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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第9話(中編1)――「坂の上の白い館」

 直樹たちは、長い船旅の末に香港へ着く。香港は英国領でありながら、港に立てば聞こえてくる声の大半は広東語である。海沿いには商館、倉庫、埠頭、ホテル、銀行が並び、背後の坂には洋館と中国人の町家が重なる。直樹は、香港支店の足場として、ヴィクトリア港を見下ろす坂の上にある広い洋風住宅を購入する。そこは、ただ住むための家ではない。応接、倉庫管理、使用人の指揮、商談、香港支店の信用をまとめるための館である。到着したその日から、イザベッラは応接を整え、エレナは使用人と水場を見て、パオロは倉庫と部品箱を預かる。だが、その夜、直樹はエレナとの距離を見誤る。エレナは夫のいる女として、きっぱりと線を引く。

 香港の港は、朝から騒がしかった。


 蒸気船の汽笛が湿った空気を震わせ、黒い煙が青白い空へ太く上がっていた。海面には、英国商船、インド航路の蒸気船、中国のジャンク船、小さなサンパンが入り乱れている。船と船の間を、櫂を押す男たちがすり抜け、荷を積んだ小舟が埠頭へ寄っては離れた。


 直樹は甲板の手すりに立ち、港を見た。


 ロンドンとは違う。ナポリとも違う。海の匂いに、石炭の煙、魚、乾物、香辛料、濡れた木箱、人の汗が混じっていた。埠頭の上では、中国人の荷役人たちが声を張り上げ、肩に天秤棒を担いで走っている。その横を、白い服を着た英国人の商人が歩き、インド人の警官が通行を見ていた。看板には英語があり、漢字があり、ポルトガル語らしい文字もあった。


 ここは英国領である。


 だが、町そのものは、英国人だけのものではなかった。


 イザベッラは黒い喪服の帽子を押さえながら、静かに港を見ていた。喪服は旅で少し傷んでいる。それでも、彼女は背筋を崩さなかった。ドメニコを失い、ベッラヴィスタ家の女主人の席も失った女である。それでも、人前で崩れることだけは許さない顔をしていた。


 エレナは、港の騒ぎを見ても怯えなかった。荷を運ぶ男、食べ物を売る女、船員の列、埠頭の倉庫、役人の立つ場所。その全部を、確かめるように見ていた。ナポリの館では、彼女は姉カルロッタの陰にいた。だが香港では、姉はいない。誰が何をするかは、これから決まる。


 パオロは一番早く仕事の顔になった。


「木箱の数を、降ろす前にもう一度確認します。発電機の部品箱は、赤い印を付けたものです。ガラス球の箱は、荷役人に乱暴に扱わせない方がいい」


 直樹は頷いた。


「任せます。壊れた箱があれば、すぐに分けてください」


「はい。倉庫に入れる前に、破損分を帳面に出します」


 船が桟橋に着くと、香港側の商人たちが迎えに来ていた。


 アーサー・ブレイクは、白い上着に帽子をかぶり、暑さに顔をしかめながらも笑っていた。ジェームズ・ペンローズは、港の男らしく荷の動きを見ており、ヘンリー・スタンフォードは、すでに馬車の手配を済ませていた。


「サー・モロー。ようこそ香港へ」


 ブレイクが手を差し出した。


 直樹は握手した。


「お待たせしました」


「いえ、予定より早いくらいです。ロンドンからこれだけの荷を運んで、この早さなら上等です」


 ペンローズは、積み下ろしの準備を見ながら言った。


「部品箱は、私どもの倉庫へ入れますか」


 直樹は首を横に振った。


「一部はそちらへ入れます。ただし、主要部品と設計図は、私が購入した屋敷へ運びます。そこで確認してから、商館、倉庫、ホテルの順に分けます」


 スタンフォードが満足そうに笑った。


「屋敷は、すでに整えてあります。以前、英国商人が使っていた坂の上の家です。広さは十分です。港から遠すぎず、町の騒ぎからは少し離れている。商談にも、住まいにも使えます」


