第9話(中編2)――「総督府の晩餐、リヴィング・レター」
香港の坂の上に白い館を構えた直樹は、屋敷への電灯設置と、商館、倉庫、ホテルへの試験工事を進め始める。イザベッラは応接と屋敷の格式を整え、エレナは使用人と水場を見て、パオロは部品倉庫を預かる。3人は、もう避難者ではない。モロー電光工房の香港支店を支える者になりつつあった。そこへ、香港総督府から晩餐会の招待が届く。香港総督サー・レジナルド・アッシュベリー〈58〉と、夫人レディ・クララ・アッシュベリー〈38〉は、サー・ナオキ・モローの電灯と蓄音機に強い関心を示していた。晩餐会の夜、直樹は総督夫人との会話から、写真、映写機、蓄音機を組み合わせた新しい事業を思いつく。名は、モロー・キネグラフ。そして、その機械で遠い家族へ動く姿と声を届ける商品を、リヴィング・レターと名付ける。
香港の白い館に電灯が入ったのは、到着から3日後の夕方だった。
玄関広間の古いランプが外され、代わりにガラス球が階段の上と壁際に取り付けられた。導線は目立たないように柱の陰を通し、発電機は倉庫棟の奥に置いた。パオロは部品箱の帳面を広げ、使用した部品と残りの数を細かく書き込んでいる。
イザベッラは、玄関広間の中央に立ち、灯りの当たり方を見た。
「階段の上が少し暗いですね。客が上を見る時、奥まで見えた方がよろしいです」
直樹は職人に合図した。
「もう1つ、階段の曲がり角に足しましょう」
エレナは、使用人たちを壁際に下がらせていた。
「工事の道具には触らないこと。導線を引っ張らないこと。掃除をする時は、必ずパオロさんか直樹さんに確認してからです」
中国人の使用人たちは、通訳の梁を通して説明を聞き、何度も頷いた。電灯を初めて見る者も多い。火ではない光がガラスの中に生まれると、小さく声を上げる女中もいた。
直樹が発電機の調子を見て合図を出すと、玄関広間に白い光が満ちた。
階段の手すり、白と黒の石の床、壁に掛かった絵、イザベッラの黒い喪服、エレナの落ち着いたドレス。そのすべてが、油の煙をまとわず、はっきり見えた。
イザベッラは少しだけ目を細めた。
「これなら、総督府の客を迎えても見劣りしません」
直樹はその言葉に振り返った。
「総督府ですか」
その時、梁が玄関から戻ってきた。手には封書がある。
「サー・モロー。総督府からの使いでございます」
封には、香港総督府の印が押されていた。
直樹は封を切り、英語の文面を読んだ。
香港総督サー・レジナルド・アッシュベリー〈58〉が、サー・ナオキ・モローを総督府の晩餐会へ招くという内容だった。同行者として、イザベッラ、エレナ、パオロの名も入っている。晩餐会の席で、電灯と蓄音機について話を聞きたいと書かれていた。
イザベッラは、すぐに言った。
「受けるべきです」
エレナも頷いた。
「総督府に顔を出せば、商館もホテルも動きやすくなります」
パオロは少し困った顔をした。
「私は倉庫番です。総督府の晩餐会に出るような男ではありません」
イザベッラが静かに言った。
「だからこそ出るのです。香港支店は、直樹さんだけのものではありません。倉庫と部品管理を任された者がいると見せる必要があります」
直樹はパオロを見た。
「パオロさん。あなたは香港支店の部品管理責任者です。堂々としていてください」
パオロはしばらく黙ったあと、深く頷いた。
「分かりました。失礼のないようにします」
晩餐会は、その2日後に開かれた。
総督府は、海を見下ろす高台にあった。馬車が門をくぐると、広い庭と白い建物が見えた。石造りの玄関には警備の兵が立ち、広間には英国人の役人、商館主、海軍士官、銀行家、宣教師、新聞関係者が集まっていた。
直樹は黒い礼服で馬車を降りた。
イザベッラは黒を基調にした喪服の礼装だった。飾りは少ないが、姿勢だけで場を持たせている。喪中であることは明らかだが、貧しく見えない。エレナは濃い青のドレスを選び、パオロは借り物ではない自分の礼服を着ていた。まだ着慣れてはいないが、背筋は伸びていた。
玄関広間で迎えたのは、総督サー・レジナルド・アッシュベリー〈58〉だった。背は高く、白髪交じりの髭を整えた男である。軍人のような硬さと、行政官らしい目の細かさを持っていた。
