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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第9話(後編1)「広州からの客、白い館の口づけ」

 総督府の晩餐会で、直樹は写真と蓄音機を組み合わせた新商品を思いつく。機械の名はモロー・キネグラフ。遠い家族へ動く姿と声を届ける商品は、リヴィング・レターである。総督夫人レディ・クララは最初の客となり、総督府の後援も決まった。白い館には、英国人の商館主、ホテル関係者、新聞記者、写真師たちが押し寄せ始める。そこへ、清国側の買弁が広州の役人の代理人を連れて現れる。電灯は香港の港を明るくする。だが、声と姿を残す機械は、広州を越えて北京の奥へ届くかもしれない。直樹は香港を離れず、白い館で清国側への試験を行うことにする。一方、総督夫人への嫉妬を押し隠していたエレナは、直樹に対する態度を少しずつ変えていく。直樹もまた、エレナの変化を見逃さず、仕事の隙間を縫って彼女へ踏み込んでいく。

 総督府での試験から2日後、白い館の玄関広間には朝から客が続いた。


 総督夫人のリヴィング・レターは、まだ完全な出来ではなかった。扇を開く動きは少し跳ね、声と姿もぴたりとは合っていない。それでも、白い布に映った夫人が扇を開き、蓄音機から「香港より、あなたへ」と声が流れた瞬間、その場にいた者たちは息を呑んだ。


 写真の人物が動き、声まで聞こえる。しかも、それを箱に収めて遠い相手へ送れる。香港の人々には、それだけで十分だった。


 イザベッラは、応接室で予約希望者の名を書き分けていた。総督府関係、商館関係、軍関係、ホテル関係、新聞関係、そのほかの個人客。用件ごとに紙を分け、急ぐ者と待たせてもよい者を見極める。誰もがすぐに直樹へ会えると思って来るが、全員を通せば、試作も工事も止まってしまう。


「サー・モローは、本日、機械の調整に入っております。正式な撮影は、総督府の試験が済んでからになります。お名前とご用件は、こちらで承ります」


 イザベッラが静かにそう告げると、客は不満を飲み込んだ。


 喪服の未亡人が落ち着いた声で応対するだけで、応接室の空気は締まった。急ぐ客には、総督府の試験が先であると説明し、身分の高い夫人には、後ほど直樹から礼状を出すと伝えた。相手の熱を冷まさず、直樹の時間も守る。その加減を、イザベッラはよく分かっていた。


 エレナは、別室で撮影に来る客の流れを考えていた。


「夫人方を待たせる部屋と、支度を直す部屋は分けます。汗を拭く布、鏡、椅子、扇、水を置きます。男客と女客を同じ部屋に入れると、落ち着きません。写真を撮る前に顔を和らげておかないと、白い布に映した時に固く見えます」


 直樹は、その説明を聞きながら頷いた。


「よく見ていますね」


「総督夫人の試験で分かりました。機械の前に、人の方を整える必要があります。緊張した女は、うまく笑えません」


「エレナさんが見てくれるなら助かります」


 エレナは、少しだけ視線を上げた。


「仕事ですから」


 それだけ言って、彼女は紙を直した。


 直樹は、その横顔を見た。


 総督府から戻った夜以来、エレナは直樹を避けるようで、完全には離れなかった。近くへ寄っても逃げない。けれど、自分から甘い言葉を言うこともない。用件を終えると仕事へ戻る。その仕草が、直樹にはかえって気になった。


 昼前、梁が玄関から入ってきた。


 いつもの買弁の顔ではなかった。後ろに清国服の男を連れている。年は40前後で、細い口髭を整え、手には黒い箱を持っていた。身なりは商人に近い。だが、立ち方は役所に出入りする男のものだった。


「サー・モロー。こちらは陳紹礼ちん・しょうれい様です。広州の役所に出入りされている方で、両広総督衙門りょうこうそうとくがもんにもお顔が利きます」


 陳紹礼は、英語ではなく、梁を通して挨拶した。


「香港総督府で、不思議な機械が披露されたと聞きました。光だけではなく、声と姿を残す機械だと」


 直樹は、イザベッラへ目を向けた。


 イザベッラはすぐに応接室の席を整えた。余計な客を下げ、茶を出すように使用人へ合図する。エレナは部屋の扉を半分閉じ、外の声が入らないようにした。パオロは倉庫から戻り、直樹の後ろに控えた。