「見に行きましょう」


 直樹はそう言い、イザベッラたちへ振り返った。


「まず屋敷へ入ります。荷の細かい確認は、パオロさんにお願いします」


 パオロはすぐに答えた。


「承知しました」


 エレナが、そこで直樹へ一歩近づいた。


「私は屋敷へ先に入ってよろしいですか。部屋の割り振りと使用人の動きを見ます」


「お願いします」


 イザベッラも静かに言った。


「私は応接室を見ます。香港の客人を迎えるなら、最初の部屋が大事です」


 直樹は2人を見た。


 この2人は、もう避難してきた女ではない。自分の役目を探していた。


 馬車は、埠頭を離れて坂へ向かった。


 香港の町は、海沿いからすぐに上り坂になった。下の通りには、中国人の店が詰まり、布、茶、乾物、米、薬、竹細工、金物が並んでいた。路地は狭く、2階建て、3階建ての細長い家が並ぶ。1階が店で、上に人が住む。窓から洗濯物が下がり、奥の方から子どもの声が聞こえた。


 その上に、英国人の商館や役所、洋風の住宅があった。


 馬車が坂を上がるにつれ、港が見えてきた。海の上には無数の帆と煙突があり、遠くに九龍の低い陸地が横たわっていた。山の斜面に建つ洋館は、白い壁を日差しに光らせている。


 直樹が購入した屋敷は、その中でも目立つものだった。


 広い門があり、門柱には古い英国人所有者の紋章が残っていた。敷地に入ると、砂利道が緩やかに曲がり、正面に白い2階建ての館が見えた。屋根は赤茶色で、正面には太い柱を持つポーチがあり、2階には海を向いた長いヴェランダが伸びている。窓は大きく、鎧戸が付いていた。暑さと湿気を逃がすため、高い天井と風の通り道を持つ作りだった。


 屋敷の右手には、馬車小屋と使用人棟がある。奥には台所と洗濯場があり、そのさらに先に、小さな倉庫として使える石造りの建物があった。電灯の部品や工具を置くには十分な広さだった。


 エレナは馬車を降りた瞬間、屋敷を見上げて言った。


「これは、家というより小さな役所ですね」


 イザベッラは、帽子のつばを上げた。


「いいえ。役所にしてはいけません。ここは、サー・モローの香港の家にしなければなりません。商人が来ても、役人が来ても、職人が来ても、まずこの家で主の力を感じさせるのです」


 直樹は笑った。


「イザベッラさんに任せた方がよさそうですね」


「任されるなら、遠慮なく言います。玄関広間には花が要ります。暑い土地ですから、重い赤ではなく、白と緑を多く。食堂の銀器は磨かせます。窓は開けますが、客が座る時に汗をかきすぎないよう、風の通る席を選びます」


 エレナも続けた。


「使用人は、先に台所と水場を見ます。人を雇うなら、料理人、掃除、洗濯、通訳を兼ねる者、荷運びの男が要ります。病人が出た時に寝かせる部屋も、1つ空けておくべきです」


 直樹は、2人の言葉を聞きながら玄関へ入った。


 広い玄関広間には、白と黒の石が市松模様に敷かれていた。階段は緩やかに2階へ上がり、手すりには濃い木が使われている。壁には古い絵が掛かり、天井から大きなランプが下がっていた。まだ油を使うランプである。直樹はそれを見上げた。


「ここに電灯を入れます」


 ブレイクが横で笑った。


「それを見た客は、もう忘れません」


「忘れないだけでは足りません。注文してもらいます」


 直樹が言うと、ブレイクは声を立てて笑った。


「サー・モロー。あなたは香港へ来ても商人ですな」


「発明家だけでは食べていけません」


 屋敷の中は広かった。


 1階には、応接室、大食堂、小食堂、書斎、会議に使える部屋があった。2階には寝室がいくつもあり、海側の部屋はヴェランダへ出られる。朝になれば、港と船が一望できるだろう。奥には女性たちが使える控えの間があり、別棟には使用人部屋と台所があった。


 パオロは、荷物の一部とともに遅れて到着した。


「部品箱は、石造りの倉庫へ入れました。ガラス球の箱は破損を確認中です。今のところ、大きな割れはありません」


 直樹は頷いた。


「助かります」


 パオロは汗を拭きながらも、どこか少し生き返った顔をしていた。敗れた次女の夫ではなく、荷物を預かる男の顔である。直樹は、それを見て安心した。


 夕方まで、屋敷は慌ただしかった。


 中国人の使用人候補が何人か連れてこられ、ブレイクの紹介で買弁の男も顔を出した。通訳を兼ねるその男は、英語と広東語を使い分け、屋敷の使用人を集める役に立つという。直樹はまだ完全には信用しなかったが、香港で仕事をするには、こういう男を使わなければならないことも分かっていた。