「サー・モロー。香港へようこそ。あなたの電灯の噂は、ロンドンより先にこの港へ届いております」
直樹は礼を返した。
「お招きいただき、光栄です。香港で役に立つ仕事ができればと思っております」
総督の横に立っていた夫人が、一歩前へ出た。
レディ・クララ・アッシュベリー〈38〉。
明るい栗色の髪を結い上げ、淡い銀色のドレスを着ていた。年若い娘の華やかさではない。人前で笑う時の距離、話を切り上げる時の手の動き、相手を立てながら自分の場へ引き込む声の強さを知っている女だった。
「サー・モロー。あなたがロンドンで王室の方々に電灯をお見せになった方ですね」
「はい。まだ完全とは言えませんが、灯りとしては十分に使えます」
「完全でないものが、人の暮らしを変えることもあります。完成を待っていたら、女の夜会はいつまでも蝋燭の煙にまみれたままですもの」
直樹は少し笑った。
「それは、香港でも同じですか」
「香港の夜会は、もっと大変です。暑い、湿る、蝋燭は減る、化粧は崩れる。それでも、男たちは平気な顔で長い演説をします」
総督が苦笑した。
「クララ、客の前で私の演説まで責めるな」
「では、短くなさってください」
周囲に小さな笑いが起きた。
直樹も笑った。
エレナは、そのやり取りを少し離れた場所で見ていた。総督夫人は、相手を笑わせるのがうまい。直樹も、いつもより気を許した顔をしている。晩餐会の場では自然なことだと分かっていた。だが、面白くはなかった。
イザベッラは、その横で静かに客の配置を見ていた。誰が総督に近く、誰が夫人に近いか。誰が商館主で、誰が軍の人間か。どの夫人が香港社交界で力を持つか。彼女は食事が始まる前から、この晩餐会を仕事として見ていた。
晩餐の席では、直樹は総督夫人の近くに座らされた。
総督は、電灯を港に入れる話をした。海軍士官は、夜の埠頭と船積みの安全について聞いた。商館主は、費用と保守を聞いた。銀行家は、ロンドンから部品を送る信用枠について探りを入れた。
直樹は、1つずつ答えた。
「港の倉庫には、まず出入口と帳面を読む場所に入れます。荷を扱う場所には、灯数を多くしすぎない方がいい。光が強すぎると、かえって影が濃く出ます」
「ホテルなら、玄関広間と食堂が先です。客が最初に入る場所、長く座る場所に入れる。客室はそのあとでよいでしょう」
「保守は、売って終わりにはできません。香港で操作係を育てます。壊れた時に、全部ロンドンへ戻していては商売になりません」
総督夫人は、直樹の話を退屈そうに聞かなかった。
「あなたの話は、男の発明自慢ではありませんね」
直樹は少し驚いた。
「そう聞こえましたか」
「ええ。あなたは、光そのものより、その光を誰が使い、誰が困らないかを話している。だから、女にも分かります」
「女にも、ですか」
「男は、女が技術を分からないと思いがちです。でも女は、部屋が暗いか、暑いか、客が不機嫌になるか、使用人が倒れるかを一番早く見ます。技術の名前は知らなくても、暮らしがよくなるかどうかは分かります」
直樹は、そこで総督夫人を見直した。
「それは、よく覚えておきます」
「覚えるだけでは足りません。売り方に入れるべきです」
総督夫人は、扇を閉じて言った。
「総督府に電灯を入れるなら、まず私が使う部屋を見なさい。客を迎える部屋、夫人たちが休む部屋、食後に音楽を聞く部屋。男たちの会議室だけを明るくしても、社交は変わりません」
直樹は頷いた。
「では、明日拝見します」
「約束です」
総督夫人は、にこやかに言った。
その様子を、エレナは見ていた。
直樹は総督夫人の言葉を丁寧に受け、夫人もまた、直樹を面白がっている。年齢も立場も違う。総督夫人は夫の横に立つ女であり、直樹は若い異国人の発明家である。それでも、2人の間には、話が通じる者同士の近さがあった。
エレナは、皿の上の魚を少しだけ切った。
味は分からなかった。
食後、総督夫人は直樹を小さな音楽室へ案内した。
部屋にはピアノと譜面台があり、壁には家族写真が飾られていた。英国の屋敷で撮ったらしい写真、子どもたちの写真、年配の婦人の写真。総督夫人は、その中の1枚を見てから、直樹に言った。
