませんでした。体が先に分かってしまいました。ここにいたいと。あなたを離したくないと」
直樹は何も言わず、エレナを抱き寄せた。
エレナは抵抗しなかった。むしろ、もう一度直樹の胸に頬を寄せた。その仕草は、先ほどまでの激しさとは違っていた。静かで、甘く、満たされた後の柔らかさがあった。
「今夜のことは、なかったことにはしません」
エレナは、直樹の胸に顔を伏せたまま言った。
「はい」
「でも、誰にも知られません」
「分かっています」
「明日から、人前では今まで以上に離れてください」
「はい」
エレナは少しだけ顔を上げた。
「でも、見なさすぎると腹が立ちます」
直樹は思わず息を漏らした。
エレナは直樹の胸を軽く叩いた。
「笑わないでください」
「難しい注文です」
「女は、発電機より難しいのでしょう」
そう言って、エレナはもう一度だけ直樹の胸に頬を寄せた。
廊下の向こうで、小さな物音がした。
エレナは、はっと顔を上げた。すぐに髪を直し、衣服を整え、机の上の紙を取った。まだ頬には熱が残っている。だが、目は少しずつ仕事の女に戻っていった。
扉を開ける直前、エレナは振り返った。
「明日の夜も、倉庫から戻る時は廊下を通ってください。庭から戻ると、使用人に見られます」
直樹は黙って頷いた。
エレナは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「返事だけは素直ですね」
そう言って、エレナは控えの間を出て行った。
直樹は、しばらく扉を見ていた。
人前では、二人はこれまで以上に距離を取る。
二人きりになれば、もう止まれない。
白い館は、電力会社の設立と、誰にも知られてはならない関係を、同じ夜の中に抱え込んでいた。
翌日、白い館の応接室には、会社設立に関わる者たちが集まった。
アーサー・ブレイク、ジェームズ・ペンローズ、ヘンリー・スタンフォード、銀行家の代理人、新聞関係者、総督府の書記官。陳紹礼も、清国側の客として席の端にいた。彼はリヴィング・レターの見本だけでなく、この新しい電力会社にも関心を持っていた。
直樹は、机の上に香港島北岸の簡単な図を広げた。
「最初の配電範囲は、この一帯です。白い館、総督府、港の商館、ホテル、倉庫街の一部。無理に広げません。発電所は港に近い土地に置き、石炭と水の運びを確保します。導線は保護して通し、点検係を置きます」
ブレイクが聞いた。
「料金は」
「契約灯数と使用時間で分けます。総督府とホテルは夜間の使用が多い。倉庫は荷役の時間に合わせる。商館は応接と帳簿作業が中心です。料金は一律にしません」
スタンフォードは笑った。
「サー・モロー、あなたは電灯を売るよりずっと悪賢い。毎月払わせるつもりだ」
直樹も笑った。
「客も得をします。発電機を買わず、操作係も抱えず、故障時には会社を呼べる。こちらは毎月の収入を得る。双方に利があります」
イザベッラが、そこで書類を差し出した。
「会社の株式案です。サー・モローが過半を持ちます。残りを香港側の出資者に分けます。ただし、発電所、導線、技術、保守の決定権はサー・モロー側に残します」
銀行家の代理人が目を細めた。
「出資者に口を出させないおつもりですか」
イザベッラは、落ち着いて答えた。
「出資者には配当をお渡しします。技術の判断を出資者が行えば、事故が起きます。事故が起きれば、配当どころではありません」
その言い方に、相手は黙った。
パオロは資材表を出した。
「最初の発電所に必要な部品と燃料、保管場所の一覧です。発電機を散らすより、まとめた方が予備部品は減ります。修理工具も一組で済みます。石炭は港から運びます。水は近い場所を選びます」
エレナは安全規則の紙を出した。
「これは、使用人とホテル従業員向けの規則です。難しい理屈は書いていません。濡れた手で触らない。壊れた時は呼ぶ。水場に置かない。子どもを近づけない。掃除の前に係へ知らせる。まず、この5つを覚えさせます」
新聞関係者が感心したように言った。
「奥様、これは分かりやすい」
エレナは表情を変えずに答えた。
「分からなければ、守れません」
直樹は、心の中で頷いた。
この女は、必要なことを分かる言葉にできる。発明を暮らしの中へ下ろす役目を持っている。直樹の技術が香港へ根を張るには、こういう言葉が必要だった。