 夜になると、港の灯りが窓の外に散った。


 屋敷の大食堂には、初めての夕食が並んだ。肉、魚、パン、温かいスープ、果物、紅茶。船旅の食事とは違い、広い部屋で椅子に腰を落ち着けて食べられる。それだけで、体の疲れがほどけるようだった。


 イザベッラは、黒い喪服のまま食卓の上座に近い位置に座った。まだ夫の喪の中にいる。だが、食卓の運び方、皿の出る順番、使用人の立ち位置を細かく見ていた。すでに、この屋敷を自分の手で整えるつもりになっている。


「この食堂は、昼より夜の方が映えます。客を招くなら、夕方がよろしいでしょう」


 声は静かだった。


 直樹の杯が空きかけると、イザベッラは使用人へ目を向けただけで、すぐに新しい水が運ばれた。誰が見ても、それは客席を見ている女の気配りだった。直樹もそう受け取った。


 エレナは、パオロの横に座っていた。使用人の数、台所の水場、病人を寝かせる部屋、洗濯場の排水、その話ばかりをした。直樹が彼女を見ることはあったが、エレナはそれを話にしなかった。


 食事の後、パオロは倉庫へ戻った。明日の朝、部品箱の中身をもう一度確認したいと言い、倉庫棟に近い部屋で帳面を広げることになった。直樹は止めなかった。パオロには、仕事を与える必要があった。


 イザベッラは応接室を見に行った。


 直樹が廊下へ出ると、彼女は窓際に立っていた。黒い喪服の背中が、夜の港の灯りを受けている。


「イザベッラさん」


 直樹が声をかけると、彼女はゆっくり振り返った。


「サー・モロー。応接室は使えます。ただ、椅子の位置がよくありません。客が港を見ることはできますが、あなたを見る位置になっていない。明日の朝、直します」


「助かります」


「それから、玄関広間のランプは古すぎます。あなたがこの屋敷に電灯を入れるなら、最初は玄関広間、階段、応接室、大食堂です。客は屋敷へ入った順に、その4つを見ます」


「そこまで考えていたのですか」


「家は、黙って主を語ります。客に説明する前に、家があなたを説明しなければなりません」


 直樹は感心した。


「あなたを連れてきてよかった」


 イザベッラは、ほんの少しだけ頭を下げた。


「そう言っていただけるように働きます」


 その言葉にも乱れはなかった。


「今夜はお休みください。長旅でした」


 直樹が言うと、イザベッラは静かに答えた。


「はい。ですが、その前に花器の場所だけ見ておきます」


「明日でもよいのでは」


「明日の朝は、朝食と使用人の配置があります。今日できることは、今日しておきます」


 直樹は苦笑した。


「エレノアと似たことを言います」


「その方は、ロンドンであなたの工房を守っている方ですね」


「はい」


「なら、私も香港で同じように働かなければなりません」


 イザベッラはそれだけ言うと、深く礼をして応接室へ戻った。


 直樹は廊下に残り、窓の外を見た。


 港の灯りは、まだ落ち着かない。船の灯、倉庫の火、町の小さな明かりが、湿った夜気の中で揺れている。香港へ着いたばかりだというのに、明日からもう仕事が始まる。


 その時、廊下の向こうからエレナが来た。


 手には小さなランプを持っている。髪は昼より少し乱れ、旅の疲れが顔に残っていた。それでも、目ははっきりしていた。


「直樹さん。使用人棟の部屋割りを見てきました。台所の水場は使えます。ただ、洗濯場の排水が悪いようです。明日、男手を借りて直します」


「ありがとうございます。あなたまで働かせすぎていますね」


「働くために来ました」


 エレナはそう答えた。


 2人はしばらく並んで港を見た。


 窓の外から、遠い広東語の声が上がった。意味は分からない。だが、怒っているのではなく、荷を動かす合図のようだった。夜になっても、港は眠っていない。


「不思議な場所ですね」


 エレナが言った。


「怖いですか」


「少し。でも、ナポリにいるより息ができます」


「カルロッタさんのことですか」


「姉は強い人です。父が亡くなったあと、家を守るにはあれしかなかったのかもしれません。けれど、私にはあの家に残る場所がありませんでした」


 直樹は、エレナの横顔を見た。


 エレナは、強い女だった。悔しさも疲れも隠しきれない。だが、それでも立っている。夫の横に座る時は妻としての顔を持ち、使用人の前では指示を出す女になり、直樹の前では余計な媚びを見せない。