「あなたは、蓄音機もお持ちだと聞きました」
「はい。短い声なら残せます」
「声が残るのは、不思議ですね。写真は顔を残します。でも、声を聞いたあとでは、写真が黙っているのが寂しく感じるかもしれません」
直樹は、その言葉に反応した。
「写真が黙っている」
「ええ。家族の写真を見ると、声まで思い出します。でも、本当の声ではありません。人は遠くへ行くほど、声から忘れていきます」
直樹は、壁の写真を見た。
写真はある。
声は録れる。
光はある。
なら、写真を光で映せばいい。
1枚ではなく、少しずつ動きを変えた写真を何枚も並べる。手を上げる。扇を開く。笑う。歩く。短い動作だけなら、長い映画でなくてもよい。蓄音機の声を添えれば、遠く離れた相手に、まるで目の前で挨拶しているように見せられる。
直樹は、黙った。
総督夫人が首を傾げた。
「サー・モロー?」
「すみません。今、1つ思いつきました」
「また電灯ですか」
「いいえ。写真と声です」
直樹は、音楽室の壁にある写真を見たまま言った。
「写真を1枚だけ送るのではなく、動きの違う写真を何枚も用意します。それを光で順に映す。そこへ蓄音機で録った声を合わせる。長いものは無理です。けれど、短い挨拶ならできるかもしれません」
総督夫人の目が、はっきり変わった。
「姿が動き、声が聞こえるのですか」
「最初は不完全でしょう。動きもぎこちない。声と絵が少しずれるかもしれない。ですが、写真と声を一緒に送ることはできます」
「遠い家族へ」
「はい」
総督夫人は、壁の写真をもう一度見た。
「それは、手紙ではありませんね」
「手紙です。ただし、紙の手紙ではない」
直樹は少し考えた。
「名前を付けるなら、リヴィング・レターです。生きている手紙です」
総督夫人は、その言葉を繰り返した。
「リヴィング・レター」
「機械の名は、モロー・キネグラフにします。動く写真を映す装置です。リヴィング・レターは、その機械を使って送る商品です」
総督夫人は、扇を胸元で止めた。
「サー・モロー。それが本当にできるなら、香港の人々はあなたに金を払います。役人も、軍人も、商人も、船長も、本国に家族を残している者は多いのです。手紙を書く男は少なくても、声を残したい男はいるでしょう。母に姿を見せたい女もいます。子どもの声を祖父母に聞かせたい家もあるでしょう」
直樹は、総督夫人を見た。
「総督府で最初の試験をさせていただけますか」
「私を使うつもりですか」
「お願いできるなら」
総督夫人は笑った。
「よろしいでしょう。ただし、美しく撮ってください。総督夫人がひどい顔でロンドンへ送られたら、あなたの商売は始まる前に終わります」
「責任重大ですね」
「ええ。女を相手にする仕事は、発電機より難しいのです」
その言葉に、直樹は笑った。
音楽室の外で、その笑い声を聞いたエレナは、足を止めた。
彼女は、夫人の声と直樹の声を聞き分けた。会話の中身までは分からない。だが、2人が楽しそうに話していることは分かった。総督夫人は社交の場に慣れた女である。夫も地位もある。直樹に近づいても、誰も下品には見ない。むしろ、総督府が若い発明家を気に入ったと受け取られる。
それが、エレナには気に入らなかった。
口には出さなかった。
出せるはずもなかった。
エレナは、廊下の花瓶に目を落とし、少しだけ息を整えた。昨夜、直樹を断ったのは自分である。あの時は、正しいことをした。今でもそう思っている。だが、総督夫人と笑う直樹を見ていると、胸の奥がざわついた。
次に直樹がまた踏み込んできたら。
そこまで考えて、エレナは自分の手袋の指先を握った。
口づけくらいなら、許してもいい。
それ以上は駄目である。
そこまで決めると、エレナは何事もなかったように顔を上げた。廊下の奥からイザベッラが来る。エレナはすぐに表情を戻した。
「イザベッラ様。直樹さんは総督夫人と音楽室です」
「そうですか」
イザベッラはそれだけ言った。
顔色は変わらなかった。
晩餐会が終わるころ、総督は直樹に言った。