 直樹は席へついた。


「まだ試作です。客に売る段階には届いていません」


 梁が訳すと、陳紹礼は静かに頷いた。


「だから見たいのです。完成品なら、誰でも買えます。未完成の時に見れば、この品がどこへ進むか分かります」


 直樹は、その言い方に興味を持った。


「どこへ持って行くつもりですか」


「まず広州です。その先は、品物の力で決まります」


 梁は、少し声を低くして訳した。


「陳様は、北京へ上げる品になるかもしれないとお考えです」


 応接室の空気が変わった。


 パオロがわずかに顔を上げた。エレナも動きを止めた。イザベッラだけは、茶器を置く位置を直したまま、表情を変えなかった。


 直樹は聞いた。


「北京へ、ですか」


 陳紹礼は、茶を一口飲んでから答えた。


「清国では同治帝の御代です。しかし、宮中には西太后様、東太后様がおられます。珍しい西洋の機械は、役所の男だけが見るものとは限りません。宮中の奥へ届く品もあります」


 直樹は黙った。


 西太后。


 東太后。


 その名が香港の白い館で出たことに、彼は少し遅れて重みを感じた。


「私は、今すぐ広州へ行けません」


 直樹は言った。


「総督府、商館、ホテルの工事があります。リヴィング・レターの試験もあります。香港を離れると、全部が遅れます」


 陳紹礼は、すぐに首を振った。


「サー・モローに広州へ来ていただく必要はありません。こちらが見に来ました。広州へ持ち帰るのは、機械そのものではなく、まずは見本でよろしい」


「見本」


「声と姿を残したものです。広州の役人が見て、価値があると判断すれば、さらに上へ行きます」


 直樹は考えた。


 リヴィング・レターは、香港からロンドンへ送る商品として考えていた。だが、清国側が求めるなら、使い方は変わる。家族への手紙だけではない。役人の挨拶、献上品の説明、皇族への珍品、外交の贈り物。声と姿が残るなら、文字だけでは届かない印象を運べる。


 イザベッラが静かに口を開いた。


「直樹さん。まず、この白い館で試験を見せましょう。広州へ出すかどうかは、そのあとで決めればよろしいと思います」


 直樹は頷いた。


「そうしましょう」


 陳紹礼は、初めて少し笑った。


「白い館で見られるなら、それで結構です」


 その日の午後、応接室は小さな試写場に変えられた。


 窓には厚い布をかけ、白い布を壁に張った。パオロは発電機と導線を確認し、写真板を入れる箱を机の上に並べた。エレナは使用人を下がらせ、扉の外に梁の部下を立たせた。余計な者が入れば、話が外へ漏れる。


 直樹は、総督夫人の試験に使った写真円盤を取り出した。


「これは英国側の試験です。清国側へ渡すものではありません。まず仕組みだけ見てください」


 梁が訳すと、陳紹礼は頷いた。


 部屋の灯りが落とされ、白い布に光が当たった。


 総督夫人の姿が浮かんだ。扇がぎこちなく開く。数枚の写真が続いて映り、完全ではないが、確かに動きが生まれる。その後、蓄音機から短い声が流れた。


「香港より、あなたへ」


 陳紹礼は、身じろぎもしなかった。


 終わったあとも、しばらく白い布を見ていた。


「これは、写真ではありません」


 梁が訳した。


「芝居でもありません。幽霊にも似ています」


 直樹は言った。


「幽霊に見えては困ります。生きている者の手紙です」


「だから、リヴィング・レターですか」


「はい」


 陳紹礼は、ゆっくり頷いた。


「清国の役人は、最初は気味悪がるでしょう。ですが、価値を知れば欲しがります。姿を残し、声を残せる。遠くへ送れる。これは、ただの珍品ではありません」


 直樹は返事を待った。


「清国向けの見本を作ってください」


 陳紹礼は言った。


「広州の役人が北京へ送る時、英国総督夫人の姿では具合が悪い。こちら側の人物で作る必要があります」


「誰を撮りますか」


「私でよいでしょう。顔を出し、名を言い、広州へ持ち帰ります。ただし、言葉は短くします。珍品を見せる時、長い挨拶は嫌われます」


 直樹は少し笑った。


「それは英国でも同じです」


 陳紹礼も薄く笑った。


 試験の日取りは、2日後に決まった。


 その晩、白い館の中は遅くまで忙しかった。パオロは清国向けの箱を別に作り、蓄音機の音筒と写真円盤が揺れないよう、内側に布を詰めた。イザベッラは陳紹礼の扱いを整理し、表向きには「広州商人との打ち合わせ」として記録することにした。