陳紹礼が、梁を通して言った。
「清国側でも、この会社の話は関心を持たれるでしょう。電灯よりも、電気を売る。これは広州でも使えます」
直樹は答えた。
「まず香港で成功させます。広州はそのあとです」
「その方がよろしい。役人は、動いたものを見れば欲しがります。絵に描いた話だけでは動きません」
その日の夕方、モロー香港ライト&パワー社の設立案はまとまった。
総督府は限定免許を出す。直樹は過半の株を握る。香港商館とホテル関係者が一部を出資する。発電所の候補地はパオロが確認する。安全規則はエレナが整える。応接、株主対応、契約書の管理はイザベッラが見る。
白い館の中で、3人の立場はさらにはっきりした。
イザベッラは、ただの未亡人ではない。会社の顔である。
パオロは、敗れた夫ではない。発電所と倉庫の管理責任者である。
エレナは、屋敷の世話係ではない。電気を使う者たちへ安全を教える役を持った。
直樹は、設立案の最後に署名した。
モロー香港ライト&パワー社。
香港光力公司。
その2つの名が、同じ紙に並んだ。
夜になり、白い館の玄関広間に電灯がともった。
まだこの館の発電機から送っている光である。だが、直樹には、これが港へ伸びていく線の始まりに見えた。総督府、商館、ホテル、倉庫、新聞社、写真館、劇場。香港の夜は、少しずつモローの電気に照らされていく。
直樹は、書斎で一人になった。
机の上には、会社設立案、配電範囲の図、料金表の草案、発電所の候補地、リヴィング・レターの予約表が置かれている。金は入る。しかも一度ではなく、毎月入る。リヴィング・レターは人の心をつかみ、電力会社は建物と町をつかむ。
この事業は、直樹に巨万の財産をもたらす。
それはもう、予感ではなかった。
扉を軽く叩く音がした。
「どうぞ」
入ってきたのはエレナだった。
手には、安全規則の清書がある。
「草案を直しました。明日、梁に広東語で読ませます」
直樹は受け取った。
「ありがとうございます」
エレナは、すぐには出て行かなかった。
書斎には二人だけだった。廊下には人の気配がない。パオロは発電所の候補地の図を見ながら、倉庫で梁と話している。イザベッラは応接室で株主名簿を整えている。
エレナは、静かに扉を見た。
「鍵はかけないでください。怪しまれます」
「では、扉は閉めるだけにします」
「それも十分怪しいです」
「開けたままにしますか」
「それでは、何もできません」
直樹は笑った。
エレナは笑わなかった。けれど、目だけが少し和らいだ。
「今日、私はあなたを見ないようにしました」
「知っています」
「あなたも、私を見ませんでした」
「見たら、分かる人には分かります」
「ええ。だから正しいのです」
エレナは、そこで直樹へ近づいた。
「でも、腹が立ちました」
直樹は、彼女を抱き寄せた。
エレナは抵抗しなかった。むしろ、自分から直樹の胸に体を預けた。人前で一日中よそよそしくしていた分だけ、二人の間には言葉にならない熱が残っていた。
「サー・モロー」
「今は、その呼び方をやめてください」
「では、直樹さん」
その声は、昼間とは違った。
直樹が口づける前に、エレナの方から唇を重ねた。
深く、迷いのない口づけだった。
直樹は、彼女の背中を抱いた。エレナは、直樹の首へ腕を回し、昼間の冷たい態度を自分で壊すように、強く求めてきた。
直樹はエレナを抱き上げ、書斎の奥へ運んだ。
「ここで?」
エレナは小さく言った。
「嫌ですか」
「嫌なら、入ってきません」
エレナはそう答え、自分から直樹の首に腕を回した。
その夜も、二人は結ばれた。
最初の夜とは違い、エレナはもう自分の中の答えを知っていた。直樹が近づくと、彼女はためらいながらも身を預けた。直樹が触れるたび、エレナは呼吸を乱し、声を抑え、直樹の肩をつかんだ。
直樹は彼女を急がせなかった。
エレナが安心して力を抜くまで待ち、彼女が自分から求め返す瞬間を確かめた。エレナはそれに気づき、恥じるように目を伏せたが、逃げなかった。直樹の胸に頬を寄せ、腕を回し、自分の歓びで直樹を満たそうとした。
直樹もまた、エレナの中にある変化を感じていた。