「サー・モロー。総督府の玄関広間、食堂、音楽室、書斎に電灯を入れる件、明日から見積もりに入ってください。港の倉庫とホテルだけでなく、まず総督府が試すべきでしょう」
直樹は礼をした。
「ありがとうございます」
総督夫人も続けた。
「そして、モロー・キネグラフの試験も忘れないでください。私は、リヴィング・レターの最初の客になります」
周囲の客たちが反応した。
「リヴィング・レター?」
「何です、それは」
「動く写真と声の手紙だそうです」
総督夫人が、わざと少し大きな声で言った。
「サー・モローは、遠い家族へ姿と声を届けるつもりなのです。香港からロンドンへ。ロンドンから香港へ。もし本当にできれば、手紙より高くても売れるでしょう」
商館主たちの顔が変わった。
新聞関係者は、すぐに直樹へ近づいてきた。
「サー・モロー。その話を、後日詳しく聞かせていただけますか」
ホテルの出資者スタンフォードも言った。
「ホテルの夜の余興にも使えますな。香港の港を映し、音楽を添える。客は喜ぶでしょう」
海軍士官は、別の使い方を考えていた。
「船の進水式や訓練の記録にも使えるのではないか」
直樹は、1人ずつ丁寧に答えた。
「まだ試作段階です。すぐに大きなものはできません。ただ、短い動作と声なら可能性があります」
総督夫人は、その横で楽しそうに扇を開いた。
「可能性があれば十分です。香港は、そういう物を待っている町です」
その夜、白い館へ戻る馬車の中は、静かだった。
パオロは総督府で聞いた注文と、明日からの部品の動きを考えている。イザベッラは、総督府の夫人たちの顔と席順を思い返していた。エレナは、窓の外を見ていた。
屋敷へ戻ると、使用人たちが玄関広間の電灯をつけて待っていた。
白い光の中へ入った直樹は、礼服の襟を少し緩めた。総督府での緊張が、ようやく解けた。
エレナが先に口を開いた。
「総督夫人と、ずいぶん親しくお話しでしたね」
声は穏やかだった。
だが、直樹はその中に硬さを感じた。
「仕事の話です。リヴィング・レターの着想をいただきました」
「ええ。よく聞こえました。総督夫人が最初の客になるとも」
「それは大きな意味があります。総督府が後ろ盾になれば、商館もホテルも動きます」
「分かっています」
エレナは手袋を外しながら言った。
「分かっているなら、なぜ怒っているのですか」
直樹の言葉に、エレナの手が止まった。
「怒ってなどいません」
「そうは見えません」
エレナは、少しだけ顔を上げた。
直樹も引かなかった。
「あなたは、昨夜、僕を手厳しく振りました。そのあなたが、僕と誰が話すかまで咎めるのですか」
エレナは言葉を失った。
イザベッラは、少し離れた場所で帽子を外していた。パオロは倉庫へ行く準備をしている。2人とも、会話には入らなかった。
エレナは、やっと言った。
「私は、咎めているのではありません」
「では、何ですか」
「総督夫人は、この香港で大きな力を持つ方です。近づき方を間違えれば、あなたの名にも、支店にも傷がつきます」
「近づき方を間違えたと思いますか」
「少し、親しげに見えました」
直樹は黙った。
エレナも、それ以上は言わなかった。
嫉妬だとは言えない。言えば負ける。昨夜、線を引いたのは自分である。その自分が、総督夫人との会話を責めるなど、筋が通らない。分かっているから、次の言葉が出なかった。
直樹も、それ以上追い詰めなかった。
「分かりました。以後、気をつけます」
「お願いします」
エレナは礼をして、台所の方へ向かった。
直樹は、その後ろ姿を見送った。
何を怒っていたのかは、分からない。
だが、総督夫人との会話が、エレナの機嫌を損ねたことだけは分かった。
翌日から、白い館は急に忙しくなった。
総督府への電灯設置の見積もり。ホテル玄関広間の工事。商館の倉庫への試験設置。さらに、モロー・キネグラフの試作準備。写真師を探し、連続写真を撮る方法を考え、蓄音機の音筒と一緒に送る箱の設計を始めなければならない。
パオロは、倉庫の一角を新しい機械用に空けた。
「電灯用の部品と、キネグラフ用の部品は分けます。同じ箱に入れると、あとで混乱します」
直樹は頷いた。