 エレナは、客間に置く椅子の位置を何度も変えた。


 直樹がそこへ来た時、彼女はちょうど燭台を下げさせていた。


「まだ働いているのですか」


「明後日の客は、総督夫人とは違います。清国の方は、こちらの目つきをよく見ます。西洋風に整えすぎると、見世物小屋に来たように思われます。少し落ち着かせた方がいいでしょう」


 直樹は感心した。


「あなたは本当に人をよく見ています」


「見なければ、ここでは働けません」


「エレナさん」


「はい」


「来てください」


 直樹は、返事を待たずに一歩近づいた。


 エレナは手を止めた。


「まだ仕事が残っています」


「あとでできます」


「直樹さん」


「今、話したい」


 直樹は、彼女の手から燭台を取り、近くの台へ置いた。エレナは咎めるように直樹を見たが、声は荒げなかった。


「ここでは誰かが来ます」


「だから、奥へ行きます」


 直樹はそう言い、エレナの手首を取って、小食堂の奥にある控えの間へ連れて行った。力任せではない。だが、迷う時間を与えない引き方だった。


 エレナは途中で一度だけ立ち止まりかけた。


「いけません。こんなことをしている場合ではありません」


「分かっています」


「分かっている人のすることではありません」


「今日は、分かっていてします」


 控えの間は狭かった。昼間は食器や花器を置く場所で、今はほとんど空いている。窓の外には港の灯りが見えた。電灯は入れていない。小さなランプが1つ、壁際に置かれているだけだった。


 エレナは扉の近くで止まった。


「直樹さん。何をするつもりですか」


「あなたを抱きます」


 エレナは息を呑んだ。


「そういう言い方をしないでください」


「遠回しに言えば、また逃げるでしょう」


「逃げるのではありません。止めているのです」


「止められません」


 直樹は、エレナの肩へ手を置いた。


 エレナは直樹の胸に手を当てたが、押し返さなかった。


「私はパオロの妻です」


「知っています」


「知っていて、抱くのですか」


「はい」


「あなたは、本当に若い。怖いくらい真っすぐです」


「あなたの方こそ、僕を気にしている」


「言っていません」


「言わなくても分かります。総督夫人と話した時、あなたは怒っていました。昨日から、僕が近づいても逃げない。紙を渡す時も、指を引かなかった」


 エレナは視線をそらした。


「仕事の邪魔です」


「僕は、あなたが欲しい」


 直樹は、短く言った。


 エレナは黙った。


 その沈黙を見て、直樹は彼女を抱き寄せた。今度はためらわなかった。背中へ腕を回し、腰を引き寄せ、胸元の距離を消した。エレナの体は最初だけ固くなった。だが、次の瞬間には、直樹の礼服をつかんでいた。


「直樹さん、これ以上は……」


「口づけだけです」


「それも十分に悪いことです」


「嫌ですか」


 エレナは、直樹を見上げた。


 怒った顔ではなかった。困った顔でもあった。だが、目の奥にあるものは、拒絶ではなかった。


「嫌なら、ここへ来ません」


 直樹は、そこで彼女に口づけた。


 エレナは目を閉じた。最初は受けるだけだった。直樹の唇を受け止め、息を詰め、胸元をつかむ。だが、直樹が離れようとした時、エレナの手が彼の襟を引いた。


 直樹は動きを止めた。


 エレナは、恥じるように目を伏せた。


「まだ、離れなくてもいいです」


 その一言で、直樹はもう一度エレナを抱いた。


 今度の口づけは長かった。


 エレナは、ただ受けるだけではなかった。少しずつ直樹の呼吸に合わせ、唇を返し、腕を直樹の背中へ回した。ためらいは残っている。けれど、逃げるためのためらいではなかった。自分がどこまで踏み込むかを、体の奥で測っているようなためらいだった。