 それが、直樹には気になった。


 長い船旅の間にも、その気持ちは少しずつ膨らんでいた。


 直樹は、ロンドンに妻たちを残してきた。エレノア、メアリー、ルイーザ。3人とも、直樹の子を宿した予感を持ちながら、彼を香港へ送り出した。仕事に集中しなければならないことは分かっている。


 だが、直樹の体は20歳だった。


 新しい土地、湿った夜気、海の匂い、そばに立つ女の気配。それらは、理屈を簡単に押し流そうとする。


「エレナさん」


 直樹は言った。


「はい」


「今夜、もう少しだけ話していきませんか」


 エレナは直樹を見た。


「ここで、ですか」


「ここでも、別の部屋でも」


 言ったあとで、直樹は自分の若さを自覚した。


 エレナの顔は変わらなかった。


 驚きもしない。怒りもしない。ただ、ランプを持つ手を少し下げ、静かに直樹を見た。


「直樹さん」


「はい」


「そのお言葉は、聞かなかったことにします」


 声は落ち着いていた。


 直樹は息を呑んだ。


「すみません」


「謝る必要はありません。ただ、二度は言わないでください」


 エレナは目をそらさなかった。


「私はパオロの妻です。あの人は器用な男ではありません。姉にも負けました。家でも席を失いました。それでも、私の夫です。私がここで線を越えれば、あの人は香港で立てなくなります」


 直樹は何も言えなかった。


「それに、あなたも困ります。香港支店は、今日始まったばかりです。初日の夜から主が部下の妻に手を出したとなれば、屋敷の中の空気が悪くなります。使用人は見ています。港の町では、噂は荷物より早く動きます」


 直樹は視線を落とした。


「私が軽率でした」


「はい。軽率でした」


 エレナは、はっきり言った。


 直樹は顔を上げた。


 エレナは逃げなかった。


「今夜のことは、忘れてください」


 直樹は言った。


「忘れません」


 エレナは答えた。


 直樹は動きを止めた。


「忘れれば、同じことがまた起きます。覚えておくから、次からは止められます。直樹さん、あなたはこの屋敷の主です。私たちはあなたに助けられました。だからこそ、あなたが迷った時には、誰かが止めなければなりません」


 直樹は深く息を吐いた。


「あなたは強いですね」


「強くなければ、ここまで来られません」


 エレナはランプを持ち直した。


「明日の朝、使用人の候補が来ます。私は台所と水場を見ます。パオロは倉庫です。イザベッラ様は応接室です。直樹さんは、この屋敷に電灯を入れてください。それが、あなたの今夜すべきことです」


 その言葉で、直樹は完全に目が覚めた。


「分かりました」


「では、おやすみなさい」


 エレナは深く礼をし、廊下を去った。


 直樹は、しばらくその場に立っていた。


 誘ったのは自分だった。


 断ったのはエレナだった。


 しかも、曖昧に逃げたのではない。夫の名を出し、香港支店の名を出し、直樹の立場まで守る形で断った。


 直樹は窓を開けた。


 湿った風が入ってくる。港の灯りは揺れている。遠くで犬が吠え、どこかの船で金属を叩く音がした。


 若い体はまだ熱を持っていた。


 だが、それをぶつける相手を間違えれば、仕事も人も壊れる。


 この屋敷は、仕事の拠点になる。


 そう思った。


 翌朝、香港の空は白く明けた。


 海から湿った風が上がり、ヴェランダの白い柱を撫でていた。港では、朝から船の汽笛が鳴っている。小舟が水面を切り、埠頭では荷役人の声が上がっていた。


 直樹は、海側の寝室で目を覚ました。


 昨夜は、よく眠れなかった。


 エレナに断られたことが、何度も頭に戻ってきた。


 そのお言葉は、聞かなかったことにします。


 私はパオロの妻です。


 二度は言わないでください。


 直樹は、恥ずかしさを感じていた。だが、それだけではなかった。自分をきっぱり退けたエレナの姿が、かえって強く残っていた。直樹はそれを認めざるを得なかった。


 顔を洗い、服を整えた。


 香港支店の初日である。女に断られて眠れなかった男の顔で、食堂へ行くわけにはいかなかった。


 大食堂には、すでに朝食が用意されていた。


 長いテーブルの上に、卵、焼いた魚、ハム、パン、バター、果物、紅茶、粥が並んでいる。英国式と中国式が混じった朝食だった。直樹は、その取り合わせを見て、香港に来たことを改めて感じた。