「そうしてください。写真板は湿気に弱い。保管場所も分けます」
エレナは、使用人に乾いた布と密閉できる箱を用意させた。
「香港の湿気では、何でもすぐ傷みます。写真板を扱う部屋は、風通しのよい場所にしましょう」
イザベッラは、応接室で客を受けた。
総督夫人の名が出たことで、商館主の夫人たち、ホテルの関係者、新聞記者、写真師が次々に訪ねてきた。イザベッラは、誰をすぐ直樹に会わせ、誰を待たせ、誰には説明だけで帰ってもらうかを分けた。
「リヴィング・レターは、まだ予約を受ける段階ではありません。試験が済んでからです。ですが、お名前とご希望だけは控えます」
彼女はそう言い、相手の熱を冷まさず、しかし直樹の時間を食いつぶさせなかった。
3日後、最初の試験が白い館の応接室で行われた。
写真師が、総督夫人の扇を開く動作を何枚かに分けて撮った。直樹は、それを小さな円盤状の枠に並べ、強い光で白い布へ映す。動きはぎこちない。扇は滑らかには開かず、少し跳ねるように見えた。それでも、写真の女が扇を動かした瞬間、部屋の中にいた者たちは息を呑んだ。
次に、蓄音機の声を流した。
「香港より、あなたへ」
短い声だった。
動く姿と声は完全には合っていない。だが、見る者の胸を打つには十分だった。
総督夫人は、白い布に映った自分の姿を見つめていた。
「これは、怖いほど不思議です」
直樹は言った。
「まだ商品とは言えません。改良が必要です」
「いいえ。商品になります」
総督夫人は、振り返った。
「完璧だから売れるのではありません。これまで誰も持てなかったものだから売れるのです。サー・モロー、これは香港で始めるべきです。遠い港ほど、この手紙を欲しがります」
総督府は、その日のうちに正式な後援を決めた。
白い館の応接室には、リヴィング・レターの試験希望者の名が並び始めた。総督夫人、商館主の妻、英国へ子を預けている軍人、ロンドンへ戻れない船長、故郷の母へ声を届けたい宣教師。高い料金でも、申し込みは減らなかった。
直樹は、帳面を見て息を呑んだ。
電灯は、建物ごとに売れる。
だが、リヴィング・レターは、人の数だけ売れる。
1人が送れば、受け取った相手が送り返したくなる。香港からロンドンへ。ロンドンから香港へ。上海、天津、シンガポール、カルカッタへ。遠いほど価値が上がる。
この事業は、大きくなる。
直樹は、それを感じた。
パオロは部品と写真板の保管を任され、リヴィング・レター用の箱の管理まで見ることになった。エレナは撮影に来る客の控え室、衣装直し、女客の緊張をほどく役を引き受けた。イザベッラは、予約、応接、料金、紹介状の扱いを整えた。
3人の立場は、白い館の中で急に重くなった。
かつてベッラヴィスタ家で席を失った者たちが、香港では直樹の新事業を支える者になった。
直樹は、応接室の窓から港を見た。
海の向こうにはロンドンがある。
そこへ、声と動く姿を送る。
光を売るだけではない。時間と距離に傷をつけるような商売だった。
直樹は、机の上の試作機へ目を落とした。
「リヴィング・レター」
小さく口にすると、言葉の響きが思ったよりも重かった。
この名が、やがて香港からロンドンへ、ロンドンから世界へ広がる。
その始まりは、総督府の晩餐会で、1人の夫人が写真を見ながら言った何気ない一言だった。
中編2では、直樹たちが香港総督府の晩餐会に招かれる。香港総督サー・レジナルド・アッシュベリー〈58〉と、夫人レディ・クララ・アッシュベリー〈38〉は、直樹の電灯と蓄音機に関心を示す。晩餐会で直樹は総督夫人と親しく語り、写真と声を組み合わせて遠い家族へ送る新商品を思いつく。機械の名はモロー・キネグラフ、商品名はリヴィング・レターである。総督夫人は最初の客となり、総督府の後援も決まる。一方、エレナは直樹と総督夫人の親しげな様子に心を乱されるが、嫉妬とは口にしない。直樹から昨夜の拒絶を持ち出され、言葉に詰まる。リヴィング・レターは、香港の役人、商人、軍人、船長、家族を遠くに置く者たちに求められ、直樹の新しい財産の柱になり始める。イザベッラ、エレナ、パオロもまた、この事業を支えることで、白い館の中に確かな立場を得ていく。