 直樹が唇を離すと、エレナは額を彼の胸に預けた。


「本当に、あなたは困った人です」


「あなたも困っていますか」


「困っています。けれど、嫌ではありません」


 直樹は、エレナの髪に触れた。


「また、来てくれますか」


「あなたが呼ばなくても、来てしまうかもしれません」


 エレナはそう言い、すぐに顔を上げた。


「今の言葉は忘れてください」


「忘れません」


「忘れてください」


「忘れません」


 エレナは少し睨んだが、もう本気で怒ってはいなかった。


「これ以上は駄目です。私は戻ります」


「はい」


「返事だけは素直ですね」


「また抱きたいからです」


「そういうことを、すぐ口に出さないでください」


「言わないと伝わりません」


「十分すぎるほど伝わっています」


 エレナは扉へ向かった。


 直樹が近づくと、彼女は一度だけ振り返った。逃げる顔ではなかった。待つ顔だった。


 直樹は、もう一度彼女を抱き寄せ、短く唇を重ねた。


 エレナは目を閉じ、今度は自分から直樹の腕に身を寄せた。ほんの短い口づけだったが、最初のものより深く、濃かった。


「これで、本当に終わりです」


「今夜は?」


「今夜は、です」


 エレナはそう言って、控えの間を出た。


 直樹は、しばらくその場に残った。


 港の灯りが揺れている。


 エレナは拒まなかった。


 それどころか、最後は自分から直樹を受け入れた。


 その事実が、電灯の白い光よりも強く、直樹の胸に残った。


 翌朝、白い館はいつも通りに動いた。


 イザベッラは応接室で清国側の客の席順を確認し、パオロは倉庫で写真板と音筒の箱を点検していた。エレナは、撮影用の控え室で鏡の位置を変えていた。


 直樹が部屋へ入ると、エレナは振り返った。


「陳様の椅子は、こちらがよいと思います。正面から強い光を当てると、顔が固く見えます」


「分かりました」


 直樹は、彼女の顔を見た。


 エレナは、昨夜のことを表に出さなかった。だが、直樹が近づいても下がらない。鏡の横に立ったまま、紙を差し出した。


 指先が触れた。


 エレナは引かなかった。


「今日の試験は、失敗できません」


「分かっています」


「本当に?」


「分かっています」


「なら、仕事をしてください」


 直樹は笑った。


「はい」


 エレナは、少しだけ口元を動かした。


 それだけだった。


 だが、その日から直樹は気づいた。


 夕方になると、エレナは用事を作って廊下に現れる。直樹が倉庫から戻る時間、応接室から出る時間、発電機を見終える時間。そのどこかに、必ず彼女の姿がある。待っているとは言わない。だが、直樹が声をかけると、立ち去るのが少し遅くなった。


 そして、誰もいない廊下で直樹が近づくと、エレナは最初だけ叱る顔をした。


「またですか」


「はい」


「本当に懲りませんね」


「懲りません」


 直樹が抱き寄せると、エレナは胸元に手を置いた。止めるための手ではなく、周りに人がいないかを確かめる間だけ距離を保つ手だった。


「短くしてください」


「約束はしません」


「そこは約束してください」


 そう言いながら、エレナは目を閉じた。


 直樹が口づけると、エレナはもう固くならなかった。唇を受け、直樹の背中に指を添え、少しずつ自分から返した。やがて、直樹が離れようとした時、エレナの方から彼の襟を引き、もう一度唇を重ねた。


 深い口づけだった。


 直樹は息を止めた。


 エレナは自分の方から離れ、頬を赤くしながら言った。


「今のは、忘れてください」


「無理です」


「では、誰にも言わないでください」


「言いません」


「仕事に戻ります」


「はい」


 エレナは数歩進んでから振り返った。


「夜、倉庫から戻る時は、廊下を通ってください。庭から戻ると、使用人に見られます」


 それだけ言うと、彼女は何事もなかったように控え室へ戻った。


 清国側の試験は、その午後に行われた。


 陳紹礼は黒い上着を整え、椅子に腰を下ろした。梁が横に立ち、発音を確認する。写真師は数枚の写真を撮り、直樹はそれを小さな円盤に並べた。蓄音機には、陳紹礼の短い挨拶を吹き込んだ。


「広州より、北京の諸公へ。これは西洋の新奇ではなく、声と姿を遠くへ送る術である」


 梁が訳しながら、少し緊張した顔になった。


 白い布に、陳紹礼の姿が映った。


 動きはまだぎこちない。それでも、彼が口を開く姿と、蓄音機から流れる声が重なると、清国側の者たちは息を止めた。


 陳紹礼本人も、しばらく黙っていた。


「これは、広州で止まりません」


 やがて、彼はそう言った。


 直樹は聞いた。


「北京へ送りますか」


「送ります。ただし、すぐに宮中へ入るわけではありません。まず広州の役人が見ます。次に天津か北京の役所へ上がるでしょう。そこで価値があると見られれば、奥へ届きます」