 窓の外には、ヴィクトリア港が広がっていた。


 朝の光を受けた海面に、船の影が動いている。白い帆、黒い煙、赤茶けたジャンク船の帆。港そのものが、ひとつの巨大な市場のように動いていた。


 イザベッラは、黒い喪服ではなく、少し軽い黒の朝服で席についていた。直樹が食堂へ入ると、彼女は少し頭を下げただけだった。


「おはようございます、直樹さん。朝食は、少し軽くしました。暑い土地ですから、ロンドンと同じ量を出すと、昼までに体が重くなります」


「ありがとうございます」


「食後に応接室を見ていただけますか。今日の午後、ブレイク氏とスタンフォード氏が来るなら、椅子の配置を変えたいのです。港を見せる席と、契約書を広げる席は分けた方がよろしいでしょう」


 直樹は頷いた。


「お願いします」


 そこへ、エレナが入ってきた。


 彼女は昨夜と変わらない顔をしていた。直樹へ特別な視線を向けることもない。気まずさを見せることもない。何もなかったように席へ着く。


「使用人の候補が午前中に来ます。台所、洗濯、掃除、倉庫まわりの男。通訳は買弁の梁という男が連れてくるそうです。私は、まず台所と水場を見ます」


「分かりました」


 直樹は短く答えた。


 昨夜の言葉を、食卓へ持ち込んではいけない。


 それだけは、よく分かっていた。


 少し遅れて、パオロが入ってきた。手には帳面を持っている。


「昨夜、部品箱の数を確認しました。ガラス球の箱は2つ、外側に傷があります。中身はまだ開けていません。朝食後に確認します」


 直樹は椅子に座りながら答えた。


「お願いします。パオロさん、倉庫の鍵はあなたが持ってください」


 パオロの顔が引き締まった。


「私がですか」


「はい。香港支店の部品管理は、あなたに任せます」


「承知しました。鍵は、肌身から離しません」


 エレナは、夫の横顔を一度だけ見た。それだけで、すぐに粥の椀へ手を伸ばした。


 朝食は、穏やかに進んだ。


 イザベッラは、果物の皿を見て、使用人に置き場所を直させた。エレナは、暑い土地では朝に重い肉を食べすぎない方がよいと言った。パオロはパンを食べながらも、部品記録を開き、倉庫の鍵をどこへ入れるか考えていた。


 直樹は紅茶を飲みながら、窓の外を見た。


 ヴィクトリア港には、朝の光が広がっていた。


 ここから始まる。


 モロー電光工房の香港支店も。


 この屋敷で働く者たちの役目も。


 直樹はパンを置き、静かに言った。


「朝食が終わったら、仕事に入りましょう。まずは、この屋敷に電灯を入れます」


 イザベッラが頷いた。


「玄関広間からですね」


 エレナも続けた。


「使用人には、工事の邪魔をしない動線を覚えさせます」


 パオロは帳面に新しい項目を書き加えた。


「屋敷内電灯設置用部品。倉庫から別に分けておきます」


 直樹は3人を見た。


 失意を抱いて香港へ来た者たちは、もう客ではなくなっていた。


 この白い館は、ただの豪邸ではない。


 香港支店の最初の心臓になる。


 直樹は紅茶を一口飲み、もう一度窓の外を見た。


 港は、朝から動いていた。


 香港の暑い一日が、始まろうとしていた。

 中編1では、直樹たちが香港へ到着し、ヴィクトリア港を見下ろす坂の上の洋風豪邸へ入る。屋敷は住まいであると同時に、香港支店の応接、倉庫管理、使用人の指揮、商談をまとめる拠点になる。イザベッラは応接と屋敷の格式を整え、エレナは使用人と水場、病人の世話を見て、パオロは部品倉庫と荷札を預かる。夜、若い直樹はエレナに踏み込もうとするが、エレナは夫パオロの妻として、また香港支店の仕事を預かる者として、きっぱり断る。翌朝、直樹は豪邸の食堂で朝食を取り、この白い館を香港支店の足場にするため、まず屋敷そのものに電灯を入れることを決める。

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