前の夜、エレナは罪悪感と欲の間で震えていた。だが今夜の彼女は、まだ怖がりながらも、直樹と結ばれることを望んでいた。直樹が歓ぶと、エレナの頬に熱が差した。自分が直樹を満たしていると分かるたび、彼女の腕に力がこもった。
声は立てられない。
扉一枚の向こうには廊下がある。屋敷のどこかにはパオロがいる。使用人が近くを通るかもしれない。その危うさの中で、二人は互いの息だけを頼りに、また深く結ばれた。
エレナは、直樹の肩に額を押しつけたまま、声を噛み殺した。
直樹はその声を逃がさないように、彼女を抱きしめた。
エレナは直樹を拒まなかった。むしろ、直樹が少しでも離れようとすると、腕を回して引き戻した。直樹も、彼女がそうするたびに胸を揺さぶられた。求められることは、求めることよりも強く男を動かすのだと、直樹はその時知った。
やがて、エレナの体から力が抜けた。
彼女は直樹の胸に頬を寄せ、目を閉じた。髪は乱れ、頬にはまだ熱が残っている。だが、その顔には、前の夜より深い満たされ方があった。
「……悔しいです」
エレナは小さく言った。
「何がですか」
「また、安心してしまいました」
直樹はエレナを見た。
エレナは、恥じるように顔を伏せた。
「怖いのに、あなたに抱かれると、体が先に分かってしまいます。ここにいたいと。あなたを離したくないと」
直樹は何も言わず、エレナの背中に手を回した。
エレナはその手に身を預けた。
「僕も、あなたを離したくありません」
「言わないでください」
「なぜ」
「また、欲しくなります」
直樹は息を止めた。
エレナは恥じるように目を伏せたが、直樹から離れなかった。
やがて廊下の向こうで物音がした。
エレナは、はっと顔を上げた。すぐに髪を直し、衣服を整え、机の上の紙を取った。頬にはまだ熱が残っている。だが、目はもう仕事の女に戻り始めていた。
扉を開ける直前、エレナは振り返った。
「今夜のことも、なかったことにはしません」
「はい」
「ただし、誰にも知られません」
「分かっています」
エレナは一度だけ直樹を見つめた。
「明日の夜も、倉庫から戻る時は廊下を通ってください。庭から戻ると、使用人に見られます」
直樹は黙って頷いた。
エレナは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「返事だけは素直ですね」
そう言って、エレナは書斎を出て行った。
直樹は、しばらく扉を見ていた。
人前では、二人はこれまで以上に距離を取る。
二人きりになれば、もう止まれない。
白い館は、電力会社の設立と、誰にも知られてはならない関係を、同じ夜の中に抱え込んでいた。
窓の外では、香港の夜が黒く広がっていた。まだ港の灯りはまばらで、油の火が揺れ、倉庫の影が濃く残っている。
だが、直樹には見えていた。
やがて、この港の夜は変わる。
白い光が、総督府から商館へ、ホテルへ、倉庫街へ伸びていく。
その光の根元に、モロー香港ライト&パワー社の発電所がある。
直樹は、机の上の設立書類へ目を落とした。
光を売らず、電気を売る。
この発想が、香港で直樹の財産をさらに膨らませる。
そして、その光の下で、イザベッラ、エレナ、パオロもまた、敗れた者たちではなく、新しい会社の中に自分の席を得ていくのだった。
後編2では、注文の増加により、建物ごとに発電機を置く方法の限界が明らかになる。パオロは部品と燃料の管理が追いつかないと指摘し、エレナは使用人やホテル従業員が安全に扱える仕組みの必要を訴える。イザベッラは、機械を客ごとに売るより、電気そのものを売る方が事業として強いと見抜く。直樹は「電灯を売るのではなく、電気を売る」と決め、モロー香港ライト&パワー社を設立する。清国側には香港光力公司と呼ばせる。総督府は、総督夫人クララの後押しもあり、総督府、白い館、商館、ホテル、倉庫街に限った試験免許を認める。イザベッラは株主対応と契約を、パオロは発電所資材と倉庫を、エレナは安全規則と使用人教育を担う。一方、直樹とエレナは男と女として結ばれる。二人は人前では慎重に距離を取り、よそよそしいほどに振る舞うが、二人きりになると互いを強く求め合う。パオロは仕事に没頭し、二人の関係には気づかない。電力会社の設立により、直樹の事業は発明品の販売から、香港の夜を支配する継続収入へと変わり始める。