「奥とは」


 陳紹礼は、少しだけ笑った。


「サー・モロー。清国の奥は、英国の総督府より遠いのです。ですが、遠いからこそ、声と姿を運ぶ品には価値があります」


 直樹は頷いた。


「では、見本をお渡しします」


「代金は払います」


「まだ試作品です」


「だから払います。払わなければ、ただの見物になります。金を払えば、これは取引です」


 その言葉で、パオロの顔が引き締まった。


 直樹は、少し考えてから言った。


「では、広州向けの試作料として受け取ります。正式な機械と撮影一式は、別契約です」


 陳紹礼は満足したように頷いた。


「それでよい」


 この日、白い館の帳面に、リヴィング・レターの清国向け最初の入金が記された。


 金額はまだ巨額ではない。


 だが、意味は大きかった。


 香港総督府、英国商館、ホテル、新聞、そして広州の役人筋。リヴィング・レターは、1つの港の珍品ではなくなり始めていた。ロンドンへ送る者、広州へ送る者、北京へ上げようとする者。そのたびに、白い館には予約と前金が積まれる。


 直樹は、入金記録を見ながら静かに息を吐いた。


 電灯は建物を取る商売である。


 リヴィング・レターは、人の心を取る商売だった。


 それは、いずれ直樹に巨万の財産をもたらす。


 そして、その仕組みを支える者として、イザベッラ、エレナ、パオロの名も、白い館の中で動かしようのない重みを持ち始めていた。


 夜、直樹が倉庫から戻ると、廊下の曲がり角にエレナがいた。


「また、こんな時間まで仕事ですか」


 エレナが言った。


「あなたもでしょう」


「私は、明日の支度を見ていただけです」


「僕を待っていたのでは」


「違います」


 直樹は近づいた。


 エレナは下がらなかった。


「では、そういうことにします」


「何ですか、その言い方は」


「仕事の話なら、ここで聞きます。仕事以外なら、控えの間へ行きます」


 エレナは直樹を見た。


 廊下の白い電灯が、彼女の頬を淡く照らしていた。


「少しだけです」


「はい」


「本当に、少しだけです」


「分かっています」


「分かっている顔ではありません」


 そう言いながらも、エレナは先に歩き出した。


 控えの間に入ると、直樹は扉を閉めた。エレナは振り返り、何か言おうとした。だが、その前に直樹が抱き寄せた。


 エレナは軽く息を呑み、すぐに直樹の胸元をつかんだ。


「もう少し、静かにしてください。音が廊下に漏れます」


「気をつけます」


「返事だけは、いつもよろしいですね」


 直樹が口づけると、エレナは今度は最初から受けた。ためらいは残っている。だが、昨日のように立ち尽くしてはいない。腕を直樹の背に回し、唇を重ね返し、自分の方から深く入ってきた。


 直樹が驚いて少し身を引くと、エレナは目を伏せた。


「何ですか」


「あなたから来るとは思いませんでした」


「あなたが何度も来るからです」


「では、僕のせいですね」


「そうです。全部、あなたのせいです」


 エレナはそう言い、今度は自分から直樹の襟を引いた。


 白い館の外では、夜の香港がまだ眠らずに動いていた。

 後編1では、総督府で評判になったリヴィング・レターに、清国側の買弁と広州の役人筋が関心を示す。陳紹礼は白い館を訪れ、モロー・キネグラフとリヴィング・レターの試験を見たうえで、広州から北京へ上げる見本を求める。直樹は香港を離れず、白い館で清国側の試作品を作ることにする。これにより、リヴィング・レターは香港総督府、英国商館、ホテルだけでなく、広州、さらに北京へ届く可能性を持ち始める。一方、総督夫人への嫉妬を押し隠していたエレナは、直樹に強く迫られ、控えの間で抱擁と口づけを受け入れる。最初は逡巡していたが、次第に自分からも直樹を求めるようになり、表では仕事に戻りながら、夜の廊下で直樹を待つようになる。リヴィング・レターの事業は直樹に巨万の財産をもたらす道を開き、イザベッラ、エレナ、パオロもまた、白い館の中で確かな立場を得ていく。

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